西部劇×ファンタジー ~長耳の不愛想娘と西へ旅する~ 作:ぬんぬ
私はソフィの背から滑り落ちるようにして飛び降り、地面に倒れたダスティの胸にすがりついた。土気色に変わった彼の顔。震える手で鼻先に触れると、微かだけれど確かに息をしている。彼に宿る命の火はまだ消えていない。
安堵しかけた私の目に、彼の右肩の傷が映った。とめどなく流れる血は、彼の服も、赤土の地面も、べっとりと赤黒く染めている。このままじゃ、本当に死んでしまう。
「ダスティ……助ける。絶対」
震えて、ひび割れた声が思わず口から漏れた。
私は血まみれの彼の傷口に両手を直接押し当て、目を閉じた。ゆっくりと息を吐き、胸の奥にある命石の脈動に意識を繋ぐ。小さく詠唱すると、首筋の銀藍色の紋様が熱を帯びて青白く光り始めた。
魔法でこんなに深い傷を塞ぐのは初めてだ。マナを練り上げ、指先を通じてダスティの銃創へと無理やり流し込む。
——ドクン。
身体の内側から、心臓を抉り取られるような痛みが走った。
アルカの民が使う癒しの力。それは何でも治せる万能の奇跡じゃない。私のマナと生命力——『命の削りかす』を相手に注ぎ込む、等価交換の力だ。
強烈な悪寒が背筋を駆け上がる。指先から体温が急激に奪われ、歯の根がカチカチと鳴り始めた。
だけど、引き換えにダスティの右肩の傷口が微かに蠢き、千切れた肉と血管が無理やり塞がっていく。やがて酷い出血が止まり、彼の呼吸がわずかに深くなった。
それでも、ダスティが目を覚ます気配はない。傷口は塞がっても、失われた血や体力までは戻らないからだ。彼は熱を持った体を横たえたまま、深い意識の底へと沈み込んでいる。
『予定してたスカル・メサを通るルートは……ダメだ……。追手が想定しにくい別ルート……あいつらの目を眩ますには……それしか……』
気を失う直前、ダスティが絞り出した言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
背後を振り返る。荒野の向こうに、まだ砂煙は見えない。それでも、ダスティに異常な執着を見せるあの男——ファビアンが、どこまで迫っているのかまるで予測がつかなかった。
『あなたの魂は、必ず僕に救済される定めにあります!』
耳の奥にこびりつく、あの場違いに明るい声。あんな狂った男にダスティを渡すわけにはいかない。
「わたしが、別の道、選ぶ。……絶対に、ダスティを守る」
私はふらつく足で立ち上がった。首筋の紋様は色褪せ、目眩が脳を揺らす。吐き気を無理やり飲み込んで西の地平を見据えた。
普通の道では追いつかれる。それなら、常識を捨てるしかない。
この地に生きる者たち皆が忌み嫌う場所。私自身ですら、かつてダスティに通り抜けることを否定した場所。
『死の谷』——南西に広がる広大な岩塩地帯。
あらゆる生命を拒絶する『塩の海』を越える。まともな人間なら選ばない道だからこそ、狂人——ファビアンの予想を超えることができる。生き延びるためには、自ら死の懐へと飛び込むしかない。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
死の谷。
見渡す限り真っ白な死の世界。大地を覆い尽くす分厚い塩の層が、狂ったように日光を反射している。その眩さと熱に上下の感覚すらおぼつかない。目につく範囲には、水源はもちろんのこと動植物の姿も一切ない。
私たちは巨大な岩塩のクレバスの奥、わずかに落ちた濃い青の影の中に身を潜めていた。肌を焼き、体内の水分を一瞬で蒸発させる太陽から逃れるため、夜を待つしかなかった。
水が必要だった。ソフィは荒い息を吐き、息をするたびに肺がヒューヒューと鳴っている。ダスティは高熱にうなされ続けている。風走りの里で補給した水筒もとうに空っぽだ。
私は這いつくばるようにして、湿り気のある地面を探し、窪みを作るとダボダボの革コートを脱いでテントのように被せる。
コートの内部に両手を差し入れ、枯れかけたマナを無理やり命石から引き出す。
右の掌から熱を放ち、泥塩の地面を温める。左の掌からは冷たい風を生み出し、コートの裏側を冷やす。これでわずかだが、水を得られるはず。
地面から立ち上った蒸気がコートの裏地で結露し、水滴となって窪みの真ん中に置いた革水筒へと滴り落ちていく。
ポタリ、ポタリ。
水滴の落ちる音が響く。微かな風と熱を生むだけの、普段ならなんてこともない魔法だが、マナが枯渇し、生命力にも乏しい今の私には大きな負担だ。
夜を待つ間も、命石の痛みと酷い頭痛に耐えながら水を集め続けた。だが、手に入ったのは三、四口で飲み干せるほどのわずかな水。
