東の関東一円を牛耳る奴良組の本山へ乗り込み、三代目・奴良リクオの魂に強烈な火をつけてから数日が過ぎた。
鈴鹿山の深奥、人間の侵入を完全に拒絶する険しい峰々と深い霧の向こう側に広がる「悪鬼の都」には、いつもの静寂と、それに相反する底知れない熱気が満ちていた。山そのものを削り出して作られた巨大な石垣、古びた鬼瓦が不気味に光る神木の門、そして数多の鬼火が揺らめく広大な屋敷の敷地内では、一族の者たちがそれぞれの日常を営んでいた。
その本殿の最奥、常に不気味で重厚な妖気が漂う一室で、大嶽丸はどっかと上座に腰を下ろしていた。
真紅と白が入り混じる長い髪を乱暴に掻き上げ、手元に置かれた巨大な酒器を傾ける。その傍らには、いつものように静香が静かに控えていた。白い道着に濃紺の袴姿の彼女は、手入れの行き届いた真剣の柄に手を掛けながら、どこか落ち着かない様子で外の気配を伺っている。
「……どうした?落ち着かない顔をして」
大嶽丸が面白そうに片方の口角を吊り上げながら、静香に声をかけた。
「落ち着かないわけないでしょ。あなたが勝手に奴良組のところへ乗り込んで、派手に暴れてきたせいで、今頃関東の妖怪社会は大騒ぎなんだから。……一体、何を考えてあんな真似をしたのよ」
静香が呆れたようにため息をつく。静香とて妖との関係を継続してきた家系である。大嶽丸はそれを鼻で笑い、豪快に酒を飲み干した。
「退屈しのぎに、東のひよっこがどんな面構えをしてやがるか見に行っただけだ。……だが、結果としては悪くなかったぜ。あいつの眼の奥には、確かに泥を啜ってでも這い上がろうとする『意地』があったからな」
「意地、ね……」
静香がふっと遠い目をする。坂上家の血を引く彼女にとっても、人間の血を混ぜ合わせながら百鬼を背負う半妖の少年・奴良リクオの存在は、どこか他人事とは思えない複雑な共感を呼んでいた。
その時だった。
屋敷の影、光の届かない漆黒の闇のなめらかな揺らぎの中から、一匹の黒い影が音もなく姿を現した。
大口真神の血を引く古き狼妖怪――黒丸である。
その佇まいはいつにも増して厳粛であり、長き年月を生きてきた神獣特有の鋭い金色の瞳が、わずかに緊張の色を帯びて主を見据えていた。
「主」
「ほう……。どうやら、東から面白い風が吹き込んできたようだな、黒丸」
大嶽丸のただならぬ気配の察知に、黒丸は深く頭を下げ、懐から古びた和紙の束を取り出した。それは鈴鹿山の密偵たちが関東および東北の妖怪社会から命がけで持ち帰った、最新の極秘情報が記された密書であった。
「……先ほど、関東の奴良組の領域およびその周辺に張り巡らせた密偵より、早馬の如き早さで一報が届きました」
黒丸の低く響く声が、広間にこだまする。静香も思わず身を乗り出し、その言葉に耳を傾けた。
「続けろ」
「はっ。――大嶽丸様が奴良組の本山を去った後、あの場ですべてを叩きのめされた三代目・奴良リクオは、血にまみれた身体を奮い立たせ、その日のうちに祖父である初代総大将・ぬらりひょんの元へ赴いたとのことです」
「ふむ……。あの場で俺様に叩きのめされた直後に、じじいのところへ駆け込んだか。で、何を言った?」
「『京都へ行く』と、直談判したそうです」
「――っ!」
静香が思わず声を漏らした。
「京都へ? 羽衣狐のいる本拠地に、彼は乗り込むつもりだったというの……?」
「左様です。己の無力さに打ちひしがれながらも、仲間を守るため、そして京妖怪の脅威から目を背けないために、彼は祖父に対して直接、京都への参戦を申し出ました。……だが、当然ながら、百戦錬磨の初代総大将がそれを許すはずもありません」
黒丸は一呼吸置くと、さらに言葉を続けた。
