乾いた風が砂煙を巻き上げる荒野に、剣戟と怒号が響き渡った。
サルゴン辺境部族との最終会談に向け、実務的な調整を行うための予備交渉団が、国境付近の谷間で正体不明の武装集団に襲撃されたのだ。
「左翼を下げて。負傷者を先に。追撃は不要です!」
急報を受けて駆けつけたパラスの短く的確な指示のもと、アクロティ村の戦士たちとサルカズの傭兵が陣形を整え、襲撃者たちを押し返していく。不利を悟った賊たちは、蜘蛛の子を散らすように荒野へと逃げ去っていった。
だが、襲撃者たちが意図的に残していった痕跡を見て、村の戦士たちの顔色が変わった。 彼らが落としていった盾には、ミノスの伝統的な意匠が描かれ、逃げ際に叫んだ合言葉は、アクロティ周辺の村々で使われている古い方言だったのだ。
「祭司様! 奴ら、我々ミノス人のふりをしてサルゴン陣営を襲ったのです!」 「またしても偽旗工作……!」
パラスが歯噛みしたその時、サルゴン交渉団の中から悲痛な声が上がった。 「頼む、誰か! 止血を! このままでは死んでしまう!」
声の主の足元には、交渉団の若い書記官が倒れていた。脇腹を深く斬り裂かれ、おびただしい量の血が砂地を赤く染めている。
パラスは駆け寄ろうとした。しかし、一人の若い戦士がその前に立ち塞がる。 ニコス。まだ二十歳にもならない、痩せた肩をした村の男だ。先の襲撃で焼かれた穀物庫の下敷きになり、脚を切り落とされた若者は、彼の従兄弟だった。
「お待ちください、祭司様! 我々の陣営にも、先ほどの乱戦で怪我を負った者がいます! まずは同胞の手当てを優先すべきです。なぜ、我々の麦を焼き、同胞を殺したサルゴン人を助けねばならないのですか!」
ニコスの言葉は、周囲の村人たちの本音でもあった。 憎きサルゴン人。ましてや、今は混乱の只中だ。ここで彼らを見捨てたとしても、誰も責めはしないだろう。
パラスは一度だけ、ミノス側の負傷者へ目を走らせた。腕の裂傷にはすでに村の治療師が圧迫布を当て、もう一人の打撲傷者も自力で呼吸している。一方、書記官の脇腹からは、布を替える間もなく血が溢れていた。
だが、パラスはニコスを真っ直ぐに見据えた。
「百年の怨嗟は、今日一日で澄む酒ではありません。彼らが憎いというあなたの感情を、私は否定しない。……けれど、今ここで量るべきは国籍ではなく、残された時間です。治療師殿、同胞の二人をお願いします。呼吸が変わるか、圧迫しても血が止まらなければ、すぐ私を呼んでください。こちらは一刻を争います。どきなさい」
パラスの静かだが絶対的な威圧感に、ニコスは後ずさり、道を空けた。 パラスは書記官の傍らに膝をつき、衣を裂いて傷を見た。腹腔まで達しているかは外から断じられない。無闇に探らず、清潔な止血布を傷に当て、その上から両手で強く圧迫した。
「しっかりしなさい。意識を手放しては駄目です」
傭兵が差し出した折り畳み布を受け取り、出血の通り道を塞ぐよう慎重に詰め、圧迫を続ける。 だが、その時だった。
「ぁ……、ぎゃあああっ!!」
激痛に耐えかねた若い書記官が、鼓膜を裂くような絶叫を上げた。 その叫び声が、パラスの脳裏に眠っていた記憶の蓋を無理やりこじ開けた。
『——祭司様、こちらへ! この子の足が……!』 『——サルゴン人め、よくも俺たちの村を!』
数日前の野戦治療所で、乏しい麻酔でも消せなかった、脚を切り落とされた若者の悲鳴。 そして、かつてパラスがこの地に足を踏み入れたばかりの頃、仲間を庇ってサルゴンの槍に貫かれ、血を吐きながら死んでいったミノス兵たちのうつろな瞳。
『なぜ、私は』 パラスの手が、ピタリと止まった。 『なぜ私は、同胞を殺した彼らの命を、この手で救おうとしているのか?』
血まみれの手が小刻みに震える。 頭では分かっている。ここで彼を見殺しにすれば、偽の襲撃者の目論見通り、和平はかなり遠のく。 だが、心にこびりついた憎悪が、傷ついた記憶が、彼女の指先から力を奪っていく。呼吸が浅くなり、視界が明滅する。
その時、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
「手を止めるなら代われ」
背後に立っていた傭兵だった。 彼はパラスを慰めもせず、鼓舞もせず、ただ冷徹な事実だけを突きつけた。
