最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
「話したいことがある」
透は、そう言った。
いつもの眠そうな顔で。
いつもとは違う声で。
◇
放課後。
授業が終わっても、透は本を開かなかった。
「澪」
「何?」
「少し残れる?」
「委員会はないけど」
「話したいことがある」
それだけ言って、透は黙った。
教室には、まだ何人か残っていた。帰り支度をする音や、廊下へ出ていく声が聞こえる。
「今じゃ駄目なの?」
「二人になってからがいい」
「……分かった」
嫌な予感がした。
何の話か聞いても、透は答えなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
一人。
また一人。
生徒が教室を出ていく。
最後の一人が扉を閉めると、急に静かになった。
透と二人きり。
いつもなら、それだけで少し安心できる。
今日は違った。
「それで?」
先に聞く。
「何を話したいの?」
透は、机の上で両手を組んでいた。
私へ触れられない距離ではない。
それでも、その手は動かなかった。
「朱音のこと」
「朱音?」
「うん」
「競技のこと?」
「違う」
透が私を見る。
「俺、火神に惹かれてる」
一度では、意味が分からなかった。
「……何?」
「競技仲間としてだけじゃなくて、女の子として気になってる」
聞き間違いではなかった。
透は私と付き合っている。
私を好きだと言った。
手をつないで。
抱きしめて。
キスをして。
あの夜も、二人でこの先へ進むと決めた。
その透が。
朱音に惹かれていると言った。
「私と付き合っているのに?」
「うん」
「どうして、そんなに普通に答えられるのよ」
「普通ではない」
「いつもと同じ顔でしょう!」
声が大きくなる。
教室の外に誰もいないか、反射的に扉を見る。
廊下は静かだった。
「いつから?」
「はっきり気づいたのは、昨日」
「何があったの?」
透が少し黙る。
「火神が、俺が他の女子を見てることを気にしてるように見えた」
「朱音が?」
「本人は違うって言った」
「なら違うんでしょう」
「うん。火神の気持ちは分からない」
「だったら、どうして?」
「違うって言われて、少し残念だった」
胸の奥が冷たくなる。
透は。
朱音に気にしていてほしかった。
「その前は?」
「その前?」
「昨日、急に朱音を女の子として見るようになったわけではないでしょう」
「買い物へ行った日、可愛いと思った」
「思っただけ?」
透は答えなかった。
その沈黙だけで分かった。
「言ったの?」
「うん」
「朱音に?」
「可愛いって言った」
椅子から立ち上がる。
透が私を見る。
「私に話す前に?」
「うん」
「どうして!」
「そのときは、惹かれてるって自分でも分かってなかった」
「分かっていなければ、何を言ってもいいの?」
「よくない」
「今こうして話せば、先に言ったことがなくなるとでも思ってる?」
「思ってない」
「だったら何なのよ!」
透は言い返さなかった。
言い訳もしない。
それが余計に腹立たしかった。
「私が知らないところで、朱音とどこまで話したの?」
「服と髪留めが似合ってるって言った。笑ってる方が可愛いとも言った」
「それだけ?」
「うん」
「触った?」
「触ってない」
「好きだと言った?」
「言ってない」
「付き合いたいって?」
「言ってない」
「朱音は、あなたの気持ちを知ってるの?」
「知らない」
「本当に?」
「本当」
透の顔を見る。
嘘をついているようには見えなかった。
でも。
正直に答えれば、それでいいわけではない。
「私と付き合っていることは、朱音も知ってる」
「うん」
「それなのに、可愛いって言ったの?」
「言った」
「最低」
「うん」
「そこは否定しなさいよ!」
「否定できない」
怒っているのに。
泣きそうになる。
それが悔しかった。
私は、透に選ばれたと思っていた。
私が透を選んで。
透も私を選んだ。
そう思っていた。
「私では足りないの?」
声が震えた。
透の表情が、わずかに変わる。
「違う」
「何が違うのよ」
「澪に足りないものがあるから、火神へ惹かれたわけじゃない」
「便利な言い方ね」
「そう聞こえると思う」
「私と朱音を比べたの?」
「比べてない」
「じゃあ、どっちが大事なの?」
聞いてから。
自分で答えを怖がっていることに気づく。
透はすぐには答えなかった。
「順位をつけて答えたくない」
「私を選ぶって言えないの?」
「澪との関係を終わらせて、火神のところへ行くつもりはない」
「同じでしょう」
「同じじゃない」
