最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
勝った。
楽しかった。
嬉しかった。
それなのに。
何かが。
足りなかった。
◇
土曜日。
朝食を終えて、寮を出る。
学園へ向かう道の途中で、澪と相良を見つけた。
二人とも私服だった。
澪は小さな鞄を持ち、相良はいつもの眠そうな顔で、その隣を歩いている。
「おはよう」
声をかけると、二人が振り返った。
「おはよう、朱音」
「おはよう」
「二人で出かけるのか?」
「ええ」
澪が答える。
「デート?」
「……そうよ」
「へえ」
「何よ」
「別に」
澪の顔が、少しだけ赤い。
付き合っていると聞いてからも、教室では二人とも前とあまり変わらなかった。
でも。
こうして並んでいると、やっぱり恋人に見える。
「どこ行くんだ?」
「まだ決めてない」
相良が言う。
「決めてるわよ」
「そうなの?」
「昨日話したでしょう!」
「覚えてる」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
いつもの二人だった。
少し笑う。
「朱音は訓練?」
澪が、あたしの持っている鞄を見る。
「蓮と模擬戦」
「肩は大丈夫なの?」
「昨日の訓練のあと、ちゃんと休んだし、もう平気だって」
「無理しないでね」
「分かってる」
相良を見る。
「相良」
「何?」
「今日の訓練、来ない?」
聞いてから。
二人がデートへ行くところだったと思い出す。
「朱音」
澪が少し呆れた顔をする。
「分かってるよ。聞いただけだろ」
「今日は行かない」
相良が答える。
「澪と約束してるから」
「そうだよな」
当たり前の答え。
二人は恋人で。
今日はデートだ。
あたしと蓮の訓練へ来る理由なんてない。
「じゃあ、また今度な」
「うん」
「朱音」
澪が呼ぶ。
「今度は、前の日までに誘いなさい」
「そうする」
二人と別れる。
振り返らずに学園へ向かう。
今日は蓮と模擬戦をする。
前までは、それで十分だった。
◇
第二訓練区画。
蓮は、先に準備を終えていた。
訓練区域の中央で、剣を振っている。
風が短く鳴る。
剣先から飛んだ刃が、離れた標的の中心へ当たった。
「遅いぞ、朱音」
「時間前だろ」
「火神なら、もっと早く来ると思ってた」
「何だよ、それ」
「昨日、楽しみにしてたから」
「してたけど」
鞄を長椅子へ置く。
訓練服の袖を肩までまくる。
「相良は?」
蓮が入口を見る。
「来ねえよ」
「誘ってなかったのか?」
「誘ったけど、澪とデート」
「ああ」
蓮が納得したように頷く。
「なら、今日は二人だな」
「前からそうだろ」
「最近は相良もいたから」
「見てただけじゃん」
「指示も出してたけど」
「あれは分かりやすいから言ってもらっただけだ」
「そうか」
蓮が剣を構える。
「条件は昨日決めたとおりでいいな」
「身体強化と障壁なし。炎と剣と風だけ。先に有効打を取った方が勝ち」
「それでいい。言い訳するなよ」
「そっちこそ」
「今日は俺が勝つよ」
「前も負けただろ」
「〇・三点だけな」
「勝ちは勝ちだ」
「模擬戦は別だろ」
「同じだよ」
訓練区域へ入る。
胸の奥が、少し熱くなる。
蓮は強い。
正面から戦える。
相良がいなくても、勝負は楽しい。
◇
開始の合図が鳴る。
蓮が先に動いた。
床を蹴る。
一瞬で距離が縮まる。
剣が横から来る。
腕へ炎を集め、受け止める。
風と火がぶつかる。
熱い。
楽しい。
「前より速いな!」
「朱音こそ!」
蓮が剣を引く。
そのまま身体を回し、二撃目。
後ろへ跳ぶ。
剣先が訓練服の胸元をかすめる。
着地と同時に、炎を撃つ。
蓮が横から風をぶつけ、炎を受け流す。
炎が左右へ割れた。
「今の危なかった!」
「当てるつもりだったからな!」
もう一発。
蓮が横へ避ける。
追う。
剣の届く距離へ入る。
蓮の方が有利な距離。
でも。
近い方が、動きを読める。
肩。
腰。
足の向き。
次は、右から来る。
そう思った瞬間。
蓮の剣が左へ流れた。
違う。
逆だ。
反応が遅れる。
剣が腕へ触れる直前。
炎を足元へ撃った。
爆風で身体を横へ飛ばす。
床を転がる。
すぐに立ち上がる。
「無茶するな!」
「避けただろ!」
「そういう問題じゃない!」
蓮が追ってくる。
息を整える。
周りの音は、全部聞こえていた。
蓮の足音。
剣が風を切る音。
自分の呼吸。
でも。
昨日みたいに。
必要なものだけが、はっきり浮かぶことはなかった。
相良の声がない。
そう思った。
すぐに打ち消す。
今は蓮との勝負だ。
目の前を見ろ。
蓮が剣を振り下ろす。
一歩だけ前へ出る。
剣が勢いをつける前に、腕を押さえる。
蓮の体勢が崩れた。
空いた胴へ、炎をまとった拳を止める。
訓練用の判定音が鳴った。
〈有効打〉
続けて。
〈模擬戦終了〉
◇
「勝った!」
拳を上げる。
息が上がっている。
身体も熱い。
