残火行路   作:釜石

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第11話:相互不可侵

旧市場での激戦から一夜が明けた。負傷者の手当てと遺体の収容を終え、双方の立会人が封印を確かめてから、会談はようやく再開された。

 

強硬派の隊長が携えていた命令書には、襲撃と両代表の殺害を命じる文言と、首長軍の一部隊が用いる指揮印があった。補給台帳の番号は、予備交渉団襲撃後に押収した徴発札、捕らえた雇われ兵たちの支払票、傭兵が確保した引き抜きの前金袋に付いた番号と連続している。そこへ、奪還された偽旗工作の証人の証言と偽造宣誓書が重なった。隊長本人の聴取は治療師の許可を待つ必要があったが、文書と物証だけでも、少なくとも今回の一連の妨害を指揮した経路は互いに照合できた。

 

首長軍の一部強硬派と、彼らと結託した各地の傭兵仲介網。彼らにとって、この辺境地帯は尽きることのない富を生み出す「狩り場」であった。

 

「……言い逃れの余地はないな」

片腕に包帯を巻いた老交渉人が、証拠品の数々を見下ろして重々しく口を開いた。

「我々サルゴン側の強硬派が、そちらの村々を不当に襲撃し、さらには我々辺境部族の和平の機運をも力でねじ伏せようとしていた。……自陣営の加害の事実を、明確に認めよう」

 

老交渉人は深く頭を下げた。それはサルゴン全土を代表する謝罪ではない。今回参加する村落と部族から全権を委ねられた交渉人として、自陣営から出た加害を認める重い謝罪だった。

 

「その謝罪、確かに受け取ります」

パラスは静かに応じた。

 

老交渉人は頷き、それから包帯を巻いた腕を組み替えると、机の端に置かれた焼け焦げた車軸を顎で示した。

 

「では、こちらからも一つ聞かせてもらおう。昨日の朝、東の斜面で荷車を潰したのは、誰の兵かね」

 

天幕の中の空気が変わった。ミノス側の代表たちが、一斉にパラスを見る。

会談の始まる前に行われた先制攻撃である。それをミノスの指揮下の者がやったと認めれば、条約はこの場で流れる。

 

「私の雇い人です」

パラスは目を逸らさずに答えた。

 

ミノス側の代表の一人が腰を浮かせた。パラスは片手だけを上げて、それを制した。

 

「昨日の朝、私はサルゴン側の条件に従って彼を会場から外し、外での判断を彼に委ねました。護衛契約は昨日一日、続いていました。荷車を潰せとは命じていません。……命じてはいませんが、彼を雇っていたのは私です。責めは私が負います」

 

「切っておけば済んだ話だ」

老交渉人は静かに言った。「昨日の朝に契約を終わらせておけば、あんたは何も背負わずに済んだ」

 

「ええ。そうすべきだと、彼自身に言われました」

パラスは頷いた。「使い捨てにするくらいなら、背負う方を選びました」

 

「……だが、あんたは彼が何をするか知っていた」

 

「……いいえ。知りませんでした」

パラスは一度だけ目を伏せた。

「知り得たはずのことを、私は口にしませんでした。それは知らなかったのと同じではないと、私も思います」

 

老交渉人はしばらくパラスを見つめ、やがて短く息を吐いた。

 

「……正直な答えだ。もっとも、あの荷が届いていれば、今頃この席には誰も座っておらん。私も含めてな」

彼は書記に向かって顎をしゃくった。

「今の問答を、一言も削らずに記録へ残せ。そして、この車軸に押された印も併せて記せ。我々の主計部署のものだ。あんたの雇い人が壊したのは、本来こちらが焼くべきだった荷ということになる」

 

老交渉人は指の背で焦げた木を叩いた。

 

「その上で言う、祭司殿。これは貸しではない。次に同じことが起きた時、あんたは同じ答えでは済まん。第四条の共同調査は、あんた方の側へも同じように向く」

 

「承知しています」

 

「それと、もう一つ済ませておこう」

老交渉人は包帯の巻かれた腕を撫でた。

「昨日、あの男は会場へ入るなという我々の条件も破っている。……もっとも、囲まれた私の伝令を引き起こしたのは、その破った男だ。条件の方を取り下げる。書記、そう記せ。あれは昨日限りで意味を失った」

 

「その上で、もう一つある」

老交渉人は再び鋭い眼光でパラスを見据えた。

「和平を結ぶ以上、そちらにも責任を果たしてもらわねばならん。そちらの遊撃隊や復讐派による、我が部族への越境報復も、これを機に完全に停止してもらう。過去の略奪の痛みはお互い様だ。これで帳消しとしようではないか」

 

