焦げた麦の臭いが、雨上がりの湿った風に纏わりついている。
アクロティ村から歩いて半日ほどの距離にある隣村。かつては豊かな実りをもたらしていたはずの穀物庫は、無残な黒焦げの残骸と化していた。
パラスは崩れ落ちた壁の前に立ち、煤けた石材の表面を指で静かになぞった。ただの石ではない。そこにはミノスの古い意匠である、月桂樹と戦斧のレリーフの一部が微かに残っていた。
「……古い石ですね。これは元々、この穀物庫の建材ではないのではありませんか」
パラスの問いに、焼け跡の片付けをしていた村の老人が、深く皺の刻まれた顔を上げた。
「祭司様、よくお気づきで。その石は……私の祖父がまだ子供だった頃、サルゴン人に壊された英雄神殿の欠片じゃ」
老人は、焦げた石を愛おしむように見つめた。
「テラ歴九一七年。あの忌まわしいサルゴンの侵攻で、ミノスの神殿は次々と焼かれた。百二十五年に及ぶ支配の中で、古い神々の石は奪われ、奴らの砦や、こうして村の穀物庫を作るために再利用されたのじゃ。……祖父母から聞かされた、古い古い記憶ですがな」
「百二十五年……。ええ、決して忘れられる年月ではありませんね」
パラスは目を伏せ、哀悼を示すように胸の前で手を組んだ。テラ歴一〇四二年の「神殿奪還」によってミノスは実質的な独立を取り戻したが、失われた時間と文化が元通りになるわけではない。
その時、老人の傍らで槍を手入れしていた若い戦士が、忌々しげに地面に唾を吐いた。
「昔話なんてどうでもいい! 中央のサルゴン軍が撤退したって、結局辺境の首長軍どもはこうして略奪に来るじゃねえか! 百年前の恨みより、昨日の夜に俺たちの麦を焼いた連中をどう殺すかの方が大事だ!」
若者の怒声に、老人がたしなめるように首を振る。しかし、若者の瞳に燃える憎悪は、国境地帯に生きるミノス人にとって紛れもない「現在」の感情だった。
パラスの斜め後ろに控えていた傭兵が、若者の槍の穂先を値踏みするように一瞥し、低い声で言った。
「その粗末な槍で復讐に行くつもりなら止めはしない。だが、首長の正規兵とやり合う前に、野盗崩れの傭兵に狩られて野晒しになるのが関の山だ」
「なんだと、このサルカズが……!」
「事実を言ったまでだ。怒りで刃が研げるなら、武器屋はいらない」
一触即発の空気を察し、パラスは静かに二人の間に歩み出た。
「そこまでです。彼の言う通り、怒りに任せた無謀な突撃は、あなた自身の命という最も尊い財産を失うだけです。若き勇士よ、あなたの槍は村を守るためにこそ振るわれるべき。無駄に折ってしまっては、十二英雄も悲しまれるでしょう」
パラスの穏やかで威厳のある声に、若者はバツが悪そうに槍を下ろした。
「行きましょう。まだ、野戦治療所に運ばれた怪我人たちの手当てが残っています」
パラスは傭兵に目配せし、焼け跡から歩み去った。
***
野戦治療所として急造された大きな天幕の中は、血と汗、そして化膿しつつある傷の臭いが充満していた。
「祭司様、こちらへ! この子の足が……!」
村の治療師の悲痛な声に呼ばれ、パラスは迷うことなく奥の寝台へ向かった。そこには、昨夜の襲撃で建物の下敷きになった若い村人が横たわっていた。右脚の膝から下が、どす黒く変色して引き裂かれている。
パラスと治療師は、まず足先の脈と温度、痛覚を確かめた。だが、足先は冷たく、脈は触れず、呼びかけても若者は指一本動かせない。土と木片にまみれた挫滅創は深く、すでに壊死が始まっていた。このまま残せば、出血と感染のどちらにも命を奪われる。
「……麻酔薬の備蓄は?」
「もう、ほんの少ししか……」
「残りを量って使いなさい。煮沸した刃と糸、清潔な布、それから湯を。脚の上部に止血帯を置きます。……切断しなければ、命を失います」
パラスの声には一片の揺らぎもなかった。だが、これは彼女一人で行える処置ではない。泣き叫ぶ家族を別の者に託すと、祭司衣の上へ清潔な治療用の上掛けをまとった。村の治療師が残り少ない麻酔薬を投与し、パラスは脚の上部を締めて時刻を読み上げた。脈が落ちたことを二人で確かめてから、初めて刃を手にする。
乏しい麻酔では痛みを消し切れない。屈強な村人たちが若者の体を支える間、パラスはその額に手を当て、祈るように囁いた。
