会談予定地である国境の旧市場へ下見に向かう道中、二人はまたしても気まぐれな荒野の雨に足止めを食らっていた。
かつて見張り台として使われていたらしい半ば崩れた石積みの塔に身を寄せ、冷たい雨をやり過ごす。パラスは濡れた外套を脱ぎ、荷物袋の中身が水浸しになっていないか改め始めた。
「ああ」
荷の底から取り出した小さな羊皮紙の束を見て、パラスは短く声を漏らした。
幾重にも折り畳まれていたその紙片は、雨水が深く染み込み、書かれていたインクが完全に滲んでしまっている。もはや何が書かれていたのか、元の文字の形すら判別できない。
「重要な機密か?」
入り口付近で雨脚を警戒していた傭兵が、肩越しに振り返って尋ねた。
「いいえ。酒の製法を書いた覚え書きです」
パラスは滲んだ紙片を指先でそっと撫でた。
「アテヌスにいた頃、カサンドラという旧友から教わった特別な葡萄酒のレシピでした。この村へ逃れるような混乱の中で、正確な分量や手順の記憶を失ってしまって……この紙が最後の頼りだったのですが、どうやら雨が持ち去ってしまったようです」
普段であれば、ここで失われた文化や友との記憶について、滔々と美しい比喩を並べ立てて語るはずのパラスだったが、この時はただ簡潔に事実だけを口にした。その声には、ごまかしのない静かな喪失感が滲んでいた。
傭兵は何も言わず、ただ雨の降る外へと視線を戻した。慰めの言葉も、詮索の問いもない。ただ雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
***
それから数日後のこと。
会談に向けた警備配置の策定も大詰めを迎え、パラスは村の自室で羊皮紙の束と格闘していた。そこへ、見回りを終えた傭兵が入ってくる。
彼はパラスの机の前に立つと、無言で一枚の紙切れを放り投げた。
「これは?」
パラスが顔を上げると、傭兵はすでに背を向けて戸口へ歩き出していた。
「カズデルの秘伝酒のレシピだ」
パラスは驚いて紙切れを手に取った。そこには美しい詩や由来などは一切書かれていない。発酵に必要な日数、温度の目安となる数字、そして簡単な図解だけが、無骨な筆致で書き殴られていた。
ただ一箇所だけ、麦と果実の配合を記した行の数字が、線を引いて消され、その脇に書き直されていた。その訂正だけが、彼の角ばった筆致とは違う、丸みを帯びた別の手によるものだった。インクの色も古い。
「……素晴らしい」
パラスの目が輝きを取り戻し、いつもの祭司としての仰々しい口調が滑り出た。
「名もなき勇士よ。あなたがもたらしたこの知識は、失われた神殿の杯を再び満たす甘露となるでしょう。荒野の雨に奪われた私の記憶を、あなたは異郷の知恵で埋め合わせてくれた……!」
「長い」
傭兵は振り返りもしない。
「村の酸っぱい酒を毎晩飲まされるよりはマシだと思っただけだ。講釈はいいから、作れ」
そう言い残して、彼はさっさと部屋を出ていった。残されたパラスは、手の中の無愛想なレシピを見つめ、ふふっと小さく笑い声をこぼした。訂正された数字の上を、指先が一度だけ通り過ぎた。
***
その夜、パラスは浅い眠りの中で、再び赤い谷の夢を見た。
引き裂かれた同胞の遺体。切断手術の最中に響き渡る若者の絶叫。そして、笑いながら村に火を放つサルゴンの兵士たち。
「……っ、ぁ……!」
パラスは息を呑んで跳ね起きた。
全身が冷や汗で濡れ、心臓が早鐘のように打っている。震える手でシーツを握りしめ、ここが戦場ではなく村の自室であることを必死に自分に言い聞かせる。
ふと、部屋の隅に気配を感じた。
暗がりの中、戸口を背にして傭兵が座っていた。彼はパラスが目を覚ましたことに気づくと、音もなく立ち上がり、小机の水差しから木杯に水を注いだ。
パラスは水を一口含んだ。それでも震えは収まらない。彼女の視線が、小机の端に置かれた小さな酒差しへ吸い寄せられた。手を伸ばしかけると、傭兵の大きな手が先にそれを取った。
「一口だけだ」
彼が木杯の底を濡らすほど注いだ酒を、パラスは震える両手でゆっくり飲んだ。強い酒気が喉を刺し、悪夢の輪郭を一時だけ鈍らせる。体が温まったように錯覚したが、冷えも記憶も消えたわけではない。
「ふぅ……」
パラスは息を吐き、無意識のうちにもう一杯を求めて、空になった杯を傭兵の方へ差し出した。
だが、傭兵は酒差しを遠ざけ、代わりに水差しを手元へ置いた。
「足りませんか?」
パラスは少し不満げに眉をひそめた。
「酒は薬じゃない。眠りも浅くなる。今夜これ以上飲めば、明日のあんたが払う」
傭兵は短く答えた。一口を奪い合って余計に彼女を追い詰めることはしなかったが、忘却の道具として杯を重ねさせるつもりもない。その不器用な線引きだけは明確だった。
パラスはしばらく彼の手元を見つめていたが、やがて小さく息をつき、杯を下ろした。彼がそれ以上注がないと決めたなら、決して注がないことを知っていたからだ。
パラスは机の上に置かれたままになっていた『カズデルの酒』のレシピに目を落とした。彼の過去を尋ねる気は起きなかった。このレシピを誰と飲んだのか、どんな夜にこの分量を覚えたのか。それを聞くことは、彼が引いた線を踏み越えることになる。
代わりに、パラスは純粋な実用の疑問だけを口にした。
「ところで、このレシピについて一つ聞きたいのですが」
パラスは真剣な顔で図解を指差した。
「この発酵の工程、この分量の酵母で密閉してしまったら……途中で樽が爆ぜませんか?」
傭兵はパラスの問いに、わずかに目を丸くした。
悪夢にうなされていた女が、二杯目を取り上げられた直後に、発酵樽の内圧について真顔で尋ねてきたのだ。
「ああ。そうだ。一日に二回はガスを抜かないと、天井まで中身が吹き飛ぶ」
彼は言いかけて、一拍だけ間を置いた。
「実際に、天井ごと持っていかれた馬鹿を知っている」
「その方は、ご無事だったのですか」
「知らん」
傭兵はそれきり口を閉ざした。パラスもそれ以上は尋ねず、羊皮紙の上の、丸みを帯びた別筆跡の数字へ視線を落としただけだった。
「やはり、恐ろしい酒ですね。カズデルの知恵というのは」
パラスが大真面目に頷くのを見て、傭兵の喉の奥から、くくっ、と短い音が漏れた。
パラスが驚いて顔を上げると彼は口元を手で覆っていたが、その肩は微かに震えていた。
「……今、笑いましたか?」
「気のせいだ。寝ろ」
傭兵はすぐさま顔を背け、再び戸口の暗がりへと戻っていった。
パラスは空の杯を伏せ、レシピを枕元へ引き寄せて横になった。戸口の影は、夜が明けるまで一度も動かなかった。