証人と認証台帳が奪われ、裏門でニコスが死んだという報せは、夜明けと共にアクロティ村を絶望の底へと突き落とした。
「やはり罠だったんだ! サルゴンは最初から我々を皆殺しにするつもりだ!」 「会談は中止だ! 今すぐ防衛の陣形を組み直せ!」
広場に集まった村人たちはパニックに陥り、怒号と悲鳴が入り乱れていた。ニコスの母親が戸板の脇に座り込み、声を上げずに泣いている。その姿が、人々の怒りをいっそう研ぎ澄ませていた。
「祭司様! 祭司様のお言葉を!」
誰かがそう叫び、広場の視線が一斉に指令所の天幕へ集まった。
パラスは天幕を出た。そして、いつものように壇上へ上がり、いつものように権杖を掲げ、いつものように語り始めた。
「昨夜、私たちは一人の若き戦士を失いました。彼は最後まで門を離れなかった。あの折れた槍は——」
そこまでだった。
「うおおおおッ!」
言葉が終わるより早く、広場が咆哮した。若者たちが槍の石突きを地面に叩きつけ、老人までが拳を突き上げている。
「あの槍の仇を取れ!」 「祭司様がお認めになった! ニコスは英雄だ!」 「サルゴンへ! 今すぐ討ち入りだ!」
パラスの喉が凍りついた。
彼女は復讐を命じてなどいない。折れた槍を、悼むための言葉として掲げただけだ。だが、群衆が受け取ったのは旗印だった。あと二言、いつもの調子で美しく続けていれば、この村は今日のうちに国境を越えていただろう。誰も止められない。止められる者が、この村には一人もいない。
そして、それを作ったのは自分の口だ。
パラスは掲げていた権杖を、静かに下ろした。 言葉の途中で指導者が黙ったことに、群衆がざわめき、やがて不審の色を帯びていく。
「祭司様……?」 「なぜ、お続けにならないのです」
パラスは何も答えず、壇上を降りて天幕へ戻った。
***
小半刻の後、再び天幕が開いた。
広場が水を打ったように静まり返る。 村人たちが驚いたのは、彼女の登場そのものに対してではなかった。その姿があまりにも無防備だったからだ。
普段の彼女は、祭司としての純白の衣の上に、輝くようなミノスの防具を身につけ、戦場にあっても決して威厳を崩すことはなかった。しかし今の彼女は、装飾的な鎧や武具を一切外した、薄く簡素な平服姿だった。その顔色は抜けるように白く、足取りもどこか覚束ない。
「祭司様……そのお姿は……」
パラスは権杖だけを杖代わりに突き、ゆっくりと壇上へ上がった。
「先ほどの私の言葉を、取り消します」 パラスの声は、いつものような広場の隅々まで響き渡る朗々たる響きを欠いていた。しかし、その分だけ、飾り気のない真実の重みがあった。
「私は彼を悼むつもりで話し始めました。そして皆さんは、その先を待たずに槍を掲げた。私の言葉には、そういう力があります。これは誇るべきことではありません。危険なことです」
彼女は広場を見渡した。
「そしてもう一つ、皆さんに伝えねばならないことがあります。昨夜、裏門の見張りを二人から一人に減らしたのは、私です。夕刻に口頭でそう指示し、清書と照合を翌朝へ回した。偽の交代表は、その一行を写して入り込みました。……ニコスをあの門に一人で立たせたのは、私の指示です」
広場が凍りついた。誰かが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「私は今日、勝利を保証するためにここへ来たのではありません。奪われた証人を取り戻し、会談を絶対に成功させるという確約はできない。敵の陰謀をすべて打ち砕き、皆さんを無傷で守り抜くという『神の如き奇跡』を、お見せすることはできないのです」
