京都の朝は、昨夜の騒乱など最初から存在しなかったかのように穏やかだった。
東の山並みから差し込んだ朝日が古い瓦屋根を淡く照らし、木々の隙間から鳥の声が聞こえてくる。人間たちの多くは眠っている間に京都を巡る気脈が乱れ、この土地を守護する九尾の狐が暴走していたことなど知る由もない。
しかし、人ならざる者たちの世界では事情が違った。
京都の妖怪たちが拠点としている屋敷では、まだ朝も早いというのに人の出入りが絶えない。八坂が無事に保護されたことへの安堵がある一方、彼女を利用した英雄派への警戒は昨夜までとは比べものにならないほど強まっていた。
そしてもう一つ。
この屋敷にいる者たちを落ち着かなくさせている存在があった。
縁側に腰掛け、出された茶を飲んでいる一人の青年。
浮世英寿。
昨夜、九重の願いの傍へ何の前触れもなく現れ、八坂の攻撃を消し去り、偽物の九尾を世界から取り除き、最後には白い狐の戦士へ姿を変えて八坂を救い出した男だった。
庭の木陰。
廊下の曲がり角。
屋根の上。
姿を隠しているつもりなのだろうが、あちこちから妖怪たちの視線が向けられている。
英寿はそれらを一度見回すと、湯呑みを口元から離した。
「随分と見られてるな」
「当然です」
すぐ隣から小猫の平坦な声が返ってくる。
英寿の向かいには一誠、アーシア、ゼノヴィアが座り、その少し後ろには昨夜の報告を受けて合流したリアスと朱乃がいる。
客人を囲む配置としては、いささか物々しい。
事情聴取と言った方が近かった。
それにもかかわらず、英寿だけは旅先で朝茶を楽しんでいるかのように寛いでいた。
その態度をしばらく見ていた一誠が、とうとう堪えきれなくなった。
「いや、やっぱりおかしいだろ」
英寿が湯呑み越しに一誠を見る。
「何が?」
「何が、じゃねぇよ。昨日いきなり九重ちゃんの横に出てきたと思ったら、八坂さんの攻撃は消す、分身みたいなのも全部消す、訳の分からない白い姿になる、最後には神様だとか言い出すし――」
一誠は昨夜から溜め込んでいた疑問を一気に吐き出すように捲し立てていった。
「お前、マジで何者なんだよ?」
その瞬間。
「一誠」
静かな声が落ちた。
決して大きな声ではない。
それでも一誠の肩が跳ねた。
振り返ると、リアスが笑っていなかった。
「……ぶ、部長?」
「昨夜、英寿さんが九重ちゃんと八坂様を助けてくれたことを忘れたの?」
「いや、それは忘れてないけど……」
「それなら、もう少し言葉を選びなさい」
リアスの声音は穏やかだったが、それがかえって逃げ道をなくしている。
「分からないことが多くて警戒するのは当然よ。でも、だからといって恩人に向かって最初から喧嘩を売るような聞き方をしていい理由にはならないわ」
一誠の勢いが目に見えて萎んでいった。
「……すみません」
「私にじゃないでしょう?」
一誠はしばらく黙っていたが、やがて英寿へ向き直った。
「……悪かった。昨日のことは、本当に感謝してる。ただ、分からないことが多すぎてさ」
「別に気にしてない」
英寿は軽く肩を竦める。
むしろ一連のやり取りを面白がっているようですらあった。
「元気があるのはいいことだ」
「なんか子供扱いされてる気がする……」
一誠の呟きに朱乃が口元を隠して笑い、小猫も僅かに視線を逸らした。
リアスは小さく息を吐いてから、改めて英寿へ向き直る。
「こちらから正式にお礼を言わせて。昨夜は八坂様と九重ちゃんを助けてくれて、本当にありがとう」
「俺だけで助けたわけじゃない」
英寿は即座に返した。
「九重が最後まで諦めなかったからだ」
リアスはその答えに僅かに目を細めた。
