京都の朝は、昨夜の騒乱など最初から存在しなかったかのように穏やかだった。
東の山並みから差し込む朝日が古い瓦屋根を淡く照らし、庭先の木々からは鳥の声が聞こえてくる。人間たちの多くは、自分たちが眠っている間に京都を巡る気脈が乱れ、この土地を守護する九尾の狐が暴走していたことなど知る由もない。
しかし、人ならざる者たちにとっては事情が違った。
京都の妖怪たちが拠点としている屋敷では、まだ朝も早いというのに人の出入りが絶えない。八坂が無事に保護されたことへの安堵が広がる一方、彼女を利用した英雄派への警戒は昨夜までとは比較にならないほど強まっていた。
そんな慌ただしい屋敷の一角で、一人の青年が縁側に腰を下ろし、出された茶を飲んでいる。
浮世英寿。
昨夜、九重の願いの傍へ何の前触れもなく現れた男。
八坂が放った膨大な妖力を跡形もなく消し去り、本物と区別のつかない七体の偽物まで消し、最後には純白の狐を思わせる戦士へ姿を変えて八坂を救い出した。
そして最後には、自らを神様だと名乗った。
「随分見られてるな」
英寿は湯呑みを口元から離し、何気なく周囲へ視線を巡らせた。屋根の上、庭の木陰、廊下の曲がり角。姿を隠しているつもりなのだろうが、あちこちから妖怪たちの視線が向けられている。
そこに含まれている感情も一つではない。恩人への感謝、突然現れた未知の存在への好奇心、昨夜見せた力への畏怖。そして当然、警戒もあった。
「当然です」
すぐ近くから平坦な声が返ってきた。
塔城小猫だった。
彼女は昨夜、この場にはいなかった。駒王町に残っていたリアスや朱乃とともに報告を受け、今朝になって京都へ合流したばかりである。だからこそ、実際に英寿の力を目撃した一誠たちとは少し違った意味で、先ほどから青年を静かに観察していた。
英寿の向かいには一誠、アーシア、ゼノヴィア。その少し後ろには、昨夜の報告を受けて駆けつけたリアスと朱乃が座っている。
客人を囲んで朝茶を楽しむというより、事情聴取でも始まりそうな配置だった。
もっとも、それを気にしているのは周囲だけらしい。
昨夜、自分から「帰り道がない」と口にしたばかりだというのに、当の英寿は旅先で朝茶でも楽しんでいるような顔で寛いでいる。
「いや、やっぱりおかしいだろ」
しばらく我慢していた一誠が、とうとう口を開いた。
英寿が湯呑み越しに一誠を見る。
「何が?」
「何が、じゃねぇよ! 昨日いきなり九重ちゃんの横に出てきたと思ったら、八坂さんの攻撃は消すし、偽物もまとめて消すし、なんか真っ白な狐みたいな姿になるし、最後には神様だとか言い出すし!」
一誠は一息に捲し立て、そこで大きく息を吸った。
「その上、帰れないとか言ってた奴が、なんで次の日の朝からそんな呑気に茶飲んでんだよ!」
英寿は手元の湯呑みを見た。
「美味いぞ」
「茶の感想は聞いてねぇ!」
朱乃が堪えきれず、口元を隠して笑う。一方の英寿は、一誠の勢いなどどこ吹く風だった。
「帰れないからって、焦れば何か変わるのか?」
「いや、それは……」
「なら同じだろ」
「そうなんだけどさぁ……!」
勢いよく始まったはずの追及が早くも失速する。
そこへ静かな声が落ちた。
「一誠」
一誠の肩がびくりと跳ねた。
恐る恐る振り返ると、リアスがこちらを見ていた。怒鳴ってはいない。むしろ声音は穏やかだった。
だからこそ逃げられない。
「昨夜、英寿さんが八坂さんと九重ちゃんを助けてくれたことは忘れていないわね?」
「それはもちろん」
「分からないことが多いから警戒する。それ自体は間違っていないわ。私だって聞きたいことはたくさんあるもの。でも、それと恩人に最初から喧嘩を売るような聞き方をするのは別でしょう?」
一誠は数秒黙り、それから英寿へ向き直った。
「……悪かった。昨日助けてくれたことは本当に感謝してる。ただ、分かんねぇことが多すぎるんだよ」
「別に気にしてない」
英寿は軽く肩を竦める。
「元気なのはいいことだ」
「やっぱ俺、子供扱いされてない?」
