残火行路   作:釜石

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第3話:値札のある和平

夜半、アクロティ村の外れに設営された目立たない天幕に、香辛料の強い匂いが漂っていた。

 

中立を掲げる隊商に紛れて極秘裏に村を訪れたのは、数人の護衛を連れた一人の老人だった。日焼けした深い皺と、豪奢だが汚れの染み付いた外套。彼は今回の交渉に参加するサルゴン辺境部族から全権を委任された、老交渉人であった。

 

天幕の中央に置かれた粗末な木の机を挟み、パラスと老交渉人が向かい合う。パラスの背後には、ランタンの影に溶け込むようにサルカズの傭兵が立っていた。

 

「夜分のご足労、感謝いたします。辺境部族の交渉人殿」

パラスは冷たい葡萄酒を注いだ杯を差し出しながら、静かに口を開いた。

 

「出迎えの礼を言う、祭司殿。だが、互いに腹を探るような前置きは省こう」

老人は杯には手を付けず、疲労の色が濃い目でパラスを見据えた。

「我々の部族も、これ以上の出血は到底採算が合わん。家畜は減り、働き手である若者は死に絶えようとしている。首長軍の強硬派どもは『ミノスを討て』と喚くばかりで、我々の腹を満たしてはくれんからな」

 

サルゴンという巨大な帝国は、決して一枚岩ではない。中央政府の威光を笠に着る強硬な首長軍と、実際に国境地帯で血を流し、生活の糧を失い続けている辺境部族との間には、明確な温度差があった。

 

「それは、私たちミノスの村々も同じです。互いの痛みが限界に達した今こそ、槍を置く時」

パラスは頷き、あらかじめ用意していた羊皮紙を机の中央に滑らせた。

 

そこには、実務的な条文が記されていた。

一、武装集団の越境禁止。

二、捕虜ならびに双方の遺体の無条件返還。

三、封鎖されている交易路の再開。

四、何者かによる襲撃が発生した際の、双方による共同調査。

 

老交渉人は羊皮紙を手に取り、目を細めて条文を追う。

 

「……悪くない。特に共同調査の項目は、首長軍の息がかかった雇われ兵どもの勝手な略奪を防ぐ口実になる。連中や、彼らを斡旋する傭兵仲介人にとって、戦いが終わることは収入源と支配力を失うことを意味する。我々の和平を最も疎ましく思っているのは、案外、身内のサルゴン人かもしれんのだ」

 

老人は自嘲気味に鼻を鳴らし、羊皮紙を机に戻した。

「この条件で持ち帰ろう。我々も誠意を見せるため、まずは西の谷に捕らえている捕虜を解放する。先の『赤い谷』で生け捕りにした者たちだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、パラスの周囲の空気が凍りついた。

 

赤い谷。

それは数ヶ月前、ミノスの遊撃隊がサルゴン側に包囲され、無惨な死を遂げた場所だ。パラス自身もその凄惨な戦場に立ち、引き裂かれた同胞たちの遺体を前に血の涙を流した。あの時、降伏した兵士たちを容赦なく連れ去ったのが、目の前にいるこの老人の一族だったというのか。

 

「……あなたの部族が、あの谷で」

 

パラスの声から、祭司としての穏やかさが消え失せた。氷のように冷たく、重い憎悪が言葉の端々に滲み出る。机の上に置かれた彼女の手が、怒りに小刻みに震えていた。彼女の脳裏に、再びあの血の匂いと悲鳴が蘇る。

 

老交渉人が怪訝な顔でパラスを見返した、その時だった。

 

ドン、と。

机の下で、硬いブーツの先がパラスのすねを軽く蹴り飛ばした。

 

「ッ……!」

 

鋭い痛みに、パラスはハッと息を呑んだ。

背後を振り返るまでもない。サルカズの傭兵が、影の中から無言の圧を放っている。

『交渉を壊す気か。私情を挟むな』

声には出さずとも、その一撃が彼からの痛烈な警告であることは明白だった。

 

パラスは深く深呼吸をし、震える手を隠すように机の下で強く握りしめた。憎悪に呑まれかけた自身の心を、必死に理性で縛り付ける。

 

「……失礼しました。捕虜の返還、確かに承りました。彼らの帰還は、この条約への最大の信頼となるでしょう」

 

再び「指導者」の顔を取り戻したパラスを見て、老交渉人は短く頷いた。

 

「よかろう。正式な会談は八日後、国境にある旧市場で行う。あそこなら双方の陣地から等距離だ。中央の取引場は開けているが、外縁には崩れた店列と古い貯蔵穴が残る。会談までに双方立会いで検分しよう」

 

老人は立ち上がり、外套の裾を翻した。去り際、彼はランタンの灯りに照らされたパラスの顔を、射抜くように見つめた。

 

「最後に一つ、忠告しておく。この会談を潰したくてうずうずしている連中が、双方の陣営に山ほどいる。当日、どちらか一方の代表が死ねば、この話はすべて無に帰す。戦争は続くぞ、祭司殿」

 

「肝に銘じておきましょう」

 

パラスが頭を下げると、老交渉人は無言のまま天幕を後にした。

 

***

 

隊商が去り、夜の静寂が戻った村への帰路。

ぬかるんだ道を歩きながら、パラスは重い沈黙を守っていた。すねにはまだ、先ほど傭兵に蹴られた鈍い痛みが残っている。

 

「……申し訳ありませんでした」

やがて、パラスはぽつりと呟いた。

 

「何がだ」

半歩後ろを歩く傭兵が、抑揚のない声で返す。

 

「あのまま私が怒りに任せて言葉を荒らげていれば、交渉は決裂していたでしょう。あなたの機転に救われました」

「機転じゃない。あんたが自滅しそうだったから止めただけだ。感情で仕事が片付くなら、俺たち傭兵はとっくに廃業している」

 

彼は忌々しそうに吐き捨てた。

「あんたの言う『無意味な死』を止めたいなら、敵の顔じゃなく、裏で動く金の流れを見ろ。あの老いぼれが言った通りだ」

 

パラスは足を止め、振り返った。

「金の流れ……先日の傭兵たちのことですか」

 

「そうだ。護衛の配置図を睨んで襲撃に備えるだけじゃ足りない。戦争が終われば、誰が一番損をする? 誰が戦争継続で儲かるか……それを洗い出さない限り、本当の敵の狙いは読めない」

 

傭兵の言葉は、冷酷なまでに論理的だった。

国境の村を焼くのは、単なるサルゴン人の憎悪だけではない。そこには「戦争」という名の巨大な商売があり、和平という商品に値札を付けて潰そうとする者たちがいる。

 

パラスは夜空を見上げた。厚い雲の向こうに、星の光は見えない。

 

「憎悪と悲しみだけでなく、欲に塗れた刃までが、私たちの和平を阻むというのですね」

 

「歓迎しろ。憎しみだけの奴より、金で動く奴の方が行動が読みやすい」

傭兵は立ち止まったままのパラスの横を通り過ぎ、振り返らずに歩き続ける。

 

「足元に気をつけろ、祭司。まだ雨水が残ってるぞ」

 

ぶっきらぼうなその声に、パラスは不思議と心が落ち着くのを感じた。

「ええ。共に参りましょう、我が勇士」

 

彼女は再び歩き出した。戦場の敵を討ち果たすのではなく、和平という脆い希望を守り抜くための、新たな戦いが始まろうとしていた。

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