残火行路   作:釜石

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第6話:誰の英雄か

会談を三日後に控え、アクロティ村の広場はにわかに活気づいていた。

 

昨夜の放火で延期された「防衛戦を題材にした喜劇」は、警備を妨げない昼間だけ準備を続け、上演そのものは条約成立後に回すことになった。不安と緊張に押し潰されそうになっていた村人たちも、小道具を作り、台詞を覚えるうちに、少しずつ目に活力を取り戻していた。

 

「祭司様! 主役の戦士の衣装、これでどうでしょうか!」 「ええ、素晴らしい出来です。ですが、もう少し胸当ての装飾を派手にしましょう。舞台の上では、少し過剰なくらいが観衆の目を惹きつけるのです」

 

パラスは村人たちに的確な指示を出しながら、満足げに頷いた。 その時、小道具係の若者が、立派な角を模した張り子と、巨大な木剣の作りかけを抱えてパラスの元へやってきた。

 

「祭司様、あの無口で凄腕の護衛殿の役も出しましょう! サルカズの角とこの大剣を持たせた役者が、間抜けな雇われ兵どもを薙ぎ払う場面を作れば、絶対に大ウケしますよ!」

 

若者の提案に、周囲の村人たちも「それはいい!」「我らが村の英雄だ!」と賛同の声を上げる。 パラスも微笑み、それを許可しようと口を開きかけた、その瞬間だった。

 

「却下だ」

 

広場の隅で腕を組んでいた傭兵が、低い声でピシャリと言い放った。 彼は大股で歩み寄ると、若者が抱えていた角の張り子を無造作にひったくり、脇の木箱へ放り投げた。

 

「俺の役など出すな。角も、武器も、俺を連想させる特徴は一切舞台に上げるな」

 

その剣幕に、村人たちは水を打ったように静まり返った。パラスは困惑して彼を見上げた。

 

「なぜです? あなたが先日の夜襲で村人たちを救ったのは事実です。彼らはあなたに感謝し、その勇敢な行いを称えようとしているのですよ」 「称賛など求めていない。俺は契約に従って仕事をしただけだ」 「それでも、行いは語り継がれてこそ、人を次の行いへと導く光となるのです。語られなければ、あなたの勇姿は風へと消えてしまう。それはあまりにも惜しい」

 

パラスの言葉は、本心からの賞賛だった。だが、傭兵は冷たい眼差しでパラスを射抜いた。

 

「風に消える方がマシだ」 彼は低い、這うような声で言った。 「語られた瞬間、行いは語り手の都合のいい武器になる。『改心してミノス人のために戦った立派なサルカズ』か? 『祭司に感化された忠実な悪魔』か? ……どちらにせよ、そいつは俺じゃない」

 

傭兵はパラスの目の前まで歩み寄り、凄んだ。

 

「名がなくても、特徴は首輪になる。誰かの物語の中に、勝手に俺の居場所を作るな」

 

その言葉には、彼がこれまでどのような世界を生きてきたのか——誰かの都合の良い手駒として消費され、勝手に意味を与えられることへの、深い嫌悪が滲んでいた。

 

パラスは彼の瞳の奥にある拒絶の壁を見て、己の傲慢さに気づいた。 良かれと思って彼を「英雄」に仕立て上げようとしたが、それは彼自身を尊重することではなく、彼という存在をパラスや村人たちの「物語」に縛り付ける行為に他ならなかったのだ。

 

「分かりました」 パラスは静かに頷き、村人たちに向き直った。 「彼の言う通りです。無理に彼を舞台に上げることはやめましょう」

 

「しかし祭司様、それでは記録にも残らないのでは……」

 

「いいえ。記録にはこう残します」 パラスは羽ペンを手に取り、記録板にさらさらと文字を書き付けた。

 

『あるサルカズ傭兵が、警護と救助に加わった』

 

「容貌、出自、過去、動機。すべては書きません。ただ、彼がここにいて、行動を起こしたという事実だけを石に刻むのです。これならば、あなたは誰の物語にも縛られない。いかがですか?」

 

パラスが問いかけると、傭兵は短く息を吐いた。 「……勝手にしろ」 彼はそれだけ言い残し、再び広場の隅の持ち場へと戻っていった。

 

***

 

同日の夕刻。 村の外れにある人気のない廃屋の影で、傭兵は一人の男と対峙していた。

 

男は商人風の身なりをしていた。歳の頃は中年、日焼けもしておらず、剣を吊っていない。左手には表紙の擦り切れた小さな帳面を持ち、話しながらも時折そこへ目を落とす癖があった。各地の傭兵を斡旋し、戦争の火種を操作する「仲介人」の一人である。

 

「で? わざわざこんな所まで呼び出して、何の用だ」 傭兵が面倒くさそうに壁に寄りかかると、仲介人はニヤリと笑って重そうな革袋を差し出した。

 

「お前の腕は見込んでいる。だからこそ、こんな田舎の村に雇われて小銭を稼いでいるのは勿体ないと思ってな」 「要件を言え」 「簡単なことだ。三日後の会談当日、お前は姿を消せ。戦う必要はない。ただ、あの『勝利の女神』の傍から離れればいいだけだ」