「奴良組の初代――ぬらりひょんは、孫であるリクオの覚悟を認めつつも、その実力の致命的なまでの不足を見抜いていました。このまま京都へ行けば、一瞬で化け狐の餌食となり、犬死にするだけであると。……ゆえに、初代は孫の願いを退け、その場で一つの非情にして絶対的な裁断を下したのです」
「……ほぉ。それが、『遠野送り』ってわけだな」
大嶽丸の口元に、さらに深い笑みの皺が刻まれた。
「はい。――奴良リクオは、京都へ向かうことを禁じられ、その代わりに、日本全国から独自の『畏』と風習を育む妖怪の隠れ里――『遠野』へと送られたとのことです。そこで叩き直され、真の強さを身につけなければ、京都の地を踏むことは許されないと」
黒丸の報告を聞き終えた大嶽丸は、楽しげに喉を鳴らして哄笑した。
「かっかっか! ぬらりひょんの野郎も、甘い顔をしておきながら、やる時はやるじゃねぇか。自分の孫を地獄の釜に放り込むようなもんだが……さて、あのひよっこが遠野の泥臭い修羅場をくぐり抜けて、どう化けるか見ものだな」
だが、静香は眉をひそめ、どこか不安げな表情で黒丸に問いかけた。
「ちょっと待って、黒丸。その『遠野』っていう場所……そんなに特別なところなの? 奴良組の若頭がわざわざ修行のために送り込まれるくらいだから、ただの隠れ里じゃないんでしょう?」
静香の疑問に、黒丸は静かにうなずき、その古くからの歴史について語り始めた。
「――おっしゃる通りです、奥方。遠野という土地は、人間たちの世界で言えば東北の山深い閉ざされた里に過ぎませんが、妖怪の社会において、そこは『特殊な領域』として知られています」
「特殊な領域、か」
「はい。関東一円を一つの強大な組織力と『仁』の絆で纏め上げる奴良組とは対照的に、遠野の妖怪たちは組織に属さず、各々が独立した強烈な『畏』と血統を誇る者たちの集まりです。そこには、日本各地から流れ着いた血の気の多い妖怪や、独自の過酷な環境で生き抜いてきた古き者たちが数多く暮らしています」
黒丸の黄金色の瞳が、遠い記憶を呼び起こすように細められる。
「遠野の妖怪たちにとって最も重要なのは、『どれほど強靭な畏を持っているか』という一点のみです。血筋の良さや、組織の看板など、あそこでは一切通用しません。半妖として生まれた奴良組の若頭が、もし生半可な気持ちで足を踏み入れれば、古くからの妖怪たちに徹底的に叩きのめされ、文字通り『生きては帰れない地獄の試練』を味わうことになるでしょう」
「自分の力不足を思い知らされるだけじゃなく、純粋な『妖怪としての生存競争』に放り込まれるわけね……。彼まだ中学生なんでしょう?少し荷が重すぎるんじゃいかしら」
静香が腕を組みながら呟くと、大嶽丸はふっと鼻で笑った。
「荷が重かろうが何だろうが、自分で背負うと決めたのなら、這いずり回ってでも生き残るしかねぇよ。……甘えを捨て、本当の強さを手に入れる場所としては、遠野は丁度いいスパイスだ」
大嶽丸が不敵に笑ったその時、ふと何かを思い出したかのように、黒丸の表情がわずかに曇った。
そのいつもは微動だにしない神獣の顔に浮かんだ「気まずさ」と「疲労の色」を見逃さず、大嶽丸は怪訝そうに眉をひそめた。
「ん? どうした黒丸、歯切れが悪いぞ」
「いえ……実は、報告はそれだけではないのです」
「まだ何かあるのか?」
「……えぇ。密偵からの情報によれば、現在の遠野には、ただ地元の妖怪たちがいるだけではありません」
黒丸は一度言葉を切り、深い、まるで胃の痛むようなため息を吐き出してから、こう告げた。
「……遠野には現在、鈴鹿山から遠く離れたその地に、あの方がいらっしゃっています」
「あん?」
「――弟君の、『朱羅(しゅら)』様が」
その名前が飛び出した瞬間、広間の空気がピタリと凍りついた。
静香は「朱羅……?」と首を傾げたが、大嶽丸の瞳はわずかに見開かれ、その直後に狂おしいほどの爆笑へと変わった。
