最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
恋人になってから。
数日が過ぎた。
変わったことは、それほど多くない。
教室では今までと同じように話す。
一緒に昼食を食べて。
放課後になれば、並んで帰る。
二人きりのときだけ。
九条は俺を透と呼ぶ。
俺は九条を澪と呼ぶ。
それだけで。
十分に変わったような気もしていた。
◇
放課後。
図書館二階の学習室。
四人用の部屋を、俺の名前で予約してある。
扉は閉まっていて、使用時間が終わるまで他の生徒は入ってこない。
机の上には、教科書とノートが二冊ずつ。
九条は来週の小テストに向けて、俺に数学を教えていた。
「ここ」
九条が俺のノートを指さす。
「どうして急に、この式になるの?」
「途中を書いてないから」
「書きなさいよ」
「頭の中では分かってる」
「それを答案に書かなかったら、先生には伝わらないでしょう」
「察してくれない?」
「試験で何を期待してるのよ」
九条が呆れたように息を吐く。
俺のノートへ、抜けていた途中式を書き足した。
「こう」
「長い」
「三行でしょう」
「三行も」
「それくらい書きなさい!」
いつもと同じやり取り。
九条は真面目で。
俺は面倒がる。
「透」
「ん?」
「次は自分で解いて」
「分からなかったら?」
「そのときは教えるわ」
「最初から教えて」
「駄目」
九条が自分のノートへ戻る。
問題を読み、鉛筆を動かし始めた。
数字を書く。
式を一つ進める。
そのまま鉛筆が余白へ滑った。
『透の隣は落ち着く。』
九条は止まらない。
書いた文字を見たまま、次の式へ戻る。
少し考えて。
また余白へ鉛筆を走らせた。
『名前で呼ばれると嬉しい。』
表情は変わらない。
計算の途中式を書いたときと同じ表情だった。
「澪」
「何?」
「今、何書いてる?」
「問題の答えでしょう」
「余白は?」
「途中式よ」
九条は自分の文字を見ている。
それでも。
そこに何が書かれているのか分かっていない。
予定どおりだった。
◇
今日、この部屋で新しく暗示を入れたわけではない。
恋人になった翌日から今日まで。
二人きりになるたびに、短い言葉を一つずつ沈めておいた。
俺と二人きりで鉛筆を持ち、問題を解き始めたら、考えていることが余白へ漏れる。
自分が書いた言葉は、全部ただの途中式に見える。
ノートを閉じるまで、その食い違いには気づかない。
一度に入れた命令ではない。
小さく分けて。
同じところへ重ねた。
九条は俺を信じている。
その信頼を通れば、以前よりも言葉が深くまで届いた。
九条の鉛筆が動く。
『今日も一緒に帰りたい。』
『もう少し一緒にいたい。』
『透が好き。』
最後の一行だけ。
少し大きな字だった。
「澪」
「何?」
「俺のこと好き?」
「……急に何?」
九条が少しだけ顔を赤くする。
「好きだけど」
「そっか」
「何度も言わせないで」
「聞きたかったから」
「昨日も聞いたでしょう」
九条はそう言って、また問題へ戻る。
余白には。
『透が好き。』
同じ言葉が、もう一度増えていた。
俺がこれまで置いた言葉の影響は、今も九条の中に残っている。
でも。
『透が好き』と、新しく心に書き込んだわけではない。
九条が自分で認めた気持ちを。
隠せない形で紙へ出しただけだった。
◇
九条が次の問題へ移る。
俺は鞄から、金属の小さなスプーンを一本だけ取り出した。
机の端へ置く。
九条は一度スプーンを見たけど、何も聞かなかった。
その隣には何もない。
「澪」
「何?」
「プリン、食べる?」
九条の鉛筆が止まった。
顔を上げる。
視線が、スプーンの隣へ移った。
何もない机の上で止まる。
「……勉強中なのに?」
「休憩」
「まだ始めて三十分でしょう」
「食べない?」
「食べるわよ」
少し呆れた声。
でも。
九条の左手は、もう空の机へ伸びていた。
指が途中で止まる。
何もない空間を包むように、緩く曲がった。
手首がわずかに沈む。
そこにある容器の重さを支えるように。
親指と人差し指が、存在しない蓋の端をつまむ。
すぐには動かない。
九条は指先へ少し力を込めた。
貼りついた蓋の抵抗に逆らうように、ゆっくり腕を引く。
途中で手首が軽く跳ねた。
蓋が剥がれたらしい。
九条は何も持っていない指を横へ動かし、机の端へ置いた。
「いただきます」
右手で実在するスプーンを取る。
先端を、何もない空間へ下ろした。
金属の先は机に触れる前で止まった。
九条の手首が、柔らかいものへ押し込むように傾く。
少し横へ動かして。
ひと口分を切り取る。
俺から見れば。
スプーンは空中を通っただけだった。
九条は、すくったものを落とさないようにスプーンを水平に保つ。
ゆっくり口元へ運んだ。
唇が、わずかに開く。
柔らかな唇の内側が、金属の縁に触れた。
