サイラオーグが駒王学園を訪れてから数日、リアス眷属の日常は目に見えて忙しさを増していた。
昼間は普段通り授業を受け、放課後になれば学園祭の準備へ加わる。校舎のあちこちでは看板や装飾が作られ、教室では出し物の相談が続き、廊下を歩けば何かしらの資材を抱えた生徒とすれ違う。その作業が一区切りつけば、今度はレーティングゲームへ向けた訓練が待っている。
修学旅行から戻って間もないことを考えれば、かなり詰め込まれた日程だった。
それでも、一誠たちの誰も手を抜こうとはしていない。
特に一誠は、京都で英寿と手合わせをしてから少しずつ戦い方を変え始めていた。
《赤龍帝の籠手》による増幅そのものは今までと同じだ。けれど、力が増した瞬間にそのまま前へ飛び出すことは減っている。相手の構えを見る。足の向きを見る。どちらへ避けようとしているのか、どこへ攻撃を置けば嫌がるのかを考える。
まだ慣れてはいない。
考えることが増えたせいで、逆に判断が遅れる場面もあった。
その日の訓練でも、一誠はゼノヴィアを相手に何度も失敗していた。
『Boost!』
右腕の籠手から響いた声とともに力が増幅される。
一誠はすぐに踏み込まず、剣を構えたゼノヴィアの周囲を回った。
先に動いたのはゼノヴィアだった。
上段から鋭く剣が振り下ろされる。
一誠は真正面から受け止めず、半歩だけ横へずれた。刃が身体のすぐ横を通過し、そのままゼノヴィアの懐へ踏み込もうとする。
だが、ゼノヴィアも一度かわされた程度では止まらない。
剣を途中で引き戻し、腰を回転させながら横薙ぎへ繋げる。
一誠は反射的に大きく後退しかけたが、途中で踏み止まった。
剣が届く直前までその場へ残り、ゼノヴィアの腕が伸び切る瞬間だけ身体を沈める。
頭上を刃が通過した。
「ここ!」
一誠は下から踏み込み、右拳を突き出した。
ゼノヴィアは左腕で受けたものの、増幅された拳の勢いまでは完全に殺せない。地面を滑るように数歩後退し、すぐに剣を構え直した。
「今のは良かったぞ」
ゼノヴィアが素直に評価する。
一誠は一瞬嬉しそうな顔になったものの、今回はそこで動きを止めなかった。
ゼノヴィアの次の一手を警戒しながら距離を取る。
少し離れた場所でその様子を見ていた英寿が、小さく頷いた。
「前よりいいな」
一誠がそちらへ目を向ける。
「本当か?」
「相手の一発目だけじゃなく、その後まで見るようになってる」
英寿にそう評価されても、一誠は今度は完全には気を抜かなかった。
ゼノヴィアが踏み込んでくるのを見れば、すぐに英寿から視線を戻す。迫ってきた剣を腕で逸らし、そのまま反撃へ飛びつくこともなく、ゼノヴィアが次にどう動くかを警戒しながら間合いを取り直した。
英寿はその動きを見て、僅かに笑う。
「今度は褒められても油断しなかったな」
「同じ失敗何回もしたくないからな!」
一誠はそう返しながらも、ゼノヴィアから視線を外さなかった。
とはいえ、考えながら動くことそのものに慣れたわけではない。相手の肩へ意識を向けすぎれば足元への蹴りに反応が遅れ、間合いを気にしすぎれば剣を受ける判断が一瞬遅れる。以前なら考えもしなかったことへ意識を向けるようになった分、別のところへ注意が回らなくなることもあった。
以前とは違う失敗が増えただけとも言える。
それでも、何も変わっていないわけではなかった。
訓練を見ていたリアスも、その変化には気づいている。
「一誠、少しずつ変わってきたわね」
隣にいた朱乃へ声を掛ける。
「ええ。まだ動きに迷いがありますけれど、以前より相手を見ていますわ」
リアスは静かに頷いた。
眷属が成長していることは、王である彼女にとって嬉しいことだった。
やがて訓練を一区切りつけた一誠が、汗を拭きながらこちらへ戻ってくる。
「部長、もう一回やってもいいですか?」
その呼び方を聞いた瞬間、リアスの表情がほんの僅かに止まった。
「……ええ。ただし、次で最後にしましょう。試合前に無理をしても意味がないわ」
「分かりました、部長!」
一誠は元気よく答え、そのままゼノヴィアのところへ戻っていった。
リアスは少しだけその背中を見送る。
朱乃が横目で彼女を見た。
「リアス」
「何?」
「何も」
「朱乃」
少しだけ低くなった声に、朱乃は口元へ手を添えて笑った。
「私はまだ何も申し上げていませんわ」
「その顔で十分よ」
リアスは小さく息を吐いた。
そこから少し離れた場所にいた英寿も、今のやり取りを目にしていた。
一度なら気にしなかっただろう。
しかし、ここ数日で似た反応を何度か見ている。
一誠が「部長」と呼ぶ。
リアスが一瞬だけ何かを堪えるような顔をする。
それでも次の瞬間には、いつものリアス・グレモリーへ戻っている。
理由までは分からない。
だから英寿は何も言わなかった。