昨夜の報告でも聞いている。
英寿は自分一人で全てを終わらせなかった。
最後まで九重自身へ願わせ、その声を八坂へ届けさせた。
それが単なる演出ではないことは、今の答えからも分かった。
「それでも、あなたがいなければ辿り着けなかった結果よ」
「なら、礼は受け取っておく」
ようやく英寿が素直に頷いたところで、リアスは本題へ入る。
「まず、昨夜の白い姿について聞いてもいいかしら」
一誠も興味を抑えきれず、すぐに英寿を見る。
英寿は特に隠す様子もなく答えた。
「仮面ライダーギーツ」
聞き慣れない言葉に、数人が首を傾げる。
「仮面……ライダー?」
一誠が確かめるように繰り返した。
「ああ」
「それが、あの姿の名前なの?」
リアスが尋ねる。
「俺が変身した戦士の名前だな」
ゼノヴィアが腕を組む。
「神器の類ではないのか?」
「違う」
「魔法でもない?」
「少なくとも、お前たちが使ってるようなものとは違う」
次々と既知の分類から外れていく。
一誠は早くも眉間を押さえ始めていた。
「仮面ライダーって結局なんなんだ?」
英寿は少しだけ考えた。
「俺のいた世界には、そう呼ばれる戦士がいる。それくらいでいいだろ」
「絶対もっとあるだろ」
反射的に食い下がりかけた一誠だったが、リアスの視線に気づき、途中で声量を落とした。
「……いや、まあ、話したくないなら無理には聞かないけど」
「学習したな」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
今度はリアスも止めなかった。
少しくらいなら、いつもの一誠だ。
話がひと区切りしたところで、小猫が英寿を真っ直ぐ見る。
「昨日、自分を神様だと言いました」
「ああ」
「本当に神なんですか?」
その問いに、英寿は何も勿体ぶらなかった。
「そうだな」
あまりにも自然な肯定だった。
一誠は反射的に何か言いかけたものの、先ほど叱られたばかりなのを思い出したらしく、口を開いたまま止まった。
代わりにゼノヴィアが眉を上げる。
「……随分とあっさり認めるのだな」
「聞かれたから答えただけだろ?」
英寿にとっては大仰に語るようなことではないらしい。
だが、D×D世界の住人にとって「神」という言葉は、単なる称号ではなかった。
リアスも表情を引き締める。
「生まれた時から神だったということではないのね?」
「ああ。神になった」
「神って、なれるものなのか?」
今度の一誠の質問には敵意も無礼さもなく、純粋な疑問しかなかった。
英寿は一誠を見る。
「少なくとも俺はなった」
「……やっぱり基準が分からねぇ」
一誠が小さく呻く。
リアスはさらに踏み込んだ。
「何を司る神なの?」
少しだけ間があった。
英寿は庭へ視線を向ける。
「願い」
一言だけ返す。
アーシアが小さく瞬きをした。
「願いの神様……なんですか?」
「そんなところだな」
その答えを聞いて、一誠たちは昨夜の英寿を思い出す。
――願えば、きっと叶う。
九重へ最初に投げかけた言葉。
自分で願えと何度も促したこと。
そして最後まで、その願いを奪わなかったこと。
少なくとも「願い」という言葉と英寿の行動が無関係ではないことだけは理解出来た。
リアスは少し考え、次の疑問へ移る。
「では、あの鐘は?」
英寿の目が僅かに動く。
「あれは、俺の力が世界に働いた時に鳴る」
「世界に?」
「昨日見ただろ」
英寿は指を折って数えるようなことはせず、淡々と言葉を続けた。
「八坂の攻撃を消した。偽物を消した。八坂を縛っていた余計なものも消した」
一誠は昨夜の光景を思い出し、改めてぞっとした。
