レーティングゲーム当日の朝、一誠は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
薄暗い部屋の天井を見上げたまま、しばらく動かない。身体に妙な重さはなく、昨日まで続いていた訓練の疲れもほとんど残っていなかった。アザゼルから試合直前に無理をするなと何度も念を押されていたこともあり、昨夜は普段より早く休んでいる。
体調だけなら悪くない。
それでも、胸の奥は朝から落ち着かなかった。
今日の相手はサイラオーグ・バアル眷属。
若手悪魔の中でも屈指の実力者であり、その中核にいるサイラオーグ本人がどれだけ強いのかも、一誠は十分に知っている。ここ数日は過去の試合映像を何度も見返し、リアスやアザゼルと対策を考え、実際の訓練でもこれまで以上に相手の動きを見ることを意識してきた。
京都で英寿と手合わせをした時に突きつけられた、自分の戦い方の粗さ。
力を増幅するだけでは、上には届かない。
それを身体で理解出来たことは、間違いなく大きかった。
だが今、一誠の頭を占めているのはサイラオーグのことだけではない。
リアスとの間に残ったままの距離も、まだ消えてはいなかった。
名前を呼べなかった。
ただそれだけのことが、自分の中では思っていた以上に大きな壁だった。
本人のいないところなら言える。
リアス。
声にも出せる。
けれど彼女を目の前にすると、胸の奥にあの日の記憶が蘇る。初めて信じた相手に裏切られ、殺された記憶が、名前を呼ぶというたった一歩をためらわせる。
理由が分かったからといって、それだけで恐怖が消えるわけではなかった。
一誠は上体を起こし、両手で顔を擦った。
「……今日は今日だ」
小さく呟く。
リアスとのことは大切だ。
だからこそ、中途半端な気持ちで向き合いたくない。
そして今日のレーティングゲームもまた、リアスたちと一緒に積み重ねてきたものの先にある大切な戦いだった。
どちらか一つだけを見ればいいわけではない。
一誠はベッドから立ち上がった。
◆
集合場所へ着いた時には、リアス眷属の面々はほとんど揃っていた。
アーシアは緊張した様子で両手を胸の前に重ね、小猫は普段と大きく変わらない表情ながら、いつもより口数が少ない。ゼノヴィアは身体の調子を確かめるように肩を回し、朱乃は全員の様子を見ながら静かに微笑んでいる。
その中心に、リアスがいた。
一誠が近づくと、彼女もすぐに気づいた。
互いに一瞬だけ足が止まる。
「おはよう、一誠」
先に声を掛けたのはリアスだった。
「おはようございます」
一誠も返す。
以前なら、その後に何も考えず「部長」と続けていたはずだった。
今日は言わなかった。
だからといって、まだ名前を呼ぶことも出来ない。
ほんの短い沈黙が生まれたが、リアスもそこへ触れようとはしなかった。
「身体の調子は?」
「大丈夫です。昨日もちゃんと休みました」
「そう。なら良かったわ」
それだけ言って、リアスは僅かに表情を緩めた。
アーシアは二人のやり取りを心配そうに見ていたが、何も口にはしなかった。
今は試合前だ。
二人の間に問題が残っているからといって、それまで積み上げてきた信頼までなくなったわけではない。
リアスは全員が揃ったことを確認すると、眷属の王としての表情へ切り替えた。
「今日まで皆、本当によく頑張ってくれたわ」
自然と全員の視線が彼女へ集まる。
「相手が強いことは、もう十分分かっていると思う。サイラオーグ・バアル眷属は簡単に勝てる相手じゃない。それを軽く見るつもりもないわ」
一誠も真剣に聞いていた。
「でも、私たちだって今日まで何もしてこなかったわけじゃない。これまで何度も一緒に戦ってきたし、今回のためにも出来ることはやってきた」
リアスは一人ずつ眷属の顔を見る。
「だから今日も、誰か一人で勝とうとしないで。自分の役目を果たして、仲間を信じる。最後まで全員で戦いましょう」
「はい!」
最初に一誠の声が響き、他の眷属たちも続いた。
リアスは満足そうに頷いた。
ちょうどその時、少し遅れて二人の男が姿を見せる。
アザゼルと英寿だった。
「よう。全員揃ってるな」
アザゼルが軽く手を上げる。
一誠の視線は、その隣にいる英寿へ向いた。
「英寿、来たんだな」
「ああ。見せてもらうって言っただろ」