事情を知らないまま、他人の感情へ勝手に答えを付けるつもりはなかった。
◆
訓練が終わった頃には、一誠たちの身体に相応の疲労が溜まっていた。
アーシアが軽い負傷を順番に治療し、リアスは翌日の予定を確認する。学園祭の準備も続いているため、毎日限界まで鍛えるわけにはいかない。
アザゼルもその点についてはかなり厳しかった。
「今日はここまでだ」
「まだ結構動けますよ?」
一誠が言う。
「だから止めんだよ」
アザゼルは即座に返した。
「疲労が抜けねぇ状態で訓練を続けても、雑な動きを身体に覚え込ませるだけだ。試合当日に一番いい状態で動けなきゃ意味がない」
「はい」
一誠は素直に頷いた。
英寿もその判断に異論はなかった。
強くなることと、ただ身体を痛めつけることは違う。
数日前より一誠の動きは確実に良くなっている。だが、それでサイラオーグへ勝てるかどうかは別の話だった。
映像で見た限りでも、あの男は単純な力比べだけで崩せる相手ではない。
ましてやレーティングゲームは一対一の決闘ではない。
サイラオーグにも眷属がいる。
一誠にも仲間がいる。
一人だけを見て勝敗を考えること自体が、そもそも違うのだろう。
片付けを終え、全員で駒王学園へ戻る途中、一誠が英寿の隣へ並んだ。
「なあ、英寿」
「ん?」
「俺とサイラオーグさんが戦ったら、どっちが勝つと思う?」
英寿は少しだけ一誠を見る。
「それを俺に聞くのか?」
「英寿なら、何となく分かるかなって。俺とは実際戦ったし、サイラオーグさんの映像も見ただろ?」
一誠なりに気になっていたらしい。
英寿は少し考えてから答えた。
「今のまま真正面から力比べをするなら、サイラオーグだろうな」
一誠の肩が露骨に落ちた。
「やっぱり?」
「でも、お前らがやるのは力比べじゃなくてレーティングゲームだろ?」
「それはそうだけど」
「相手にも仲間がいるし、お前にもいる。実際に戦えば、映像だけじゃ分からないことも出てくる」
英寿は前を向いたまま歩き続ける。
「今ここで勝つか負けるか決めても意味ないだろ」
一誠は少し考えた。
「……まあ、そうだな」
「だから試合するんだろ?」
「そう考えると身も蓋もないな」
一誠は苦笑したものの、先ほどまでより肩の力は抜けていた。
英寿もそれ以上、勝てるとも負けるとも言わない。
その答えを出すのは一誠たち自身だった。
◆
駒王学園へ戻ると、眷属たちはオカルト研究部の部室で簡単な反省会を行った。
今日の訓練で良かったところと悪かったところをリアスが確認し、アザゼルからもいくつか指摘が入る。レーティングゲームを意識した連携訓練も、これから少しずつ増やしていくことになった。
一誠はいつも通り真面目に話を聞いている。
「じゃあ部長、明日は――」
一誠が口を開いたところで、リアスの指先が僅かに止まった。
「一誠」
「はい?」
リアスは彼を見た。
何かを言いたそうな顔だった。
一誠もそれに気づいたらしく、返事を待つ。
しかし数秒後、リアスは小さく首を振った。
「……何でもないわ」
「え?」
「今日は疲れているでしょう。もう帰って休みなさい」
「まあ、結構疲れてますけど」
一誠は不思議そうな表情をしたものの、リアスがそれ以上続けないため、深く追及しなかった。
「分かりました。じゃあ、お先に失礼します、部長」
その言葉に、リアスは僅かに目を伏せた。
一誠は気づかないままアーシアたちと部室を出ていく。
小猫は扉を出る直前、一度だけリアスへ振り返った。
やがて扉が閉じる。
部室にはリアスと朱乃、そして少し遅れて帰るつもりだった英寿が残った。
しばらく沈黙が続いた。
リアスは机の上に置かれた資料を整理しているものの、先ほどから同じ紙を何度も揃え直している。
朱乃が静かに声を掛けた。
「リアス」
「分かってるわ」
返事は早かった。
「一誠が悪いわけじゃないことくらい、分かってる」
その言葉を聞き、帰る準備をしていた英寿がリアスへ目を向けた。
「何かあったのか?」
リアスは少し迷った。
「……大したことじゃないわ」
「そうか」
英寿はそれ以上聞かなかった。
あまりにもあっさり引かれ、むしろリアスの方が少し驚いたようだった。
「聞かないの?」
「大したことじゃないって言ったのはリアスだろ?」
英寿は責めるでもなく、軽く笑った。
「話したくないなら、無理に聞くことでもない」
リアスは一瞬言葉に詰まった。
先ほど一誠へ対して感じたものとは違う。
英寿は気づいていないのではなく、気づいた上で踏み込んでこない。
その違いが分かったからこそ、リアスは少し迷った末に再び口を開いた。
「英寿」
「ん?」
「もし……自分にとって大切な人が、自分との距離をずっと同じところに置こうとしていたら、あなたならどうする?」