「消したって簡単に言うけどさ……あれ、壊したんじゃないんだよな?」
「そうだな」
「じゃあ本当に、存在そのものを……?」
そこから先を一誠は言えなかった。
英寿もあえて補足しない。
代わりに小猫が尋ねた。
「幻影も同じですか?」
「ああ」
「私には全部本物と同じに感じました。妖気も、気配も、力の流れも。どうして分かったんです?」
英寿は湯呑みに手を伸ばした。
「見破ったわけじゃない」
「昨日もそう言っていました」
「最初から、本物がどれかは分かってた」
「どうして?」
英寿は茶を一口飲む。
「偽物が本物みたいに振る舞えても、本物になるわけじゃない」
小猫は黙って続きを待った。
「感覚を騙せても、世界そのものまで騙せるわけじゃない」
庭へ吹いた風が、木々の葉を僅かに揺らす。
一誠はしばらく英寿を見ていたが、ふと昨夜の言葉を思い出した。
「だから……神様には幻影なんて関係ない、か」
英寿が口元だけで笑う。
「そういうこと」
リアスはそこまで聞いたところで、さらに表情を真剣なものへ変えた。
「英寿。あなたの力について、もう一つ確認したいことがあるわ」
「なんだ?」
「世界そのものに干渉出来るのなら……あなたは、この世界を好きなように作り変えることも出来るの?」
一誠たちの空気が変わる。
この質問だけは軽く流せない。
昨夜の出来事を目撃した以上、「そんなことが出来るはずがない」と最初から否定することも出来なかった。
英寿はリアスを見た。
その瞳に敵意はない。
ただ、自分たちの世界を預かる者として聞かなければならないのだと理解したらしい。
「出来ることと、やっていいことは別だろ」
やがて返ってきた声は静かだった。
「俺が願ってるのは、誰もが幸せになれる世界だ。俺が全員の幸せを勝手に決めて、押し付ける世界じゃない」
リアスは英寿を見つめる。
「だから、昨夜も九重ちゃんに願わせたの?」
「ああ」
「あなた一人で八坂様を救うことも出来た?」
英寿はすぐには答えなかった。
「出来たかもしれない」
断定ではない。
それでも、十分だった。
「でも、あれは九重の願いだ。俺が横から奪って全部終わらせたら、九重が最後まで母親を取り戻そうとした意味がなくなる」
「願いを叶える神なのに、自分で叶えてあげるわけではないのね」
朱乃が興味深そうに言う。
英寿は僅かに笑った。
「願いを持つのは本人だろ?」
それは、英寿にとって当たり前のことらしい。
リアスはそこで一度質問を止めた。
警戒が完全に消えたわけではない。
だが少なくとも、世界を自由に書き換えられるかもしれない存在が、他人の意思を尊重するという事実は大きかった。
そのとき。
廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
障子が勢いよく開く。
「英寿!」
九重だった。
昨夜とは違い髪も着物も整えられているが、目元にはまだ泣き腫らした名残がある。それでも、その表情は驚くほど明るかった。
九重は部屋に集まった面々など気に留めることなく英寿のところまで駆けてくる。
「母上が目を覚ましたぞ!」
英寿の表情が柔らかくなった。
「そうか」
「うむ!」
九重が大きく頷く。
一誠も思わず頬を緩め、アーシアは胸元へ手を当てて安堵した。小猫やゼノヴィアの表情からも、僅かに緊張が抜けていく。
「それでな、母上が英寿に会いたいと申しておる」
「俺に?」
「当たり前じゃろう。母上を助けてくれたのじゃから」
九重は当然のように英寿の袖を掴み、そのまま立たせようとする。
一誠が反射的に口を開きかける。
「ちょっと――」
