アクロティ村の広場に設営された急造の指令所。大きな木の机の上には、周辺の地形図と並んで、何やら奇妙な品々が散乱していた。
見張り台の配置図、避難路の修正案、野戦治療所への物資補給表。そこまではいい。だが、その隣には、道化師の仮面、木製の模擬剣、そして色鮮やかな布切れが山のように積まれているのだ。
「警備計画を見直しているのかと思えば、なんだこれは」
見回りを終えて指令所に戻ってきたサルカズの傭兵が、呆れたように木剣を拾い上げた。
「明日の夜に予定している喜劇の小道具です」 パラスは図面に羽ペンを走らせながら、事もなげに答える。 「会談の日は近づいていますが、村人たちの心は不安と緊張で張り詰めたままです。こんな時だからこそ、笑いが必要なのです。喜劇の後は、ささやかな競技会も行いますよ」
「敵の襲撃に備えるべき時に、芝居と駆けっこか」
「文化の回復もまた、立派な防衛です。人は剣と盾だけで生きるわけではありません。誇りと笑いを失った心は、戦う前に死んでしまうのですから」
パラスが真顔で言い切ると、傭兵は短く鼻を鳴らした。以前の彼であれば「無駄だ」と一刀両断していただろう。だが、今の彼は木剣を元の場所にそっと戻し、図面の方へと視線を移した。
「まあいい。だが、催しをやるなら見張りの数は倍にするぞ。人が集まる場所は、連中にとって絶好の的だ」
「ええ、警備の采配はあなたにお任せします、勇敢なるサルカズ傭兵よ」 パラスは微笑み、再び羽ペンを動かし始めた。彼女の文化事業を、彼が頭ごなしに否定しなくなったことは、二人の間の確かな変化だった。
***
しかし、その夜。 喜劇の準備が静かに進められていた村の静寂は、けたたましい半鐘の音によって引き裂かれた。
「火事だ! 西の穀物庫が燃えているぞ!」
パラスと傭兵が現場に駆けつけた時には、炎はすでに村人たちの手によって消し止められつつあった。幸いにも発見が早く、備蓄されていた麦の被害は最小限で済んだようだ。
だが、問題は火の気のない場所から出火したこと、そして現場に残されていた「証拠」だった。
「祭司様、これを見てください」 顔を煤で汚した若き戦士長が、忌々しげに一本の武器を差し出した。 「放火犯が落としていったようです。こいつは……我々ミノスの遊撃隊が使う戦斧です!」
周囲の村人たちがざわめき立つ。
「なんだと? じゃあ、放火したのはミノス人だってのか!?」 「いや、違う! これはサルゴンの連中が、我々の仕業に見せかけるためにわざと置いていったんだ! 我々を内部分裂させるための罠だ!」
そこへ、国境付近の哨戒に出ていた別の村人が息を切らして駆け込んでくる。
「報告します! サルゴン側の陣地にも、何者かが火矢を撃ち込んだとのことです! しかも、使われたのは当該首長軍が使う矢だったと!」
広場は騒然となった。 ミノス側にはミノスの武器が、サルゴン側にはサルゴンの武器が残されていた。互いが「相手の偽旗作戦だ」と思い込むように仕組まれた、極めて悪質な罠。
「……許せない」 パラスは強く拳を握りしめた。 「和平の機運を削ぐために、ここまで卑劣な手段を使うとは。皆の者、聞いてください! これは私たちを陥れるための——」
パラスが民衆に向けて真実を告発し、怒りを共有しようと声を張り上げた、その時だった。
「待て」
傭兵がパラスの肩を強く掴み、その言葉を遮った。彼は村人が持っていた戦斧をひったくると、ランタンの灯りに透かして刃や柄をじっくりと観察し始めた。
