西部劇×ファンタジー ~長耳の不愛想娘と西へ旅する~ 作:ぬんぬ
『馬が盗まれてから厩の鍵をかけても遅い』という諺がある。今の我々を表すのに、これ以上適切な言葉もないだろう。
教会主流派の追っ手がこれほど早く、この地下へ踏み込んでくるとは思いもしなかった。
老いさらばえた己の見通しの甘さをいくら咎めても、後悔の苦い泥が、口の中にへばりつくだけだ。
「そろそろ全部話してください、モーリス神父。これ以上、あなたに痛い思いをして欲しくないのです」
暗がりから響いた声には、傷ついた子供を労るような優しさと、痛切な悲しみが滲んでいた。
だが、その哀しげな声音とは裏腹に、私の右手に重ねられた滑らかな指先が、躊躇なく力を込める。
——バキリ。
乾いた不快な音が骨の奥で響いた。
遅れて、脳髄を焼きちぎられるような激痛が駆け抜ける。既に押し潰されていた人差し指と中指の関節に続き、薬指までが根元からあらぬ方向へとへし折られたのだ。
視界が真っ赤に明滅する。喉の奥から出そうになった悲鳴を、歯を強く食いしばって強引に押し殺した。激痛が熱となって皮膚の奥で脈打っている。
皮下で逃げ場を失った血によって節々は瞬く間に膨れ上がり、どす黒く染まっていった。
「……ここには、神に祈りを捧げる……敬虔な者がいるだけだ……」
折られた指の激痛に身体を震わせながら、私は掠れた声を振り絞って目の前に佇む男を睨みつけた。
——聖堂騎士団の巡察隊長、ファビアン・メルシエ。
ウェーブがかった栗色の髪に、温かみのある翡翠色の瞳。汚れ一つないアズールの法衣を身に纏い、その胸元には聖堂教会の象徴である真鍮製の天秤が柔らかく光っている。
どこか浮世離れしたその整った穏やかな顔立ちは、およそこの場にはそぐわないものだった。
「違いますよね、モーリス神父」
ファビアンは困ったような、寂しげな笑みを浮かべて首を振る。
「先日の、アルカの子供を取り逃がした騒動……。手引きをしたのがもし本当にダスティンであれば、必ずあなた方に接触しているはずです。彼は賢く、教会の内情や動きを熟知していますから」
ファビアンはふっと目を伏せ、昔を思い起こすように翡翠色の瞳を陰らせた。
「……彼は、本当に優しい人でした。誰よりも温かい心を持っていた。けれど……その深すぎる優しさゆえに、獣に惑わされてしまったのでしょうね」
「……君たちは間違っている!!」
私は声を張り上げた。破れかぶれの怒りが喉を焼き、口の中に血の味が広がる。
「獣ではないッ! 先住民とて心を持ち、涙を流す……人間なのだ! 聖ルカの教えを、十二の聖律を思い出せ! 理性と平等を……どうして踏みにじることができるのかッ!」
心を振り絞った叫びを耳にしても、ファビアンの表情には微かな変化すら浮かばなかった。ただ、無知な幼子の戯言を聞く親のような、どこまでも優しい微笑みがそこにあった。
「モーリス神父。先住民は家畜です。彼らは体内に魔石を宿している……それは即ち、彼らが神の恩寵を受けぬ魔物である証拠。ですが、天主は慈悲深い。その不完全な身体と魔石を我々に差し出し、奉仕させる機会をお与えになったのです。彼らの役目をちゃんと果たさせてあげることが、神の御心に沿うのですよ」
ファビアンが誇らしげに続ける。
「獣である彼らは、石を抜くことで初めて人間になれる。……私たちと同じ人間に。これが救いでなければなんだと言うのでしょう。悲しむ必要など、どこにもないのですよ」
目の前で微笑むファビアンの顔を見つめ、私は凄まじい悪寒に身を震わせた。
完全に破綻してしまったその心には、どれほど言葉を尽くそうと届く道理など存在しないのかもしれない。彼を救いへと導けなかった己の力不足を痛感しながら、私は静かに唇を開いた。
「……ファビアン。君を救い得ない己の無力さが、悔やまれてならない。けれど、どれほど責め立てられようと、知らぬものを教えることなど私にはできないのだ」
「そうですか……」
ファビアンは心底困ったように眉を下げ、小さなため息を吐いた。
「別に、モーリス神父から教えていただかなくともよいのですよ。他の方にもお聞きしましょう」
立ち上がったファビアンは、地下室の隅で震える女性信徒——幼い我が子を抱きしめる母親の前へと歩み寄った。
「あなたは、何か知っていますか?」
「し、知りません! 何も……!」
必死に首を振る母親の腕から、ファビアンは五歳にも満たない男の子を容易く取り上げた。
「ヒッ……あ、あぁ……っ!」
恐怖で声も出せない幼子を、ファビアンは愛おしそうに胸元へ抱き寄せる。怯える頬を撫でる手つきには、偽りのない慈愛が満ちていた。
だが、その温かな眼差しのまま、男の子の華奢な右手をそっと握り込む。
「……大丈夫ですよ、怯えることはありません。……これも導きです」