「されています」
小猫が即答した。
「小猫ちゃん!?」
アーシアが困ったように微笑み、朱乃は再び口元へ手を当てる。
少しだけ場の空気が緩んだところで、リアスが改めて英寿へ向き直った。
「まずはこちらから。昨夜は八坂さんと九重ちゃんを助けてくれて、本当にありがとう、英寿さん」
「英寿でいい」
リアスが僅かに目を瞬かせる。
「え?」
「九重にもそう言った。英寿でいい」
本人がそう望むのであれば、断る理由もない。リアスは小さく頷いた。
「分かったわ、英寿。改めて、ありがとう」
「俺だけで助けたわけじゃない」
英寿はすぐに返した。
「九重が最後まで諦めなかったからだ」
リアスの表情が僅かに変わる。
昨夜の出来事については、一誠たちから詳しく聞いていた。
八坂を救えるだけの力を持ちながら、英寿は九重の願いを横から奪わなかった。何度も九重自身へ問いかけ、最後まで母親へ声を届けさせたという。
「それでも、あなたがいなければ辿り着けなかった結果よ」
「なら、礼は受け取っておく」
英寿は今度は素直に頷いた。
リアスはそれを確認すると、本題へ移る。
「それで、昨夜の姿について聞いてもいいかしら?」
「いいぜ」
「それだよ!」
一誠がすぐに食いついた。
リアスの視線が横から刺さる。
一誠は一瞬だけ姿勢を正した。
「……普通に聞くから」
「ならどうぞ」
一誠は改めて英寿を見る。
「昨日のあれ、神器なのか?」
「神器?」
英寿が聞き返した。
一誠の方が止まる。
「……え?」
「なんだ、それ」
今度は一誠たちが黙った。
当然のように通じると思っていた一誠だけでなく、リアスも僅かに目を見開いている。
「神器を知らないのか?」
ゼノヴィアが尋ねた。
「初めて聞いたな」
「マジか」
一誠が思わず漏らす。
リアスは少し考えてから説明を引き取った。
「私たちが神器と呼んでいるのは、人間の中に生まれつき宿っている特殊な力のことよ。能力そのものとして現れるものもあれば、何かの道具として形を取るものもあるわ」
「へえ」
英寿が僅かに興味を示す。
「人間が生まれつき持ってる力か」
「例えば俺ならこれだ」
一誠が左腕を持ち上げる。
赤い光が集まり、《赤龍帝の籠手》が姿を現した。
「これが俺の神器、《赤龍帝の籠手》」
英寿は初めて見る籠手へ視線を向けた。
「なるほどな」
「それで神器には、さらに力を引き出した状態があってさ。《禁手》って呼ばれてる」
「禁手?」
「神器の力をもっと引き出した状態って言えばいいかな。俺の場合は全身に鎧を纏うんだ」
一誠はそこで、昨夜の純白の戦士を思い出した。
「だから英寿も、腰に何か付けて全身鎧みたいな姿になっただろ? 知らない神器か、その禁手なんじゃないかと思ったんだよ」
「ああ」
ようやく英寿にも話が繋がったらしい。
「だから昨日、あんなこと言ってたのか」
「そういうこと」
「残念だけど違うな」
「やっぱ違うのか……」
「あれはデザイアドライバーだ」
英寿が自分の腰へ軽く手を添えた。
「これを使って仮面ライダーになる」
一誠たちが揃って首を傾げた。
「仮面ライダー?」
「ああ」
「それ、なんなんだ?」
「俺のいたところには、そう呼ばれる戦士がいる」
「じゃあ、昨日のあの姿が?」
「俺の場合はギーツ。仮面ライダーギーツだ」
「ギーツ……」
一誠は聞き慣れない名前を一度口の中で転がしてから、ふと英寿の腰へ目を向けた。
「じゃあ、そのデザイアドライバーってのは神器じゃないんだな?」
「今聞いたお前たちの言う神器とは別物だな」
「そういうものがあるんですね……」
アーシアが感心したように呟く。
「俺のいたところじゃな」
英寿は何気なく答えた。
一誠たちも、その一言には特に引っかからなかった。海外なのかもしれないし、どこか自分たちの知らない地域なのかもしれない。あるいは英寿がいた特殊な環境の話なのかもしれない。
それだけでは判断のしようがなかった。
「仮面ライダーかぁ……」
一誠は昨夜の白い姿を思い出すように腕を組んだ。
