第22話 戦わない勝負
レーティングゲームが終わってから数日。
駒王町には、ようやく平穏と呼べる時間が戻っていた。
サイラオーグとの激闘を終えた一誠も、完全に疲労が抜けきったわけではないものの、日常生活なら問題ない程度まで回復している。医療班からは激しい運動を控えるよう念を押されていたが、授業を受け、友人と街を歩くくらいなら支障はない。
英寿の方にも、これといった事件は起きていなかった。
京都へ突然現れ、九重の願いを聞き、八坂を救い、英雄派と遭遇した。その後は駒王町へ移って一誠たちと知り合い、レーティングゲームを見届け、最後にはサイラオーグと自ら拳を交えた。
振り返ってみれば、この世界へ来てから落ち着いている時間の方が少ない。
だからこそ、何も起きない数日は英寿にとって悪くなかった。
一誠に一通り案内された駒王町を改めて自分の足で歩いてみると、まだ知らない場所はいくらでもあった。案内された時には通らなかった裏道や、小さな飲食店、住宅地の中に紛れるように建った古い店。特に目的を決めず、気になった道へ入っていくだけでも時間は潰せる。
数日前に受け取ったスマートフォンも、思った以上に役立っていた。
地図を見るだけではない。店を調べることもできれば、この世界のニュースを読むこともできる。何より、一誠たちから直接連絡が届くようになったのが大きい。
その日の昼過ぎも、駅前から少し離れた通りを歩いていた英寿のポケットで端末が短く震えた。
取り出してみれば、オカルト研究部の面々が入っているグループに新しいメッセージが来ている。
送り主は一誠だった。
《英寿、今日暇か?》
英寿は足を止めることなく片手で返信した。
《暇だぞ》
送信してからほとんど間を置かず、既読がついた。
どうやら一誠は端末を手に待ち構えていたらしい。
《じゃあゲーセン行こうぜ》
さらに、
《やっと普通に動けるようになったし、今日は戦いなしで遊ぼう!》
と続く。
最後の一文を見て、英寿は僅かに口元を緩めた。
わざわざ「戦いなし」と付け加えなければならないあたり、ここ最近の出来事がどれだけ騒がしかったのか自分でも分かっているのだろう。
《いいぜ》
英寿がそう返すと、一誠から喜んでいる顔のスタンプが届いた。
そこからは早かった。
アーシアが自分も行きたいと書き込み、小猫も短く参加を表明する。木場も今日は時間があるらしく、朱乃も興味を示した。最後にリアスが、一誠はまだ完全に回復したわけではないのだから無茶をするな、と注意を入れる。
すぐに一誠から、
《ゲームセンターでどうやって無茶するんですか!?》
と返ってきた。
リアスの答えは簡潔だった。
《あなたなら何かやりそうだからよ》
英寿はそこで堪えきれず小さく笑った。
否定しきれないところが、一誠という男らしい。
待ち合わせの時間と場所が決まり、英寿が画面を閉じようとしたところで、今度は個別の通知が表示された。
送信者はアザゼル。
《ブーストライカーのことで一つだけ聞きたい》
英寿は開かなかった。
そのままスマートフォンをポケットへ戻そうとすると、もう一度震える。
《本当に一つだけだ》
さらに数秒。
《リボルブオンの話じゃないぞ》
英寿は通知だけ消した。
今日は研究者の好奇心に付き合う日ではない。
⸻
待ち合わせ場所になったゲームセンターは、駅前から少し歩いたところに建っていた。
数階建ての大きな施設で、入口近くには色鮮やかなクレーンゲームが並び、さらに奥からはレースゲームやシューティングゲームの派手な音が絶え間なく聞こえてくる。休日の午後ということもあり、制服姿の学生や家族連れも多かった。
一誠に町を案内された際、この建物の前を通った覚えはある。
ただ、中へ入るのは初めてだった。
英寿が入口へ近づくと、先に到着していた一誠がこちらに気づき、大きく手を上げた。
「英寿!」
数日前まではソファへ身体を沈め、少し動くだけでも痛みに顔をしかめていた一誠だが、今では歩き方にも不自然さはない。サイラオーグとの戦いで負った傷自体はすでに治療されている。残っているのは身体の奥に蓄積した疲労や、限界を越えた反動のようなものだけらしい。
英寿は一誠の前まで歩き、その様子を軽く見た。
「もう大丈夫そうだな」
