最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
九条澪は、俺を見ると少しだけ身構える。
露骨なものじゃない。
眉がわずかに寄る。
声が少し硬くなる。
距離を半歩取る。
本人も意識していない程度の変化だ。
でも。
だからこそ分かりやすい。
「相良」
「何?」
「そこ、邪魔」
「ああ」
朝。
教室の後ろで鞄を置いていたら、九条に言われた。
一歩ずれる。
九条が通る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけ。
会話とも呼べない。
九条はそのまま自分の席へ戻っていった。
俺は後ろ姿を見る。
昨日考えた通り。
最初に変えるべきなのは、好意じゃない。
警戒心だ。
俺を見ると腹が立つ。
話すと疲れる。
できれば関わりたくない。
その全部を一度に消す必要はない。
一つでいい。
ほんの少し。
九条自身が変化に気づかない程度に。
◇
「相良、これ」
昼休み。
火神が紙パックのジュースを俺の机へ置いた。
「何」
「やる」
「なんで」
「間違えて二本買った」
「そんな間違いある?」
「あるだろ」
「ないだろ」
「細けえなあ」
火神は俺の前の席を勝手に借りて、こちらを向いて座った。
「でさ」
「何」
「昨日のプリって何?」
「まだ覚えてたのか」
「そりゃ覚えてるだろ」
失敗した。
「何でもない」
「絶対何かあるじゃん」
「ない」
「澪に聞くか」
「やめろ」
「ほらある!」
楽しそうだ。
面倒くさい。
「火神」
「ん?」
「午後の小テスト勉強した?」
止まった。
「……今日だっけ」
「今日」
「何限?」
「五限」
火神が時計を見る。
「あと四十分しかないじゃん!」
「頑張れ」
「なんで言わなかったんだよ!」
「今言っただろ」
「もっと早く!」
火神が慌てて自分の席へ戻っていく。
単純で助かる。
「朱音、また忘れてたの?」
九条が呆れた声を出す。
「澪! ノート貸して!」
「嫌よ」
「なんで!?」
「昨日も貸したでしょう」
「今日も!」
「自分で勉強しなさい」
「人でなし!」
「誰がよ!」
騒がしい。
火神と話している九条の表情は自然だ。
眉間に力もない。
声にも棘がない。
相手が俺になると、そこへ少しだけ余計なものが混じる。
積み重なった印象。
相良透はやる気がない。
不真面目。
見ていると腹が立つ。
その評価そのものは、別に間違っていない。
だからそれを活かす。
根拠のある感情は変えにくい。
なら。
根拠を消す必要もない。
俺が不真面目なのは、そのままでいい。
それを見たときに感じる苛立ちだけ。
少し弱くすればいい。
◇
五限目の小テストで、火神は見事に撃沈した。
「終わった……」
休み時間。
机に突っ伏している。
「だから勉強しろって言ったのに」
九条がその横でため息をついた。
「三十分はした」
「四十分前に知ったんでしょう」
「三十分もした!」
「威張るところじゃないわよ」
「相良は?」
火神が顔だけこちらへ向ける。
「何点?」
「九十二」
「は?」
「九十二」
起き上がった。
「お前、勉強できんの?」
「普通」
「嘘だろ!?」
「何が」
「だってお前、やる気ないじゃん!」
「やる気がないのと、できないのは別だろ」
九条がこちらを見る。
「……九十二?」
「うん」
「本当に?」
「答案見る?」
「いい」
妙に疑われている。
「相良って勉強できたんだな……」
火神が本気で驚いていた。
「失礼だな」
「だって授業中たまに寝てるし」
「寝てても取れるならいいだろ」
「そういうところよ」
九条がすぐに入ってきた。
「授業を受ける態度の問題でしょう」
「点取れてるぞ」
「結果だけ良ければいいわけじゃないわ」
「なんで」
「なんでって……」
九条が言葉に詰まる。
火神が笑った。
「また始まった」
「朱音は黙ってなさい」
「はいはい」
九条は俺へ向き直る。
「あなたは、やればできるのにやらないから腹が立つのよ」
「やってるから九十二なんじゃない?」
「そういう意味じゃない!」
「難しいな」
「難しくないわよ!」
いつも通り。
でも。
悪くない。
会話は続いている。
前なら九条の方から切り上げていた。
今日は火神が間にいるからかもしれない。
それでも十分だ。
焦る必要はない。
◇
放課後。
帰りのホームルームが終わる。
「学級委員長と副委員長は残ってくれ」
黒瀬先生の声に、九条が小さく息を吐いた。
「また?」
「新年度だからな。諦めろ」
「……はい」
黒瀬先生は容赦がない。
俺は鞄を持って立ち上がった。
「相良」
「ん?」
呼び止められる。
黒瀬先生だった。
「お前も残れ」
「なんで」
「進路希望調査」
「あ」
「白紙で出しただろ」
「出しましたね」
「堂々と言うな」
忘れていた。
いや。
正確には、面倒だったから白紙で出した。
「最低でも第一希望くらい書け」
「特にないです」
「なら考えろ」
「今?」
「今だ」
逃げられないらしい。
火神が教室の出口からこちらを見る。
「相良、頑張れー」
「助けて」
「無理!」
楽しそうに去っていった。
天城も今日は訓練らしい。
「じゃあ、また明日な」
「ああ」
教室から生徒が減っていく。
最後に残ったのは。
俺。
九条。
黒瀬先生。
それから、もう一人の副委員長の男子。
九条たちは教卓の近くで、配布物を仕分け始める。
俺は自分の席で進路希望調査を眺めていた。
第一希望。