「それにしても、昨日のあれ、とんでもなく強かったよな」
「そうだな」
「そこは謙遜しねぇんだな」
「する必要あるか?」
「すげぇ自信……」
英寿が僅かに笑う。
その態度が妙に板についていて、一誠もそれ以上は突っ込まなかった。
リアスはそんな二人のやり取りを見届けてから、次の疑問へ移った。
「では、昨夜八坂さんの攻撃や、彼女へ掛けられていた術式を消したのも、そのデザイアドライバーの力なの?」
「いや」
英寿は即答した。
「あれは俺の力だ」
「え?」
一誠が目を丸くする。
「じゃあ、あの鐘が鳴って攻撃とかが消えてたの、ドライバーの力じゃねぇの?」
「ああ」
一誠は数秒、英寿を見つめた。
昨日、目の前で八坂の膨大な妖力が消えた。本物と見分けのつかなかった七体の九尾も消え、八坂を縛っていた術式まで跡形もなく取り除かれた。
「……お前自身であんなこと出来んのかよ」
「出来るからやったんだろ」
「いや、それはそうなんだけど!」
一誠は頭を掻いた。
「どんだけデカい力持ってんだよ……」
その声音にあったのは、能力体系が違うことへの恐怖ではない。
昨夜見たものが、自分の想像以上に大きな力だったことへの純粋な驚きだった。
リアスはもう少し慎重に整理する。
「つまり、仮面ライダーとして戦う力と、昨夜鐘を鳴らしていた力は同じものではないのね?」
「そうだ」
「でも最後には、ギーツとしての攻撃と一緒に使っていた」
「ああ」
「必要なら組み合わせられる、と」
「そういうことだな」
リアスは小さく頷いた。
そこで、今まで静かに聞いていた小猫が口を開く。
「昨日、自分で神様だと言ったと聞きました」
「ああ」
「…本当に、神なんですか?」
「そうだ」
何の間もなかった。
一誠が英寿を見る。ゼノヴィアも僅かに眉を上げる。
この世界では、神は物語の中だけの存在ではない。各神話体系に属する神々は実在している。
だからこそ、リアスはすぐに自分たちの常識へ当てはめなかった。
「一つ確認していい?」
「いいぜ」
「あなたが言う『神』と、私たちが知っている神々が同じものなのかは、まだ分からない。そう考えた方がいいのかしら」
英寿が僅かに笑った。
「お前たちの神がどういうものなのか、俺は知らないからな」
「そうよね」
リアスは素直に頷いた。
神器という言葉すら、たった今初めて知ったのだ。自分たちの知識をそのまま英寿へ当てはめる方がおかしい。
「じゃあ英寿が言ってる『神様』って、どういう意味なんだ?」
一誠が尋ねる。
今度は純粋な疑問だった。
英寿は少しだけ考えた。
「そのままだ。俺は神になった」
「……なった?」
一誠が聞き返す。
「ああ」
「神って、なれるもんなの?」
「俺はなったな」
「基準がお前一人しかねぇ……」
一誠が頭を抱える。
朱乃が楽しそうに笑った。
「少なくとも、最初から神様だったというわけではなさそうですわね」
「まあな」
「じゃあ……英寿さんは、何の神様なんですか?」
アーシアが遠慮がちに尋ねる。
英寿は開かれた庭へ視線を向けた。
「願い」
「願い……?」
「誰もが幸せになれる世界。それが俺の願いだ」
アーシアが何度か瞬きをする。
「願いの神様……みたいな感じなんですか?」
「そう呼びたいなら、それでもいい」
一誠とアーシアは、昨夜の英寿を思い出した。
――願えば、きっと叶う。
九重へ最初に掛けた言葉。
母親を助けたいと願う少女へ、英寿は「俺が叶えてやる」とは言わなかった。
お前はどうしたい。
最後まで願い続けろ。
何度もそう促した。
「それじゃあ、あの鐘もその力と関係あるのか?」
一誠が尋ねる。
「ああ」
英寿の目が僅かに動いた。
「あれは、俺の力が世界に働いた時に鳴る」
「世界に……?」
一誠の顔が少し引きつる。
「昨日、八坂さんの攻撃を消しただろ。それに偽物と、掛かってた術式も」
「ああ」
「消したって簡単に言ってるけど……やっぱ壊したわけじゃないんだよな?」
「昨日見ただろ」
