開始を告げる声が響いた直後、一誠は飛び出さなかった。
数日前までの自分なら、戦いが始まった瞬間に《赤龍帝の籠手》を起動し、少しでも早く力を増幅することを考えていただろう。相手がサイラオーグ・バアル眷属ほどの強敵なら、なおさら最初から出力を高めなければならないと思っていたはずだ。
だが今は、まず周囲を見た。
自分の前方にはゼノヴィア。その少し後ろに小猫が位置し、アーシアは戦闘へ直接巻き込まれないよう後方へ下がっている。朱乃は上空を含めた広い範囲を警戒し、中央ではリアスが戦場全体を見渡していた。
そして、向こう側。
サイラオーグ眷属も開始直後から無闇に突っ込んではこない。
互いの距離を保ちながら配置を変え、こちらがどう動くのかを見ている。
一誠は息を吐いた。
「簡単には来ないか……」
『Boost!』
右腕から音声が響く。
一段階。
すぐには使わない。
身体の内側へ蓄えられていく力を感じながら、一誠は相手の動きを見る。
「一誠」
後方からリアスの声が届いた。
反射的に振り返りかけ、それを止める。
声の位置は分かっている。
わざわざ相手から完全に目を離す必要はない。
「正面を維持して。まだ追わなくていいわ」
「はい!」
返事だけを返す。
一誠の視線は相手から外れなかった。
観戦側からその様子を見ていた英寿が、ほんの僅かに口元を緩めた。
「最初から飛び出さなかったな」
英寿がそう言うと、隣のアザゼルが画面を見たまま笑った。
「前なら行ってたぜ。あいつ、相手が強いと分かってるほど先にブーストを重ねて、力で押し切ろうとするところがあったからな」
「力を上げるのは変わってない。でも、上げたからってすぐ仕掛けなくなったな」
「ああ。そこは変わった」
一誠はすでに力を増幅している。それでも、その力を得た瞬間に前へ飛び出すことはせず、相手と仲間の位置を確かめながら機会を待っていた。
英寿は腕を組んだまま、その動きを追う。
「あれはあいつの武器だ。捨てる必要はないだろ」
「使える力を減らすんじゃなく、使いどころを覚えろってことか」
「ああ。問題なのは力があることじゃない。それしか見えなくなることだからな」
一誠が少しずつ前へ動いた。
相手も動く。
距離が縮まった。
最初の衝突は、唐突に始まった。
◆
正面から接近してきた敵を見て、一誠は右拳を構えた。
一対一なら、そのまま迎え撃っていた。
しかし敵の後方にも別の気配がある。
「一誠先輩、右です」
小猫の声。
今度はそちらへ意識を向けすぎない。
目の前の相手を視界へ残したまま、一誠は身体を半歩ずらした。
直後、右側から飛び込んできた攻撃が一誠のいた場所を通過する。
「よし!」
反撃しようとして、踏み出しかけた足を止めた。
正面にいた相手が待っている。
誘われた。
そう理解した瞬間には、相手の拳が迫っていた。
一誠は両腕を上げて受ける。
重い。
腕へ衝撃が走り、身体が後方へ滑った。
「くっ……!」
完全には防げなかった。
だが、体勢までは崩されていない。
そこへゼノヴィアが割り込んだ。
鋭い剣撃が相手を下がらせる。
「前だけを見るな、一誠!」
「分かってる!」
「今のは分かっていなかっただろう!」
「今分かったんだよ!」
言い返しながらも、一誠は敵の位置を確認する。
以前なら、助けに入ったゼノヴィアへ任せて自分は別の敵へ突っ込んでいたかもしれない。
今は違う。
ゼノヴィアが攻めるなら、自分はその動きに合わせる。
『Boost!』
二度目の増幅。
一誠は正面からではなく、ゼノヴィアと角度をずらして接近した。
敵が剣を警戒して身体を動かした瞬間、その逃げ道へ一誠が入る。
「そこ!」
拳を叩き込む。
今度は入った。
相手が大きく後退する。
しかし一誠は追わない。
すぐ後ろを確認した。
別の敵が接近している。
「小猫ちゃん!」
「はい」
今度は小猫が前へ出た。
小柄な身体から放たれた一撃が、接近していた敵の動きを止める。
一誠はそこへ合わせようとして、一瞬だけ迷った。