村人たちの間に、動揺が走った。 彼らがすがりついてきた「勝利の女神」が、自らその神性を否定し、敗北の可能性を口にしたのだ。
「私は女神ではない。皆さんと同じように傷つき、迷い、時に間違える、ただの弱い人間です。……そして、私の間違いで人が死にました」
パラスは息を整え、続けた。 「私は皆さんに、私を信じてほしいとは言いません。私という偶像に寄りかかり、目を塞いだまま嵐が過ぎ去るのを待つのは、もう終わりにしましょう」
彼女は壇上の脇にあった、あの素焼きの壺を指し示した。
「二度目の
パラスは真っ直ぐに人々を見据えた。
「赤は、明日の会談を中止し、村の防衛へ戻る選択。黒は、警備を維持したまま証人と台帳の捜索を続け、代表団に会談継続を委ねる選択です。後者を選んでも武器を捨てるのではない。前者を選んでも復讐を命じるのではない。私を信じるかではなく、皆さんが負える危険を量り、自らの手で決断してください」
広場は、重苦しい沈黙に包まれた。 指導者の威光という麻酔が切れ、突きつけられた現実はあまりにも過酷だった。
パラスは静かに壇上から降りた。 その時、彼女は気づいた。広場の群衆の最後尾に、大柄なサルカズの傭兵が立っていることに。
これまで彼は、常にパラスの斜め後ろ、壇上の影に控えていた。彼女の威光を物理的に補強する「護衛」として。 しかし今の彼は壇上には上がらず、投票権を持つ村人たちのさらに後ろに立っていた。彼らの選択へ口を差し挟まず、ただ警護すべき人々が自分の足で立つかを見届けていたのだ。
村人たちが、一人、また一人と陶片を受け取り、壺へと歩みを進める。 長い時間だった。誰もが己の内の恐怖と憎悪に向き合い、震える手で石の粉を塗った欠片を投じている。ニコスの母親も列に並び、どちらの陶片を握っていたのかは、誰にも見えなかった。
やがて、すべての投票が終わり、開票が行われた。 結果は——再び、僅差だった。
「……会談を、続行します」 開票役の村長が、震える声で宣言した。
黒い陶片。和平への道が、首の皮一枚で繋がった。 村人たちの顔には、歓喜よりも重い責任の影が落ちていた。
***
群衆が散り、広場にパラスと傭兵だけが残された。
「あなたが以前おっしゃった通りでした。便利な神話は、持ち主を食う」 パラスは小さく息を吐き、そして深く頭を下げた。
「謝らなければならないことがあります。私はこれまで、あなたが名前を隠すことを、『英雄の物語に空いた欠落』だとしか見ていませんでした。空白を埋めることこそが正しいのだと、傲慢にも押し付けようとしていた」
彼女は真摯な瞳で、彼を見上げた。 「私はあなたの匿名を尊重します。あなたが望む限り、その名は誰の物語にも縛られない空欄であり続けると、私が保証しましょう」
傭兵はしばらく無言でパラスを見下ろしていた。 やがて、彼はふっと息を吐き、自らの得物を担ぎ直した。
「名前欄は空けろ。だが、仕事の欄は埋めろ。俺はまだ、あんたから契約金を受け取ったままだからな」
その言葉に、パラスは目を見張った。 彼は自分の行いが「無名の傭兵の仕事」として記録に残ることまでは、もう拒まなかったのだ。
「それに、仕事はまだ残っている」 傭兵は村の外の荒野へと視線を向けた。 「証人を連れ去った連中の足跡は雨で消えかけていたが、馬車ほどの重い荷を引いて、サルゴン側の陣地を避けつつ隠れ家へ向かうルートは一つしかない。東の旧採石場に続く谷道だ」
「場所が分かるのですか!?」
「連中が会談を潰すだけなら、証人は殺せば済む。生かして運び、認証台帳まで持ち去ったなら、偽の宣誓書へ印を移し、『ミノスの復讐派に雇われた』と証言させるつもりだ。供述を仕込む時間が要る。今から追えば、まだ間に合う」
