残火行路   作:釜石

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第10話:命じなかった仕事

荒野に広がるのは、かつてミノスとサルゴンの人々が交易を営んでいたという国境の旧市場の跡地である。

 

崩れかけた石柱と風化した壁が残るその場所は、双方の陣地から等距離にある。中央の取引場は平坦で見通しがよい一方、外縁には崩れた店列と地下貯蔵庫が残っていた。双方の斥候はそこまで検分したが、会場修繕の人夫や中立商人に紛れた者の身元までは、完全には洗い切れなかった。

 

会談の日の朝、空は奇跡のように晴れ渡っていた。 パラスは純白の祭司服を身に纏い、奪還した条約の認証台帳を抱えて、村の代表者たちと共に旧市場へと到着した。サルゴン辺境部族の老交渉人もまた、少数精鋭の護衛を連れて反対側から姿を現す。

 

緊張に満ちた空気が辺りを支配する中、パラスは自陣の最後尾で警戒に当たっていたサルカズの傭兵の元へ歩み寄った。

 

「……ここから先は、あなたを連れていけません」

 

パラスは彼の前で足を止め、まず頭を下げた。

 

「今朝、サルゴン側から追加の条件が届きました。会場の内周にも外周にも、サルカズの傭兵を入れないこと。……昨夜までの偽旗と内通を経て、双方が互いの武装をひとつずつ削り合う形になりました。私は反対しました。代表会議では通りませんでした」

 

「そうか」 傭兵は驚いた様子も見せず、旧市場の外縁へ視線を流した。 「あんたが呑まなきゃ、会談そのものが流れる条件だ。呑むしかないだろうな」

 

「ええ。ですから、今日のあなたには、この旧市場のどこにも持ち場がありません」

 

「なら、俺を切るのか」

 

「いいえ」 パラスは即座に答えた。 「契約は会談が終わるまで。そこは変えません。ただ、会場の外で何をするかは、あなたの判断に任せます。私は指示を出しませんし、報告も求めません」

 

傭兵は初めて、パラスの顔を正面から見た。

 

「分かって言っているのか」 その声は低かった。 「俺はあんたの雇い人だ。今日、俺が国境のどこかで何かを壊せば、壊したのはミノスの祭司ということになる。任せるというのは、そういうことだぞ」

 

「ええ」

 

「切っておけ」 彼は淡々と言った。 「今ここで契約を終わらせて、立会人に見せればいい。そうすれば俺は誰の兵でもなくなる。何が起きても、あんたは背負わずに済む」

 

「それはしません」

 

パラスは首を振った。 「あなたを縛りたいからではありません。……都合の悪いことが起きた時にだけ『あの者は私の兵ではない』と言えるようにしておくのは、あなたを使い捨てにするのと同じでしょう。私はもう、そういう帳尻の合わせ方はしません」

 

傭兵はしばらく黙っていた。それから、外周の崩れた店列の方へ視線を戻した。

 

「……好きにしろ。高くつくぞ」

 

「ええ。承知の上です」

 

「俺がいなくても、警備は持つのか」

 

「持たせます。外周の見張りは二人一組、交代表は清書して読み合わせを済ませました。持ち場と名は、全員に声へ出させて確認しています。……一人で立たせている者は、どこにもいません」

 

傭兵は短く頷いた。 「残金は」

 

「会談が終わってからお渡しします。生きて受け取りに来てください」

 

「死んだら誰が受け取る」

 

「誰も受け取りません。私が墓まで持っていきます」 パラスは表情を変えずに言った。「その方が、あなたは働くでしょう」

 

傭兵は鼻から短く息を漏らした。

 

パラスは一度言葉を切り、旧市場の外——東の斜面へ続く古い糧道の方角へ目をやった。 昨夜のうちに斥候が持ち帰った報告がある。修繕資材を積んだ荷車が、会場のどこにも荷を降ろさぬまま、斜面の陰へ回っていた。荷札の番号は、予備交渉団襲撃の後に押収した徴発札と連続している。 あの荷が届く前に潰せば、敵の波状攻撃は成立しない。だが、ミノスの雇い人がそれをやれば、会談前の先制攻撃になる。まして彼女が命じたと記録に残れば、和平を潰したいすべての者に、口実を一つ配って回るのと同じことだ。

 

「傭兵殿。私は、あなたに——」

 

「言うな」

 

彼はパラスの言葉を途中で断ち切った。

 

「あんたが口にした瞬間、それはミノスの命令になる。命じられた仕事なら、俺は報告する義務があるし、あんたは指示を記録に残す義務がある。会談の卓へ、それを持って座るつもりか」