第二希望。
第三希望。
「先生」
「なんだ」
「特になし、では駄目ですか」
「駄目だ」
「未定」
「もう書いてある」
「じゃあそれで」
「第一希望の欄にも何か書け」
面倒だ。
適当に大学名でも書こうか。
そんなことを考えていると。
「黒瀬先生」
九条が呼ぶ。
「この資料、職員室に持っていけばいいですか?」
「ああ。悪いな」
「分かりました」
「俺も行きます」
もう一人の委員が資料の束を持ち上げる。
二人が教室を出ていく。
黒瀬先生は俺の用紙を見る。
「相良」
「はい」
「お前、成績自体は悪くないんだ。もう少し真面目に考えろ」
「考えてます」
「今、大学一覧を上から順番に見ていただろう」
「よく見てますね」
「担任だからな」
面倒な人だ。
しばらくして。
黒瀬先生の端末が鳴った。
画面を確認し、眉を寄せる。
「……相良。五分ここで考えてろ」
「先生は?」
「呼ばれた。すぐ戻る」
「帰ったら?」
「追いかける」
「分かりました」
黒瀬先生が教室を出る。
一人になった。
静かだ。
窓の外から、運動部の声が聞こえる。
俺は希望調査を机へ置いた。
五分。
どうするか。
別に今帰ってもいい。
でも。
「……あれ?」
廊下から声がした。
九条だ。
教室へ戻ってくる。
一人。
「相良?」
「いる」
「黒瀬先生は?」
「呼ばれて出てった」
「そう」
九条は教卓へ向かう。
「もう一人は?」
「資料を職員室に置いたあと、そのまま部活に行ったわ」
「委員長だけ戻ってきたのか」
「まだ確認するものが残ってるのよ」
「大変だな」
「他人事ね」
「他人だから」
九条がこちらを睨む。
いつもの顔。
教卓の上で書類を確認し始める。
俺はそれを眺めた。
二人きり。
偶然。
条件としては悪くない。
黒瀬先生がいつ戻るかは分からない。
長くは使えない。
でも。
長く使う必要もない。
今日は一滴でいい。
「九条」
「何?」
書類から顔を上げない。
「疲れてる?」
「別に」
「ため息ついてたぞ」
「学級委員長って思ったより仕事が多いのよ」
「辞めれば」
「簡単に辞められるわけないでしょう」
「真面目だな」
「普通よ」
「俺なら断る」
「でしょうね」
即答だった。
「そういうところが腹立つのよ」
「知ってる」
九条の手が止まる。
「……知ってるの?」
「毎回顔に出てる」
「出してるの」
「わざとか」
「あなたにはね」
なるほど。
思ったより嫌われている。
俺は椅子から立った。
九条の肩が僅かに動く。
近づいたから。
それだけで警戒する。
俺は教卓から少し離れた場所で止まった。
これ以上は近づかない。
「何よ」
「いや」
「何?」
「そんな警戒しなくてもいいだろ」
「してないわよ」
嘘だ。
声が少し硬くなった。
俺は九条を見る。
目を合わせる。
無理に逸らさせない。
ただ。
普通に話す。
「九条」
「……何」
「少し力抜けば?」
「は?」
「疲れてるんだろ」
「別に――」
「俺と話してる間くらい」
一呼吸。
「そんなに身構れなくてもいい」
言葉を沈める。
強くしない。
押し込まない。
ただ、今ある疲れに沿わせる。
学級委員長の仕事で疲れている。
放課後。
教室。
知っているクラスメイト。
危険なんてない。
少しくらい。
力を抜いてもいい。
「…………」
九条が瞬きをした。
一度。
二度。
肩が僅かに下がる。
呼吸が少し深くなる。
「……何それ」
声が変わった。
ほんの少しだけ。
棘が減った。
「そのままの意味」
「あなたに言われたくないんだけど」
「そう?」
「いつも気が抜けてる人に言われても説得力ないわよ」
「じゃあ九条も少しくらい真似すれば」
「嫌よ」
拒否。
でも。
さっきより柔らかい。
通った。
それだけ確認できれば十分だ。
「そっか」
俺は自分の席へ戻った。
「……何だったの?」
「何が」
「急に」
「疲れてそうだったから」
「あなたが人の心配するなんて珍しいわね」
「失礼だな」
「普段の行いよ」
九条はまた書類を見る。
俺も希望調査へ視線を落とした。
それ以上は何もしない。
もう一度。
同じ言葉を入れることもできる。
もっと強く。
俺といると落ち着く。
俺の声を聞くと安心する。
そこまで続けてもいい。
でも、やらない。
一度で欲張る必要はない。
九条には、
変化に気づかれる方が怖い。
確実に手に入れる。
「相良」
「ん?」
「それ、まだ白紙なの?」
「うん」
「五分で考えろって言われたんじゃないの?」
「考えてる」
「本当に?」
「九条と喋りながら」
「全然考えてないじゃない」
呆れた声。
でも。
さっきまでとは違う。
いつもの九条なら、もう少し苛立っていた。
今はただ呆れている。
俺は用紙へ適当な大学名を書く。
「書いた」
「……本当に適当ね」
「未定よりいいだろ」
「黒瀬先生に怒られても知らないわよ」
「そのとき考える」
「はあ……」
九条がため息をつく。
それから。
「まあ、いいけど」
小さく言った。
俺は顔を上げなかった。
笑う必要もない。
驚く必要もない。
たったそれだけだ。
俺に対する警戒が、ほんの少し緩んだ。
嫌いなのは変わらない。
腹が立つのも変わらない。
天城が好きなのも。
俺に興味がないのも。
何一つ変わっていない。
ただ。
俺と話している間くらい。
少し力を抜いてもいい。
その程度。
それで十分だ。
最初から大きく変える必要はない。
一滴ずつ。
誰にも分からないくらいに。
九条自身にも。
分からないくらいに。