 

仲介人は革袋を揺らした。チャリン、と重厚な金属音が響く。 「今の契約金の五倍。いや、十倍出してもいい」

 

「随分と気前がいいな」

 

「気前じゃない。相場だ」 仲介人は帳面を開き、指で行をなぞってみせた。 「見ろ。この地方の麦の値、傭兵の日当、封鎖された交易路の迂回料。どれも三年前の四倍だ。戦が終われば、この数字は一晩で元へ戻る。俺は誰も憎んでいないし、誰の味方でもない。ミノスもサルゴンも、俺の帳面では同じ列に並んでいる。……ただ、憎しみというのは仕入れが安くてな。放っておいても勝手に増える。あれほど利回りのよい商品はない」

 

彼は帳面を閉じ、傭兵の顔を覗き込んだ。

 

「ついでに教えておいてやる。あの祭司の首にも、もう値がついている。今はまだ安い。だが会談の席で条約に署名などしてみろ、値は跳ね上がるぞ。……お前が離れれば、その値を誰かが払う。それだけの話だ」

 

傭兵は無言のまま、仲介人の顔と革袋を交互に見つめた。 しばらくの沈黙の後、彼は革袋を乱暴にひったくった。

 

「前金としては悪くない額だ」

 

「ひひっ、そうだろう! さすがは話が分かる。当日の配置や隙については、後でこちらから……」 「詳細は後だ。誰か来る」 傭兵は顎で村の方をしゃくると、仲介人に背を向けて歩き出した。仲介人は満足げに帳面を懐へ収め、暗がりへと消えていった。

 

***

 

その夜、パラスが指令所の天幕で会談の最終確認をしていると、傭兵がふらりと入ってきた。 彼は机の上に、重い革袋をドンと投げ出した。

 

「なんですか、これは」 パラスが革袋の紐を解くと、中には大量の金貨と、見覚えのある印が刻まれた木札が入っていた。雨の夜に倒した殺し屋が持っていた、あの傭兵市場の仲介印だ。

 

「引き抜きの前金だ」 傭兵は淡々と告げた。 「会談の当日、あんたの護衛を放棄して姿を消せば、この金の数倍が俺の物になるそうだ」

 

パラスの顔から血の気が引いた。 彼が引き抜きの誘いを受けたこと。そして何より、彼が今、この大金を「受け取って」自分の前に立っていること。 まさか、彼は本当にこの金を受け取り、去るつもりなのか——。

 

一瞬でも彼を疑ってしまった自分への激しい自己嫌悪と、彼を失うことへの恐怖が、パラスの胸を締め付けた。

 

「……あなたは、」 声が震えた。 「この誘いに、乗るおつもりですか?」

 

傭兵はパラスの怯えたような目を見て、短く鼻を鳴らした。 「乗るつもりなら、わざわざ印付きの証拠をあんたの机に置くか」

 

パラスはハッと息を呑んだ。 「では、これは……敵の尻尾を掴むために、わざと?」

 

「そうだ。これで、条約破壊が単なる不満分子一人の思いつきじゃなく、傭兵斡旋網の一部が資金を出して会談を潰そうとしていることは示せる。だが、首長軍の強硬派まで繋がるかは別だ。この印は仲介網の物証であって、黒幕の署名じゃない」

 

パラスは安堵のあまり、その場にへたり込みそうになった。 「あ、ああ……よかった。一瞬でも、あなたが私を裏切るのではないかと疑ってしまった自分が恥ずかしい。どうか許してください、我が勇士」

 

パラスが深く頭を下げると、傭兵は忌々しそうに舌打ちをした。

 

「謝るな。疑うのは仕事だ」

 

「え……?」

 

「俺が裏切るかもしれないと疑うのは、あんたが指導者として当然持つべき警戒だ。簡単に人を信じるな」

 

彼はパラスを冷たく見下ろした。 「金次第で寝返るのが傭兵だ。俺だって、明日はどうなるか分からない。だから、俺を『英雄』だの『信じる仲間』だのと、あんたの都合のいい枠に嵌めるなと言っているんだ」

 

パラスは机の上の金貨を見つめた。 彼は、決して自分を美化させない。常に泥に塗れた現実の側に立ち、パラスの足元が浮き上がらないよう、重りであり続けている。

 

「……ええ。肝に銘じます」 パラスは顔を上げ、毅然とした祭司の瞳で彼を見返した。 「あなたは英雄ではない。ただのサルカズの傭兵。そして私は、あなたを信じるのではなく、あなたのもたらしたこの物証を使って、必ず和平を勝ち取る指導者です」

 

「それでいい」 傭兵はわずかに満足げな響きを声に交え、天幕の入り口へと戻っていった。

 

「ああ、それと」 彼は一度だけ振り返った。 「あの男は帳面を持ち歩いている。数字で物を考える奴は、必ず記録を残す。……いずれあれを取れ。首より使い道がある」

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