「何を……」 「よく見ろ、祭司。この斧の刃は確かにミノス製だが、握り革の編み方はクルビアの傭兵が好む結び目だ。それに、この油の匂い……」 彼は斧の柄の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。 「粗悪な機械油だ。正規の補給品とは違う。各地を渡る雇われ兵や野盗も使う安物だが、それだけで持ち主は決められない」
傭兵はさらに視線を落とし、ぬかるんだ地面に残された足跡を指差した。
「それに、この足跡だ。闇市場に流れている軍用ブーツの底に似ている。だが一つは踏み込みが不自然に深い。見つけさせるため、同じ場所で押し付けた可能性がある。結び目も油も足跡も、混成の傭兵を匂わせはするが、まだ犯人の証明にはならない」
パラスは息を呑んだ。 「つまり……混成の傭兵部隊が関わった可能性はある。けれど、その姿まで誰かが演じているかもしれない、と?」
「そうだ。少なくとも、誰かが手がかりを『演出』している。あんたが今、ここで『これはサルゴンの自作自演だ』と騒ぎ立てれば、それこそ仕掛けた奴の思う壺だ。連中は、あんたが感情的に民衆を煽るのを待っている」
パラスは深く息を吸い込み、ざわめく村人たちの方へと向き直った。
「皆さん、静まりなさい」 パラスの落ち着いた声が、夜の闇に響く。 「手がかりは確かに見つかりました。しかし、真実はまだ厚いヴェールに包まれています。性急な判断は、真の敵を利するだけです。現場を封鎖し、両陣営の立会人を呼びましょう。明朝までは何者も犯人と断じません。そして今夜の喜劇は、調査が済むまで延期します」
村人たちは顔を見合わせたが、やがて誰からともなく納得の呟きが漏れ始めた。
「そうだ、祭司様の言う通りだ。罠かもしれない」 「ああ、彼女は冷静に物事の裏を見抜いておられる……」 「まさに、我らを導く『知恵の女神』だ……」
その囁きは、夜風に乗って村中へ広がっていった。
***
指令所に戻ったパラスは、一人、木の椅子に深く腰掛けた。 机の上には、相変わらず喜劇の小道具と防衛図が並んでいる。
「……『知恵の女神』、ですか」 パラスは自嘲気味に呟き、両手で顔を覆った。
「私は何も見抜いてなどいなかった。ただ感情に任せて叫びそうになったところを、あなたに止められただけ。迷い、立ち止まっただけの振る舞いが、彼らの目には『神の如き英知』として映る。……恐ろしいことです」
彼女は指の隙間から、部屋の隅で武器の手入れをしている傭兵を見つめた。
「彼らが私を崇めれば崇めるほど、私は真実から遠ざかっていくような気がします。私が一つ間違えれば、その間違いすらも『神意』として盲信されかねない」
傭兵は布で剣の刃を拭う手を止めず、淡々と言った。
「神話は便利だからな」
「便利……?」
「ああ。人が理解できない理不尽や、自分たちで責任を取りたくない決断を、すべて『女神の威光』のせいにして押し付けられる。信じる側にとっては、これほど便利なものはない」
彼は剣を鞘に収め、冷たい目でパラスを見据えた。
「だが、気をつけろ。便利な神話ほど、持ち主を食う。連中が求める完璧な女神を演じ続ければ、いつかあんた自身の中身が空っぽになるぞ」
パラスはしばらく答えなかった。机の上の喜劇の仮面へ手を伸ばし、その空洞になった目の穴を指でなぞる。
「……それでも。今はまだ、彼らにはこの仮面が必要なのです。私が彼らの希望の形である限り、私はそれを演じ切りましょう。あなたが隣で、現実という重りを繋ぎ止めてくれる限りは」
「勝手にしろ。俺は契約通り、あんたを生かしておくだけだ」
傭兵はふいと視線を逸らすと、鞘に収めた剣を出入り口の柱へ立てかけ、その脇に腰を下ろした。夜が明けるまで、その位置から動く気配はなかった。 パラスは仮面を伏せて置き、明日のための防衛図へ向き直った。