「恐れることはありません、若き勇士よ。あなたの勇敢な魂は、決してその脚だけにあるのではない。私がここで、あなたの明日への道を繋ぎます」
切断処置の最中、天幕の中には言葉にならない絶叫が響き渡った。
パラスは表情を変えず、治療師の指示を復唱しながら処置を進めた。血管は一本ずつ糸で結び、汚れた組織を取り除き、湯で洗う。圧迫しても滲む一点だけに
数時間に及ぶ手当てを終え、巡回の治療当番へ引き継いだ頃、パラスは静かに天幕の外へ出た。
治療所の裏手、人目のつかない物陰にたどり着いた瞬間、彼女の膝から力が抜けた。
「うっ……、ぁ……!」
パラスは壁に手をつき、胃の中のものをすべて吐き出した。
酸っぱい胃液と、吐き気。何度も何度もえずきながら、彼女の脳裏には先ほどの切断手術の感触と、泣き叫ぶ人々の顔が焼き付いて離れなかった。
脳裏にフラッシュバックするのは、アクロティ村の悲劇だけではない。かつて彼女がこの辺境に足を踏み入れたばかりの頃に見た、サルゴン兵に蹂躙された村々。仲間を庇って串刺しにされたミノスの兵士たち。死者のうつろな瞳。
『*ミノススラング*め……』
声に出さない呪詛が、喉の奥を焼くように這い上がってくる。
「……見事な手際だったな、祭司」
背後から、低い声が降ってきた。
傭兵だった。彼は周囲の死角を塞ぐように立ち、パラスの無様な姿が他の村人に見えないよう、広い背中で視線を遮っていた。
パラスは乱れた息を整えながら、口元を袖で拭った。
「お見苦しいところを。……血の匂いに、少し酔っただけです」
「嘘を吐くなら、もう少しマシな嘘にしろ」
傭兵は腰の革袋から水筒を外し、無言でパラスの足元に置いた。
「サルゴンが憎いなら、憎いと言え。あんたの顔にはそう書いてある」
パラスは水筒を拾い上げず、ぎゅっと目を閉じた。
「……ええ。憎いですよ。彼らが奪った命を、彼らが焼いた歴史を思えば、今すぐ剣を取ってすべてのサルゴン人をこの大地から追い払ってやりたい。あの老人の語る百二十五年の記憶も、若者が流す昨日の血も、すべて私自身の痛みのように感じます」
パラスの声は微かに震えていた。
「あんたは祭司だ。あんたが『復讐せよ』と叫べば、村の連中も喜んで武器を取るだろうさ。祭司の衣なんて脱ぎ捨てて、呪ってしまえば楽になるぞ」
傭兵の言葉は冷酷なほどに現実的だった。彼はパラスの心中にある矛盾を、容赦なく抉り出す。
だが、パラスは目を開き、濡れた瞳で傭兵を強く睨み返した。
「……私が呪いの言葉を口にすれば、確かに彼らは従うでしょう。私を『勝利の女神』と呼ぶ彼らは、私の憎悪にさえ喜んで身を投じるはずです」
彼女はゆっくりと立ち上がり、自身の血濡れた治療用の上掛けを見下ろした。
「でも、それは彼らを救うことにはならない。私が彼らを死地へ送るための、便利な言い訳になるだけです。……指導者の憎悪は、民にとって甘い毒薬。それだけは、決して口にしてはならないのです」
傭兵は無言でパラスを見つめていた。その瞳の奥にある感情は読めない。ただ、彼は短く鼻を鳴らした。
「立派な心掛けだ。で、どうする? 復讐に逸る若者、畑を焼かれて疲弊した農民、そして商売を再開したがっている商人ども。近隣の村から代表を集めたところで、全員の意見がまとまるはずもない」
「まとめるのではありません」
パラスは足元の水筒を拾い上げ、中の水で口をゆすいだ。そして、いつもの威厳ある、人々に光を与える祭司の顔へと戻っていく。
「私たちが開くのは、サルゴンを『赦す』ための会議ではありません。これ以上、あの天幕で足を切り落とされる若者を、無意味な死者を増やさないための会議です」
彼女は前を向き、泥濘む地面をしっかりと踏みしめた。
「彼らに選ばせるのです。復讐という甘い死を選ぶか、それとも、泥をすすってでも明日へ続く道を切り拓くか。……いざ行きましょう、我が無名の護衛。代表会議の準備を急がねばなりません」
傭兵は「我が無名の護衛」という仰々しい呼び名に軽く舌打ちをしたが、それ以上は反論しなかった。
「……歩く前に、少しは休め。倒れられたら護衛のしようがない」
ぶっきらぼうにそう言い残し、彼は周辺警戒のために先へと歩き出した。その背中を追いかけながら、パラスは密かに、この無骨なサルカズの気遣いに小さく微笑んだ。