「かっかっかっ!! 嘘だろ、おい……!!」
大嶽丸は腹を抱えるようにして大笑いした。その豪快な笑い声は、屋敷の石垣を震わせ、周囲に控えていた鬼たちをも驚かせるほどの迫力に満ちていた。
「朱羅の奴が……よりによって、あの融通の効かない凶暴な我が愚弟が、今、遠野にいるってのか!?」
「左様でございます……。何でも、気まぐれで東北の妖怪共を荒らし回っていたところ、偶然にも遠野の妖怪たちと一悶着起こし、面白半分にその地に居座っているとか。そこに、あの奴良組のひよっこが送り込まれたというわけです」
黒丸は頭を押さえ、まるで頭痛をこらえるかのように首を振った。
「ちょっと待って、その『朱羅』って人……いったい何者なのよ?」
静香が不安そうな顔で大嶽丸を見上げる。
大嶽丸は涙を拭うような仕草をしながら、その荒々しくも恐るべき義弟の存在について、愉快そうに語り始めた。
「そうか。アイツがここを旅立ってもう数十年…静香が知らねぇのも無理ねぇか。朱羅とは――俺様の血の繋がらねぇ、だが誰よりも狂気に満ちた『腹違いの弟』よ。奴もまた、鬼としての卓越した武力と、天災を地で行くような圧倒的な破壊衝動の持ち主だ。俺様のように『強者の理』で動くが、俺様以上に我慢がならねぇ気性をしてやがる。気に入らねぇ奴がいれば、種族も身分も関係なく、その場で叩っ斬るまで絶対に手を緩めない厄介代物よ」
「そんな危険な鬼が、今、遠野に……!?」
「我々はお二人が毎日のように争われるおかげでさまざまな苦渋を飲まされましたけどね」
「奴の実力は四鬼将に並ぶ。ポテンシャルだけなら俺様と同じ血筋なだけあって計り知れん。下手に俺様以外に相手をさせ何かあってからじゃあ遅いからな」
静香の顔が青ざめる。
遠野の過酷な環境だけでも死に物狂いなというのに、そこに鈴鹿山でも指折りの暴君にして、大嶽丸の弟である朱羅が気まぐれで居座っているのだ。それは修行どころか、一歩間違えれば文字通りの「全滅」を意味していた。
「まぁそれは置いといて。… 最高じゃねぇか!」
大嶽丸は立ち上がり、巨大な体躯を揺らしながら窓の外の夜空を見上げた。その紅い瞳には、これから遠野の地で巻き起こるであろう大混乱を想像しての、底知れない愉悦が宿っている。
「リクオの奴も、本当に災難だったな! よりによって、あの朱羅の奴と遠野の地で鉢合わせる事になるとはな! ぬらりひょんの野郎も、まさか孫を送り込んだ先にあんな厄介な化け物が待ち受けているとは夢にも思っていまいよ!」
「……主、笑い事ではありません。もし朱羅様が本気を出せば、遠野の里ごとあの半妖の小僧は消し炭になりかねません」
「上等じゃねぇか!」
大嶽丸は不敵に笑い飛ばす。
「あいつが本当に東の総大将の器を持ち、京の化け狐どもを叩き潰す男だと言うのなら、あの朱羅の理不尽な暴威を乗り越えてみせろってんだ。……もしそこでくたばるような玉なら、最初から京に行く資格なんてねぇよ」
大嶽丸の言葉には、冷酷なまでの現実主義と、どこか期待を込めたような奇妙な熱量が入り混じっていた。
鈴鹿山の鬼神一味を巻き込み、関東の奴良組、京の妖怪たち、そして遠野の隠れ里――それぞれの思惑と因縁が、目に見えない糸で引き寄せられるように複雑に絡み合っていく。
屋敷の周囲を囲む夜風は冷たく、不気味なほどの静けさを湛えていたが、その深奥で燃え盛る者たちの魂の炎は、確実に世界を揺るがす大嵐へと成長しつつあった。
遠野の地で、半妖の少年・奴良リクオを待ち受けるのは、過酷な試練か、それとも狂気の暴君・朱羅との宿命的な出会いか。
じじいと激しい問答の末、京都へ向かおうとした俺とじじいとの決闘で力尽き、気を失っていた俺――奴良リクオが目を覚ましたのは、見渡す限りの山々と豊かな自然に囲まれた、東北の田舎も田舎、そのまた奥深くにある「遠野」と呼ばれる隠れ里だった。