どちらへ行く。
ゼノヴィア側か。
小猫側か。
その判断の遅れを、相手は見逃さなかった。
横から強い衝撃が入る。
「ぐっ!」
肩を打たれ、一誠の身体が傾いた。
追撃が来る。
一誠は反射的に腕を出す。
間に合わない。
その瞬間、赤い魔力弾が敵との間へ落ちた。
爆発が両者を分断する。
「一誠!」
リアスの声だった。
「迷うなら一度下がりなさい! 立ち止まる方が危険よ!」
「はい!」
一誠はすぐに後退した。
今の失敗は分かる。
周囲を見るようになった。
だから今度は、見えるものが増えすぎた。
ゼノヴィアを助けるべきか、小猫へ合わせるべきか。どちらが正しいのかを考えている間に、自分が止まった。
英寿との訓練でも何度もやった失敗だ。
考えることと、迷うことは同じではない。
「まだ全然だな……」
小さく呟く。
それでも、落ち込んでいる暇はない。
戦いは続いている。
一誠は再び前へ出た。
◆
観戦席では、アザゼルが画面を見ながら笑っていた。
「見事に悩んでるな」
「急に全部出来るようになったら、それはそれで怖いだろ」
英寿は落ち着いたままだった。
一誠の動きはまだ粗い。
見るものを増やしたことで、以前なら起こらなかった迷いが生まれている。
それでも英寿は悪くないと思っていた。
失敗の種類が変わった。
何も考えず前へ出た結果ではなく、考えたものをまだ処理し切れていない。
そこには大きな違いがある。
「前より悪くなったようにも見えるがな」
アザゼルが言う。
「今だけ見ればな」
英寿は否定しなかった。
「でも、今まで見てなかったものまで見ようとしてるんだ。最初から全部上手く出来るわけないだろ」
「ずいぶん長い目で見るじゃねぇか」
「まだ数日だぞ?」
英寿は少し笑う。
「結果を急ぎすぎだ」
その直後、画面の中で一誠が再び敵の攻撃をかわした。
今度は反撃を急がない。
後ろから来る仲間の位置を見る。
朱乃が上空から攻撃を落とす。
その進路を邪魔しないよう、一誠は自分から横へずれた。
雷撃が相手の逃げ道を塞ぐ。
そこへゼノヴィア。
さらに小猫。
一誠は最後に入った。
『Boost!』
増幅された拳が敵を吹き飛ばす。
今度は迷いが少なかった。
「ほらな」
英寿が言う。
アザゼルも口元を緩める。
「今のは悪くねぇ」
だが英寿の視線は、一誠だけを追ってはいなかった。
戦場のさらに奥。
そこにいる男を見ている。
サイラオーグ。
まだ大きく動いていない。
自分の眷属たちがどう戦うかを見ながら、必要な場所へだけ指示を出している。
一誠と違い、周囲を見ることへ余計な力を使っている様子がない。
長く積み重ねてきたものが、そのまま動きへ染み込んでいる。
「……やっぱり強いな」
英寿が呟いた。
アザゼルが横を見る。
「まだ本人ほとんど戦ってねぇぞ」
「だからだよ」
英寿はサイラオーグから目を離さない。
「自分が出る必要があるかどうかを分かってる」
力があるから前へ出るのではない。
今の自分が必要かどうかを判断している。
その落ち着きは、ただ身体を鍛えただけでは身につかない。
英寿の興味は、戦いが進むほど強くなっていた。
◆
試合は少しずつ激しさを増していった。
最初こそ互いに相手の出方を探っていたが、一度戦線が動けば悠長に構えている余裕はない。
朱乃の雷撃が上空から戦場を裂き、ゼノヴィアがその下を駆け抜ける。小猫は接近戦へ入り、アーシアは後方から仲間の状態を確認していた。
リアスは自分でも攻撃へ加わりながら、全体へ指示を飛ばす。
一誠はその声を聞くたび、すぐに反応した。
「一誠、左へ!」
「はい!」
「追いすぎないで!」
「分かりました!」
無意識に「部長」と付けそうになることはあった。
それでも今は止める。
名前を呼べないことばかり考えていたら、それもまた目の前の戦いを見ていないことになる。
リアスの指示を聞く。
信じて動く。
今はそれでいい。
一誠が敵の攻撃を避けたところへ、小猫が入る。