かなり曖昧な質問だった。
それでも、一誠が何度も口にしていた「部長」という呼び方と無関係ではないことくらい、英寿にも察しがついた。
英寿はすぐには答えなかった。
少し考えたあと、リアスへ視線を向ける。
「俺ならどうするかより、リアスはどうしたいんだ?」
「私?」
予想していなかった返しだったらしい。
「近づきたいのか、今のままでいいのか。それを決めるのは俺じゃないだろ」
リアスは黙った。
英寿は答えを急かさない。
朱乃も何も言わず、友人の横顔を見ていた。
やがてリアスは机の上へ視線を落とした。
「……近づきたいわ」
小さな声だった。
それでも、はっきり聞こえた。
「一誠には、もう少し私自身を見てほしい。王としてでも、部長としてでもなく……」
そこまで言ってから、リアスは言葉を止めた。
頬が僅かに赤くなる。
英寿はそれを茶化さなかった。
「なら、それがリアスの願いなんだろ」
その言葉に、リアスが顔を上げる。
「願うのは自由だ」
英寿は穏やかに続けた。
「だったら、自分が何を願ってるのかくらいは、自分で分かってた方がいいんじゃないか?」
何か特別な答えを与えたわけではない。
一誠がどうすれば振り向くのかも、リアスが何を言えばいいのかも教えていない。
ただ、リアス自身が望んでいるものを確認しただけだった。
リアスはしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……そうね」
先ほどまでより、少しだけ表情が柔らかくなっていた。
「ありがとう」
「俺は何もしてないよ」
英寿は軽く肩を竦める。
「どうするか決めるのはリアスだからな」
その言葉を最後に、今度こそ部室を出ていった。
扉が閉じる。
朱乃はしばらくそれを見送ってから、楽しそうに微笑んだ。
「神様らしいのか、らしくないのか分からない答えでしたわね」
リアスも僅かに笑う。
「でも、英寿らしいとは思うわ」
願いを叶える神。
だからこそ、誰かの願いを勝手に決めない。
何を望むのかは、まず本人に委ねる。
京都で九重に対してそうだったように、リアスに対しても英寿の姿勢は変わらなかった。
「私がどうしたいか、か……」
リアスは独り言のように呟いた。
一誠に気づいてほしい。
名前で呼んでほしい。
ただの主従ではなく、もっと近い場所から自分を見てほしい。
それが自分の願いなのだと、言葉にすれば驚くほど簡単だった。
問題は、一誠がそれにまるで気づいていないことだった。
「本当に鈍感なんですから」
「そこも一誠くんですもの」
朱乃がくすりと笑う。
リアスも少しだけ笑った。
まだ何も解決してはいない。
けれど、自分が何を不満に感じているのかすら曖昧なまま抱え込むよりは、少しだけ前へ進んだ気がした。
◆
一方、一誠は校舎を出たところで足を止めていた。
一緒に帰ろうとしていたアーシアが、不思議そうに振り返る。
「一誠さん?」
「いや……」
一誠は後ろの旧校舎を見上げた。
先ほどのリアスの様子がどうにも頭へ残っている。
何でもないと言われた。
以前の一誠なら、そのまま受け取っていただろう。
けれど最近は、戦闘中だけとはいえ相手を見ることを意識している。そのせいなのか、リアスが本当に何でもない顔をしていたわけではないことくらいは分かった。
「俺……何かしたかな」
一誠が呟く。
隣にいた小猫が彼を見る。
「ようやくそこまでは気づいたんですね」
「え?」
一誠が振り返る。
「小猫ちゃん、何か知ってる?」
「自分で考えてください」
「やっぱり知ってるよね!?」
小猫は答えずに歩き始めた。
一誠は慌ててその後を追う。
「アーシア、アーシアは何か分かる?」
「えっと……」
アーシアは困ったように笑った。
「私からお話しするより、一誠さんがリアス部長のことをよく見た方がいいと思います」
「みんな同じこと言う!」
一誠は頭を抱えた。
それでも、さっきまでとは違う。
リアスが何かを抱えていることだけは、もう思い過ごしではないらしい。
一誠は歩きながら、今日一日のことを思い返した。
訓練中。
反省会。
帰る直前。
リアスが表情を変えた瞬間はいくつかあった。
その全てに共通していたものが何なのか、まだ一誠には分からない。
だが、少なくとも以前のように「何でもないならいいか」で終わらせる気にはなれなかった。
強くなりたいなら相手を見ろ。
英寿との手合わせで覚えたことは、本来戦闘だけに限った話ではないのかもしれない。
一誠はもう一度旧校舎へ振り返った。
明日になれば、また学園祭の準備があり、サイラオーグ戦へ向けた訓練もある。それでも、リアスの様子をそのままにするつもりはなかった。
次に話す時は、もう少しちゃんと彼女を見よう。
一誠はそう決めて、アーシアたちの後を追った。