「おう。まだ全力で暴れるのは禁止されてるけど、普通に遊ぶくらいなら問題ないってさ」
そう答える一誠の声は明るい。戦いの直後とは違い、今日は何かを証明しなければならないわけでも、強敵を倒さなければならないわけでもない。そのこと自体が嬉しいようだった。
アーシアも安堵したように微笑んでいる一方で、リアスだけは念を押すように一誠へ視線を向けた。
「楽しくなったからといって無茶をしないこと。あなたの場合、本人が気づかないうちに限界まで動いていた、なんてことになりかねないから」
「ゲームですよ、部長。さすがにそんなことには――」
言いかけた一誠の肩へ、小猫が静かに視線を向ける。
一誠は途中で言葉を止めた。
これまでの行動を思い返したのだろう。
「……気をつけます」
素直に引き下がった一誠に、木場が小さく笑った。
そんな中、小猫は英寿の周囲を一度見回した後、何かが足りないことに気づいたように首を傾げた。
「今日は、あのバイクじゃないんですね」
「免許がないからな」
英寿が当たり前のように答える。
一誠が一拍遅れて吹き出した。
「本当に乗ってない!」
「乗らないって言っただろ」
「いや、分かってるけどさ。世界を作り替えられる神様が、免許ないから徒歩って思うとやっぱ面白いんだよ」
英寿が呆れたように一誠を見る。
その隣でリアスは、一誠のように笑うこともなく真面目に頷いていた。
こちらの世界で英寿が正式にバイクを運転できるようにするための方法は、サーゼクス側でも確認中らしい。異世界の免許証をそのまま使うことなどできない以上、必要ならこちらの制度に沿って何らかの手続きをしなければならない。
英寿自身、それについて文句を言うつもりはなかった。
「歩けるなら歩けばいいだろ」
そう言われてしまえば、一誠もそれ以上からかう材料がない。
「神様なのに妙なところで普通なんだよなぁ……」
「お前が勝手に変な想像してるだけじゃないか?」
英寿の返しに朱乃が楽しそうに笑い、そこでようやく一行は店内へ入った。
扉を抜けた瞬間、外とは別の空間へ足を踏み入れたように音が押し寄せてくる。
明滅する照明。筐体ごとに異なる音楽。景品が落ちた時の歓声。大型画面に映し出された車や戦闘機が動き回り、その間を大勢の客が行き交っている。
英寿は足を止めるほどではないものの、興味深そうに周囲へ視線を巡らせた。
「思ったより広いな」
「ここ、この辺じゃ結構デカいところなんだよ」
一誠はどこか得意げだった。
自分が普段遊んでいる場所を紹介するというのが嬉しいのかもしれない。これまで英寿へ見せてきたのは、悪魔としての世界や、神器を使う戦い、あるいは自分が所属するグレモリー眷属の事情ばかりだった。
今日は違う。
ただ高校生として遊ぶ場所を案内する。
一誠にとっても、こういう英寿との時間は初めてだった。
「前に町案内した時は入らなかったし、今日は俺が色々教えてやるよ」
「へえ」
英寿は短く答えた後、店内へ視線を向けたまま続けた。
「それだけ詳しいなら、勝負でもするか?」
一誠の足が止まった。
「……勝負?」
「せっかく来たんだ。ただ遊ぶだけじゃつまらないだろ」
英寿の口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。
もちろんそこに戦場で見せる鋭さはない。
どちらかといえば、一誠がどんな反応をするのか分かっていて仕掛けたような笑い方だった。
案の定、一誠の目に火が灯る。
「言ったな?」
リアスが横から僅かに眉を寄せたものの、今回は止めなかった。
神器も魔力も使わない。
負けても傷つかない。
そんな勝負なら、むしろ今の一誠にはちょうどいい。
英寿は余裕を崩さず、一誠へ軽く顎を向けた。
「得意なの選べよ」
「よし。今日こそ英寿に勝つ!」
一誠がそう宣言した時には、つい先日まで命を懸けてサイラオーグへ挑んでいた面影などなかった。
そこにいるのはただ、友人との遊びに本気になる高校生だった。
⸻
一誠が最初に選んだのは、二人対戦用の大型レースゲームだった。
実車を模したシートにハンドル、アクセル、ブレーキまで備えられており、大きな画面には派手なスポーツカーが何台も映っている。
このゲームを選んだ時点で、一誠にある程度の自信があることは英寿にも分かった。
