相互不可侵条約が結ばれて数週間後。共同巡回が三度、遅滞なく行われ、封鎖されていた東の交易路を最初の隊商が通り抜けた日、アクロティ村の広場はようやく祭りの支度を始めた。
収穫祭であり、若者たちの競技会であり、そして延期されていた喜劇の上演でもある。停戦の祝賀ではなく、条約が実際に動いたことの確認だった。舞台の上では、間の抜けた雇われ兵役が転び、村人たちが腹を抱えて笑っている。
競技会の記録係の席には、片足がない少年が座っていた。走ることも投げることもできない彼は、順位と距離を板に書き取り、勝った者の名を読み上げている。松葉杖は席の脇に立てかけてあった。
その脇当ては布を幾重にも巻いただけのもので、端が擦り切れて芯の木が覗いている。通りかかった傭兵が無言で杖を取り上げ、布を解いて巻き直し、当てる位置を指二本ぶん下げて突き返した。
「え、あの……」 「そこが潰れると、じきに腕が上がらなくなる。二日に一度は巻き直せ」
それだけ言って、彼は歩き去った。片足のない少年は杖を脇に挟み直し、位置を確かめてから、次の競技の名を読み上げた。
広場の一角には、新たに建立された真新しい石碑——「勝利碑」が静かに佇んでいた。 そこには、この過酷な国境紛争で命を落とした戦士たちや、巻き込まれた村人たちのうち、確認できた者の名が刻まれている。名を確かめられなかった者については、その人数と、いまだ照合を続ける旨が別の行に記された。
パラスは石碑の前に立ち、刻まれた名を上から順に指でなぞっていった。指先は、下から三行目で止まった。
その名の隣には、彼の死んだ日付だけ刻まれている。英雄とも、殉教者とも書かれていない。刻む文言を決める時、パラスは自分の指示の経緯を村の記録板から書き写して長老たちに渡し、その上で判断を委ねた。長老たちが選んだのが、この二語だった。
パラスは権杖を胸に当て、黙祷を捧げた。
戦没者碑から数歩離れた場所には、条約締結までの共同作業を記す低い功績板が設けられていた。その最も下の行には、こう刻まれている。 『警護と救助に加わったあるサルカズ傭兵』
そこに個人名はない。「名もなき英雄」といった大仰な称号も刻まれていない。ただ彼がそこにいて、彼の仕事をしたという事実だけが、死者の列へ混ぜられることなく、本人の希望通りに記録されていた。
「……良い碑と、良い記録になりましたね」 黙祷を終えたパラスの背後に、当の傭兵が歩み寄ってきた。彼は祭りの喧騒から少し距離を置くように、広場の薄暗い影に身を潜めている。
「自分の名前がなくてもか?」 「ええ。名前という楔を打たれずとも、あなたの行いはこの村の土に、そして私の記憶に確かに刻まれていますから」
パラスは振り返り、微笑んだ。 「それよりも、仕込みの様子を見に行きませんか。そろそろ頃合いのはずです」
二人は喧騒を背に、広場の裏手にある天幕へと足を踏み入れた。 そこには、条約成立の直後に二人で仕込み、数週間寝かせた木製の小さな発酵樽が置かれている。彼が書き残した「カズデルの秘伝酒」のレシピを元に、アクロティ村で採れた麦と果実を使って初めて仕込んだ酒だ。
パラスは樽の栓を慎重に抜き、柄杓で中身をすくって二つの木杯に注いだ。長期熟成にはほど遠く、まだ少し白濁しているが、試飲できるだけの発酵期間は経ており、強い香りが天幕の中に広がる。
「さあ、私たちの和平と、この村の次の一年に」 パラスが杯を掲げると、傭兵は無言で自分の杯を軽くぶつけた。
パラスは酒を一口含み、ゆっくりと目を閉じた。 「素晴らしい。これは単なる忘却の杯ではありませんね。荒々しい大地の力強さと、長く厳しい冬を耐え抜いた果実の甘みが、まるで幾千の星々が夜空で交わるかのように……そう、これは悲しみを消すためではなく、消えない記憶と共に明日を語るための酒です」
パラスが詩的な賛辞を口にする横で、傭兵は杯の中身を一息に飲み干し、舌打ちをした。
「発酵温度が高すぎたな。二度ほど目安を上回っていたはずだ。それにガス抜きの頻度も足りない。これじゃあ酸味が強すぎる」 「……もう少し、情緒というものを持ち合わせてはくれないのでしょうか」
