最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う   作:催眠スキ

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第三十二話 澪に話す

「話したいことがある」

 

 透は、そう言った。

 

 いつもの眠そうな顔で。

 

 いつもとは違う声で。

 

 ◇

 

 放課後。

 

 授業が終わっても、透は本を開かなかった。

 

「澪」

 

「何?」

 

「少し残れる?」

 

「委員会はないけど」

 

「話したいことがある」

 

 それだけ言って、透は黙った。

 

 教室には、まだ何人か残っていた。帰り支度をする音や、廊下へ出ていく声が聞こえる。

 

「今じゃ駄目なの?」

 

「二人になってからがいい」

 

「……分かった」

 

 嫌な予感がした。

 

 何の話か聞いても、透は答えなかった。

 

 私も、それ以上は聞かなかった。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 生徒が教室を出ていく。

 

 最後の一人が扉を閉めると、急に静かになった。

 

 透と二人きり。

 

 いつもなら、それだけで少し安心できる。

 

 今日は違った。

 

「それで?」

 

 先に聞く。

 

「何を話したいの?」

 

 透は、机の上で両手を組んでいた。

 

 私へ触れられない距離ではない。

 

 それでも、その手は動かなかった。

 

「朱音のこと」

 

「朱音?」

 

「うん」

 

「競技のこと?」

 

「違う」

 

 透が私を見る。

 

「俺、火神に惹かれてる」

 

 一度では、意味が分からなかった。

 

「……何?」

 

「競技仲間としてだけじゃなくて、女の子として気になってる」

 

 聞き間違いではなかった。

 

 透は私と付き合っている。

 

 私を好きだと言った。

 

 手をつないで。

 

 抱きしめて。

 

 キスをして。

 

 あの夜も、二人でこの先へ進むと決めた。

 

 その透が。

 

 朱音に惹かれていると言った。

 

「私と付き合っているのに?」

 

「うん」

 

「どうして、そんなに普通に答えられるのよ」

 

「普通ではない」

 

「いつもと同じ顔でしょう!」

 

 声が大きくなる。

 

 教室の外に誰もいないか、反射的に扉を見る。

 

 廊下は静かだった。

 

「いつから?」

 

「はっきり気づいたのは、昨日」

 

「何があったの?」

 

 透が少し黙る。

 

「火神が、俺が他の女子を見てることを気にしてるように見えた」

 

「朱音が?」

 

「本人は違うって言った」

 

「なら違うんでしょう」

 

「うん。火神の気持ちは分からない」

 

「だったら、どうして?」

 

「違うって言われて、少し残念だった」

 

 胸の奥が冷たくなる。

 

 透は。

 

 朱音に気にしていてほしかった。

 

「その前は?」

 

「その前?」

 

「昨日、急に朱音を女の子として見るようになったわけではないでしょう」

 

「買い物へ行った日、可愛いと思った」

 

「思っただけ?」

 

 透は答えなかった。

 

 その沈黙だけで分かった。

 

「言ったの?」

 

「うん」

 

「朱音に?」

 

「可愛いって言った」

 

 椅子から立ち上がる。

 

 透が私を見る。

 

「私に話す前に?」

 

「うん」

 

「どうして!」

 

「そのときは、惹かれてるって自分でも分かってなかった」

 

「分かっていなければ、何を言ってもいいの?」

 

「よくない」

 

「今こうして話せば、先に言ったことがなくなるとでも思ってる?」

 

「思ってない」

 

「だったら何なのよ!」

 

 透は言い返さなかった。

 

 言い訳もしない。

 

 それが余計に腹立たしかった。

 

「私が知らないところで、朱音とどこまで話したの?」

 

「服と髪留めが似合ってるって言った。笑ってる方が可愛いとも言った」

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

「触った?」

 

「触ってない」

 

「好きだと言った?」

 

「言ってない」

 

「付き合いたいって?」

 

「言ってない」

 

「朱音は、あなたの気持ちを知ってるの?」

 

「知らない」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

 透の顔を見る。

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 

 でも。

 

 正直に答えれば、それでいいわけではない。

 

「私と付き合っていることは、朱音も知ってる」

 

「うん」

 

「それなのに、可愛いって言ったの?」

 

「言った」

 

「最低」

 

「うん」

 

「そこは否定しなさいよ!」

 

「否定できない」

 

 怒っているのに。

 

 泣きそうになる。

 

 それが悔しかった。

 

 私は、透に選ばれたと思っていた。

 

 私が透を選んで。

 

 透も私を選んだ。

 

 そう思っていた。

 

「私では足りないの?」

 

 声が震えた。

 

 透の表情が、わずかに変わる。

 

「違う」

 

「何が違うのよ」

 

「澪に足りないものがあるから、火神へ惹かれたわけじゃない」

 

「便利な言い方ね」

 

「そう聞こえると思う」

 

「私と朱音を比べたの?」

 

「比べてない」

 

「じゃあ、どっちが大事なの?」

 

 聞いてから。

 

 自分で答えを怖がっていることに気づく。

 

 透はすぐには答えなかった。

 

「順位をつけて答えたくない」

 

「私を選ぶって言えないの?」

 

「澪との関係を終わらせて、火神のところへ行くつもりはない」

 

「同じでしょう」

 

「同じじゃない」

 

「私には同じよ!」

 

 透が少しだけ目を伏せる。

 

「あの夜は?」

 

「何?」

 

「私たちが、あの夜決めたことは。透にとって何だったの?」

 

「澪ともっと近づきたかった。二人で決めたことだった」

 

「今も?」

 