席へ着いた一誠は迷うことなく車種とコースを決め、英寿へ簡単な操作方法を説明していく。どうやら何度も遊んだことがあるらしく、どのコースが難しいか、どこで曲がりやすいかまで把握しているようだった。
英寿は隣の席へ腰を下ろし、ハンドルを軽く左右へ動かす。
アクセルを踏み、ブレーキの感触を確かめた。
本物の車とは違う。
当然、ブーストライカーとも違う。
だが、入力に対してどう反応するのかさえ分かれば、あとは同じことだった。
「最初なら練習コースにするか?」
一誠が尋ねる。
英寿は画面を見たまま首を振った。
「いや、これでいい」
「言ったな? 後で初めてだから負けたとか言うなよ?」
「もう負けた後の話してるのか?」
英寿が横目を向けると、一誠はすぐに眉を吊り上げた。
「英寿の話だよ!」
その様子に、後ろで見ていたアーシアが思わず笑う。
カウントダウンが始まった。
画面の中で何台もの車がスタート位置へ並ぶ。
一誠の表情から笑いが消える。
ただのゲームとはいえ、勝つつもりでいるらしい。
英寿もハンドルへ両手を置いた。
スタートの合図と同時に、一誠の車が勢いよく飛び出す。
最初の直線から加速の仕方に迷いがなく、そのまま第一コーナーへ入った。
英寿は僅かに遅れる。
初めて触るゲームだけあって、一つ目のカーブでは思った以上に車体が外へ膨らんだ。次の曲がりでもブレーキを早く踏みすぎ、一誠との差が広がる。
一誠の口元に笑みが戻った。
ようやく見つけた。
そんな顔だった。
模擬戦では敵わなかった。
レーティングゲームの後に見たサイラオーグとの戦いでも、英寿は初めて見る相手の攻撃へ平然と対応し続けていた。
だが、これは一誠が何度も遊んだゲームだ。
英寿は初めて。
今回ばかりは条件が違う。
そのはずだった。
三つ目のコーナーへ入った頃、後ろで見ていた木場が先に変化へ気づいた。
「……英寿君、もう膨らまなくなりましたね」
アーシアも二人の画面を見比べる。
確かに、最初の一周で見られた不安定さが消えている。
英寿の車はコーナーへ入る前に必要な分だけ速度を落とし、無駄なく内側へ寄っていく。アクセルを踏み込む位置も一周目より早くなり、それでいて制御を失うほどではない。
ほんの数十秒。
英寿はそれだけで、筐体の癖を掴み始めていた。
一誠の背中へ、少しずつ追いついていく。
「……嘘だろ」
一誠もミラー表示でそれに気づいた。
直線へ入ったところで差はほとんどなくなった。
次のコーナー。
一誠は慣れた位置から曲がる。
英寿はその内側へ入った。
画面上で二台の車が並ぶ。
一誠が僅かにハンドルへ力を込めた。
無理に割り込めば、英寿の方が壁へぶつかる。
そう思った瞬間、英寿は一度だけアクセルを緩めた。
完全に並ぶことをやめ、半歩後ろへ下がる。
そのまま一誠の車がカーブの出口で外側へ流れた瞬間、空いた内側へ滑り込んだ。
「うおっ!?」
一誠が思わず声を上げる。
英寿の車が前へ出た。
だが、差はわずかだ。
一誠もすぐに追い始める。
そこからは、どちらかが一方的に引き離す展開にはならなかった。
コースを知り尽くしている一誠。
初見でありながら、走るたびに急速に適応する英寿。
何度か順位が入れ替わり、二人の車はほぼ並んだまま最終周回へ入った。
ゲームだと分かっていても、一誠は真剣だった。
ただ、以前までとは違う。
身体の奥から力を絞り出す必要はない。
勝たなければ誰かが傷つくわけでもない。
負けたところで、何も失わない。
それでも勝ちたい。
理由はそれだけで十分だった。
最終コーナー。
一誠は少しでも早く立ち上がろうと、いつもより僅かに早くアクセルを踏み込んだ。
画面上の車体が外側へ膨らむ。
ほんの一瞬。
ほとんどミスと呼べない程度のズレだった。
だが、隣にいる男はそれを見逃さなかった。
英寿は無理に一誠の車へぶつけることもなく、空いた内側のラインへ入る。
並ぶ。
抜く。
そのまま二台は最終直線へ飛び出した。
ゴールラインを先に越えたのは、英寿だった。
画面中央へ順位が表示される。
一位、英寿。
二位、一誠。
一誠はしばらくハンドルを握ったまま動かなかった。
隣では英寿が画面を見ながら、純粋にゲームの出来を確かめるような顔をしている。
「……これ、本当に初めてなんだよな?」