「配合は、書いてある数字の通りにしたのか」 彼が唐突に尋ねた。
「いいえ。線で消された方ではなく、脇に書き直されていた方に従いました。あちらの数字の方が、この土地の果実には合うだろうと思いましたので」
傭兵は杯を置いた手を、しばらく動かさなかった。
「……そうか」
それだけだった。彼は誰があの数字を書き直したのかを言わず、パラスも尋ねなかった。天幕の外から、喜劇の観客の笑い声が風に乗って流れ込んできた。
***
祭りが終わって、さらに数週間。村が本格的な復興に向けて動き出す中も、傭兵は村を去るでもなく、パラスに新たな雇用を求めるでもなく、ただ「そこにいる」だけの状態が続いていた。
そんなある日、ロドス・アイランドからの返答を持った使者が、極秘裏に村を訪れた。 以前、彼がパラスの許可なく独断で送った問い合わせに続く、追加の案内である。使者との折衝や、医療資料の受け渡しを担当したのは、他でもない傭兵だった。
「ほら、ロドスからの資料だ」 傭兵は分厚い封筒をパラスの机に投げ出した。
パラスは最初、その封筒を睨みつけ、不機嫌そうに唇を尖らせた。 「……まだ、私がロドスへ行くなどと一言も承諾していませんが」
「行くか行かないかはあんたが決めろ。だが、検査も受けずに病状を決めつけたまま村の復興計画を立てるのは、指導者として無責任だ」
その正論に、パラスはぐうの音も出なかった。 彼女はため息をつき、封筒を開けて資料に目を通し始めた。そこには、遠隔情報だけでは病期も予後も判断できないという断りと、ロドスが提供できる検査、感染者向けの治療環境、秘密を守って移動するためのルートが記されていた。受診も移動も、最終的には本人の同意を要する。
「誠実な医療機関のようですね。見てもいない患者に残された命の長さを、紙の上で予言しようとはしない」 パラスは資料を机に置き、痛みの残る左足首へそっと手を添えた。
「ここで症状を隠し、酒と気力だけで日々を継ぐことは、勇気ではないのでしょう。村はすでに、私が寝台にいても共同巡回を続け、条約を守っってる。……潮時のようですね」
パラスは静かに、しかし確固たる意志を持って、村を去る決意を固めた。 「勝利の女神」と呼ばれた旗をアクロティ村に残し、パラスという一人の患者は、自分の意志で診察を受けに行く。
「出発の準備をします。村長には、遠方の神殿へ巡礼に出るとでも伝えておきましょう」 パラスは立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
その背中を見つめながら、傭兵は腕を組んで壁に寄りかかっていた。 「……これで、俺の『事後処理』も終わりだな。あんたの契約は旧市場の翌朝に終わって、金も受け取った。あとはあんたが一人で、その資料のルートを辿るだけだ」
彼はそう言い捨て、天幕を出て行こうとした。 その言葉に、パラスの手が止まる。
「待ってください」
パラスは振り返り、彼の大きな背中を呼び止めた。 かつて彼女は、彼に対して「名を聞かせてください」と何度も求めた。彼の空白を埋め、自分の物語の中に彼を所有しようとした。
だが、今は違う。
「私はあなたに、新しい護衛契約を申し出るつもりはありません。あなたを私の『英雄』として縛り付ける権利もありません」 パラスは真っ直ぐに彼を見据えた。 「名も、過去も、理由も聞きません。ただ私の新しい旅路に、同行する意志はありますか?」
傭兵は立ち止まり、背を向けたまましばらく沈黙していた。 やがて彼は、首だけをわずかに振り返り、短く答えた。
「……その『ロドス』とやらの入り口が、安全だと分かるまでだ」
「ふふっ。相変わらず、期限の曖昧な言い回しですね」
「気が変われば、途中で消えるかもしれないぞ」 「ええ、その時は引き留めません。あなたの道は、あなたが選ぶものですから」
パラスが微笑むと、彼は忌々しそうに舌打ちをして、天幕の外へと出ていった。 足音は五歩ほどで止まり、それきり遠ざからなかった。パラスは荷造りの手を動かしながら、その気配を数えるともなく数えていた。