「今も、澪と一緒にいたい」

 

「朱音にも同じことを言うつもり?」

 

「まだ、何も言うつもりはない」

 

「まだ?」

 

 その一言へ、すぐに反応してしまう。

 

「私がいいと言ったら、言うの?」

 

「火神へ気持ちを伝えるか考える」

 

「私に、許してほしいのね」

 

「許してほしいとは思ってる」

 

「正直に言えばいいと思ってる?」

 

「思ってない」

 

「だったら、どうして話したの?」

 

「隠れて進みたくなかったから」

 

「もう先に可愛いって言ったでしょう」

 

「うん。先に澪へ話すべきだった」

 

「遅いわよ」

 

「ごめん」

 

 透が謝る。

 

 それでも、怒りは消えなかった。

 

 謝られたから許せる話ではない。

 

 ◇

 

 私は立ったまま。

 

 透は椅子に座ったまま。

 

 手を伸ばせば届く距離にいる。

 

 でも。

 

 透は触れようとしなかった。

 

 もし今、抱きしめられたら。

 

 私はどうするのだろう。

 

 振り払えるのか。

 

 安心してしまうのか。

 

 分からなかった。

 

「触らないで」

 

 先に言う。

 

「分かった」

 

 透の手は、机の上から動かなかった。

 

「もし」

 

 一度、息を整える。

 

「私が嫌だと言ったら?」

 

「火神には気持ちを伝えない」

 

「それだけ?」

 

「恋愛関係として進もうとしない」

 

「朱音を好きではなくなるの?」

 

「惹かれてる気持ちを、すぐになくすことはできないと思う」

 

「それで、私と付き合い続けるの?」

 

「澪が望むなら」

 

「私が邪魔をしたって思わない?」

 

「思わない」

 

「恨まない?」

 

「恨まない」

 

「本当に?」

 

「進むかどうかは選べる。澪が嫌だと言うなら、進まないと俺が決める」

 

 透は迷わず答えた。

 

 それでも。

 

 すぐに安心はできなかった。

 

「もし私が」

 

 言いたくない。

 

 でも、確かめなければならない。

 

「この話を聞いて、透と別れたいと言ったら?」

 

 透の手に、少しだけ力が入った。

 

「嫌だ」

 

「答えになってないわ」

 

「別れたくない。でも、澪が決めたなら、止める権利はない」

 

「追いかけないの?」

 

「話を聞いてほしいとは言うと思う」

 

「それでも私が決めたら?」

 

「受け入れる」

 

 胸が痛い。

 

 止めてほしいと思った。

 

 絶対に離さないと言ってほしい気持ちもあった。

 

 でも。

 

 そう言われたら、私は本当に自分で選べなくなるのかもしれない。

 

「ずるいわ」

 

「うん」

 

「私が嫌だと言ったら朱音を諦めるなんて言われたら、私が悪いみたいじゃない」

 

「澪は悪くない」

 

「でも、透は朱音に惹かれたままなんでしょう」

 

「うん」

 

「それで私だけを見ていられるの?」

 

「火神に気持ちを伝えず、恋愛関係を求めないことはできる」

 

「また、そういう答え」

 

「消えたって嘘はつけない」

 

 透は、私が欲しい言葉を言わなかった。

 

 私だけだと。

 

 朱音なんて気の迷いだったと。

 

 そう言えば、少しは楽になれたかもしれないのに。

 

 透は言わなかった。

 

 ◇

 

「今、答えなくていい」

 

 透が言う。

 

「いつまで?」

 

「期限は決めない」

 

「私がずっと答えなかったら?」

 

「待つ」

 

「その間、朱音には?」

 

「気持ちは伝えない。恋愛関係として進もうともしない」

 

「私に、何度も聞かない?」

 

「澪から話すまで聞かない」

 

 透の答えを、一つずつ確かめる。

 

 断ってもいい。

 

 考え続けてもいい。

 

 別れることさえ。

 

 私が選べる。

 

 それでも、何を選びたいのかは分からなかった。

 

 透を失いたくない。

 

 朱音へ進んでほしくない。

 

 でも、朱音が悪いわけではない。

 

 透が嘘をつかなかったことに、少しだけ安心している自分もいる。

 

 その全部が混ざっていた。

 

「今日は」

 

 声を整える。

 

「一人で帰るわ」

 

「分かった」

 

「先に帰って」

 

「うん」

 

 透が立ち上がる。

 

 鞄を持つ。

 

 私へ近づかないまま、教室の扉へ向かう。

 

「透」

 

 呼び止める。

 

 透が振り返った。

 

 何を言いたかったのか。

 

 自分でも分からない。

 

「……今は、答えられない」

 

「分かった」

 

「嫌だと言うかもしれない」

 

「うん」

 

「許さないかもしれない」

 

「うん」

 

「それでも、待つの?」

 

「待つ」

 

 透は、それ以上何も言わなかった。

 

 扉を開ける。

 

 教室を出ていく。

 

 扉が閉まった。

 

 ◇

 

 一人になった教室。

 

 透が座っていた椅子を見る。

 

 手を伸ばしても、もう届かない。

 

 怒っていた。

 

 朱音に嫉妬していた。

 

 透を失うのが怖かった。

 

 だからといって。

 

 怖いから許すとは言いたくなかった。

 

 今すぐ嫌だと言って、全部を終わらせることもできなかった。

 

 私は。

 

 許すとも。

 

 拒むとも。

 

 別れるとも言わなかった。

 

 今は答えない。

 

 そうすることを。

 

 私が決めた。

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