東京で過ごしていた頃の自分がいかに井の中の蛙であったか、ここに足を踏み入れてからの毎日は、それを思い知らされることの連続だった。里に住む妖怪たちは皆、自身の「畏」を極限まで使いこなし、何百年もの修羅場を潜り抜けてきた熟練の実力者ばかり。半妖として中途半端な力しかなかった俺は、連日のように叩きのめされ、泥を啜りながら、それでも必死に自分の足で立ち上がる方法模索していた。
そんな過酷な日々の中で、イタクや淡島をはじめとする遠野の仲間たちと出会い、互いにぶつかり合い、切磋琢磨してきた。少しずつではあるが、自分の内側にある「畏」の輪郭が掴めかかっている、そんな今日この頃のことだった。
「そう言えば、イタク」
訓練の合間、ふと脳裏に引っかかっていた疑問が口をついて出た。木陰に腰を下ろし、遠野の冷たい風を受けながら隣にいる鎌鼬の少年を見据える。
「あん?」
「お前が前に言ってた『あれ』、どういう意味なんだ?」
俺がその名を口にした瞬間、イタクの動きがわずかに止まった。それは、俺が初めて遠野に連れてこられ、遠野の首領である赤河童の前で目を覚ましたあの日のことだ。
『……「また」かよ。奴の相手で今俺らは手一杯だってのによ』
『まぁそう言うなイタクよ。此度の小僧は「あの聞かん坊」と違い中々芯のある小童よ。見込みが無ければ切り捨てても良い』
『……ふん』
遠野の大将と、イタクたち幹部の間で交わされたあの会話。あの時、イタクが吐き捨てるように言った「またかよ」という言葉の裏に隠された意味が、どうにもイマイチ脳裏にこびりついて離れなかったのだ。
「俺以外にも、誰か此処に来てんのか?」
「……ちっ」
「……イタク?」
「あんましその話聞いてやんなよ、リクオ!」
そこに割って入ってきたのは、天邪鬼の淡島だった。昼は男の姿で、夜は女の姿に変わるという一風変わった気質を持つ妖怪であり、リクオにとっては良き相談相手のような存在だった。
「どういうことだよ、淡島。何か隠して――」
その時だった。
会話を遮るように、遠野の山々のさらに奥、結界の向こう側から、まるで地殻が割れるかのような凄まじい轟音が響き渡った。ズズウン、と空気が震え、リクオの足元の地面が大きく揺れる。
「な、なんだ!?」
反射的に身構え、木刀に手をかけようとするリクオ。だが、隣にいるイタクは微動だにせず、ただ険しい顔で目を伏せ、淡島はふっと息を吐き出して肩を落とした。
「いつもの事だよ」
「いつもの事……? あんな地鳴りみたいな音が日常茶飯事なのかよ。おい、一体何がいるってんだ……この遠野に」
リクオの問い詰めに対し、イタクは相変わらず口を真一文字に結んだまま答えようとはしなかった。すると、呆れたような、しかしどこか諦めを含んだような笑みを浮かべた淡島が、肩をすくめながらリクオに歩み寄る。
「ほれ、イタク。もう隠し通せるもんでもないし、俺の方から答えていいのか?」
「……ちっ。勝手にしろ」
イタクが吐き捨てるように背を向けた。そして、淡島は静かに息を整えると、重い口を開いた。
「……『奴』が遠野に来たのは、お前……リクオ、お前がここへ来る一月ほど前のことだ」
遠野の空気を一変させたその男の来訪は、平和な隠れ里に突如として落雷が落ちたかのような衝撃だったという。
――時は数週間前、遠野の厳重な結界が張られた領域。
その日、里の者たちはいつも通りの静かな日常を過ごしていた。しかし、その平穏は突如として木端微塵に砕き散らされた。
前触れもなく、遠野の外縁を守る重層的な結界が、まるで薄いガラス細工のように音を立てて内側からひしゃげ、ひび割れ、そして――粉々に吹き飛んだのだ。