そのまま小猫へ合わせようとした時だった。
戦場の空気が変わった。
最初に気づいたのは一誠ではない。
ゼノヴィアだった。
「来るぞ!」
その声とほとんど同時に、大柄な影が前へ出た。
サイラオーグ。
それまで戦場全体を見ていた男が、初めて本格的に戦線へ入った。
速い。
一誠の目には、大きな身体が一瞬で距離を消したように見えた。
最初に狙われたのはゼノヴィアだった。
剣が振るわれる。
サイラオーグは真正面から受けない。
僅かに身体を外へずらし、刃が自分の横を通った瞬間にはゼノヴィアの懐へ入っていた。
拳。
ゼノヴィアが剣の腹を使って防ぐ。
衝撃音が響いた。
「っ……!」
ゼノヴィアの身体が後方へ飛ぶ。
一撃。
たったそれだけで、これまでの相手とは明らかに違う。
一誠は即座に動いた。
『Boost!』
力を増幅する。
「サイラオーグさん!」
正面から拳を放つ。
サイラオーグも避けなかった。
右拳が迎え撃つ。
拳と拳がぶつかった。
凄まじい衝撃が周囲へ広がる。
一誠の腕へ重い感触が突き抜けた。
「ぐっ……!」
押された。
増幅している。
それでも押された。
サイラオーグは一歩も引いていない。
「良い拳だ、兵藤一誠!」
その声には余裕だけではなく、本心からの評価があった。
一誠は歯を食いしばる。
「まだですよ!」
『Boost!』
さらに上げる。
今度はそのまま力比べを続けない。
一誠は拳を引き、身体を横へ回した。
正面に居続ければ押し負ける。
だったら角度を変える。
サイラオーグが追う。
その足が動いた瞬間を一誠は見た。
「ゼノヴィア!」
「分かっている!」
横から剣が飛ぶ。
サイラオーグはそちらへ身体を向け、腕で軌道を逸らした。
一誠が背後へ回る。
拳を打つ。
だが、届く直前にサイラオーグが身体を沈めた。
かわされた。
次の瞬間には肘が一誠の腹部へ迫っている。
「っ!」
一誠は両腕を入れた。
防いだ。
それでも身体ごと持っていかれる。
地面を何度も転がり、ようやく止まった。
「一誠さん!」
アーシアの声が聞こえる。
「大丈夫!」
一誠はすぐに起き上がった。
腕が痺れている。
腹の奥まで衝撃が残っている。
英寿とはまた違う。
英寿は自分の力を受け流し、位置をずらし、攻撃そのものを成立させないように戦った。
サイラオーグは違う。
技術を使う。
読んでもいる。
その上で、必要なら真正面からこちらの力を上回ってくる。
「滅茶苦茶強いって……こういうことかよ」
分かっていた。
実際に拳を合わせれば、それでも驚く。
サイラオーグが一誠を見る。
「以前より、ずいぶん周囲を見るようになったようだな」
一誠が目を見開く。
「分かるんですか?」
「今のおまえは、俺だけを見てはいなかった」
サイラオーグは構える。
「それでいい。レーティングゲームは一人で行うものではない」
一誠は拳を握り直した。
敵に教えられるのは少し複雑だ。
だが、言っていることは英寿と同じ方向だった。
そして目の前のサイラオーグは、それを一誠より遥かに高い水準で実践している。
「だったら――もっと見ますよ」
一誠は呼吸を整える。
サイラオーグだけではない。
ゼノヴィア。
小猫。
朱乃。
アーシア。
リアス。
相手の眷属。
戦場の位置。
全部を同時に完璧に見ることなんて出来ない。
だから、必要なものを選ぶ。
英寿のようには出来ない。
サイラオーグのようにも出来ない。
今の自分に出来る範囲でやる。
一誠は再び前へ出た。
◆
観戦席で、英寿はわずかに身を乗り出していた。
アザゼルがそれに気づく。
「お前がそんな顔するの珍しいな」
「どんな顔だよ」
「楽しそうな顔」
「そう見えるか?」
「見える」
少し前にも似たことを言われた気がする。
英寿は気にせず画面を見る。
サイラオーグが一誠とゼノヴィアを同時に相手取っている。
力が強い。
それだけなら分かっていた。
だが実際の戦いは、映像で確認した以上だった。
自分の体格と出力を理解している。