「見たから聞いてんだよ。爆発もしねぇし、何かとぶつかったわけでもない。いきなりなくなったんだぞ」
「なら、そのままだ」
「本当に『なくした』のかよ……」
改めて考えると、とんでもない光景だった。
力で押し返したのでもない。相殺したのでもない。
ただ、そこにあったものだけが消えた。
小猫が静かに尋ねる。
「昨夜の偽物についても同じですか?」
「ああ」
「私は現場にはいませんでした。でも、一誠先輩たちから聞いた話では、本物との区別が出来なかったと」
「マジで分からなかったぞ」
一誠が頷く。
「姿だけじゃない。妖気も同じだったし、動いた時の圧力までほとんど変わらなかった。八体全部本物に見えた」
小猫の視線が英寿へ戻る。
「どうやって、本物を見分けたんですか?」
「見分けたわけじゃない」
「では?」
「最初から本物がどれかは分かってた」
一誠が眉を寄せる。
「そこが分かんねぇんだよなぁ……」
英寿は湯呑みを手に取った。
「偽物がどれだけ本物らしく作られてても、偽物だろ」
「そうだけどさ」
「姿も、妖気も、感覚も騙せるかもしれない。でも本物になったわけじゃない」
英寿は茶を一口飲む。
「世界の側から見れば、本物と偽物は別だ」
そこで一誠が昨夜の一言を思い出した。
「ああ……」
「どうしたんですか?」
アーシアが尋ねる。
「昨日、英寿が言ってたんだよ。『神様には――』って言ったから、俺が『神?』って聞いたらさ」
英寿が口元だけで笑う。
「『偽物なんて関係ないんだぜ』って」
「そういうことだ」
「いや、分かったような、やっぱり分かんねぇような……」
一誠が眉を寄せる。
リアスはしばらく考えてから、さらに一歩踏み込んだ。
「つまり昨夜あなたがしたのは、幻術を解除したわけではなく、偽物そのものへ直接干渉したということ?」
「ああ」
「八坂さんに掛けられていたものも?」
「余計なものだけ消した」
「その力で、もっと大きなものにも干渉出来るの?」
僅かに空気が変わった。
敵意ではない。
だが、リアスには聞いておかなければならない立場がある。
世界へ直接働きかける。その言葉をそのまま受け取るなら、影響の大きさ次第では昨夜の八坂どころの話ではない。
英寿も、その意図は理解しているらしい。
「出来ることは色々ある」
「随分曖昧ね」
「出来るかどうかより、やるかどうかの方が大事だからな」
「どういう意味?」
「出来ることと、やっていいことは別だろ」
簡単な言葉だった。
「昨日の八坂だって、俺が全部勝手に終わらせることは出来たかもしれない」
一誠たちの視線が集まる。
「でも、あれは九重の願いだ。母親を助けたいって願ったのも、戻ってきてほしいって願ったのも九重だ。俺が横から全部決めて終わらせたら、あいつが最後まで母親を取り戻そうとした意味まで奪うことになる」
朱乃が僅かに目を細める。
「願いを叶える神様なのに、本人へ願わせるんですのね」
「願いを持つのは本人だろ」
「英寿が考えた幸せを、相手へ与えるわけではないのね」
リアスが確認する。
英寿はそこでリアスへ顔を向けた。
「俺が願ってるのは、誰もが幸せになれる世界だ」
いつもの余裕は残っている。
けれど、その言葉だけは軽くなかった。
「俺が全員の幸せを勝手に決める世界じゃない」
リアスはそれ以上追及しなかった。
警戒が消えたわけではない。昨夜突然現れた相手であり、使える力の全容も分からない。
それでも、力を持っているから好き勝手に使う人物ではないことだけは、本人の言葉だけでなく昨夜の行動からも分かる。
そのときだった。
廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
次の瞬間、障子が勢いよく開く。
「英寿!」
九重だった。
昨夜とは違い、髪も着物もきちんと整えられている。泣き腫らした目元にはまだ僅かに赤みが残っていたが、その表情は比べものにならないほど明るかった。
「母上が目を覚ましたぞ!」
「そうか」
英寿の表情が柔らかくなる。