 

彼はパラスの目を見たまま続けた。

 

「任せると言ったな。なら、任せろ。俺は何も聞いていないし、あんたは何も言っていない。……それだけは、絶対に間違えるな」

 

パラスは口を閉じた。

 

言いかけたのは「あの荷車を潰してほしい」だった。命じれば記録に残る。だから命じない形で頼む。そうやって、都合のいい英雄をもう一度作ろうとしていた。

 

彼はそれを、言わせなかったのだ。

 

「……日没まで、あなたの一日はあなたのものです」 パラスは言い直した。 「会談が終われば、こちらから東の見張り台へ人を出します。落ち合うのはそこで」

 

「覚えておく」

 

傭兵は空の腰袋の紐を締め直すと、短く鼻を鳴らした。

 

「死ぬなよ、祭司。残金を受け取り損ねる」

 

「ええ。あなたもどうぞ、取りはぐれのないように」

 

彼は背を向け、旧市場の瓦礫の向こうへと歩き出した。 その足が向いたのは、村へ戻る西の道ではなかった。パラスは瓦礫の陰にその背が入るまで見送り、それから踵を返して、会談の席へと向かった。

 

***

 

旧市場の中央に置かれた石の机を挟み、パラスと老交渉人が対座する。

 

「よくぞ証人と認証台帳を取り戻してくれた、祭司殿。偽の宣誓書まであれば、少なくとも昨夜の工作を白日の下に晒すことができる」 老交渉人は、パラスの傍らに立つ証人を見据えて言った。

 

「ええ。これ以上の血を流させはしません。さあ、条約の署名を」

 

パラスが認証台帳を提示しようとした、まさにその時だった。

 

「——殺せッ! ミノスの肥獣どもも、裏切り者の部族も、一人残らず皆殺しにしろ!!」

 

外縁の店跡と地下貯蔵庫から、怒声と共に武装集団がなだれ込んできた。前日まで人夫や中立商人を装っていた者たちが、分解して資材箱へ隠した武器を組み上げたのだ。 首長軍の一部強硬派と、彼らに金で雇われた各地の傭兵たちは、ミノス側とサルゴン辺境側の両陣営へ同時に牙を剥いた。

 

「なっ……伏兵だと!? 貴様ら、我々を罠にかけたな!」 サルゴン側の護衛が剣を抜き、ミノス側を睨む。

 

「違う! 我々も襲われているんだ!」 パラスが叫ぶが、混乱の渦中では声は届かない。双方が「相手の騙し討ちだ」と思い込み、あわや同士討ちが始まりそうになる。

 

敵の狙いは明確だった。 条約文書を破壊し、双方の交渉人を暗殺すること。そうすれば和平は完全に潰れ、強硬派と戦争商人たちの利益は守られる。

 

「交渉人殿を守りなさい! 陣形を崩すな!」 パラスは権杖を振るい、迫り来る敵兵を薙ぎ払いながら必死に指揮を執った。しかし、敵の数は予想を遥かに超えていた。しかも、敵陣の後方からは絶え間なく新しい矢束や武器が運び込まれ、波状攻撃が止まない。

 

『このままでは、押し切られる……!』

 

パラスの息が上がり、左足首の結晶周囲が脈打つように痛んだ。老交渉人を背後にかばいながら、彼女は絶望的な数的不利に直面していた。

 

崩れた石段の上に、剣を持たない男が一人立っているのが見えた。膝の上に帳面を広げ、戦況を眺めながら、時折そこへ何かを書き込んでいる。

 

「諦めろ、祭司! お前たちの薄っぺらい和平ごっこはここで終わりだ!」 強硬派の隊長が、巨大な戦斧を振りかざしてパラスに迫る。

 

その時だった。

 

ドドドドドッ!

 

敵陣の後方、補給部隊が待機していた斜面の上が、突如として激しい爆発音に包まれた。

 

「なんだ!? 背後から攻撃だと!?」 強硬派の隊長が振り返る。

 

土煙を切り裂いて現れたのは、巨大な剣を肩に担いだ大柄な影だった。 サルカズの傭兵。 今日の彼には持ち場がなく、命じられた仕事もない。それでも、自らの足で暴力の渦へと戻ってきたのだ。

 

「補給の荷馬車はすべて潰したぞ。矢の補充はもう来ない」

 

彼は悪びれもせず言い放つと、敵の背後から暴風のように斬り込んだ。 命令を受けていない男が、自分の判断で、修繕資材を装った矢束と武器を積んだ荷車の車軸と火薬箱を潰した。指示した者はいない。だが、その男を雇っているのは、この荒野でただ一人、ミノスの祭司だけだった。

