最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
最初の一滴は残っている。
それは確認できた。
俺と話している間だけ、九条の警戒が少し緩む。
以前ほど腹を立てない。
その変化に気づいても。
本人が勝手に理由をつけて納得する。
さらに。
俺が約束を守ったことで。
催眠とは関係のない信頼まで、ほんの少し生まれた。
なら。
次へ進んでもいい。
◇
「九条!」
「分かってる!」
放課後。
第一訓練場。
火神の声と同時に、炎が弾けた。
爆音。
赤い火の粉が散る。
その中心を。
白い光が駆け抜けた。
一本。
二本。
三本。
九条の【天剣】。
飛んできた炎を光剣が切り裂く。
「まだまだ!」
火神が笑う。
右手を振り抜いた。
今度は三方向。
炎の塊が九条へ迫る。
九条は動かない。
視線だけ。
六本の光剣が一斉に動いた。
炎を迎撃。
爆発。
その煙を突き抜け。
一本の剣が火神の首元で止まる。
「……あ」
火神が固まった。
「私の勝ちね」
九条が言う。
「今のなし!」
「なんでよ」
「煙で見えなかった!」
「あなたが出した煙でしょう」
「もう一本!」
「嫌よ」
「なんで!?」
「疲れたもの」
九条が光剣を消す。
火神はまだ不満そうだった。
「澪、もう一回だけ!」
「一回と言って三回やったでしょう」
「次で最後!」
「さっきも聞いた」
「今度こそ!」
「嫌」
九条は訓練場の端へ歩いていった。
「冷たい!」
「朱音が元気すぎるのよ」
そのままベンチへ座る。
俺は少し離れた場所から見ていた。
「相良」
隣から天城が声をかける。
「ん?」
「珍しいな。見に来るなんて」
「火神に引っ張ってこられた」
「ああ」
納得された。
実際その通りだ。
帰ろうとしていたところを捕まった。
『一回くらい見ろ』
と言われた。
一回では終わらなかったが。
「九条、やっぱり強いな」
天城が訓練場を見る。
「火神も強くなってるけど、相性が悪い」
「そうなの?」
「火神は出力で押すタイプだからな。九条みたいに細かく捌かれるとやりにくいんだ」
「へえ」
「相良、興味ないだろ」
「少しはある」
「本当か?」
「九条が勝つ方に百円」
「賭けるな」
天城が笑う。
俺も九条を見る。
ベンチに座って。
タオルで額の汗を拭いている。
呼吸が少し速い。
疲れている。
前に暗示を入れたときと同じ。
人間は疲れていると。
余計な力を抜きたがる。
そこに沿わせれば。
入りやすい。
条件としては悪くない。
ただ。
今は天城も。
火神もいる。
ここでやる意味はない。
「蓮!」
火神が呼ぶ。
「次、お前!」
「まだやるのか?」
「澪が逃げた!」
「逃げてないわよ!」
ベンチから九条が叫ぶ。
「蓮、一本だけ!」
「一本だけな」
「よっしゃ!」
天城が訓練場へ向かう。
九条が呆れた顔をした。
「天城も甘いわね」
「断ればいいのに」
「朱音、断ってもずっと言うもの」
「面倒だな」
「あなたが言う?」
「なんで」
九条がこっちを見る。
「なんでもない」
そう言って。
少し笑った。
俺は一瞬だけ黙った。
「何?」
「いや」
「変なの」
以前なら。
こんな顔を俺に向けることはなかった。
まだ小さい。
でも。
確実に違う。
◇
天城と火神の訓練は長引いた。
「一本だけ」とは何だったのか。
九条は途中で帰った。
俺も少しして訓練場を出た。
寮へ戻る途中。
自販機で水でも買おうと、渡り廊下の脇へ寄る。
そこで。
「……あ」
九条がいた。
ベンチに座っている。
ペットボトルを片手に。
一人。
「また会ったな」
「相良」
「何してるの?」
「見れば分かるでしょう。休んでるの」
「寮までそんな遠くないぞ」
「分かってるわよ」
少し疲れた声。
訓練着のまま。
黒に近い濃灰色の長袖の上衣に、同じ色のハーフパンツ。
普段の制服姿よりも、身体の線が分かりやすい。
黒髪は訓練用に低い位置でまとめていた。
額にはまだ少し汗が残っている。
「座れば?」
九条が言った。
「いいの?」
「立ったまま話されると落ち着かない」
「じゃあ」
一人分ほど空けて座る。
前なら。
九条の方から俺を隣に座らせることなんて。
まずなかった。
本人は気づいていない。
「火神、まだやってる?」
「天城と」
「でしょうね」
「九条、逃げたって言ってたぞ」
「逃げてない」
「本人に言えば」
「明日言う」
「根に持つな」
「持ってないわよ」
言いながら。
ペットボトルの水を飲む。
その手が少し震えていた。
疲労。
単純なものだろう。
「疲れてるな」
「……少しね」
「珍しく認めた」
「今日の朱音がしつこかったのよ」
「楽しそうだったけど」
「あの子はいつでも楽しそうでしょう」
「確かに」
風が通る。
訓練で熱を持った身体には気持ちいい。
九条が目を細めた。
「……涼しい」
「眠そう」
「眠くない」
「目閉じてるけど」
「休んでるだけ」
「同じじゃない?」
「違う」
声に力がない。
俺は横顔を見る。
