残火行路   作:釜石

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エピローグ:空欄の書類

アクロティ村を出立するのは、夜明け前の最も暗く冷たい刻限だった。

 

荷物は少ない。数着の衣と、祭司としての権杖、そして無骨な数字と図が並ぶカズデル酒のレシピだけだ。パラスは病状を公にすることなく、また誰に見送られることもなく、ひっそりと村を去る道を選んだ。

 

村の境界を越える直前、パラスは足を止め、広場の方角へと振り返った。 まだ太陽は昇っていないが、広場にはすでに篝火が焚かれ、早起きの村人たちが復興の作業を始めている気配があった。その中心には、先日の祝祭で掲げられた「勝利の女神」の旗が、朝の冷たい風に誇り高くはためいている。

 

旗の下では、若い戦士が槍を手入れしながら、仲間たちと何事か力強く語り合っていた。彼らの顔には、かつてのような絶望や、サルゴンへの盲目的な憎悪はない。その輪の外側には、松葉杖を膝へ横たえた少年が座り、渡された板に人数と持ち場を書き取っている。書き終えるたび、彼はそれを声に出して読み上げ、若い戦士たちが自分の名を返していた。

 

パラスは声をかけなかった。

 

彼らが仰ぎ見る旗に、パラスの顔はない。 そのことが何をもたらすのか、彼女にはまだ分からなかった。ただ、旗が自分の不在だけで倒れるものではないと知り、パラスは目を細めた。

 

「……名残惜しいか」

 

数歩先を歩いていた傭兵が、振り返らずに言った。

 

「ええ、少しだけ」 パラスは正直に答えた。 「私が愛したあの広場で、私だけが柱であり続ける必要はなくなりましたから。……寂しくはありますが、悲しみだけではないのです」

 

「講釈は歩きながらにしろ」 傭兵は無愛想に言い捨てた。 「置いていくと決めたんだろ。なら、振り返るな。後ろを見ながら歩けるほど、この先の道は平坦じゃないぞ」

 

「ふふ、手厳しいですね」

 

パラスは権杖を握り直し、彼の広い背中を追って歩き出した。 東の空が白み始め、二人の足元に長く伸びた影が、荒野の先へと溶けていった。

 

***

 

ロドス・アイランド本艦。 無機質な金属の壁に囲まれた面会室は、アクロティ村の埃っぽい天幕とは対極にある、清潔で冷たい静寂に満ちていた。

 

到着後、まず行われたのは秘密保持下での初期検査だった。パラスは治療同意書へ自分で署名し、発熱と呼吸状態、左足首の結晶周囲を詳しく診られた。この時点で入職の話は出ていない。彼女はあくまで特別な事情を抱えた患者として、治療を受け始めた。

 

それから数週間。 投薬と休養で発熱と息苦しさは落ち着き、病状は継続観察を条件に安定した。パラスはその間、ロドスが感染者へ医療を届ける組織であること、そのために戦場へ赴く者と艦内を支える者の双方がいることを、自分の目で確かめた。傭兵は臨時の訪問許可しか持たず、オペレーターになる気も見せなかったが、彼女の体温、咳、食事、服薬時刻を日時ごとに記録し続けた。

 

そしてパラスは、治療が一段落した日に自ら入職を願い出た。机を挟んで座る二人の間には、そのための書類が何枚も広げられていた。

 

「……書類の代筆までしてくれるとは、至れり尽くせりですね」 パラスは苦笑しながら、傭兵が書き込んだ書類の束を引き寄せた。

 

「あんたは字を書くとき、無駄に装飾を入れる癖があるからな。ロドスの事務方に突き返されるのがオチだ。俺が書いた方が早い」 傭兵は腕を組み、事務的な口調で返した。彼は治療開始からロドスの担当者と何度も記録を照合し、パラスが円滑に治療を受けられるよう手はずを整えていた。

 

だが、パラスは書類の最後の一枚、「配属希望」の欄を見て、ピタリと動きを止めた。 そこには、傭兵の無骨な筆致で『医療部門、または後方支援』と書き込まれていた。

 

パラスは無言のまま羽ペンを手に取ると、その文字の上に横線を引いて打ち消し、横の余白に『作戦部門』と力強く書き直した。

 

それを見た傭兵の眉間が、険しく歪んだ。

 

「……何をしている」

 

「訂正したのです。私の戦場は、後方ではありません」 パラスは顔を上げ、彼の冷たい眼光を真っ直ぐに受け止めた。

 

「ふざけるな」 傭兵の声が、面会室に低く響いた。 「治療に反応したからといって、無理が消えたわけじゃない。医療部も前線任務を無条件で許したわけじゃない。俺はあんたを、検査も受けずに倒れさせないためにここまで連れてきた。すぐ同じ無茶を繰り返させるためじゃない」