「な、なんだ!?」
急な異変に気付いた遠野の妖怪たちが一斉に警戒の声を上げ、武器を構えて音のした方へと駆けつける。そこには、ただの侵入者とは到底思えない、底知れぬ妖気を纏った一つの影があった。
現れたの赤みのある桃色の長髪は肩から背中へ流し額からは左右一対の黒く禍々しい角が大きく伸ばした"一匹の鬼"
顔立ちはあくまで少年らしい端正さを保っているものの、口元から覗く鋭い牙と頬から首筋へ走る赤黒い鬼の紋様が、人ならざる存在であることを際立たせている。
無邪気に笑みを浮かべる表情と違いその双眸に宿る光は、理性や慈悲といった概念が綺麗に削ぎ落された、純粋な「殺戮と戦闘への飢え」そのものだった。
男の名前は朱羅(しゅら)。鈴鹿山の暴君にして鬼神・大嶽丸の「腹違いの弟」であり大嶽丸をして戦闘狂と呼ばせる狂気の鬼である。
兄である大嶽丸との終わりのない喧嘩と退屈な日々に心底飽き果てた彼は、「もっと強い奴と殺し合いがしたい」という身勝手で単純な理由から、全国各地の強者たちを求めて放浪の旅に出た。
そしねその途中で耳に入ったのが、人間を寄せ付けず、独自の強烈な「畏」を持つ者たちを束ねる「遠野一派」の噂だった。
「お邪魔するよ。単刀直入に、俺と戦ってくれない?」
朱羅はケラケラと無邪気に笑いながら、遠野の本拠地の重厚な大扉の前に立っていた。いや、正確には「立っている」のではなく、先ほど吹き飛んだ扉の残骸や近くにいた仲間の妖怪達が彼の足元に転がっていることから、一撃で門ごと蹴り飛ばし"仲間の上"に乗っているのだ。
「な、何者だ貴様! 遠野の結界を破るなんて、ただじゃすまねぇぞ!」
「お、鬼か……? あの赤い髪と、この尋常じゃない妖気……この辺の妖怪じゃねぇ!」
駆けつけた遠野の若い妖怪たちが次々と武器を抜き、殺気を剥き出しにして朱羅を取り囲む。しかし、朱羅はその包囲網を見回しても、怯えるどころか、まるで欲しかったオモチャを見つけた子供のように、顔を輝かせてニヤリと笑った。
「ふーん、みんなそこそこイイ顔してんじゃん。でもさ、口ばっかりだったら面白くないなァ」
朱羅が右手を軽く宙に払った瞬間、空間そのものがねじ曲がるような衝撃波が走り、取り囲んでいた妖怪たちの数人が理由も分からず吹き飛ばされた。
「っ……なんだ今の……!?」
「手加減してよ、これでも結構楽しみにして来たんだからさ。――ねぇ、俺に勝てたら、ここにきた理由も、俺が何者かも全部教えてあげるよ。てか、早くやろうよ」
朱羅は首をこきこきと鳴らし、フッとそのあどけない笑みを消し去った。その瞬間に放たれたのは、周囲の空気を凍りつかせ、呼吸すら困難にさせるほどの、悍ましいまでの殺気を織り混ぜた純度100%の妖気だった。それは、個人の怒りや恨みといった感情的なものではない。ただ「相手をいかに美しく、効率よく破壊し尽くすか」という、本能に根ざした暴力の津波だった。
「……やらないってんならさ、――全員、”殺すよ?”」
その一言と共に、地獄の釜の蓋が開いた。
ここから始まったのが、遠野の歴史においても異例中の異例である、遠野一派総がかり対朱羅による「三日三晩に及ぶ死闘」だった。
最初に飛び出したのは、鎌鼬のイタクだった。彼の得意とする神速の斬撃は、空間を切り裂き、いかなる強敵をも一瞬で切り伏せる遠野の誇る鋭利な刃。しかし、朱羅はその刃の軌道を指先一つで弾き飛ばし、信じられない速度でイタクの懐へと潜り込んだ。
「っ……速い……!」
イタクが冷汗を流しながら後方に跳び退く。紙一重で致命傷を免れたものの、纏っていた衣服が綺麗に裂けて血が滲む。
「へぇ、キミが一番面白そうだね! もっと楽しませてよ!」