一誠にも自然と笑みが浮かび、アーシアは胸元へ手を当てて安堵した。
「よかったです……」
「それでな、母上が英寿に会いたいと申しておる!」
「俺に?」
「当たり前じゃろう! 母上を助けてくれたのじゃから!」
九重は当然のように英寿の袖を掴むと、そのまま引っ張り始めた。
「行くぞ!」
「分かったから引っ張るな」
「早くするのじゃ!」
一誠も立ち上がりかける。
そこでリアスと目が合った。
先ほど注意されたことを思い出したのだろう。一瞬だけ口を閉じ、改めて九重へ尋ねる。
「……俺たちも一緒に行っていいか? 八坂さんの様子も気になるし」
九重が一誠を見る。
「構わぬ」
「俺、ちょっと成長した気がする」
「最低限の礼儀を覚えただけよ」
「部長厳しい……」
朱乃が小さく笑う。
英寿も立ち上がった。
「じゃあ行くか」
「うむ!」
九重はまだ袖を掴んだままだった。
◆
屋敷の廊下を歩いている間も、周囲から向けられる視線は変わらなかった。
感謝、好奇心、警戒、畏怖。様々な感情が入り交じっている。
当の英寿は一切気にする様子もなく、九重に袖を引かれながら歩いていた。
しばらくして、英寿が下を見る。
「九重」
「なんじゃ?」
「別に逃げないぞ」
「分かっておる」
「じゃあ、そろそろ離してもいいんじゃないか?」
「嫌じゃ」
即答だった。
「分かってないだろ」
後ろから一誠の笑い声が聞こえる。
「昨日いきなり現れたんだから、九重ちゃんからしたら急に消えそうなんじゃね?」
「そうじゃ!」
「そこは認めるのか」
「今は帰れぬと言っておるが、それでも急に何か起こるかもしれぬじゃろう」
九重は袖を握ったまま胸を張る。
「母上に会わせるまでは離さん」
「信用ないな」
「昨日会ったばかりじゃからな」
「それもそうか」
英寿はそれ以上何も言わず、好きにさせることにした。
「完全に懐かれてるな」
一誠が小声で呟く。
「聞こえてるぞ」
「地獄耳かよ」
そんなやり取りをしているうちに、一行は屋敷の奥にある一室へ辿り着いた。
「母上、連れてきたぞ!」
九重が障子を開く。
部屋の中では、八坂が布団の上で上半身を起こしていた。顔色にはまだ疲労の色が残っているものの、昨夜赤く濁っていた瞳はすでに本来の穏やかな色へ戻っていた。
九重を見るなり、八坂が最初に口にした言葉は礼ではなかった。
「九重。廊下を走ってはいけませんよ」
九重の動きがぴたりと止まる。
「……走っておらん」
「ここまで足音が聞こえていました」
「少し急いだだけじゃ」
「それを走ったと言うのです」
「むぅ……」
一誠が思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえる。
昨夜まで母親を失うかもしれないと泣き叫んでいた少女が、今は当たり前のように母親から注意されている。
その光景だけで、八坂が本当に帰ってきたことが伝わった。
八坂は娘とのやり取りを終えると、英寿へ視線を移した。
「あなたが浮世英寿殿ですね」
「ああ。英寿でいい」
「では、英寿殿」
「そこは残るんだな」
八坂が僅かに笑う。
「京都を預かる者として、恩人への礼儀は必要ですから」
八坂は姿勢を正し、頭を下げようとした。
「そのままでいい」
英寿がすぐに止める。
「ですが――」
「病み上がりの人間……じゃないな」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「病み上がりの相手に無理させる趣味はない」
「お気遣い、感謝いたします」
八坂は素直に身体から力を抜いた。
それから改めて英寿を見る。
「昨夜は、本当にありがとうございました。私だけでなく、京都まで救っていただいたと聞いております」
「俺だけの手柄じゃない」
英寿の視線が九重へ向く。
「最後にあんたを呼び戻したのは、この子だ」
「妾が?」
九重が目を丸くする。
「何度も呼んでただろ」
八坂の表情がさらに柔らかくなった。
「ええ。聞こえていましたよ」
「母上……?」
八坂は娘の小さな手を取った。