拳を大振りにしない。
必要以上に踏み込まない。
相手の攻撃へ真正面から付き合う時と、外す時を選んでいる。
そして一誠が連携を意識し始めたことにも、短い攻防の中ですぐに気づいた。
「強いな、あいつ」
今度ははっきり言った。
アザゼルも否定しない。
「だから若手でも上位なんだよ」
英寿はサイラオーグの動きを追う。
「魔力が足りなかったんだよな?」
「ああ」
「それで、ここまでか」
感心したような声だった。
生まれ持ったものが足りない。
なら、足りないことを嘆き続けるのではなく、自分に出来るものを積み上げた。
結果として、魔力に恵まれた者たちと同じ舞台に立つどころか、その上へ食い込むところまで来た。
英寿には、その在り方がよく分かる。
願う。
そして、その願いへ向かって自分の足で進む。
「面白い奴だ」
英寿が小さく笑った。
アザゼルが横目で見る。
「こりゃ試合が終わった後、何かありそうだな」
「何の話だ?」
「知らねぇよ」
アザゼルは笑って誤魔化した。
英寿もそれ以上聞かなかった。
まだ試合は続いている。
今は、その先を考える時ではない。
◆
戦場では、サイラオーグが一歩前へ出た。
それだけで一誠の身体へ緊張が走る。
真正面からぶつかれば押し負ける。
ならば、どうする。
一誠はサイラオーグの肩を見る。
足を見る。
視線を見る。
だが、そこだけへ集中しすぎない。
横にはゼノヴィア。
少し後ろには小猫。
上空には朱乃。
さらに後ろではリアスが戦場を見ている。
『Boost!』
力を上げる。
サイラオーグが踏み込んだ。
一誠も動く。
今度は正面から迎え撃たない。
一歩だけ横へ。
サイラオーグの拳が通過する。
避けた。
一誠は反撃へ移ろうとして、止めた。
サイラオーグの反対側の拳がすでに動いている。
もう一度外へずれる。
その瞬間、ゼノヴィアが入った。
サイラオーグが剣へ対応する。
今だ。
一誠が踏み込む。
拳を構える。
しかしサイラオーグはそれすら読んでいた。
身体を回し、ゼノヴィアの剣を外しながら、一誠の正面へ向き直る。
また拳がぶつかる。
衝撃。
一誠の足が地面を削る。
「ぐっ……!」
まだ押される。
それでも今度は、無理に押し返そうとしなかった。
力の向きを変える。
英寿にされたようには出来ない。
それでも、一誠は自分の腕を僅かに外へ流した。
サイラオーグの拳が完全な正面からずれる。
そのまま身体を横へ。
一誠は相手の脇を抜けた。
「――っ!」
出来た。
ほんの少し。
英寿が曹操の槍や自分の攻撃へやっていたこととは比べものにならないほど粗い。
それでも、真正面から耐える以外の選択を自分で選べた。
背後から拳を振るう。
サイラオーグが振り返る。
間に合う。
だが、その瞬間。
「一誠!」
リアスの声が飛んだ。
一誠は反射的に拳を止める。
何故。
そう考えるより早く横へ跳んだ。
直後、一誠がいた場所へ強烈な攻撃が落ちる。
サイラオーグではない。
別の敵だ。
リアスの声がなければ、完全に横からもらっていた。
一誠は着地すると同時に状況を確認した。
「ありがとうございます!」
名前はまだ出ない。
肩書きにも逃げなかった。
リアスは離れた場所から一瞬だけ一誠と目を合わせる。
「まだ終わってないわよ!」
「はい!」
一誠はすぐ前を向いた。
サイラオーグがこちらを見ている。
その口元に、僅かな笑みがあった。
「良い王だな」
「当然です」
一誠は即答した。
そこには迷いがなかった。
サイラオーグは力強く笑う。
「ならば、その王と共にどこまで来られるか――見せてもらおう!」
再び大地を蹴る。
一誠も迎え撃つ。
今度は自分一人で勝とうとは考えていない。
リアスの声を聞く。
仲間を見る。
その上で、自分の力を全部使う。
《赤龍帝の籠手》から、再び増幅の音声が響いた。
試合はまだ始まったばかりだった。
だが、一誠にとって本当の意味でサイラオーグ・バアルという強敵との戦いが始まったのは、この瞬間からだった。