その「お互い様」という言葉が、パラスの胸の奥底にある憎悪の古傷をチクリと刺した。百二十五年に及ぶ支配と蹂躙の歴史を、直近の辺境での小競り合いと同列に語り、相殺しようとする無神経さ。

 

しかし、パラスの顔に怒りは浮かばなかった。彼女は権杖を静かに地面に突き、毅然とした態度で言い放った。

 

「お言葉ですが、交渉人殿。私たちの流した血と奪われた歴史を、あなた方の痛みと『相殺』するような言い方には、断固として同意できません。私が記憶している百年の怨嗟は、決して帳消しにはならない」

 

老交渉人の顔が強張る。周囲のミノス人たちも、パラスが交渉を打ち切るのではないかと息を呑んだ。

 

「……ですが」

パラスは声のトーンを落とし、深く、静かな響きで続けた。

「昨日までの憎悪を忘れないことと、明日のために槍を置くことは、両立できるはずです。過去を清算するためではなく、未来の子供たちにこの憎しみを背負わせないためにこの合意へ名を連ねるミノスの村々は、自らの意志で越境報復を禁じます。私たちは、ここに名を記したあなた方の土地を荒らさない。それをお約束します」

 

老交渉人はしばらく無言でパラスを見つめていたが、やがて深く、重々しく頷いた。

「立派な覚悟だ、祭司殿。その言葉、信じよう」

 

***

 

書記たちが清書の用意を始めた頃、外周へ出ていた斥候の一組が戻ってきた。

二人がかりで引き立ててきたのは、剣を吊っていない中年の男だった。北の丘で、隊商へ荷馬と護衛を高値で買い付けようとしていたところを押さえられたのだという。

 

「離せ。俺は武器を持っていない。誰も殺していない」

男は縄をかけられたまま、落ち着いた声で言った。

 

パラスは石机の前に立ち、その顔を正面から見た。旧採石場で証人の供述を検品していた男。そして、傭兵に金を運んできた男。

 

「あなたの帳面を」

 

斥候が差し出した擦り切れた帳面を、パラスは受け取って開いた。

日付。地名。人数。単価。前金と残金。支払いを受けた側の頭文字。雇われ兵たちが持っていた支払票と同じ番号体系が、几帳面な字で並んでいる。ページの端には、麦と塩と迂回料の相場が月ごとに書き留められていた。

 

「これは、戦の帳簿ではありませんね。商いの帳簿です」

 

「そうとも」

男は少しも悪びれず、むしろ心外そうに眉を上げた。

「俺は誰も憎んでいない。ミノス人が嫌いでもなければ、サルゴン人が好きでもない。憎しみというのは、放っておいても勝手に増える。仕入れが要らない商品なんだ。俺はそれを右から左へ動かして、手数料を取っているだけだ」

 

彼は縄の中から、器用に顎で帳面を示した。

 

「祭司殿。あんたは今日、俺の商品を一つ潰した。だがな、値札を書き換えただけだ。条約が結ばれれば、条約の抜け道に値がつく。共同調査を始めれば、調査を遅らせる手間賃に値がつく。あんたが越境報復を禁じれば、禁を破りたい連中の仲介料が上がる。……俺を処刑しても構わんよ。半月もすれば、別の男が同じ帳面を持ってこの丘に立っている」

 

天幕の周囲がざわめいた。ミノス側の戦士の一人が剣の柄に手をかけ、パラスの顔色を窺う。

ニコスの折れた槍は、まだ村の広場に立てかけられたままだった。

 

パラスはしばらく帳面のページをめくり続け、それから静かに閉じた。

 

「あなたを処刑しません」

 

「ほう」

 

「殺せば、あなたは『和平派に処刑された商人』になる。あなたの後釜は、その話を売り文句にして値を吊り上げるでしょう。……それに、あなたの首より、この帳面の方がずっと高い」

 

パラスは帳面を老交渉人の前へ置いた。

 

「交渉人殿。条約第四条、共同調査の最初の案件として、この男とこの帳面を扱いたい。双方の立会人のもとで番号を照合し、供述を取り、支払いの経路を洗います。身柄は双方の見張りをつけた上で、判決は今日は下しません」

 

「……初仕事が我々自身の腐敗の摘出とはな」

老交渉人は苦い顔で笑い、それでも頷いた。「よかろう」

 

パラスは男に向き直った。

 

「あなたの言う通り、半月後には別の誰かが来るのでしょう。ならば、その者が来るたびに値が上がるように、私たちは書き足していきます。抜け道が塞がるまで、何度でも」

 

男は初めて、わずかに表情を動かした。呆れとも感心ともつかない顔で、彼は肩をすくめた。

 

「……いい商売相手になれそうだ、祭司殿」

 

***

 