「身体を動かすことは出来ませんでした。自分の力が勝手に使われていることも、何かに意識を深く沈められていることも、どこかでは分かっていました」
九重の目に涙が滲む。
「ですが、その中でもあなたの声だけは何度も聞こえていたのです」
「妾の声が……」
「ええ。あなたが何度も呼び続けてくれたから、私は戻る場所を見失わずに済みました」
八坂の手が九重の頭を優しく撫でる。
九重の唇が震えた。
「……妾も、母上を助けたのか?」
「ああ」
答えたのは英寿だった。
九重が振り返ると、英寿は軽く顎を引いた。
「ほらな」
九重はしばらく涙を堪えようとしていたが、結局我慢出来ず、八坂の胸へ顔を埋めた。
「母上……」
「心配を掛けましたね」
八坂も娘を優しく抱き寄せる。
一誠たちは邪魔をしないよう黙って見守った。
英寿も何も言わない。
ただ、再び抱き合うことが出来た母娘を静かに見つめている。
しばらくして九重が顔を上げた頃には、まだ目元を濡らしていたものの、どこか誇らしそうな顔になっていた。
八坂は娘の頬を軽く拭ってから、英寿へ向き直る。
「九重から、あなたについて少し聞きました」
「ろくなこと聞いてなさそうだな」
「白い狐になったと」
「間違ってはいないな」
「何でも消したとも」
「それも大体合ってる」
「そして、神様だと」
「ああ」
一誠が横から何とも言えない顔をする。
「九重ちゃんの説明、雑なのに全部通じてる……」
八坂は小さく笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「意識を失っている間にも、あの鐘の音は何度か聞こえました。鳴るたびに、私を縛っていた何かがなくなっていく感覚も覚えています。ですから、九重の話を疑っているわけではありません」
そこで一度言葉を切る。
「ただ――一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ昨夜、あの場所に現れたのですか?」
その問いに、一誠たちも自然と英寿を見る。
考えてみれば、そこはまだ誰も詳しく聞いていない。
なぜ英寿が九重のすぐ隣へ突然現れたのか。
なぜ、よりによってあの瞬間だったのか。
英寿はすぐには答えず、開かれた障子の向こうへ視線を向けた。
朝日に照らされた庭。
昨日まで、自分とは何の関わりもなかった場所。
「強い願いを感じた」
「願い……ですか?」
「ああ」
八坂の腕の中から九重が顔を上げる。
「どうしても叶えたい。絶対に諦めたくない。そんな願いを感じた」
英寿の視線が九重へ向く。
「気づいた時には、ここにいた」
「妾の願いが、英寿を呼んだのか?」
「かもしれないな」
「かもしれない?」
「願いに引かれたのは確かだ。ただ、それだけで俺がここへ来たのかまでは分からない」
「どういう意味じゃ?」
英寿は少しだけ考えてから答えた。
「俺がいた世界とは、別の世界まで来てるからな」
一瞬、部屋の中が静かになった。
最初に反応したのは一誠だった。
「……ん?」
英寿を見る。
「今、何て言った?」
「別の世界まで来たって言った」
「世界?」
「ああ」
一誠の表情が徐々に固まっていく。
「ちょっと待て。世界って……そのまま世界?」
「他に何があるんだ?」
「いや、あるだろ! 国とか地方とか、そういう意味で言ってる可能性もあるだろ普通!」
英寿は何を言っているんだという顔をする。
そして一誠は、ようやく昨夜の言葉と思考が繋がったらしい。
「じゃあ昨日の『帰れない』って!」
「ああ」
英寿は平然と答えた。
「元の世界に帰れないって意味だ」
「そこ一番最初に説明しろよ!」
一誠の声が部屋へ響いた。
「一誠さん、八坂さんが病み上がりです!」
アーシアに注意され、一誠が慌てて声量を落とす。
「……すみません」
「構いませんよ」
八坂はそう答えながらも、英寿を見る目には明確な驚きが浮かんでいた。
「では、英寿殿は……私たちの知らない土地から来られたという意味ではなく?」