そこでリアスと目が合った。
先ほどの説教が脳裏を過ったらしい。
一誠は一度咳払いしてから、言い直した。
「……俺たちも一緒に行っていいか? 八坂さんの様子、心配だし」
リアスが僅かに満足そうな顔をする。
九重も今度は嫌そうな顔をしなかった。
「それならよい」
「俺、成長した気がする」
「最低限の礼儀を覚えただけよ、一誠」
「部長厳しい!」
そんなやり取りを横目に、英寿が立ち上がる。
「じゃあ行くか」
九重は英寿の袖を掴んだまま廊下へ出た。
一同もその後へ続く。
妖怪たちの視線は相変わらず英寿へ向いていた。
警戒。
好奇心。
畏怖。
恩人への感謝。
さまざまな感情が入り混じっている。
その中心を、英寿は何も気にせず歩いていく。
九重に袖を掴まれたまま。
少し進んだところで、英寿が下を見る。
「九重」
「なんじゃ?」
「逃げないぞ」
「分かっておる」
「じゃあ、そろそろ離してもいいんじゃないか?」
九重は少し考えた。
しかし袖を離さない。
「母上に会う前に消えたら困る」
「信用ないな」
「昨日は突然現れたではないか。突然消えてもおかしくなかろう」
筋は通っている。
英寿はそれ以上何も言わず、好きにさせることにした。
後ろを歩く一誠が小さく呟く。
「完全に懐かれてるな」
今度はリアスにも怒られない程度の声だった。
やがて九重が奥の一室の前で立ち止まる。
「母上。連れてきたぞ」
障子を開く。
布団の上では、八坂が上半身を起こしていた。
顔色にはまだ疲れが残っているものの、赤く濁っていた瞳はすでに本来の穏やかな色へ戻っている。
九重を見るなり、八坂が最初に言ったのは礼でも再会の言葉でもなかった。
「九重。廊下を走ってはいけませんよ」
九重の動きが止まる。
「……走っておらん」
「ここまで足音が聞こえていました」
「少し急いだだけじゃ」
「それを走ったと言うのです」
一誠は思わず笑いそうになり、口元を押さえた。
昨夜まで母親を失うかもしれないと泣き叫んでいた少女が、今はいつものように母親から注意されている。
それだけで、八坂が本当に戻ってきたことが伝わってくる。
八坂は九重とのやり取りを終えると、英寿へ視線を移した。
「あなたが浮世英寿殿ですね」
「英寿でいい」
「では、英寿殿」
「そこは残るんだな」
八坂は僅かに笑った。
「京都を預かる者として、恩人への礼儀は必要ですから」
姿勢を正し、頭を下げようとする。
九重がすぐに母親の肩へ手を置いた。
「母上、まだ無理をしてはならぬ!」
「ですが、九重――」
「そのままでいい」
英寿も止めた。
「病み上がりの人間――じゃないな。病み上がりの相手に無理をさせる趣味はない」
「お気遣い、感謝します」
八坂は素直に力を抜いた。
それから、改めて英寿を見る。
「昨夜は本当にありがとうございました。私だけでなく、京都まで救っていただいたと聞いております」
「俺だけの手柄じゃない」
英寿の視線が九重へ向く。
「最後にあんたを呼び戻したのは、この子だ」
九重が目を丸くする。
「妾が?」
「何度も呼んでただろ」
八坂の表情が柔らかくなる。
「ええ。聞こえていましたよ」
「母上……」
九重の目にすぐ涙が浮かんだ。
八坂は娘の手を取り、自分の手の中へ包む。
「身体は動かせませんでした。自分の力が勝手に使われていることも、何かに深く沈められていることも分かっていました。ですが、その中でもあなたの声だけは何度も聞こえていました」
九重の唇が震える。
「妾の声が……」
「あなたが呼び続けてくれたから、私は戻る場所を見失わずに済みました」
八坂はそう言って、娘の小さな身体を抱き寄せた。
