アクロティ村の広場は、これまでにない熱気に包まれていた。
かつては村人たちが素朴な祝祭や商いを行う場であったこの広場は、今やミノス辺境の未来を決する重大な議場へと姿を変えている。雨上がりのぬかるんだ地面を踏みしめ、周辺村落から集まった数十名の代表者たちが、緊張した面持ちで顔を突き合わせていた。
「復讐だ! サルゴン人は我々の麦を焼き、同胞の血を流させた! 彼らと対話など、十二英雄への冒涜に他ならない!」
広場の中央で、復讐を声高に叫ぶのは、先日の襲撃で被害を受けた北の村の若き戦士長だった。彼の目には血走った怒りが宿り、拳を振り上げるたびに、彼に同調する若者たちの怒号が周囲から上がる。
「しかし、このまま戦い続ければ、次の冬を越す兵糧が尽きる!」
それに反論したのは、南の村の年老いた村長だった。彼は深く皺の刻まれた顔をしかめ、悲痛な声で訴える。
「麦は焼かれ、交易路は塞がれ、若い男たちは次々と怪我をして動けなくなっている。これ以上血を流せば、我々は戦う前に餓死してしまうぞ!」
「ならば、奴らの首から麦を奪い返せばいい!」
「無茶を言うな! 相手は首長軍の正規兵も混ざっているのだぞ!」
両陣営の怒声と悲鳴が入り混じり、広場の空気は限界まで張り詰めていた。刃傷沙汰に発展するのも時間の問題に見えた。
その騒々しい喧騒を切り裂くように、澄み渡る声が響いた。
「静まりなさい」
広場の壇上に、パラスが姿を現した。
純白の祭司服を身に纏い、その右手には権杖を握っている。彼女の背後には、ミノスの古き神々を象った小さな石碑がひっそりと佇んでいた。
パラスが現れた瞬間、広場を支配していた怒りと焦燥が、まるで魔法のように静まった。「勝利の女神」——誰からともなくそう呼ばれ始めた彼女の姿は、疲弊しきった村人たちにとって、暗闇を照らす唯一の光だった。
「双方の言い分は、この胸に痛いほど届いています。復讐を望む勇士の誇りも、冬の飢えを憂う長老の知恵も、どちらもこのミノスの大地を愛するが故の切実な声です」
パラスは広場を見渡し、ゆっくりと語り始めた。
「しかし、私たちは今、怒りと恐れのどちらかに目を塞がれてはなりません。怒りに任せて剣を振るえば、私たちは自らの血で大地を溺れさせることになる。恐れに屈して膝を屈すれば、私たちは十二英雄の残した誇りを失うことになる」
パラスの言葉は、まるで音楽のように村人たちの心に染み渡っていく。彼女の瞳には、一切の迷いがない。先日の野戦治療所の裏手で嘔吐していた姿など、微塵も感じさせない完璧な「指導者」の顔だった。
「私たちは、明日を生きるための道を選ばねばなりません。それは、サルゴンを赦す道ではない。これ以上の無意味な死を防ぎ、このアクロティに再び麦の穂を実らせるための、したたかな和平です」
パラスがそう宣言した瞬間、広場の空気が変わった。
先ほどまで復讐を叫んでいた若者たちさえも、彼女の威厳ある言葉に圧倒され、反対の声を飲み込んでいる。彼女の言葉に従えば、きっと間違いない。そんな盲目的な信頼が、波のように広場を満たしていくのを、パラスは肌で感じていた。
『これなら、いける』
パラスは内心で安堵しかけた。彼女の一声で、この場を和平交渉への賛成でまとめることができる。彼女自身が望んだ結果だ。
だが、同時に彼女の胸の内に冷たい恐怖が走った。
『彼らは今、自分の頭で考えているだろうか?』
もし自分がここで「復讐せよ」と叫んでいたら、彼らは同じように熱狂して剣を取ったのではないか。彼女という「偶像」の威光だけで決まる和平は、彼女がいなくなれば、あるいは彼女の威光に陰りが見えれば、あっという間に崩れ去る。それは砂上の楼閣に過ぎない。
パラスは言葉を切り、ゆっくりと広場の片隅に目を向けた。
そこには、騒ぎから一歩引いた場所で、壁に背を預けて立つ大柄な男の姿があった。
サルカズの傭兵。彼は腕を組み、退屈そうに空を見上げている。パラスの演説などまるで聞いていないかのように。
彼は知っている。パラスの言葉が持つ力と、それが孕む危険性を。そして、彼自身は決してその言葉に縛られないことを。
