TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
春学期が始まってから数日。
新しく研究室へ加わった後輩たちも少しずつ雰囲気に慣れ、ヴィオレット研究室にも穏やかな日常が戻り始めていた。
週末の研究会。
私たちはいつものように長机を囲み、ヴィオレット先生が持ってきた資料へ目を通している。
「さて」
先生は全員を見回して微笑んだ。
「皆さんも三年生になりました。今年は卒業研究があります」
研究室の空気が少しだけ引き締まる。
三年生にとって、卒業研究は学院生活の集大成だ。
「もちろん途中でテーマを変更することも可能ですが、まずは何を研究したいのか、それぞれ方向性を決めましょう」
先生の言葉に、私は自然とノア様とエレノアへ視線を向けた。
三人とも、考えていることは同じらしい。
「先生」
最初に口を開いたのはエレノアだった。
「わたしは……冷蔵魔道具の研究を続けたいです」
「まだ価格面でも性能面でも改善できる余地がありますし、実際に商会でも需要があることが分かりました」
ヴィオレット先生が満足そうに頷く。
「ええ。実用化まで進めた以上、その先を目指す価値は十分あります」
「ノアさんはどうですか」
「異論ありません」
ノア様は短く答えた。
「現状の魔法式でも改善できる点がありますし、耐久性や保守性も検討できます」
相変わらず簡潔だけれど、卒業研究として取り組む価値を認めていることは伝わってくる。
「ロザモリアさんは?」
先生が私を見る。
「わたくしも、お二人と同じ考えです」
私は頷いた。
「共同研究で得られた成果は、まだ始まりに過ぎません。もっと多くの方へ届けられる魔道具にしたいと思っています」
口にすると、二年生の一年間が思い出された。
休日に三人で冷菓店へ立ち寄ったこと。
冷蔵魔道具がもっと普及すれば、ああいうお店も増えるかもしれないと笑い合ったこと。
実証実験で失敗し、原因を一つずつ調べたこと。
魔力絶縁体を使うという結論へ辿り着き、ようやく商会で成功した日の安堵。
あれだけ時間をかけて育ててきた研究だからこそ、ここで終わらせたいとは思わなかった。
「では」
ヴィオレット先生が穏やかに笑う。
「今年度も冷蔵魔道具の研究を継続することにしましょう」
先生は資料へ一筆書き込み、続いて部屋の後方へ視線を向けた。
「二年生の皆さんも、研究に向けた準備を始める時期ですね」
「それぞれ興味のあるテーマを考えておいてください」
その言葉に、新しく配属された三人も姿勢を正す。
男子学生二人は顔を見合わせながら何か話し合っている。
そんな中、コレットがおずおずと手を挙げた。
「あの……先生」
「はい」
「その……お願いがあるのですが」
ヴィオレット先生が優しく促す。
「遠慮なくどうぞ」
コレットは一度私の方を見て、それから意を決したように口を開いた。
「わたし……今年は、自分の研究テーマを決めるよりも」
少しだけ頬を赤く染める。
「お姉さまのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか」
私は思わず瞬きをした。
「わたくしの、ですか?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
「冷蔵魔道具の研究をもっと近くで勉強したいです」
「それに……」
少し照れたように笑う。
「お姉さまから、たくさん学びたいんです」
その真っ直ぐな視線を受けて、私は少し困ってしまう。
嬉しくないわけではない。
むしろ、そう言ってもらえることは本当に嬉しい。
けれど、一つだけ気になることがあった。
「コレット」
私はできるだけ穏やかな口調で問いかけた。
「自分の研究は、本当にいいのですか?」
「学院へ来たのは、ご自身の夢を叶えるためでもあるのでしょう?」
「わたくしのお手伝いだけでは、もったいないような気がします」
コレットは少しだけ考え、それから静かに首を横へ振った。
「いいえ」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「わたしにとって研究者を目指すきっかけは、お姉さまでした」
「だから今は、お姉さまがどんなふうに考えて、どんなふうに研究を進めているのか、それを一番近くで学びたいんです」
一息置いて、小さく笑う。
「きっと、その方が将来のわたしの研究にも繋がると思います」
私は返す言葉を探した。
誰かの背中を追いかける。
その気持ちは、私にも覚えがある。
幼い頃の私は、ヴィオレット先生のような研究者になりたいと願っていた。
だからコレットの言葉は、理屈ではなく実感として理解できた。
「ヴィオレット先生」
私は先生へ視線を向ける。
「助手として受け入れてもよろしいのでしょうか」
先生は柔らかく頷いた。
「もちろんです」
「研究とは、自分一人だけで進めるものではありません」
「誰かの研究を間近で見て学ぶことも、大切な経験です」
そしてコレットへ向き直る。
「ただし、助手だからといって言われたことだけをするのではなく、自分なりの考えを持ちなさい」
「疑問があれば質問し、改善案があれば遠慮なく提案すること」
「それが研究助手です」