九重はしばらく耐えていたが、結局八坂の胸元へ顔を埋める。
「母上……!」
八坂の手が優しく頭を撫でる。
一誠たちは邪魔をしないよう黙って見守っていた。
英寿も何も言わない。
ただ、その母娘を静かに見つめている。
しばらくして九重が顔を上げると、英寿が軽く顎を引いた。
「ほらな」
「……妾も、母上を助けたのか?」
「ああ」
短い肯定。
九重の目が少しだけ大きくなる。
「そうか」
今度は泣き顔のまま、少し誇らしそうに笑った。
八坂はその様子を見届けてから、英寿へ改めて向き直る。
「九重から、あなたについて少し聞きました」
「ろくなこと聞いてなさそうだな」
「神様だと」
一誠たちの視線も英寿へ向く。
英寿は気負うことなく頷いた。
「そうだな」
八坂はその返答を冗談とは取らなかった。
意識を封じられていた間にも、あの鐘の音は聞こえていた。
鳴るたびに、自分を縛っていた何かが消えていった感覚を覚えている。
この世界の神々と同じ種類の存在なのかは分からない。
けれど、少なくとも人間の青年が戯れに神を名乗っているわけではないことだけは理解出来た。
「では、一つお尋ねしても?」
「どうぞ」
八坂の表情が僅かに引き締まる。
「なぜ、あなたはこの世界へ来られたのですか?」
部屋の中が静かになった。
一誠たちも知りたかったことだった。
英寿はすぐには答えず、開かれた障子の向こうへ視線を向けた。
朝日に照らされた京都の庭。
昨日まで、自分とは何の関わりもなかった世界。
やがて英寿が口を開く。
「強い願いを感じた」
「願い……ですか?」
八坂が聞き返す。
「ああ。どうしても叶えたい。絶対に諦めたくない。そんな願いが、ここから強く届いてきた」
九重が八坂の腕の中から顔を上げた。
英寿は一瞬だけ、その少女へ目を向ける。
「それで気づいたらこの世界にいて、目の前には母親を取り戻したいって願ってる子供がいた」
「妾の願いが、英寿を呼んだのか?」
九重の問いに、英寿は少しだけ首を傾ける。
「かもしれないな」
「違うのか?」
「お前一人の願いだったのか、この場所にあったいくつもの願いが重なったのか。そこまでは俺にも分からない」
英寿は神を名乗ることには躊躇しなかったが、分からないことまで知ったように語るつもりはないらしい。
「ただ」
口元へ僅かな笑みが浮かぶ。
「願ってる奴がいた。それが分かれば十分だろ?」
九重は少し考えたあと、小さく頷いた。
八坂は英寿を静かに見つめていた。
願いを感じた。
世界を越えてここへ来た。
その理由も仕組みも、八坂には理解出来ない。
けれど。
少なくとも娘の願いが、この奇妙な神を自分たちのもとへ導いた可能性がある。
「願いに呼ばれた神様……ですか」
八坂が呟く。
英寿は否定しなかった。
「そういうことにしておくか」
「随分と他人事ですね」
「神様だって何でも分かるわけじゃないさ」
その軽い返答に、八坂は小さく笑った。
話が一段落すると、一行は八坂を休ませるために部屋を出た。
九重は母親の傍に残ると思われたが、少し話したところで八坂自身から「今は英寿殿たちと行っておいで」と送り出され、結局また英寿についてきた。
廊下を抜けて庭へ出る。
昨夜の戦闘で破壊された場所は、朝の光の下ではよりはっきりと見えた。
割れた石畳。
折れた木々。
崩れた塀。
建物にもところどころ傷が残っている。
英寿が足を止めた。
「そういえば、これが残ってたな」
一誠がその視線の先を見る。
「これって……昨日の?」
「ああ」
英寿は右手を軽く上げた。
――ゴォォン。
鐘が鳴る。
一誠たちの身体が無意識に強張った。