英寿はいつも通りだった。
これから大きな試合が始まるというのに、変に構えている様子もない。
その顔を見た一誠は、ほんの少しだけ肩から余計な力が抜けた。
「終わった後、また色々言われそうだな」
「始まる前から反省会の心配か?」
「そういう意味じゃないって」
一誠が苦笑する。
英寿も軽く笑った。
「ちゃんと見ておくよ」
「じゃあ見てろよ。前よりはマシになってるところ見せるから」
「期待してる」
その短いやり取りだけで十分だった。
勝てとも負けるなとも言わない。
一誠たちがどう戦うのかを見る。
英寿がここへ来た理由は、それだけだった。
◆
試合会場へ移ると、一誠たちは出場者として別の区画へ案内された。
英寿とアザゼルは観戦側へ向かう。
道中、英寿は周囲を興味深そうに見ていた。
京都では妖怪たちの社会を見た。
駒王町では悪魔たちの暮らしを見た。
そして今日は、その悪魔たちが自分たちの力を競うために整えた公式戦を見ることになる。
私闘ではない。
殺し合いでもない。
勝敗を決めるための規則があり、その中で互いの力を示す。
それは英寿の知るデザイアグランプリとも全く同じではないが、戦いへルールを与えるという点では少しだけ馴染みのあるものでもあった。
「どうだ?」
隣を歩いていたアザゼルが尋ねる。
「何が?」
「初めて見るレーティングゲームの感想だよ」
英寿は周囲をもう一度見回した。
「まだ始まってないだろ」
「そりゃそうだ」
「でも、思ってたよりずっとちゃんとしてるな」
アザゼルが眉を上げる。
「どういう想像してたんだよ」
「悪魔同士の公式戦って聞いただけだったからな。もう少し荒っぽいものかと思ってた」
「お前、この世界の悪魔を何だと思ってるんだ」
「来てからまだそんなに経ってないんでね」
英寿が笑うと、アザゼルも呆れながら笑った。
そのまま進んだところで、前方から大柄な男が歩いてくる。
サイラオーグだった。
前に駒王学園で会った時とは違い、試合直前の今は全身から張り詰めた気配を感じる。敵意ではない。ただ、これから自分の力を全てぶつける者だけが持つ集中だった。
サイラオーグも英寿へ気づいた。
「来てくれたのか」
「ああ。誘われたからな」
「そうか」
サイラオーグの口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「なら、今日はよく見ていてくれ」
「そのつもりだ」
英寿も正面から彼を見る。
映像だけでも強さは分かっていた。
実際に向かい合えば、その印象はさらに強くなる。
鍛え上げられた肉体そのものもそうだが、立ち方に無駄が少ない。大柄な体格を持ちながら、ただ重く構えているわけでもなかった。
生まれつき足りなかったものを理由に立ち止まらず、自分に出来る方法でここまで積み重ねてきた男。
英寿はそういう相手を嫌いではなかった。
「楽しみにしてる」
「期待を裏切らないようにしよう」
サイラオーグは力強く頷いた。
そのまま立ち去ろうとしたところで、一度足を止める。
「英寿、一ついいだろうか」
「何だ?」
「君も戦う者なのだろう?」
「まあな」
「なら、今日の試合を見た後で構わない。私の戦いについて、何か感じたことがあれば率直に聞かせてほしい」
英寿は僅かに目を細めた。
「俺の感想を?」
「ああ。強い者の目から自分がどう見えるのかには興味がある」
自分を卑下しているわけではない。
むしろ自分の強さへ確かな自信を持っているからこそ、それでも学べるものがあるなら受け入れようとしている。
英寿の口元が僅かに上がった。
「いいぜ」
「感謝する」
サイラオーグはそれだけ告げ、自分の眷属たちのもとへ戻っていった。
その背中を見送りながら、アザゼルが横から英寿を見る。
「随分気に入ったみたいじゃねぇか」
「そう見えるか?」
「見える」
英寿は否定しなかった。
「面白い奴だとは思ってるよ」
「戦いたくなったか?」
その問いには、英寿もすぐには答えなかった。
映像でしか知らなかったサイラオーグの戦いを、今日は実際に見ることが出来る。もしその上で本人から真正面から勝負を望まれれば、興味がないと言えば嘘になる。
けれど今は違う。
「まずは今日の試合を見てからだな」
それだけ答えた。