傭兵はパラスを振り返った。 「行くぞ、祭司。ただし鎧は置け。谷口には村の斥候を二人置き、退路と荷馬を確保させる。息が戻らなくなったら、その場で引き返す」
「ええ。参りましょう」
***
東の旧採石場。 切り立った岩壁に囲まれた窪地に、数個の天幕が張られ、十数人の傭兵たちがたむろしていた。中央の檻の中には、猿轡を噛まされた偽旗工作の証人がいる。その前の机には奪われた認証台帳と、まだ墨の乾いていない偽の宣誓書が広げられていた。
『予備交渉団襲撃は、ミノス復讐派の命令による』
書面の一節を、兵の一人が証人の耳元で何度も読み上げている。答えを誤るたびに、檻の棒を剣の柄で打った。
そして机の向かいには、剣を吊っていない中年の男が腰かけ、膝の上で小さな帳面を開いていた。彼は証人の答えを聞くたび、羽ペンで短く印をつけている。仕上がり具合を検品するような手つきだった。
「あの帳面の男は」 岩陰から窪地を見下ろし、パラスが囁いた。
「引き抜きの金を持ってきた仲介人だ」 傭兵が低く答えた。 「見張りが四人。焚き火の周りに八人。奥の天幕にも数人いるはずだ。俺が正面から突っ込んで手前の連中を引きつける。あんたはその隙に裏から回り込んで、檻の鍵を壊せ。合図はしない。俺が動いたら数秒遅れて走れ」
「あの男は捕らえないのですか」
「証人と台帳が先だ。欲を出せば両方落とす」
「……承知しました」 パラスは短く答え、手にした権杖の先端にある刃の感触を確かめる。
長い言葉はいらなかった。 傭兵が地面を蹴り、黒い疾風となって敵陣へ飛び込む。 「なんだ!? 敵襲——ぎゃあっ!」
傭兵の大剣が、反応する間もなく見張りの二人を薙ぎ払う。凄まじい膂力と速さ。怒声と共に雇われ兵たちが一斉に彼へと群がっていく。
その隙を突き、パラスは影を縫うようにして裏手へ回り込んだ。 敵の注意が完全に傭兵へ向いている数秒間。彼女は檻の前に滑り込むと、権杖の一撃で南京錠を粉砕した。
「ひっ……!」 怯える証人を支えて引き出し、認証台帳と偽の宣誓書を木箱へ収める。 「こちらへ! 音を立てないで!」
「おい、裏に誰かいるぞ!」 一人の兵がパラスに気づき、剣を振り上げて突進してくる。 パラスが防御の姿勢を取るよりも早く、横から飛んできた短剣が、その兵の肩口に深々と突き刺さった。
「遅いぞ、祭司! さっさと走れ!」 血濡れた大剣を振るいながら、傭兵が怒鳴る。彼は敵の包囲を強引に突破し、パラスの退路を確保するための防壁として立ち塞がっていた。
「退路は確保しました! 離脱します!」
パラスの言葉を受け、傭兵は懐から取り出した煙幕弾を地面に叩きつけた。 激しい白煙が旧採石場を包み込み、敵の視界を完全に奪う。
白煙の中を駆け抜ける間際、パラスは一瞬だけ振り返った。 仲介人は逃げてもいなければ、剣を抜いてもいなかった。彼は帳面を胸に抱えたまま、机の脇に立ち、こちらを——奪われていく証人と台帳を、値踏みするように眺めていた。目が合っても、表情は変わらなかった。
咳き込む兵士たちの声を背に、二人は証人と認証台帳を守りながら谷口まで退いた。待機していた斥候が証人を荷馬へ乗せ、追手を警戒しながら村への道を急ぐ。
村へ戻る頃には日が傾いていた。証人は治療師へ、認証台帳と偽の宣誓書はミノス・サルゴン双方の立会人へ引き渡される。パラスも左足首の熱と呼吸を診られ、翌朝の出発までは寝台を離れないことを条件に、ようやく会談への同行を許された。
寝台に横たわる直前、パラスは記録板を引き寄せ、その日の行動を時刻ごとに書き足した。奪還の経緯の下へ、逃した男の風体と、抱えていた帳面のことも書き加えてから、彼女は灯を落とした。