コレットはぱっと表情を明るくした。
「はい!」
「ありがとうございます!」
そして勢いよく私へ向き直る。
「お姉さま、これからよろしくお願いします!」
あまりにも嬉しそうな笑顔に、私まで自然と笑みがこぼれてしまう。
「こちらこそよろしくお願いします、コレット」
「一緒に頑張りましょう」
「はい、お姉さま!」
その返事に研究室の空気が少し和らぎ、ヴィオレット先生も満足そうに頷いていた。
卒業研究という新しい目標。
そして、新しくできた後輩。
今年は去年以上に忙しくなりそうだけれど、不思議と不安よりも楽しみの方が大きかった。
その日の午後。
卒業研究の方向性が決まると、研究室はいつもの落ち着いた空気へ戻っていた。
「お姉さま」
すぐ隣から遠慮がちな声がする。
「こちらの補助構文なのですが……」
コレットが魔法式の写しを両手で抱え、私の机の横へ立っていた。
「この構文は、どうして必要なのでしょうか」
私は図面へ目を向ける。
「いい質問ですね」
椅子を少し横へずらした。
「こちらへどうぞ。一緒に見ましょう」
「はい」
コレットは嬉しそうに隣へ腰掛ける。
私は魔法式の流れを指先でなぞった。
「ここは安全性を高めるための補助構文です」
「以前の魔道具は環境魔力の変化へ対応するため、こうした補助構文をたくさん入れていました」
「ですが」
私は少し先を指す。
「共同研究では、この部分を整理して効率を上げました」
「代わりに魔力絶縁材を使うことで、外部からの影響を抑えています」
コレットは熱心に頷きながら、一つ一つ書き留めていく。
「なるほど……」
「魔法式だけではなく、素材でも補えるんですね」
「ええ」
「研究は魔法式だけを見ていても完成しません」
「素材や加工方法も含めて考える必要があります」
「はい!」
返事だけでなく、瞳まで輝いていた。
本当に研究が好きなのだろう。
その様子を見ていると、幼い頃の自分を見ているようで少しくすぐったい。
「あの……」
コレットが照れたように笑う。
「お姉さまは、やっぱり優しいですね」
「え?」
「質問しても、全部丁寧に教えてくださいます」
「わたし、もっと頑張ります!」
私は思わず苦笑した。
「わたくしも、先生や先輩方に教えていただいてきましたから」
「今度は、わたくしが教える番なのでしょう」
その言葉を口にすると、不思議な実感が湧いてくる。
二年前。
私は教わる側だった。
今は教える側になっている。
学院で過ごした時間は、思っていた以上に長かったのだ。
◇
夕方。
研究が一段落し、私たちは休憩用の丸テーブルへ集まっていた。
エレノアが紅茶を飲みながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
「王都でも流行病が増え始めているそうです」
「流行病ですか?」
私はカップを置く。
「ええ」
「父から手紙が届きまして」
「商会でも薬品や保存容器の注文が急に増えているそうなんです」
コレットが少し不安そうな表情になる。
「環境魔力濃度の影響なのでしょうか」
その問いに、ノア様が静かに首を横へ振った。
「そうとも言えます。ですが、どうやらそれだけではないようで」
研究室の視線が自然とノア様へ集まる。
「薬師組合と王立研究院が共同で調査した結果、原因は細菌による感染症だと判明したそうです」
(この世界では、もう細菌が病気の原因だと分かっているのですね……)
「細菌……」
コレットが聞き慣れない言葉を繰り返す。
ノア様は頷いた。
「非常に小さな生き物です。目では見えませんが、人や動物の体内へ入り、病気を引き起こします」
「この病気を引き起こす細菌が、環境魔力濃度の上昇によって増殖しているのです」
私は興味深く耳を傾ける。
「原因は分かっているのですね」
「はい」
「ですから治療法もあります」
「リュミナ草という薬草から作る薬が効果を示すことも確認されています」
それを聞いて少し安心した。
原因も薬も分かっているなら、大きな混乱にはならないのではないか。
そう思った矢先。
ノア様は少し表情を曇らせた。
「ただ、一つ問題があります」
「リュミナ草ですか?」
エレノアがすぐに尋ねる。
「ええ」
「現在は各地でリュミナ草の需要が急増しています」
「しかも保存により薬効が失われるために、薬を作るのに大量のリュミナ草が必要で、それが余計に需要を圧迫しています」
私は思わず共同研究を思い出した。
冷蔵魔道具。
私たちが改良していたのは、まさに保存のための魔道具だった。
「だから不足しているのですね」
「その通りです」
ノア様は静かに頷く。
「必要な場所へ十分な量を届けられない」
「それが現在、一番大きな問題になっています」
エレノアが考え込むように呟く。
「保存や輸送がもっと簡単になれば……」
「救える人も増えるかもしれませんね」
その言葉に、私は胸の奥が少し熱くなった。
私たちは冷菓をもっと身近にしたい。
そんな何気ない思いから研究を始めた。
もちろん、それも大切なことだけど、暮らしを豊かにする研究には意味がある。
けれど今、目の前には別の可能性が見えている。
冷蔵魔道具は、食べ物だけではなく、薬草や薬を守り、人の命を支えることもできるのかもしれない。
私は試作機の図面へそっと視線を落とした。