 

「治療を受けることと、人々の前に立つことは両立しないとおっしゃるのですか」 パラスの声もまた、静かな怒りを帯びていた。 「私は祭司です。病を隠して命を削るつもりはもうありません。それでも、人々の前に立ち、共に明日を探す役目まで手放したくはない」

 

「……役目だと?」 傭兵は机を強く叩き、立ち上がった。

 

「あんたはまだ、そんな神話の続きを生きようとしているのか! アクロティ村で、その重圧にあれほど苦しんでいたくせに。……俺がミノスであんたを守り続けたのは、あんた自身を別の戦場へ追い立てるためじゃない!」

 

机を叩いた拍子に書類の端が滑り、数枚が床へ落ちた。彼はそれを拾わなかった。

 

「神話の続きではありません」 パラスは静かに首を振った。 「私は、裏門を一人にした夜のことを毎晩思い出します。あの碑に彼の名を刻ませたのは私です。……あれを二度としないために必要なのは、人前から降りることではなく、判断した者が判断の場に居続けることです。判断だけを誰かに預けて、命だけを長く保つ。それが、私に許された使い道だとは思えないのです」

 

「命を保つのが先だ」

 

「あなたは覚えていますか」 パラスは彼を見上げた。 「あの雨の夜。裏切られて逃げてきた、クランタの傭兵がいました。私は彼女に食糧と、コンパスを一つ渡した。……行き先は決めませんでした。彼女が自分で選ぶべきものだったからです。あなたは『逃げて生き延びただけの兵士だ』とおっしゃいましたね」

 

傭兵は答えなかった。

 

「あの時、私が彼女に渡したものを、どうか私にもください。任務の可否は医療部の判断に従います。倒れれば退きます。それでも、希望の欄まで空欄にはしません。……方角は、私に決めさせてください」

 

傭兵は答えず、机の上の書類を見下ろしていた。打ち消された一行と、その脇に書かれた四文字を。 面会室の換気口が、低い音で鳴り続けていた。

 

「そうかよ」

 

傭兵は深く息を吐き、机から手を離した。 その顔からはすでに怒りが引き、感情を深く隠す、いつもの傭兵の顔に戻っていた。

 

「なら、好きにしろ。俺の仕事は、『ロドスの入り口が安全だと分かるまで』だったな。……どうやら、ここはあんたにとって十分に安全らしい」

 

彼は背を向け、迷いのない足取りで面会室の扉へと向かった。

 

「お待ちください!」 パラスは慌てて立ち上がり、彼の背中に向かっていつものように呼びかけようとした。

 

「名もなき勇士よ! あなたの行いは——」

 

だが、パラスはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。 彼を「勇士」と呼ぶこと。彼に立派な「称号」を与えて引き留めること。それは、彼が最も嫌悪した「都合のいい英雄への押し付け」に他ならない。

 

彼との日々の最後を、そんな傲慢な言葉で汚したくはなかった。

 

パラスは権杖を握る手を下ろし、ただの人間として、ただのパラスとして、短く言葉を紡いだ。

 

「……どうか、生きて」

 

扉の前に立った傭兵は、その短い祈りを聞いて、ほんのわずかに肩を揺らしたように見えた。 しかし、彼は振り返らなかった。 何も答えることなく、扉を開け、冷たい金属の廊下の向こうへと歩み去っていく。最後まで、彼の名がパラスの耳に届くことはなかった。

 

バタン、と重い扉が閉まる。 部屋には再び、無機質な静寂だけが残された。

 

パラスはゆっくりと椅子に座り直した。 机の上には、彼が書き残していった書類の束と、あの雨の日に彼が投げ渡した『カズデルの酒』のレシピが残されていた。 その脇に、見慣れない薄い帳面が一冊置かれている。開くと、日付、時刻、体温、咳の回数、食事の量、服薬。装飾のない字で、一日も抜けずに並んでいた。最後の記入は昨日の夕方で終わり、その下は白いままだった。

 

数字で物を考える者は、必ず記録を残す。いつか彼自身がそう言っていた。

 

パラスは帳面を閉じ、レシピを手に取った。消し線の引かれた数字と、その脇に丸みを帯びた筆致で書き直された数字を、指先で一度だけ辿る。誰が書いたのかは、とうとう聞かないままだった。

 

彼女はその羊皮紙を裏返し、インクをたっぷりと含ませた羽ペンを走らせた。 そこには、神話と現実の狭間で彼女が彼から受け取った、一つの問いが記されていた。

 

勝利とは名を石へ縛ることではなく、次の誰かが立てる場所を残すこと——そう呼んでもよいのだろうか。

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総合評価:35/評価:-.--/連載:9話/更新日時:2026年08月07日(金) 05:35 小説情報


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