パラスは小さく息を吐き、権杖を壇上に突いた。
「私の言葉は、皆さんの背中を押す風に過ぎません。歩く道を決めるのは、皆さん自身です」
村人たちが戸惑いの表情を浮かべる中、パラスは壇上の脇に置かれた素焼きの壺を指し示した。
「ミノスの古い伝統に則り、
「陶片投票……?」
若き戦士長が怪訝そうに眉をひそめる。
「ええ。皆さんに二つの陶片を配ります。一つは赤い石の粉を塗ったもの、もう一つは黒い石の粉を塗ったもの。赤い陶片は『徹底抗戦』を、黒い陶片は『和平交渉』を意味します。自身の心に従い、選んだ方の陶片をこの壺に入れてください」
パラスは広場を見据えた。
「誰がどちらに投票したかは、誰にも分かりません。隣の者の顔色を窺う必要もない。私の威光にへつらう必要もない。皆さんが自分自身で、この村の明日を決めるのです」
村人たちの間にざわめきが広がった。
指導者に判断を委ねるのではなく、自らの手で未来を選ぶ。それは、重い責任を伴う行為だった。
パラスの指示により、村の子供たちが代表者たちに二つの陶片を配り始めた。
その様子を見届けると、パラスは壇上から降り、警備を指揮している傭兵の元へ歩み寄った。彼は天幕の下で、警備名簿の点検を行っていた。
「……見事な手綱捌きだ。危うく、あんたの神輿に担がれて崖から飛び降りるところだった連中を、上手く地面に下ろしたな」
傭兵は名簿から目を離さずに言った。
「皮肉ですか? 私はただ、彼らの選択を私のものにしたくなかっただけです」
「皮肉じゃない。事実だ。指導者がすべてを決める群れは、首を落とされればそれで終わりだ。だが、自分たちで決めた群れは、簡単には崩れない」
彼は淡々と答えながら、羽ペンを走らせる。パラスはその手元を覗き込んだ。
名簿には、各持ち場の警備担当者の名前が記されている。しかし、傭兵が今しがた書き込んだ自分の欄には、氏名が空欄のまま、職能欄にただ『サルカズ傭兵』とだけ記されていた。
「あなたの名前も、陶片のように隠されたままですね」
パラスは思わず呟いた。
これまで幾度となく危機を共に乗り越えてきた。彼の手によって命を救われ、彼の冷徹な言葉に救われてきた。それでも、彼は決して自分の名を明かそうとしない。
「あんたには関係ないことだ」
傭兵は冷たく言い放つ。
「教えては、いただけませんか? あなたは私のために、これほどまでに尽くしてくれている。せめて、名をもってあなたに感謝を捧げたい」
パラスは真摯な瞳で訴えかけた。しかし、傭兵は手を止めず、顔を上げることもなかった。
「感謝なら金で受け取る。それ以上は契約外だ」
彼はパラスを拒絶したのではない。ただ、彼自身の引いた境界線を、決して越えさせないだけだった。
「……そう、ですね。失礼しました」
パラスはそれ以上踏み込むのをやめた。彼には、名を隠さねばならない理由があるのだろう。今はただ、彼が引いた境界を守り、その空欄を尊重することが、彼女にできる唯一の誠意だった。
「投票が終わるぞ」
傭兵の言葉にパラスが振り返ると、最後の代表者が壺に陶片を投げ入れるところだった。
広場の中央で、パラス立会いの下、壺の中身が確認される。
赤い陶片と黒い陶片が、一つ、また一つと数え上げられていく。
結果は——僅差だった。
ほんの数票差で、黒い陶片、すなわち「和平交渉」が上回った。
「決まりました」
パラスは静かに宣言した。
「私たちは、サルゴン辺境の使者と会談の場を持ちます」
復讐を叫んでいた若者たちは無念そうに唇を噛んだ。声を荒らげる者こそいなかったが、武装解除を急がないこと、捕虜返還を会談の前提とすること、村の警備を減らさないことを求める声は相次いだ。パラスはそれらを反対派のわがままと退けず、交渉団が守る条件として記録板に書き加えた。彼らは従わされたのではなく、自分たちの手で、条件のある困難な道を選び取ったのだ。
「……さあ、ここからが本当の戦いですね」
パラスは広場に集う人々を見渡し、密かに決意を新たにした。