白い指先が、男の子の薬指に滑らかに絡みつく。ファビアンは慄く母親へ視線を遣り、慈愛の笑みを浮かべたまま、ゆっくりとその指関節へ圧力をかけていった。
メリ……と、不気味な軋みが室内に響く。
「——ッ!? ——ッ!!」
あまりの激痛に男の子は顔面を蒼白にし、全身を痙攣させてボロボロと涙をこぼした。
「ああ、泣かないで。あなたのお母様が素直に答えてくだされば、すぐに終わるのですから……」
ファビアンは少年の落ちる涙を拭いながら、なおも容赦なく力を込めていく。
「言います! 言いますから! お願いだからその子を離してッ!!」
堪えきれなくなった母親が、床に額を叩きつけながら絶叫した。
「先住民の女の子と……男が来ていました! 元聖堂騎士の男です! これからその子を連れて、西部に向かうと言っていました! 本当です! それだけしか知らないのです!」
その瞬間、ファビアンの動きがぴたりと止まり——弾かれたように、甲高い笑い声が弾け飛んだ。
「くふっ……あははっ、あはははははっ……!」
肩を大きく震わせ、胸元の天秤の真鍮飾りをカチカチと鳴らしながら、ファビアンは楽しげに笑う。
聖職者としての穏やかな表情はもはや微塵も残っていない。整った顔立ちが悦楽に歪み、翡翠色の瞳は熱に浮かされたように爛々と輝いている。
まるでずっと求め続けていた最愛の恋人の痕跡に触れたかのように、息を荒らげ、頬を艶やかに紅く染め上げていた。
「ああ……ダスティン。ダスティン・アーサー・ミルヴァートンッ! 本当に……本当にこんなところにいたのですねぇ……っ!」
その名を口にするファビアンの喉元が、うっとりと震えていた。舌先で愛しい者の名前を味わい尽くすかのように、ねっとりと、甘やかに言葉を吐き出す。
「……三年間。どれほど私があなたを想い、探し求めていたか……! 私が救わなければ……私こそがダスティンをこの手で引き裂き、救済してあげなければ……っ」
執着と歪んだ情愛——聖職者のあり様からは程遠い、粘つく性的熱量すら感じさせる狂気が溢れ出していた。
やがて、男の子を愛おしそうに撫で地面へ下ろすと、ファビアンは自身の顎に細い指を添え、陶酔の余韻を残したまま低く独白を続けた。
「目的地は、やはり西部ですか。それなら……最短距離で西へ突っ切るか、北から迂回するか。鉄道を利用すれば我々の哨戒網にかかりますし、西の『死の谷』は彼らの装備では越えられない。……となると交易路に沿って北、クロウ・リッジ経由ですかね。あの辺りには確か、先住民の潜伏情報も……ふふ」
一瞬でそこまであたりをつけたファビアンは、うっとりとした笑みを残したまま、涙を流す母親に向かって朗らかに告げた。
「正直に話してくれて、ありがとうございました」
あっ気なく振り返ると、背後に控えていた部下たちへ冷ややかに命じる。
「この者たちを拘束しなさい」
折られた指の激痛に耐え、冷たい床を這うことしかできない私の耳に、信徒たちの悲痛な叫びと、彼らを力ずくで押さえつける聖堂騎士たちの荒々しい靴音が届く。
逃げ場のない惨状が広がる中、ファビアンはゆっくりと私の元へ歩み寄ると、膝をついて伏せる私を静かに見下ろした。その顔には、やはりどこまでも優しげな善意が湛えられている。
「連行されて鉱山送りにされたり、縛り首に処されるのはかわいそうでしょう? 袂を分かったとはいえ、元は同じ神の家に属した人々がそんな苦しみを味わう姿は見たくありません」
ファビアンは法衣の懐から美しく輝く銀色のリボルバーを滑らかに抜き出した。そして、私の眉間にその冷たい銃口を押し当てながら告げる。
「ですから私が……あなた方全員をここで救済してさしあげましょう」
ファビアンは清らかな声でゆっくりと祝詞を口ずさみ始めた。
「天主の御名において、この迷える魂に正しき天秤の導きと調和を……。汝の奉仕を讃えん……。主は——」
始まりは静かに。祝詞の詠唱が地下室に響き始めたのと同時に、ファビアンの後方に控える部下たちが一斉に銃の撃鉄を起こした。ガチャリと重なり合う金属音が響き、拘束されて動けない信徒たちへ黒々とした銃口が向けられる。
パン、パン、パン——ッ!
乾いた銃声が次々と谺した。信徒たちの短い悲鳴と、肉が破裂する凄惨な音が絶え間なく交錯する。銃声と悲鳴が混ざり合う狂気の中で、その声は今や朗々と響き渡っていた。
私は静かにまぶたを閉じる。
頭の中に浮かぶのは、ここを旅立った二人の姿だ。不器用だが根は優しいあの男と、青銀の瞳を持った健気な少女。あの二人は今頃、どこかの空の下、無事でいるだろうか。
どうか、この狂信の刃が届かぬ果てまで逃げ延びてくれ——そう切に願いながら、二人へ向けた最期の祈りを捧げようと短く唇を動かした。
「主のご加護が、あの二人の足元に——」
言い終える前に、祝詞の最後のフレーズを紡ぎ終えたファビアンの指が、迷いなくその引き金を絞り切った。
ヤンデレタグはこの人のためにつけていたという