昨夜、何度も聞いた音。
もうそれがただの効果音ではないことくらいは理解している。
割れていた石畳が動き始めた。
散らばっていた破片が浮かび上がり、元あった場所へ吸い寄せられていく。細かな欠片まで綺麗に組み合わさり、亀裂が端から消えていった。
折れた木も同じだった。
倒れていた幹が起き上がり、千切れた枝が元へ戻る。散乱していた葉まで舞い上がり、枝先へ一枚ずつ戻っていく。
崩れた塀も瓦礫が逆に崩壊を辿るように積み上がり、ほどなく傷一つない姿へ戻った。
一誠は声も出せず、その光景を見ていた。
昨夜は戦闘の最中だった。
何が起きているか理解する暇もない。
こうして静かな朝に見せられると、むしろ異常さが際立っていた。
壊れたものが。
ただ、元へ戻っていく。
「……すげぇ」
今度の一誠の声には、警戒より素直な驚きが勝っていた。
英寿がもう一度周囲を見渡す。
鐘の音が再び響き、少し離れた場所に残っていた戦いの痕跡まで次々に消えていった。
「これでいい」
何事もなかったように手を下ろす。
九重は綺麗に戻った庭を何度も見回していた。
昨日。
ここで母親が暴れていた。
怖かった。
もう戻らないのではないかと思った。
けれど今は。
母親は屋敷の中で眠っている。
壊れた庭も元に戻った。
朝日もいつもと同じように差している。
九重はしばらく庭を眺めていたが、やがて英寿の袖を引いた。
「英寿」
「ん?」
「お主、これからどうするのじゃ?」
英寿は少しだけ考えた。
「そうだな」
この世界へ来た理由は、おそらく願い。
だが、八坂は助かった。
だからといって、すぐに元の世界へ戻れると決まったわけでもない。
英寿は京都の山々へ視線を向ける。
「せっかく京都に来たんだ。少しくらい見て回るか」
九重の顔が一気に明るくなった。
「なら、妾が案内してやる!」
「いいのか?」
「妾は京都のことならよく知っておる!」
胸を張る九重に、一誠が口を挟む。
「じゃあ俺たちの修学旅行の案内より詳しそうだな」
今度の一言は普通だったので、リアスも何も言わない。
九重は当然だと言わんばかりに頷く。
「当たり前じゃ。妾の庭みたいなものじゃぞ」
「それは頼もしいな」
英寿が笑う。
九重は一瞬嬉しそうにしたが、すぐ何かを思い出したらしく英寿を見上げた。
「ただし、勝手に消えるでないぞ」
「まだそれ言うのか?」
「当然じゃ。昨日は突然現れた」
「だから?」
「神なら突然消えてもおかしくない」
妙なところで筋が通っている。
英寿は少し考え、結局肩を竦めた。
「分かったよ」
「約束じゃぞ」
「ああ」
九重が満足そうに頷く。
リアスは少し離れたところから、その二人の様子を見ていた。
昨日、突然この世界へ現れた男。
自分を神と呼び。
世界へ直接手を伸ばすような力を持ち。
それでも他人の願いを勝手に奪わず、最後まで本人へ選ばせる。
危険ではないと断言するには、まだ知らないことが多すぎる。
英寿が何者なのか。
彼の世界で何があったのか。
なぜ願いをそれほど大切にするのか。
分からないことばかりだ。
ただ。
少なくとも昨日。
母親を失いかけた一人の少女が、どうしても叶えたいと願った。
そしてその強い願いに引かれるように。
世界の外から、一人の神様が現れた。
リアスは朝日に照らされた庭を眺める。
昨夜の傷はもう、どこにも残っていない。
その真ん中では、京都を案内すると張り切る九重と、楽しそうにそれを聞く英寿がいる。
世界を変える力を持つ神様。
そんな大層な存在のはずなのに。
今の姿だけを見れば。
京都観光へ連れ回されようとしている、一人の青年にしか見えなかった。