「手を止めるなら、俺が圧迫を代わる。布を詰めて運ぶところまではできる。外から見える血管なら焼灼も最後の手にはなるが、腹の中までは直せない。……どうする。指示を出すのか、ここで固まるのか」
その感情の一切こもっていない声が、パラスを泥沼のような記憶から引きずり上げた。
『そうだ。私は、彼らを赦したわけではない』
パラスは震える指を一度だけ握り込み、止血布の上へ手を戻した。
憎しみは消えない。傷も癒えない。 だが、だからといって救わない理由にはならない。この憎悪に、私自身の選択を奪わせてなるものか。
「……手は借ります。圧を抜かず、その側を押さえてください。この方は私たちの患者です」
パラスの瞳から迷いが消えた。二人は圧迫を保ったまま包帯を巻き、書記官を担架へ載せた。
担架の前を担いだのは、ニコスだった。 彼は唇を固く結んだまま、砂に足を取られないよう慎重に歩を運んだ。天幕へ運び込み、担架を下ろした後で、彼は誰にともなく吐き捨てた。
「……祭司様が運べと言うなら、運びます。納得したわけじゃない」
「ええ、それでいい」 血に濡れた手を布で拭いながら、パラスは答えた。 「納得しないまま運べる人が、この村には要ります」
ニコスは何か言い返そうとして、結局何も言わずに天幕を出ていった。 書記官は運び込まれた時にも脈が弱く、予断を許さなかったが、出血の勢いは落ちていた。村の治療師が腹部の診察と継続処置を引き受けるのを見届けて、パラスはようやく血に濡れた手を離した。
***
襲撃者たちの何人かは、逃げ遅れて生け捕りにされていた。 彼らを別々に聴取した傭兵が、指令所に戻るなり、押収品を机へ並べた。供述は細部で食い違った。顔も知らない仲介人に酒場で雇われた者、別の隊商宿で前金を受けた者、標的を当日まで知らされなかった者。それでも、全員が同じ番号体系の支払票を持っていた。
「一枚岩の部隊じゃない。この間のクランタを追っていた殺し屋とも別口だ。複数の仲介人が、別々の場所から使い捨てを集めたらしい」
傭兵はさらに、角の欠けた小さな木札を置いた。サルゴン側の首長軍が使う糧秣庫の徴発印が刻まれている。
「一人の荷袋にあった。首長軍の主計部署へ伸びる手がかりにはなる。だが、盗品を持たされた可能性もある。これだけで誰かを黒幕にはできない」
「ならば、支払票と徴発印を照合し、この者たちの証言は証言として保存する。怒りに判決を書かせてはなりません」
事の次第を知った両陣営の者たちの間には、激しい怒りが渦巻いた。だが今度は、推測と確認された事実を分ける者もいた。
「おのれ、ふざけた真似を!」 「我々の復讐心すら、奴らの金儲けの道具だったというのか!」
報復の矛先が、雇われ兵たち、そしてその裏にいる戦争商人たちへと向き始める。 パラスは広場の中央に立ち、集まったすべての人々——ミノス人もサルゴン人も関係なく、高らかに声を響かせた。
「皆の者! 怒りを忘れるな。だが、その剣を向ける相手を違えてはなりません!」
パラスの威厳ある声に、ざわめきが静まる。
「彼らは、私たちが憎しみ合い、殺し合うことを望んでいる。私たちの流した血をすすり、私たちが誇り高き英雄の名を叫んで死んでいくのを、金貨を数えながら笑って見ているのです!」
パラスは権杖を高く掲げた。
「私はあなた方に、赦しを乞うているのではありません。明日の子らが、今日の私たちと同じ墓穴を掘らずに済む、その一歩を求めているのです。……どうか、誰かが用意した偽物の復讐に、こちらの死者の名を貸さないでください!」
その言葉は、両陣営の人々の胸に深く突き刺さった。 誰もが、自分たちの怒りが何者かに利用され、消費されようとしていた事実に気づき、戦慄した。
広場の端で、片腕に包帯を巻いた老交渉人が静かに進み出た。 襲撃の混乱の中、彼もまた軽傷を負っていたが、その眼光は少しも衰えてはいなかった。
「祭司殿の言う通りだ」 老交渉人は、パラスを真っ直ぐに見据えた。 「我々の血を金に換えようとする輩に、これ以上サルゴンの砂を踏ませるわけにはいかん。約束しよう。最終会談は明後日、予定通り旧市場で行う。ただし、機会は一度きりだ。次に刃が交われば、すべては終わりと思え」
「ええ。必ずや、私たちが未来を勝ち取ってみせましょう」
パラスが頭を下げた時、広場の後ろでニコスが槍の石突きを地面に打ちつけた。ただ一度、短く。それが賛成の意なのか、抗議なのか、パラスには判じられなかった。