 

「なぜ」

 

言いかけて、パラスは飲み込んだ。理由なら今朝、自分が口にしかけて、彼に止められたものだった。

 

「命令はされていない。だが契約の中だ」 傭兵は敵を蹴り飛ばしながら叫んだ。 「請求書は明日あんたに回る。文句はそっちが生き延びてから聞いてやる」

 

「陣形を立て直します! 敵の補給は断たれました、ここからが反撃です!」 パラスの声に、ミノス側の戦士たちが息を吹き返す。

 

石段の上の男は帳面を閉じ、瓦礫の陰へ姿を消した。

 

乱戦の中、パラスは老交渉人を庇いながら前線を維持していた。 ふと見ると、少し離れた場所で、サルゴン辺境部族の若い伝令が、三人の敵兵に囲まれて膝をついていた。

 

『身内を助けるべきか、それとも……』

 

戦場の鉄則から言えば、まずは自陣営の戦力を守るべきだ。 だが、パラスの視界の端で、傭兵が動いた。

 

彼はパラスの元へ駆けつけるのではなく、迷うことなくそのサルゴン側の若い伝令の元へ跳躍し、囲んでいた敵兵を一瞬で吹き飛ばした。

 

「立て! 伝令なら足を止めるな!」 傭兵に襟首を掴まれて引き起こされ、若い伝令は涙目で頷き、安全な後方へと走り出す。

 

パラスは口元に笑みを浮かべ、権杖を握り直した。

 

「おのれ、貴様ら……!」

 

強硬派の隊長が激昂し、巨大な戦斧を振り回してパラスへと突進してくる。その一撃は重く、並の盾など容易に粉砕する威力を持っていた。

 

「下がれ、祭司!」 傭兵が隊長の側面に回り込み、大剣で牽制する。

 

「いいえ! ここは私が!」 パラスは退かなかった。彼女は権杖を両手で強く握りしめ、正面から隊長の戦斧を迎え撃つ。

 

激しい金属音が響き、火花が散る。 パラスの腕の筋肉が悲鳴を上げ、左足首の痛みに膝が揺れる。彼女は正面で受け切ろうとはせず、権杖の柄を滑らせて戦斧の軌道を外へ逃がした。

 

「おおおおおッ!」

 

パラスの権杖の鉤が戦斧の柄を捉え、捻り上げる。隊長の手から武器が落ちた。返す柄で前腕を打たれた隊長はよろめいたが、なお腰の短剣へ手を伸ばす。

 

その腕を、横から滑り込んだ傭兵が肩ごと取り、地面へ伏せさせた。関節を極められた隊長は悪態をつきながらも意識を保っている。傭兵は膝で背を押さえ、手首を後ろで縛った。

 

「生かしておくのですね」 パラスが荒い息を整えながら問う。

 

「殺せば、こいつは『和平派に殺された殉教者』になる。強硬派に新たな神話を与えるつもりか」 傭兵は冷徹に言い放ち、縄の締まりを確かめた。 「生け捕りにして治療し、命令書と補給記録に本人の説明を突き合わせる。尋問は脈が落ち着いてからだ。それが現実的な勝利ってもんだ」

 

「ええ。おっしゃる通りです」 パラスは権杖を下ろし、深く息を吐いた。

 

隊長が捕縛されたのを見て、残っていた傭兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃亡していった。

 

砂埃が晴れた旧市場には、倒れた者たちの呻き声が残った。パラスはすぐにミノス・サルゴン双方へ武器を収めさせ、治療師たちは所属を問わず呼吸と出血の重い者から診た。死者は双方の立会人が特徴と所持品を記録してから収容した。隊長の肩掛け袋にあった命令書と主計印、補給荷車の台帳、押収済みの支払票と偽造文書は、一品ごとに丁寧に封じ、二つの陣営の印を並べて押した。会談はその日のうちには再開せず、共同警備のもと翌朝まで休止された。

 

「外周の斥候を二組出してください」 包帯を巻かれながら、パラスは指示を出した。 「帳面を持った、剣を吊っていない中年の男を探します。生かして連れてきなさい」

 

パラスは顔を上げ、血と泥に塗れた傭兵を見つめた。

 

「……見事な戦いでした、無名の戦士よ」

 

「だから、その大層な呼び方はやめろと言っている」 彼は忌々しそうに顔をしかめたが、その口元にはほんの僅かながら、確かな笑みが浮かんでいた。

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