雨は夜の輪郭を溶かし、冷たい泥土の上に血の匂いだけを色濃く留めていた。
アクロティ村から少し離れた荒野。つい先刻まで響いていた刃の交わる音は、今はもう絶え間なく降り注ぐ雨音に掻き消されている。
パラスはぬかるんだ地面に膝をつき、自身の腕に巻かれた包帯を静かに押さえた。白い布地にはうっすらと赤い滲みが広がっているが、幸いにして傷は浅い。彼女は痛みよりも、衣の裾がずれて左足首の鉱石病の痕跡が他者の目に触れぬよう、慎重に布を整えることへ意識を割いていた。
「浅い傷ですね。これなら明日の祭祀にも支障は出ないでしょう」
努めて平静な声で言うパラスに対し、数歩先で無造作に自身の刃を拭っていた大柄な影が、低い声で応じた。
「前置きが長い。血が止まったなら立て。次の追手が来ない保証はないぞ」
彼はサルカズの傭兵だった。パラスが私兵として雇い入れたこの男は、感情の起伏を滅多に見せず、常に生き残るための最短の行動だけを選択する。傭兵は足元に転がっている殺し屋の死体から、血に濡れた荷物を探り当て、中から一枚の破れた書状を引っ張り出した。
雨水でインクが滲みかけていたが、そこにははっきりと標的の特徴が記されていた。
「逃走兵の処分依頼、か。……あのサルゴン出身のクランタ兵。少し前にあんたが飯とコンパスを持たせて追い払った奴、あいつの首に懸かった賞金だ」
傭兵の言葉に、パラスは顔を上げる。
「追い払ったのではありません。彼女は自らの意志で、自らの道を選んだのです。罠だと疑いながらも、最後には自分の行き先を自分で決めた。その迷いを断ち切った彼女を、私は一人の勇士と呼びたい」
パラスの脳裏に、包帯を巻き、食事を与えたあの不器用なクランタ兵の背中が蘇る。彼女が去っていった方角は、果てのない荒野だった。それでも、手渡したコンパスが指し示す道を、彼女は自分の足で歩み始めたのだ。
傭兵は鼻を鳴らした。
「裏切られて逃げ、運良く生き延びただけの兵士だ。勇士なんて大層なもんじゃない」
「ただ運が良かった、逃げただけだと……あなたは彼女の命の重さをそう切り捨てるのですか。絶望に呑まれず、再び立ち上がり明日を選ぶことが、どれほど気高い意志を必要とするか。生き延びたというその一事だけで、彼女の選択は称賛されるべきなのです」
「あんたの演説は耳障りがいいが、現実の刃は言葉じゃ止まらん」
傭兵は書状の端に捺された印を見つめ、短く切って捨てた。
「この殺し屋が持っていた雇用契約の印章……国境の傭兵市場で使われる印章と同型だ」
「それが、何か?」
「ここ最近、この地方に流れ込んでくる傭兵の数が妙に増えている。単なる賞金稼ぎや野盗の類じゃない。もっと組織的な金が動いている匂いがする。……気を引き締めろ、祭司。何か来るぞ」
傭兵が視線を向けた暗闇の先から、泥を跳ね飛ばす足音が近づいてきた。ランタンの灯りが揺れ、雨合羽を着たアクロティ村の使者が息を切らして駆け込んでくる。
「祭司様! ご無事ですか!」
「ええ、この通り。案ずることはありません」
パラスは立ち上がり、いつもの穏やかな、人々に安心を与える微笑みを浮かべた。
「皆は無事ですが……あの、先ほどの旅人の方は?」
使者が周囲を見回し、殺し屋の死体に怯えたように肩をすくめながら尋ねる。
「彼女なら、すでに自分の選んだ方角へと進んでいきましたよ。私たちが引き留めるべき旅路ではありませんでしたから」
パラスがそう答えると、使者は少し安堵したような、しかし別の不安を抱え込んだような複雑な表情を見せた。
「そうですか……。実は、急ぎお伝えしなければならない事態が起きたのです」
使者は息を呑み、雨音に負けないよう声を張り上げた。
「隣村の穀物庫が何者かに焼かれました! サルゴン辺境の一部部族と、戦闘停止の話し合いをするという機運があったのですが……この襲撃のせいで破談になりかけています。サルゴンの騙し討ちだ、復讐すべきだと、若者たちがいきり立って……!」
パラスの表情から、ふっと微笑みが消えた。
百数十年に及ぶサルゴンの占領。そして中央が撤兵した後も続く、辺境勢力との血みどろの国境紛争。パラス自身も、サルゴン人によってもたらされた数え切れないほどの死と悲鳴を記憶している。焼かれた傷、切断された手足、仲間を庇って死んだ者たちの顔。憎悪は今も彼女の胸の奥底で燻り続けている。
だが、ここで憎悪に身を任せれば、明日の子らもまた同じ墓穴を掘ることになる。
「……報復の連鎖は、何も生み出しません。私たちはもう十分に血を流しました」
パラスは毅然とした声で言い放った。その声には、単なる祭司の慰めを超えた、人々を導く確かな響きがあった。
使者は深く頷き、懐から防水布に包まれた記録板を取り出した。
「本日の戦闘記録を残さねばなりません。祭司様と……護衛の方のお名前を」
使者が羽ペンを構え、傭兵の方を向く。
「俺の欄は空けておけ」
傭兵は短く答えた。顔色一つ変えず、記録に名を残すことを明確に拒絶する。
「しかし、それでは後世に……」
使者が戸惑うのを見て、パラスが間に入った。
「名乗らぬというのなら……では、『今夜ここに立ったサルカズの勇士』とだけ、記しておきましょうか」
彼女は少しだけ口角を上げ、傭兵の反応を伺った。名がなくても、その行いは残すべきだと彼女は考えている。しかし傭兵は呆れたように息を吐いた。
「勇士は余計だ。ただの『サルカズ傭兵』でいい」
「ふふ、謙遜を。ではそのように」
パラスは使者に目配せし、記録板をしまわせた。そして、暗い雨空の向こう——戦火の絶えない国境地帯へと視線を向ける。
「決めました。アクロティ村だけではありません。周辺の村落の代表をすべて集めます」
「祭司様?」
「これ以上の無意味な死を増やさないために、私たちが話し合いの場を設けるのです。疲弊した農民も、復讐を望む者たちも、同じ場に座らせなければなりません」
パラスの宣言に、使者は驚きに目を見開いた。それは一介の村の祭司が背負うには、あまりにも大きすぎる責任だった。
傭兵は彼女の背中をじっと見つめ、やがて低い声で吐き捨てた。
「……おい。それは、祭司の仕事じゃないだろうが」
しかし、彼はそれ以上反対しなかった。パラスが振り返るよりも早く、傭兵は自らの得物を担ぎ直し、周囲の地形を検分し始めていた。
「周辺から代表を集めるなら、西の谷道と北の尾根に監視を置く必要がある。見張りのシフトを組み直す。あんたは引っ込んで怪我の具合でも見てろ」
文句を言いながらも、彼がすでに自分が生き残る前提——つまり、パラスの無謀な計画を警護する前提で思考を動かし始めていることに、パラスは気づいていた。
「頼もしいですね」
パラスは雨の中で、小さく、しかし確かな声で言った。
「だから、そういう大層な言い方はよせと言っている」
傭兵は振り返らないまま答え、暗闇の中へと歩き出した。
火の消えない夜。それでも、絶望と憎悪の泥土の上に、新たな選択の種が蒔かれようとしていた。