今日戦うのはリアスたちだ。
英寿が入り込む場面ではない。
◆
試合開始までの時間が近づき、リアス眷属の控え場所でも最後の確認が行われていた。
装備を確認しながら、一誠は仲間たちを順番に見る。
アーシア。
小猫。
ゼノヴィア。
朱乃。
最後に、リアス。
誰も緊張していないわけではない。
それでも、ここから逃げようとしている者はいなかった。
リアスが一誠の前へ歩いてくる。
「一誠」
「はい」
「今日はあなたの力が必要になるわ」
「分かってます」
一誠は強く拳を握った。
「サイラオーグさんが強いのは知ってます。でも、最初から負けるつもりで来たわけじゃありません」
「ええ」
リアスは真っ直ぐ一誠を見る。
一誠も視線を逸らさなかった。
名前を呼べるだろうか。
一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎる。
けれど、リアスを前にするとやはり胸の奥にあの感覚が戻ってきた。
無理に口にしようとすれば、また言葉が詰まる。
一誠は一度だけ息を吐いた。
焦る必要はない。
怖くないふりをする必要もない。
英寿に言われたことを思い出す。
自分がまだ名前を呼べないことと、リアスを信頼していることは別だ。
その信頼まで言葉に出来ないわけではない。
一誠は改めて彼女を見た。
「俺、やれること全部やります。だから――一緒に勝ちましょう」
リアスの瞳が僅かに見開かれた。
以前なら、きっとその言葉の最後には自然と「部長」が付いていた。
今は違う。
まだ「リアス」とは呼べない。
それでも、一誠は肩書きに逃げることなく、自分へ真っ直ぐ言葉を向けている。
それがリアスにも分かった。
数秒後、その表情が柔らかくなる。
「ええ。一緒に勝ちましょう」
「はい」
一誠も小さく笑った。
問題が解決したわけではない。
だが、二人の間にあるもの全てが止まっているわけでもなかった。
◆
やがて、試合開始を告げる時が来た。
リアス・グレモリー眷属とサイラオーグ・バアル眷属が、それぞれ配置へ移る。
緊張と高揚が一誠の胸の中で入り混じっていた。
命を懸けた戦いなら、これまでにも経験している。
それでも今日には、今日だけの重さがある。
リアスを勝たせたい。
仲間と一緒に勝ちたい。
そして、自分がどこまで戦えるのか確かめたい。
京都で英寿と戦う前の自分なら、サイラオーグを前にして最初に考えたのは、どれだけ《赤龍帝の籠手》で力を増幅すれば正面から上回れるかだっただろう。
今は違う。
力は必要だ。
《Boost》を重ねることも、自分の大きな武器であることに変わりはない。
けれど、それだけを見ていてはいけない。
相手を見る。
仲間を見る。
戦場全体を見る。
自分がどこへ動けば、仲間が動きやすくなるのかまで考える。
ここ数日の訓練では、意識を増やしたせいで逆に動きが遅れることもあった。以前とは違う失敗が増えただけとも言える。
それでも、何も変わっていないわけではない。
観戦席からその姿を見ていた英寿は、一誠の立ち方が以前とは僅かに違っていることに気づいていた。
前へ出ることばかりを考えていない。
周囲へ目を向けている。
まだ、それが戦いの中でどこまで出来るのかは分からない。
「少しは変わったか?」
隣にいるアザゼルが尋ねる。
英寿は一誠から視線を外さなかった。
「どうだろうな」
「お前が散々相手してやったんだろ?」
「一回手合わせしただけだ」
英寿は軽く笑った。
「変わったかどうかは、これから分かるだろ」
その時、開始を告げる声が会場へ響いた。
空気が一瞬で変わる。
リアスの表情から最後の柔らかさが消え、王として戦場を見る目になる。
向かい側では、サイラオーグもまた静かに構えた。
一誠の右腕へ《赤龍帝の籠手》が現れる。
心臓が大きく鳴った。
怖くないわけではない。
サイラオーグが強いことも、自分にまだ足りないものが多いことも知っている。
リアスとの間に残っているものだって、まだ完全には片付いていない。
それでも、ここへ立つ理由に迷いはなかった。
一誠は自分の周囲にいる仲間たちを一度確認し、最後にリアスを見る。
リアスが静かに頷く。
一誠も頷き返した。
そして前を向く。
サイラオーグ・バアル眷属とのレーティングゲームが、ついに始まった。