「私には同じよ!」
透が少しだけ目を伏せる。
「あの夜は?」
「何?」
「私たちが、あの夜決めたことは。透にとって何だったの?」
「澪ともっと近づきたかった。二人で決めたことだった」
「今も?」
「今も、澪と一緒にいたい」
「朱音にも同じことを言うつもり?」
「まだ、何も言うつもりはない」
「まだ?」
その一言へ、すぐに反応してしまう。
「私がいいと言ったら、言うの?」
「火神へ気持ちを伝えるか考える」
「私に、許してほしいのね」
「許してほしいとは思ってる」
「正直に言えばいいと思ってる?」
「思ってない」
「だったら、どうして話したの?」
「隠れて進みたくなかったから」
「もう先に可愛いって言ったでしょう」
「うん。先に澪へ話すべきだった」
「遅いわよ」
「ごめん」
透が謝る。
それでも、怒りは消えなかった。
謝られたから許せる話ではない。
◇
私は立ったまま。
透は椅子に座ったまま。
手を伸ばせば届く距離にいる。
でも。
透は触れようとしなかった。
もし今、抱きしめられたら。
私はどうするのだろう。
振り払えるのか。
安心してしまうのか。
分からなかった。
「触らないで」
先に言う。
「分かった」
透の手は、机の上から動かなかった。
「もし」
一度、息を整える。
「私が嫌だと言ったら?」
「火神には気持ちを伝えない」
「それだけ?」
「恋愛関係として進もうとしない」
「朱音を好きではなくなるの?」
「惹かれてる気持ちを、すぐになくすことはできないと思う」
「それで、私と付き合い続けるの?」
「澪が望むなら」
「私が邪魔をしたって思わない?」
「思わない」
「恨まない?」
「恨まない」
「本当に?」
「進むかどうかは選べる。澪が嫌だと言うなら、進まないと俺が決める」
透は迷わず答えた。
それでも。
すぐに安心はできなかった。
「もし私が」
言いたくない。
でも、確かめなければならない。
「この話を聞いて、透と別れたいと言ったら?」
透の手に、少しだけ力が入った。
「嫌だ」
「答えになってないわ」
「別れたくない。でも、澪が決めたなら、止める権利はない」
「追いかけないの?」
「話を聞いてほしいとは言うと思う」
「それでも私が決めたら?」
「受け入れる」
胸が痛い。
止めてほしいと思った。
絶対に離さないと言ってほしい気持ちもあった。
でも。
そう言われたら、私は本当に自分で選べなくなるのかもしれない。
「ずるいわ」
「うん」
「私が嫌だと言ったら朱音を諦めるなんて言われたら、私が悪いみたいじゃない」
「澪は悪くない」
「でも、透は朱音に惹かれたままなんでしょう」
「うん」
「それで私だけを見ていられるの?」
「火神に気持ちを伝えず、恋愛関係を求めないことはできる」
「また、そういう答え」
「消えたって嘘はつけない」
透は、私が欲しい言葉を言わなかった。
私だけだと。
朱音なんて気の迷いだったと。
そう言えば、少しは楽になれたかもしれないのに。
透は言わなかった。
◇
「今、答えなくていい」
透が言う。
「いつまで?」
「期限は決めない」
「私がずっと答えなかったら?」
「待つ」
「その間、朱音には?」
「気持ちは伝えない。恋愛関係として進もうともしない」
「私に、何度も聞かない?」
「澪から話すまで聞かない」
透の答えを、一つずつ確かめる。
断ってもいい。
考え続けてもいい。
別れることさえ。
私が選べる。
それでも、何を選びたいのかは分からなかった。
透を失いたくない。
朱音へ進んでほしくない。
でも、朱音が悪いわけではない。
透が嘘をつかなかったことに、少しだけ安心している自分もいる。
その全部が混ざっていた。
「今日は」
声を整える。
「一人で帰るわ」
「分かった」
「先に帰って」
「うん」
透が立ち上がる。
鞄を持つ。
私へ近づかないまま、教室の扉へ向かう。
「透」
呼び止める。
透が振り返った。
何を言いたかったのか。
自分でも分からない。
「……今は、答えられない」
「分かった」
「嫌だと言うかもしれない」
「うん」
「許さないかもしれない」
「うん」
「それでも、待つの?」
「待つ」
透は、それ以上何も言わなかった。
扉を開ける。
教室を出ていく。
扉が閉まった。
◇
一人になった教室。
透が座っていた椅子を見る。
手を伸ばしても、もう届かない。
怒っていた。
朱音に嫉妬していた。
透を失うのが怖かった。
だからといって。
怖いから許すとは言いたくなかった。
今すぐ嫌だと言って、全部を終わらせることもできなかった。
私は。
許すとも。
拒むとも。
別れるとも言わなかった。
今は答えない。
そうすることを。
私が決めた。