朱羅の攻撃は止まらない。彼の戦闘スタイルは、型に嵌った武術などではなく、己の肉体そのものを最大の凶器とした純粋な「殺戮の暴力」だった。拳を振るえば風圧だけで岩山が砕け、蹴りを放てば大地が抉れる。遠野の妖怪たちが次々と連携を組み、遠距離からの術や、幻術、物理的な挟撃を仕掛けるが、朱羅はそのすべてを笑いながら叩き潰していく。
昼が夜に変わり、夜が再び朝を迎える。それが三度繰り返されてもなお、朱羅の足取りが衰えることはなかった。むしろ戦えば戦うほど、その瞳に宿る狂気と歓喜の色は濃くなり、まるで底なしの怪物のようになっていく。
遠野の者たちも負けてはいなかった。イタクが満身創痍になりながらも決死の斬撃を叩き込み、他の強者たちが命がけで朱羅の足止めをし、隙を作り出す。仲間を守るため、そしてこの理不尽な暴君を遠野から叩き出すために、里の者たちの「畏」が一つに重なり合っていった。
そして、三日目の夜明け。
限界を超えた総攻撃の最中、イタクの放った捨て身の刃と、淡島たちの変幻自在の奇襲が絶妙なタイミングで重なり、ついに――朱羅の頬をかすめ、その頑丈な肉体に「一筋の浅い傷」を刻み込んだ。
ツウ、と朱羅の頬から赤い血が一筋、鮮やかに流れ落ちる。
その瞬間、戦場全体の時間がピタリと止まったかのような静寂が訪れた。遠野の者たちは息を荒げ、ボロボロになりながらもその場に立ち、朱羅を見据えた。
朱羅は、自分の頬に触れ、指についた赤い血をぼんやりと見つめた。自分の体に傷がついたことなど、あの兄である大嶽丸との喧嘩以来、いつぶりだっただろうか。
静寂を破ったのは、朱羅の口から漏れた、震えるような低い笑い声だった。
「あは……あははははっ! すげぇ……すげぇじゃん、遠野の妖怪ども!!」
それは恐怖や怒りではない。己をここまで追い詰め、自分の肉体に初めて「痛み」と「傷」を刻み込んだ強者たちに対する、心の底からの歓喜と興奮に満ちた笑い声だった。朱羅の背後から膨れ上がった妖気は、先ほどまでの比ではないほどの巨大な圧力となって広がり、遠野の者たちを圧倒した。
「気に入った! 君たちの事すごく気に入ったよ! 兄貴のところみたいにつまらなくない、みんな命懸けで俺を楽しませようとしてくれる!」
朱羅は両手を広げ、満面の笑みを浮かべながら高らかに宣言した。
「だから、決めた! 俺、当分はこの遠野の里に居座るから! 追い出そうったって無駄だからね、殺し合いならいつでも付き合うよ!」
それが、現在に至るまでの経緯だった。
「……ってわけよ。奴がまたいつどこで誰と暴れ出すか分からねぇし取り敢えず今は毎日交代でウチの選りすぐりの実力者達で相手してやってんのよ」
淡島は遠い目をしながら、遠野の奥深く、朱羅が陣取っているはずの方向をチラリと一瞥した。
「あんな戦闘狂の化け物が、よりによって俺たちが暮らすこの里の真ん中に居座ってやがるんだ。イタクが『またかよ』って頭を抱えたくなる気持ち、少しは分かっただろ、リクオ?」
淡島の言葉を聞きながら、リクオは冷や汗を拭い、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ちなみにイタクは1番のお気に入りだから毎日のようにヤラされてんぜ?」
「…通りでいつもキズだらけなのか」
「…ふん…いつかアイツの首を断ち切ってやる」
「まぁそんな悪い事ばっかじゃないんだぜ!」
不機嫌なイタクと違い思い出したかのように淡島は語る
「なまじ奴が化け物みたいに強いお陰で妖怪として天井に届いてたと思っていた俺やイタクも突き抜けたみてぇに更に強く成長出来てる」
「…」
「お前も会ってみるといいぜ?もしかしたら鬼憑や畏の習得にもつながるかも知んねぇぞ」
「…ソイツ…ソイツの名前はなんてんだ?」
覚悟を決めたリクオ
「奴の名は…"朱羅"…かの鬼神の弟だそうだ」