「そういうことだな」
リアスも表情を引き締める。
「ここそのものが、あなたがいた場所とは違う世界なのね」
「ああ」
一誠はまだ納得していない。
「お前、昨日『帰り道がない』って言ったよな?」
「言ったな」
「普通、帰るって聞いたら家だと思うだろ!」
「家にも帰れないんだから間違ってないだろ」
「スケールが違いすぎるんだよ!」
朱乃が思わず吹き出した。
一方、小猫は笑うことなく英寿を見つめている。
「それなら、神器を知らなかったことにも説明が付きます」
「そうね」
リアスもそこへ思い至る。
神器という言葉を知らない。こちらの神々についても知らない。仮面ライダーという、自分たちには聞き覚えのない戦士を当たり前のように語る。
それぞれ別々に見えていた違和感が、一つの理由へ繋がった。
「だから、さっき『俺のいたところには』と言っていたのね」
「そういうことだ」
一誠が頭を抱える。
「俺、普通に海外かどっかだと思ってた……」
「私もです」
アーシアが小さく頷く。
ゼノヴィアも同意する。
「あの言い方だけなら、我々の知らない地域と考える方が自然だからな」
「そうね」
リアスも頷いた。
「それで、なぜ別の世界からここへ来られたのかは?」
「分からない」
答えは即座だった。
「願いを感じた。気づいたらここにいた。今分かってるのはそれだけだ」
「神様でも分からぬのか?」
九重が不思議そうに尋ねる。
「神様だって何でも知ってるわけじゃないさ」
「そういうものなのか?」
「少なくとも俺はな」
九重は少し考えた。
どうやら自分が想像していた神様とは、少し違うらしい。
もっとも、昨夜の英寿を見たあとでは「何でも出来るわけではない」と言われても、どこまで出来ないのかの方が分からないのだが。
八坂はそんな娘を見てから、英寿へ視線を戻した。
「ですが、少なくとも九重の願いを感じて、あの場へ現れた」
「ああ」
「そして、九重の願いを叶えるために手を貸してくださった」
「叶えたのは九重だ」
英寿はすぐに訂正した。
「俺は手伝っただけだ」
八坂が穏やかに笑う。
「では、そういうことにしておきましょう」
「母上?」
「英寿殿がそう言っているのですから」
九重は英寿を見る。
英寿も僅かに笑っている。
八坂はそんな二人を眺めてから、小さく呟いた。
「願いに呼ばれた神様……ですか」
「悪くない呼び方だな」
一誠が口を挟む。
「異世界から来た神様の方がインパクトは――」
「情緒がありません」
小猫が途中で切り捨てた。
「最後まで言わせてくれよ!」
◆
それから少しして、一行は八坂を休ませるため部屋を出た。
九重は母親の傍へ残ろうとしていたが、八坂本人から「今は英寿殿たちと行っておいで」と送り出され、結局また英寿についてきている。
廊下を抜けて庭へ出ると、英寿が足を止めた。
「そういえば、これが残ってたな」
「これ?」
一誠が視線の先を見る。
昨夜の戦闘で破壊された庭だった。
割れた石畳、折れた木々、崩れた塀。建物にもいくつか傷が残っている。夜の暗がりでは分かりにくかった被害も、朝日の下でははっきりと見えた。
九重も足を止める。
昨夜、ここで母親が暴れていた。
自分へ攻撃を向けた。
もう二度と戻らないのではないかと、本気で怖かった。
英寿はそんな九重を一度見てから、庭へ右手を向けた。
――ゴォォン
一誠たちの身体が無意識に強張った。
昨夜、何度も聞いた音。
今ではもう、その鐘が鳴ったあとに何かが起こることも知っている。
割れていた石畳が動き始めた。
「おお……」
一誠が思わず声を漏らす。
散らばっていた破片がふわりと浮かび、元あった場所へ次々と戻っていく。大小無数の欠片が寸分違わず組み合わさり、石畳を走っていた亀裂が端から消えていった。
折れていた木々も同じだった。
倒れていた幹がゆっくりと起き上がり、千切れていた枝が元の場所へ戻る。散乱していた葉まで風に逆らうように舞い上がり、一枚ずつ枝先へ収まっていった。