蓮は自分の腹を見て、それから剣を下ろした。
「最後、よく入ってきたな」
「近い方が読めるからな」
「途中で逆を取ったんだけど」
「あれは危なかった」
「爆風で避けるとは思わなかったよ」
「避けたからいいだろ」
「次は禁止な」
「何でだよ」
「床へ頭を打ったらどうするんだ」
「打ってねえよ」
「今回はな」
蓮が苦笑する。
あたしも笑った。
勝った。
蓮に。
正面から。
最後は、自分で動きを読んだ。
嬉しい。
ちゃんと楽しい。
なのに。
胸の奥で。
何かを待っていた。
少し待つ。
何も起きない。
昨日みたいに、成功した感覚が重なることも。
頭の中が一気に軽くなることも。
なかった。
「朱音?」
「何?」
「どうした?」
「別に」
「勝ったのに、嬉しくなさそうだけど」
「嬉しいよ」
「本当?」
「本当だって」
嘘ではない。
嬉しい。
でも。
これだけだっただろうか。
「もう一回やるぞ」
「休んでからにしよう」
「今できる」
「息、上がってるだろ」
「すぐ戻る」
「昨日も無理したんじゃないのか?」
「無理してねえよ」
少しだけ声が強くなる。
蓮がこちらを見る。
「……分かった。五分休んだら、もう一回な」
「おう」
長椅子へ座る。
水を飲む。
身体は疲れていた。
それでも。
次なら。
もっときれいに勝てば。
昨日の感覚が戻るかもしれない。
◇
二回目。
今度は。
最初から全力で動いた。
蓮の風の刃を避ける。
距離を詰める。
剣を炎で弾く。
蓮が体勢を戻す前に。
胸元へ手を向けた。
火を撃つ直前で止める。
〈有効打〉
〈模擬戦終了〉
一回目より。
ずっと早い。
「また負けた」
蓮が息を吐く。
「今のは完璧だったよ」
「ああ」
「反応も速かった。出力も抑えてた」
「分かってる」
「……朱音?」
蓮の言葉は。
ちゃんと嬉しかった。
仲間に褒められた。
勝った相手に認められた。
それなのに。
胸の奥に残るのは。
小さな熱だけだった。
昨日みたいに重ならない。
広がらない。
何かが足りない。
「もう一回」
「今日は終わりにしよう」
「まだ二回だぞ」
「二回とも朱音が勝った」
「だから何だよ」
「これ以上は、確認することがないだろ」
「ある」
「何を?」
答えようとして。
止まる。
何を確かめたいのか。
自分でも分からなかった。
蓮に勝てることは分かった。
身体も動いている。
能力の出力も抑えられた。
それなのに。
「……今の、相良が見てたら何て言うと思う?」
口から出ていた。
蓮が少し目を見開く。
「相良?」
「いつも細かいところ見てるだろ」
「そうだな」
「だから、何か気づくかもしれねえし」
理由を足す。
蓮は少し考えた。
「出力を抑えたところを褒めるんじゃないか?」
「……そうかな」
「前も、そこを見てただろ」
「ああ」
相良なら。
何と言うのか。
あの平らな声で、何を見つけるのか。
聞きたいと思った。
「今日は終わろう」
蓮が言う。
「朱音、少し変だぞ」
「変じゃねえよ」
「ならいいけど」
蓮が剣を片付け始める。
あたしも炎を消した。
勝ったのに。
二回も。
楽しかったのに。
足りなかった。
◇
寮の自室。
風呂を終えて、ベッドへ座る。
机の上に置いた端末を見る。
まだ。
相良からの連絡はない。
連絡する約束もしていない。
だから。
来ないのが普通だ。
端末を取る。
相良との画面を開く。
昨日、訓練室の予約時間を送った履歴が残っている。
入力欄を押す。
『蓮に二回勝った。』
そこまで書く。
少し考える。
『今日の方が、昨日より動けた。』
続けて書く。
違う気がした。
全部消す。
今度は。
『今日の訓練、見せたかった。』
そう書く。
すぐに消した。
何で見せたかったんだ。
相良がいなくても勝てた。
指示がなくても。
蓮の動きを読んで。
出力を抑えて。
自分で勝った。
なら。
報告する必要なんてない。
端末を置く。
少しして。
また取る。
短く打つ。
『蓮に勝った。』
それだけを送った。
既読はつかない。
端末を伏せる。
ベッドへ横になる。
きっと、まだ澪と一緒にいる。
今日はデートだと言っていた。
返事がなくても普通だ。
それなのに。
何度も端末を見た。
◇
短い音が鳴る。
すぐに端末を取った。
相良から。
『おめでとう。』
たった一言。
昨日の高揚は戻らない。
胸の奥が弾けることもなかった。
それでも。
さっきまで残っていた苛立ちが。
少しだけ軽くなった。
もう一度。
画面を見る。
『おめでとう。』
それだけ。
足りないはずだった。
なのに。
少し笑っている自分に気づいた。
返事を打つ。
『次は見に来い。』
送ろうとして。
止める。
今日は澪と一緒だ。
今すぐ言うことではない。
全部消して。
代わりに。
短く返した。
『当然だ。』
送信する。
画面を閉じる。
勝ったのは。
あたしだ。
相良がいなくても。
ちゃんと勝てた。
それでも。
次の訓練では。
あの声を聞きたいと思っていた。