残火行路   作:釜石

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第8話:女神の傷

夜の帳が下りたアクロティ村の自室で、パラスは激しい咳き込みと共に床へ崩れ落ちた。

 

「けほっ……、がはっ……!」

 

口元を押さえた白い布には、細い血の筋が混じっていた。熱で視界が揺れ、息を整えようとしても浅い咳が続く。左足首を走った鋭い痛みに衣の裾を持ち上げると、皮膚表面の鉱石結晶の周囲が赤く熱を持っていた。

 

連日の野戦治療と陣頭指揮で、発熱も結晶周囲の炎症も悪化している。病状の進行そのものは診察なしに断じられないが、少なくとも今夜の彼女が休養を要することだけは明らかだった。

 

机の上には、書きかけの警備交代表が広げられたままになっている。夕刻、頭が痛むあまり、パラスは自警団の組頭を呼んで口頭で修正を伝えていた。裏門の二人組を一人へ減らし、その一人をニコスに。空いた人手を、証人を留置している小屋の増員へ回す——そう指示し、清書と傭兵への照合は明朝に回した。

 

「こんな時に、倒れるわけには……」

 

壁に手をついて立ち上がろうとした瞬間、不意に戸が開いた。 現れたのはサルカズの傭兵だった。彼はパラスの惨状と、左足首に露わになった黒い結晶を見ても、少しも驚いた様子を見せなかった。

 

「無茶が祟ったな。寝ていろ」 彼は淡々と言い放ち、パラスを抱え上げようと歩み寄る。

 

「触らないでください……!」 パラスは鋭く声を上げ、彼の手を振り払った。 「あなたは、知っていたのですか……私が感染者だと」

 

「初めて会った時からな。あんたの戦い方、息の上がり方、そして時折見せる痛みの逃がし方。歴戦の傭兵なら、ひと目見れば分かる」 彼はパラスの拒絶を意に介さず、強引に彼女の肩を支えて寝台へと座らせた。 「村の連中には上手く隠してきたようだが、もう限界だ。明日の警備計画の策定は中止しろ。あんたは休養するんだ」

 

「できません!」 パラスは勢いよく言い返そうとしたが、再び咳が込み上げ、寝台の縁を掴んだ。 「会談は明後日に迫っているのです。ここで私が倒れれば、どうなるか分かっているでしょう」

 

「代わりの者に任せろ。あんたがいなくても回る仕組みを作ったはずだ」

 

「駄目なのです!」 パラスの悲痛な声が部屋に響いた。 「村人たちは私を『勝利の女神』と呼んでいる。私が、不治の病に侵された、いずれ死にゆく感染者だと知れれば……彼らは私の勝利まで疑うようになる。ようやくまとまりかけた条約は、恐怖と動揺であっという間に崩れ去ってしまう!」

 

テラの大地において、感染者に対する偏見と恐怖は根深い。指導者が感染者であるという事実は、それだけで共同体を瓦解させるに十分な猛毒だった。

 

傭兵は冷ややかな目でパラスを見下ろした。

 

「連中の信仰があんたを殺すなら、そんな信仰は守る価値がない」

 

「……っ」

 

「自分たちの足で立てない連中のために、あんたが命をすり減らして見栄を張る必要はどこにある。女神の偶像なんて、ここで壊してしまえ」

 

彼の言葉は、あまりにも残酷な正論だった。 しかし、パラスは寝台のシーツを固く握りしめ、顔を上げた。

 

「それでも今は、彼らが立つための杖なのです」

 

パラスの瞳には、涙が滲んでいた。 「彼らはようやく、自分の手で明日を選び取ろうとしている。この杖を手放してしまえば、彼らは再び憎悪と復讐の泥沼に沈んでしまう。……私は、彼らを見捨てられない」

 

二人の間に、重く冷たい沈黙が落ちた。 傭兵はしばらくパラスを睨みつけていたが、やがて短く息を吐いた。

 

「そうかよ。なら、勝手にしろ」

 

彼は懐から一枚の書類を取り出し、パラスの膝の上に投げ捨てた。

 

「だが、あんたの体はもう誤魔化しがきかない。ロドス・アイランドへの第一報は、すでに送ってある」

 

「ロドス?」 パラスは書類を手に取り、目を見開いた。それは、外部の医療機関であるロドス・アイランドへの通信記録の控えだった。 そこには、傭兵が観察した発熱、咳、左足首の結晶周囲の痛み、そして「村から人目を避けて移動できる経路」についての問い合わせが、時刻とともに記されていた。返答には、遠隔情報だけで病期や予後は判定できないこと、早急な検査を勧めること、本人の同意があれば秘密保持のもと診察と治療を行えることが明記されている。酒を鎮痛や睡眠の代わりに用いないように、との注意も添えられていた。

 

「な……」 パラスは言葉を失った。

 

「数日前に返答があった。診察を受ける道はある。会談が終わったら、すぐ動けるよう経路と護衛を押さえた」

 

パラスの中で、悲しみと疲労が、一気に激しい怒りへと変わった。

 

「あなたという人は……ッ!」 パラスは書類を握り潰し、声を荒らげた。 「なぜ、私の許可もなく、私の未来を勝手に決めるのです! 私はこの村の祭司です。いつどこで倒れ、どこで死ぬかは、私自身が選ぶことだ!」