それを、慎重にダスティのひび割れた唇に含ませる。彼は無意識にそれを飲み下し、苦しげな呼吸を繰り返した。
日が沈むと、世界は嘘のように姿を変えた。
日中の殺人的な熱が引き、今度は骨の髄まで凍りつくような極寒が這い寄ってくる。
広大な塩の平原は巨大な鏡のように頭上の星々を映し、まるで夜空そのものを踏みしめているような錯覚に陥った。残酷なほどに美しく、絶対の静寂に満ちた幻想の海。
「ソフィ、歩く。もう少し、頑張って」
私は手綱を握り、苦しげに頭を下げるソフィの首を撫でた。
夜の間にも、少しでも水を集めなければならない。私は歩きながら、風の魔法を編み上げた。
岩塩の柱に手をかざし、そこから熱が夜空へ逃げるよう、魔法でその働きを強めていく。柱の表面はみるみる冷えていった。
やがて、周囲の空気に含まれる目に見えない水分が、冷えきった岩塩の表面に集まり始める。小さな水滴は瞬く間に凍りつき、白銀の霜となって柱を覆っていった。
私は狩猟ナイフの背で霜をシャリシャリと削り落とし、布で受け止めた。わずかな体温で溶かし、一滴一滴、絞り出すように水筒へと集めていく。
昼間よりは少し多め。それでも二人と一匹を生かすには、まったく足りていなかった。
一口だけ。私が倒れるわけにはいかないから。水筒に口をつけかけ、ふと思う。
私は、本当にこれを飲み干さずにいられるだろうか。
すべてを飲み干してしまいたいという欲望を振り切り、私はソフィの口元とダスティの唇に水を注いだ。自分の分は、最後に残ったほんの一口だけだった。
水分不足とマナの枯渇により、幻覚が見え始めていた。足元に広がる星空の底から、もう会えないお母さんが手招きしているような錯覚。
ダスティの温かい手が、私を引き戻してくれることもない。たった一人でこの絶対の静寂に取り残されたような心細さが、寒さよりも深く骨身に染みた。
それでも、歩かなければならない。この死地を越えなければ、私たちに明日はないのだから。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
時間の感覚が、もう完全になかった。
また東の空が白み始め、夜の幻想が少しずつ終わりを告げようとしている。星空の鏡が色褪せ、再び灼熱の白い地獄が目を覚ます時間だ。
果てしなく続く白い海の真ん中で、ついに私の足がもつれた。
「あ……」
ひび割れた声が漏れ、ソフィの手綱を握っていた指から完全に力が抜け落ちる。
膝から崩れ落ち、肩から真っ白な塩の地面に叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げ、もう、そのまま立ち上がることができなかった。
鼓動は弱く不規則で、首筋の紋様は黒く焼けこげたようにその色を失っている。命石のマナも体力も、もう残っていなかった。
視界の端に、ソフィの背に乗ったダスティの横顔が見えた。彼の胸は微かに上下している。私の魔法とわずかな水で、彼の命はまだ繋がっている。
諦めたくない。ダスティを守りたい。故郷に帰りたい。
様々な思いが、私の脳裏を駆け巡る。だけど、そんな思いを嘲笑うかのように、身体はまったく言うことを聞いてくれない。このまま太陽が昇り、私はこの白い塩の一部となって朽ち果てるのだろうか。
静寂が降りてくる。意識が遠のきかけた、その時だった。
——ズズン、ズズン。
地の底を震わせるような重低音が、微かな振動とともに背中から伝わってきた。
幻聴?
——ガリガリガリ、バキィッ。
違う。巨大な何かが、分厚い岩塩の層を容赦なく砕き、圧し折るような暴力的な音が近づいてくる。さらに、シューッという甲高い摩擦音と、空気を震わせる熱い蒸気の噴出音。
私は最後の力を振り絞り、首だけを動かして音のする方へ濁った視線を向けた。
朝靄の中、白み始めた地平線の彼方から現れたのは、巨大な鉄の塊だった。
見上げるほど巨大な車輪と分厚い装甲。空に向かって突き出た煙突からは黒煙と白煙が噴き上がっており、帆柱を思わせる構造物も見える。
まるで、旅の途中にダスティから聞いた『大海原を征く船』が、そのまま陸に這い上がってきたかのような、異形の存在。車輪が回転するたびに塩の結晶が爆ぜる。
なんだ、あれ。
私の知識には、あれを形容する言葉が存在しない。正体不明の『陸を征く船』は、私とソフィの数十歩先で、金属を引き裂くような轟音を上げて停止した。
鉄と油の匂いが漂い、マナの波動が瞬く。
ギィィ、と重々しい金属の扉が開く音がした。
足音が聞こえる。誰かが、倒れた私の元へと歩み寄ってくる気配がした。