崩れていた塀も、瓦礫が元の位置へ戻り始める。
割れた壁。
剥がれた瓦。
抉られた地面。
昨夜の戦いで生まれた傷が、次々と消えていった。
「……すげぇ」
一誠が呟く。
昨夜は戦闘中だった。何が起きているのか理解する暇もなかった。
だが、こうして静かな朝の光の中で見せられると、その異常さがむしろ際立って見える。
修理しているのとは違う。
壊れたものが、まるで最初から壊れてなどいなかったように元へ戻っている。
小猫も庭をじっと見つめていた。
「これも、先ほど言っていた力ですか?」
「ああ」
「世界に働き掛ける……」
リアスが小さく呟く。
英寿は周囲を一度見回した。
最後の亀裂が消える。
昨夜の戦いの痕跡は、もうどこにも残っていなかった。
「これでいい」
英寿が手を下ろす。
九重は綺麗に戻った庭を何度も見回していた。
昨日までと同じ景色。
朝日も、いつもと同じように差している。
そして母親も、屋敷の中にいる。
「英寿」
「ん?」
九重が袖を引いた。
「お主、これからどうするのじゃ?」
「そうだな」
英寿は京都の山々へ目を向ける。
強い願いを感じて、この場所へ来た。その先には、母親を取り戻したいと願う九重がいた。
だが、それだけで世界を越えたのかは分からない。
そして、どうして今は帰れないのかも分からない。
答えはまだ何一つ出ていなかった。
「帰る方法が分からないなら、焦っても仕方ない」
「だからお前、昨日から落ち着きすぎなんだよ」
一誠がすぐ横から突っ込む。
「焦って帰れるなら焦るけどな」
「それ昨日も聞いた!」
英寿は気にすることなく、京都の町並みへ視線を向けた。
「せっかく来たんだ。少しくらい見て回るか」
「なら、妾が案内してやる!」
九重の顔が一気に明るくなった。
「いいのか?」
「当たり前じゃ! 妾は京都のことならよく知っておる!」
小さな胸を張る。
「妾の庭みたいなものじゃぞ!」
「随分広い庭だな」
「それくらい詳しいという意味じゃ!」
「それは頼もしいな」
英寿が笑う。
一誠も横から口を挟んだ。
「俺たちの修学旅行の案内役より詳しそうだな」
「当然じゃ」
九重は誇らしそうに頷いた。
だが、すぐに何かを思い出したらしく、英寿へ真剣な顔を向ける。
「ただし」
「なんだ?」
「勝手に帰るでないぞ」
「帰り道がないって言っただろ」
「見つかるかもしれぬ!」
「まあ、それはそうだな」
「見つけても、何も言わず帰るのは禁止じゃ」
九重が再び英寿の袖を掴む。
「妾に言ってからにせい」
英寿はその小さな手を一度見た。
「分かったよ」
「本当か?」
「ああ」
「約束じゃぞ」
「約束だ」
九重が満足そうに笑った。
少し離れたところから、リアスはそのやり取りを見ていた。
昨日突然京都へ現れた青年。
神器という言葉すら知らず、自分たちが知る神々についても知らない。
それも当然だった。
彼は遠い国から来たわけでも、自分たちの知らない勢力に属する者でもない。
文字通り、別の世界から来た。
しかも、本人ですらその理由を完全には知らない。
分かっているのは、強い願いを感じたこと。その先に、母親を取り戻したいと願う九重がいたこと。それだけだった。
世界そのものへ手を伸ばせるほどの力を持つ。
自らを神と呼ぶ。
それなのに、分からないことは分からないと言い、他人の願いを勝手に決めることもしない。
危険ではないと断言するには、まだ知らないことが多すぎる。
仮面ライダーとは何なのか。
デザイアドライバーとは何なのか。
英寿がいた世界とはどんな場所なのか。
どうやって神になったのか。
なぜ世界を越えてきたのか。
そして、どうすれば元の場所へ戻れるのか。
けれど今、リアスの目の前にいるのは――。
「まずどこへ行く?」
「妾に任せるのじゃ!」
「外れだったら?」
「京都に外れなどない!」
「随分自信あるな」
「当然じゃ!」
一人の少女に京都案内を任せ、楽しそうに笑っている青年だった。
願いに呼ばれた神様。
その正体を知るには、まだ少し時間が掛かりそうだった。