 

「あんたが自分の命を粗末にするから、俺が代わりに手はずを整えただけだ」

 

「これは越権行為です! 護衛の契約の中に、私の人生の選択権を譲り渡した覚えなどありません!」

 

「死人に契約は守れない。俺は俺の仕事をしたまでだ」 傭兵は一切の悪びれる様子もなく、冷酷に言い放つ。 「文句があるなら、生きてから解雇しろ」

 

彼はそれだけを言い残し、背を向けて部屋を出て行こうとする。

 

「待ちなさい! まだ話は終わって……!」

 

バタン、と。 パラスの制止を無視して、重い木の扉が閉ざされた。

 

机の上の交代表は、修正の入らないまま、夜風にめくれて床へ落ちた。

 

「……っ、ああ……!」

 

パラスは寝台に顔を伏せ、声を殺して泣いた。 彼が自分の命を救おうとしてくれていることは分かっている。だが、その強引な庇護は、パラスから「指導者としての責任」も「自分自身の選択」も、すべてを奪い取る暴力に等しかった。

 

***

 

扉の外で、傭兵は静かに立ち尽くしていた。 彼は部屋の中から聞こえる微かな嗚咽に耳を傾けながら、戸口の脇に置かれた小さな木箱の上へ、水差しと、用量と次に服用できる時刻を書き添えた鎮痛剤と抑制剤を置いた。足首を冷やしすぎないよう包む清潔な布と毛布も重ねる。酒差しは手の届かない棚へ戻した。

 

彼はそれ以上言葉をかけることも、部屋に入ることもせず、当初の巡回経路へ戻った。

 

日付が変わり、会談前日となった夜明け前。 パラスの印を精巧に写した偽の交代表が自警団へ回った。清書前の口頭修正をそのまま写し取り、裏門の一人を数字だけ入れ替えた一枚だった。同時に穀物挽き場で小火が起こり、待機班の半数がそちらへ誘導される。外周を巡回していた傭兵は、伝令が持つ札の結び方が規定と違うことに気づいたが、その時にはすでに裏手で刃が交わっていた。

 

「……敵襲!!」

 

見張り台からの悲鳴で、パラスは跳ね起きた。 急いで外套を羽織り広場へ駆けつけると、そこには血を流して倒れている村の戦士たちと、破壊された天幕の無惨な姿があった。

 

「何があったのですか!?」 パラスが叫ぶと、息も絶え絶えの戦士が答えた。

 

「やられました少数の精鋭が、裏手から! 捕らえていた偽旗工作の証人と明日の会談で使う、条約の認証台帳が、奪われました……!」

 

パラスは目の前が真っ暗になるのを感じた。

 

奪われたのは単なる条文の板ではない。参加する各村と部族の印、条項ごとの確認符、書記たちの照合記録をまとめた認証台帳だった。羊皮紙の草案は書き直せても、台帳がなければ、明日の席で「これは双方が確認した文面だ」と証明できない。しかも証人を生かして連れ去ったのなら、襲撃者は彼に「ミノスの復讐派に命じられた」と偽証させるつもりかもしれない。

 

「裏門は……裏門の見張りは、どうなりましたか」

 

答えは返らなかった。 村人たちが道を空けた先、跳ね上げ式の裏門の下に、ニコスが横たわっていた。

 

一人だった。門の閂に手をかけたまま、背中から二度刺されている。血はすでに乾き始め、砂に吸われていた。すぐ横には、彼が最後まで離さなかった槍が、柄を半ばで折られて転がっている。

 

パラスは膝をついた。手を伸ばし、脈を探る。冷たかった。呼吸も、瞳孔の反応もない。祭司として、治療者として、彼女はその意味を誰よりも早く理解できてしまった。

 

「昨日の夕刻、私が」

 

声が掠れた。

 

「裏門を、二人から一人に減らしました。清書も、照合も、明朝でよいと。偽の表は、私が口で言い直したその一行を、そのまま写していた」

 

傍らで、傭兵が門柱の刃傷と足跡を検めていた。彼は顔を上げず、事実だけを述べた。

 

「敵は交代表が口頭で動くのを知っていた。内通者がいる。それは俺が潰しきれなかった穴だ」 そして、続けた。 「だが、裏門を一人にしたのはあんただ。俺と突き合わせていれば、俺は反対した。それも事実だ」

 

慰めはなかった。免罪もなかった。 パラスは、その正確さに救われもしなければ、傷つきもしなかった。ただ、聞いたことを一つずつ、自分の中へ置いていくしかなかった。

 

ニコスの遺体は戸板に載せられ、天幕へ運ばれた。担架の前を担いだのは、二日前、彼がサルゴンの書記官を運んだのと同じ側だった。

 

パラスは血の乾いた地面にしばらく座り込み、それから立ち上がって、指令所の記録板を取りに行った。 震える手で、彼女は自分の指示を日付と時刻ごとにすべて書き出した。誰に何を口頭で伝え、何を明朝へ回したのか。一行も省かなかった。最後に、その下へ死者の名を書いた。

 

羽ペンの先が紙をひどく引っ掻き、名の一画が滲んだ。それでも、パラスは書き直さなかった。

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