今なら。
入る。
でも。
前回と同じものを入れる意味はない。
少しだけ。
先へ進める。
「九条」
「何?」
目は閉じたまま。
「そんな力入れなくていいぞ」
「入れてないわよ」
「肩」
「……?」
「まだ固い」
九条が自分の肩を少し動かす。
「訓練のあとだからよ」
「じゃあ余計に」
「何が」
「俺と話してる間くらい、力抜けばいい」
前にも。
似た言葉を使った。
だから。
通り道がある。
「またそれ?」
九条が薄く目を開ける。
「前にも言われた気がする」
「言ったな」
「あなたって、意外とそういうこと言うのね」
「そういうこと?」
「休めとか。力抜けとか」
「疲れてるからじゃない?」
「……そうね」
否定しない。
俺は声を少し落とす。
「九条」
「何?」
「別に何もしなくていい」
一呼吸。
「俺の声聞いてる間くらい」
ゆっくり。
「少し休めばいい」
言葉を沈める。
今ある疲れに。
前回の暗示に。
九条自身が俺へ持ち始めた小さな信頼に。
重ねる。
俺は危険じゃない。
約束を守る。
秘密を言わない。
少しくらい。
警戒を解いても問題ない。
俺と話している時間は。
力を抜いていい。
声を聞いている間は。
少し落ち着いていていい。
「…………」
九条の呼吸が。
ゆっくりになる。
肩が下がる。
ペットボトルを握っていた指から。
力が抜ける。
「……ほんと」
「何?」
「あなたのそういうところ」
「どういうところ?」
「調子狂う」
「また?」
「また」
目を閉じたまま。
九条が小さく笑う。
「普段は腹が立つのに」
「ひどい」
「事実でしょう」
「うん」
「なのに……」
止まる。
「何?」
「別に」
「気になる」
「言わない」
「なんで」
「言いたくないから」
声は柔らかい。
いつもの九条とは違う。
でも。
変えすぎてはいない。
嫌い。
腹が立つ。
その認識は残っている。
ただ。
今。
俺の声を聞いている間だけ。
それよりも。
疲れた身体を休ませる方が優先されている。
十分だ。
これ以上は必要ない。
俺は話題を変えた。
「そういえば」
「何?」
「今日プリン買ってないな」
九条の目が開いた。
「なんで知ってるのよ」
「食堂一緒だっただろ」
「見てたの?」
「デザートコーナーの方見てたから」
「見ないで」
「無理」
「相良」
声に少し棘が戻る。
いい。
その方が自然だ。
「今日は食べなかったの?」
「毎日食べてるわけじゃないって言ったでしょう」
「来週は抹茶」
「……覚えてるの?」
「見せられたから」
「忘れてって言えばよかった」
「どうせ無理だぞ」
「でしょうね」
九条がため息をつく。
でも。
すぐに。
また肩の力が抜ける。
早い。
俺が何も言っていないのに。
さっき沈めたものが。
もう働いている。
「相良」
「ん?」
「一つ聞いていい?」
「何?」
「あなた」
九条がこちらを見る。
「どうして私が甘いもの好きだって、誰にも言わないの?」
「約束したから」
「それは分かってる」
「じゃあ何?」
「……普通」
言葉を探す。
「からかったりするでしょう」
「してるけど」
「そうじゃなくて」
「火神とかに言うってこと?」
「そう」
「九条が嫌がってるから」
「それだけ?」
「それ以外に何がある?」
九条が黙る。
「……ないけど」
「じゃあそれだけ」
「そう」
視線が前に戻る。
「変な人」
「九条に言われたくない」
「私は普通よ」
「プリン隠してるのに?」
「それは関係ない!」
「元気になったな」
「誰のせいよ!」
九条が睨む。
でも。
その目は。
以前ほど冷たくない。
「……もう帰る」
九条が立ち上がる。
「休憩終わり?」
「あなたと話してたら長くなった」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「残りは?」
「疲れてたから」
「そっか」
九条が数歩進む。
そして。
「相良」
「何?」
振り返る。
「……ありがとう」
「何が?」
「少し休めたから」
「俺、何もしてないけど」
「話し相手にはなったでしょう」
「じゃあどういたしまして」
「そこは普通に受け取るのね」
「貰えるものは貰う」
「ほんと変」
九条が歩き出す。
俺は追わない。
一人になったベンチで。
少し考える。
前回より。
入り方が早かった。
最初に警戒を緩めた。
そのあと。
九条自身が俺を少し信用した。
だから。
同じ方向への言葉が。
前より自然に沈む。
まだ。
俺の声を聞けば無条件に安心する。
そこまでじゃない。
それでいい。
今日。
九条は。
疲れたとき。
俺と話していたら少し楽になった。
そう思った。
その記憶が残る。
次に疲れたとき。
俺の声を聞けば。
今日の感覚を思い出す。
そして。
また少し。
落ち着く。
一回。
二回。
三回。
それを重ねれば。
いつか。
理由なんて必要なくなる。
俺と話すと。
なんとなく落ち着く。
本人が。
そう思うようになる。
今日は。
二滴目。
まだ。
それだけだ。