石の机の上で、奪還された認証台帳の印と確認符が、双方の書記によって一つずつ読み上げられた。それと一致する条文を二通の羊皮紙へ清書し、署名後は双方が一通ずつ保管する。

パラスは合意へ参加するミノス周辺村落の代表として。老交渉人は参加するサルゴン辺境村落・部族の全権代表として。それぞれが羽ペンを取り、越境禁止、捕虜・遺体返還、交易路再開、そして共同調査の条項が記された文書に、正式な署名を交わした。

 

『相互不可侵条約』。

それは、一介の村の祭司と、参加部族から全権を預かった交渉人の間で交わされた、ごく局所的な現地合意に過ぎない。効力を持つのも、名を連ねた村々と部族の間だけである。

 

「これで戦が終わったと思うなよ、祭司殿」

署名を終えた老交渉人が、羽ペンを置きながら言った。

「守られた条約だけが条約だ。来月も、来年も、我々は同じ机を出さねばならん」

 

「ええ。次は共同巡回の日程からですね」

 

***

 

条約文書が掲げられ、局地和平の成立が宣言された瞬間、旧市場の跡地には、死者を悼む沈黙ののち、堰を切ったような歓声が広がった。

 

「やった……! 戦いが終わったぞ!」

「祭司様万歳! 我らが村の救世主!」

 

歓喜に沸く村人たちは、口々にパラスを讃え始めた。

 

「勝利の女神よ!」

「ああ、彼女の導きがなければ、我々は今も血を流し続けていただろう! まさにミノスに降り立った勝利の女神だ!」

 

パラスは権杖を高く掲げ、歓声を静めた。

 

「皆の者。私をそのように讃えてくれるのは、この上ない誉れです。ですが、聞いてください」

パラスの声は、透き通るように澄んでいた。

 

「今日、私たちが手にした勝利は、私が一人でもたらしたものではありません。皆さん一人一人が陶片を投じ、自らの足で泥を踏みしめ、その代価まで引き受けて勝ち取ったものです」

 

村人たちは静まり返り、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「そして、その代価には名前があります。裏門で死んだ彼を、『女神のために散った英雄』と呼ぶことを、私は許しません。彼は私の指示で一人にされ、背中から刺されて死にました。それ以上でも、それ以下でもない。……英雄にしてしまえば、私たちは同じ間違いを二度目も許してしまう」

 

広場の後ろで、ニコスの母親が顔を覆った。誰も囃し立てはしなかった。

 

「ですから、碑に彫るのは死んだ者の名にしてください。私の顔ではなく」

 

パラスは広場の隅に積まれた、まだ何も刻まれていない石材へ目をやった。

 

「『勝利の女神』と呼びたければ、旗にそう書きなさい。顔のない旗なら、誰が掲げても構わない。私がいなくなった日にも、誰かが同じ布を掲げられます。……その名をいつまで使うのか、いつ下ろすのかは、明日この村で暮らす皆さんが決めることです」

 

パラスは一度言葉を切った。

 

「私自身、その名を返すべきなのかどうかは、まだ分かりません。今日、決めることでもないでしょう」

 

広場の端でその様子を見守っていた傭兵が、歩み寄りながら実務的な言葉を投げかけた。

 

「悪くない考えだ」

彼は肩をすくめて言う。

「だが、一つ付け加えておく。記録にも伝承にも、あんたの顔や姿形を細かく残すな。特定の個人の顔が残れば、敵は対策を練る。だが『称号』だけが一人歩きすれば、敵は勝手にその存在を恐れ、時には部隊全体が女神に見えて恐怖することになる。実体のない神話は、最高の防御壁だ」

 

その冷徹なまでの現実主義的な補強に、パラスは思わず吹き出しそうになった。

「ふふ、なるほど。神性を返上する話をしていたはずが、防壁の設計図になってしまいましたね。……まったく、あなたはどこまでも傭兵です」

 

「仕事だからな」

 

パラスは腰帯から重い皮袋を外し、彼の手のひらへ載せた。

 

「残金です。生きて受け取りに来ましたね」

 

傭兵はその場で紐を解き、指の腹で金貨を数えた。二度数えてから、袋の口を締めた。

 

「合っている」

 

それだけだった。

 

二人が軽口を叩き合っていると、群衆の奥から、ポツリと別の声が聞こえてきた。

 

「勝利だけじゃないぞ。あの複雑な証拠を読み解き、罠を回避したまさに『知恵の女神』でもある……」

 

その噂はさざ波のように広がりかけたが、パラスはあえてそれを拾い上げず、否定も肯定もしなかった。

 

「さあ、帰りましょう。私たちの村へ」

 

パラスは振り返り、アクロティ村へと続く荒野の道を指差した。

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