空のスプーンを、丁寧に口へ入れる。
舌の先が、スプーンの裏側をなぞるように動く。
何もないはずの甘いものを、ゆっくりと舌で確かめる。
抜いたあと。
唇が、名残惜しそうにスプーンから離れた。
少しだけ目を細めた。
すぐには飲み込まず。
口の中で、ゆっくりと舌を動かしている。
味を確かめるように、一度だけ小さく頷く。
幸せそうな、わずかな笑みが浮かんだ。
「美味しい?」
「ええ」
「どんな味?」
「卵の味が濃い。甘さは控えめね」
もう一度スプーンが下りる。
今度は少し外側へ。
容器の縁に沿ってすくうように、手首が丸く動く。
何もない場所から、二口目を運ぶ。
唇が再び開き、スプーンを受け入れる。
舌が、すくったものを丁寧に絡め取る。
口に入れた瞬間。
九条の眉がわずかに動いた。
でも、すぐに目元が緩んだ。
「苦い?」
「カラメルが少しだけ。でも、これくらいがいいわ」
左手が、存在しない容器の向きを変える。
指の間には何もない。
それでも。
残ったプリンを集めるために、容器を傾けたつもりでいる。
スプーンを底へ滑らせる。
机の天板から少し上で、金属の先が止まる。
底に当たった感触があるらしい。
九条は角度を変え、見えない底を二度すくった。
少しずつ。
本当に中身が減っているように、手を入れる位置が深くなる。
「透は食べないの?」
「澪の分だから」
「一口くらいならあげるけど」
「いい」
「そう?」
九条は、また空のスプーンを口へ運ぶ。
唇が、優しくスプーンを包み込む。
舌が、ゆっくりと内側を撫でるように動いた。
引き抜くとき、唇がわずかに糸を引くように離れた。
満足そうに息をついた。
目を細め、口元に柔らかい笑みを浮かべている。
九条の中では。
容器の冷たさも。
手に乗る重さも。
蓋を剥がした抵抗も。
スプーンですくう感触も。
匂いも。
味も。
全部。
そこにある。
俺の目の前には。
スプーンしかない。
◇
「プリン、食べる?」
それが二つ目の合図だった。
俺と二人きりのとき、俺の声でこの言葉を聞いたら、目の前にプリンがある。
容器の形も、冷たさも、重さも分かる。
蓋には抵抗があって、スプーンを入れれば柔らかく沈む。
口へ運べば、甘い匂いと味を感じる。
食べ終わるまで、それが存在しないとは思わない。
その暗示も。
一度に入れたものではなかった。
見る。
触れる。
重さを感じる。
匂いを感じる。
味わう。
数日かけて、一つずつ重ねた。
今は。
短い一言だけで。
全部が同時に起きている。
九条が最後のひと口をすくう。
空のスプーンを口へ入れ、ゆっくりと唇を閉じる。
舌が、丁寧に味わうように動いた。
喉が小さく上下し、飲み込んだ。
それから、見えない容器の内側を確かめるように覗き込む。
底へスプーンを当てる。
一度。
もう一度。
残っていないことを確かめてから、スプーンを置いた。
「ごちそうさま」
「美味しかった?」
「美味しかったわ」
九条は満足そうに答える。
口元に、まだ甘さを残したような緩い笑みが浮かんでいた。
空の容器を置くつもりで、左手を机へ下ろした。
「片付ける」
「お願い」
俺は手を伸ばす。
何も掴まず。
机の横へ動かした。
九条はそれを見ている。
俺が容器を片付けたと思っている。
「休憩は終わり」
「分かってるわよ」
九条はまた鉛筆を持ち、問題の続きへ戻った。
◇
その後も。
『透の隣は落ち着く。』
『もう少し一緒にいたい。』
『透が好き。』
数式の間に、本心が増えていった。
九条は一度も気づかなかった。
使用時間が終わる少し前。
「今日はここまで」
俺が言うと、九条がノートを閉じた。
それが最初の暗示を終わらせる合図だった。
九条が鞄の中を整理している間に、俺は九条のノートを引き寄せ、もう一度開いた。
余白の文字を消しゴムで消した。
『透の隣は落ち着く。』
『名前で呼ばれると嬉しい。』
『今日も一緒に帰りたい。』
『もう少し一緒にいたい。』
『透が好き。』
白い消し屑と一緒に。
一つずつ消えていく。
最後には、少し薄くなった余白だけが残った。
消し屑を払い、ノートを閉じて九条の鞄の横へ戻した。
机の端には、使い終わったスプーンが一本。
汚れていない。
プリンの匂いもしない。
俺がこれまで置いた言葉の影響は、余白にも残っている。
それでも。
『透が好き』という恋心を、俺が今日、新しく作ったわけではない。
文字は消えた。
気持ちは消えない。
プリンだけが。
最初からどこにもなかった。
「透」
「ん?」
「帰りましょう」
「うん」
九条が鞄を持つ。
俺の隣へ来る。
何も知らないまま。
俺を信じて。
いつもと同じように。
恋人になっても。
やめる理由はなかった。
今日。
存在しないプリンを見せるために、俺が九条へ言ったのは。
たった一言だけだった。
「プリン、食べる?」
それだけで。
九条にとっては。
確かに。
そこに存在した。