一誠がようやく口を開く。
「ああ」
「じゃあ何で最後普通に抜いてくるんだよ」
「お前が膨らんだからな」
「分かってる! 分かってるけど!」
一誠の反応に、後ろから笑い声が起きた。
英寿も口元を上げる。
「結構面白いな、これ」
「そこが感想なのかよ!」
負けた一誠は悔しそうだった。
けれど、その表情から楽しさが消えることはなかった。
すぐにもう一度やろうと言い出し、今度は英寿も断らなかった。
二戦目は最初から接戦になった。
英寿がすでに操作へ慣れてしまった一方、一誠も一戦目で自分がどこを狙われたのか把握している。今度は無理に速度を上げず、英寿に内側を渡さないよう丁寧に走った。
結果は、また僅差で英寿。
三戦目を要求しようとした一誠だったが、リアスから「ハンドルを握る手に力が入りすぎているわよ」と指摘され、そこで一度席を離れることになった。
一誠は不満そうだったものの、本気で逆らうことはしなかった。
身体が完全に戻っていないのは自分でも分かっている。
今日は勝つこと以上に、遊ぶために来たのだ。
⸻
そこから先は、最初ほど勝負に拘らず店内を回った。
一誠が次にシューティングゲームを指差した時、小猫が「英寿さん、銃を使います」と小さく口にしたことで、一誠はしばらく筐体と英寿を見比べた末、自分から別のゲームへ向かった。
その判断には英寿も感心したらしく、「賢いな」と言われた一誠は、褒められたはずなのに複雑そうな顔をしていた。
格闘ゲームでは一誠が意地を見せた。
現実の戦闘技術とゲームの操作は別物であり、必殺技の出し方やキャラクターごとの癖を知っている一誠の方が、最初は明らかに有利だった。
英寿は一戦目を落とした。
その瞬間、一誠が立ち上がりかけるほど喜んだため、リアスに睨まれてすぐ座り直すことになったが、それでも本人にとっては今日初めて英寿へ勝った瞬間だった。
問題は、その後だった。
一戦目で操作を覚えた英寿が、二戦目から急に防御と間合い管理を始めたのである。
一誠の使う技を何度も真正面から受けるのではなく、当たり判定が届くぎりぎりの位置でかわし、硬直した瞬間だけ反撃する。
「ゲームでも間合い見るなよ!」
一誠の叫びに、周囲の何人かが振り返った。
英寿は気にせず笑っている。
それでも一誠は一戦目を取ったという事実だけで満足したのか、先ほどのレースゲームほど悔しがらなかった。
その後はアーシアが興味を示したリズムゲームへ移り、木場と一誠が並んで挑戦するのを皆で眺めた。
一誠は序盤こそ順調だったが、難易度が上がるにつれて手足が追いつかなくなり、最後には自分でも笑ってしまうほど酷い結果になった。木場は思った以上に器用にこなし、アーシアから素直に褒められている。
英寿はというと、今回は参加せず少し離れた場所から眺めていた。
誰かが遊んでいる。
誰かが笑っている。
その中に自分もいる。
特別なことではない。
元の世界にいた頃だって、こんな時間がなかったわけではない。
それでも異世界へ来てからは、こういう時間を過ごす余裕がほとんどなかった。
視界の端で、一誠が木場へ再戦を申し込み、リアスから今日は無茶をしないと言ったばかりだと呆れられている。
英寿はその光景を見ながら小さく笑った。
戦っている時と、根本的には変わらないのかもしれない。
一誠は負ければ悔しがる。
それでも諦めない。
ただ今日は、その負けが命に関わらないだけだ。
やがて一行はクレーンゲームが並ぶ一階へ戻ってきた。
色とりどりの景品の中で、アーシアが一つの筐体の前へ視線を残していることに英寿は気づいた。
中にあるのは、丸みのある白い動物のぬいぐるみだった。
立ち止まって見続けるほどではない。
けれど、一度通り過ぎようとしてから、また振り返っている。
同じことに気づいた一誠がアーシアへ尋ねた。
「それ欲しいのか?」
突然聞かれたアーシアは、少しだけ困ったように笑った。
「欲しいというほどでは……ただ、可愛いなって思って」
その返事だけで、一誠には十分だったらしい。
「よし。取る」
英寿との勝負に拘っていたことなど一瞬で忘れ、財布から硬貨を取り出した。
一回目。
アームはぬいぐるみの胴体を掴んだが、持ち上げてすぐに落とした。
二回目も似たような結果。
三回目で少し位置が動いたものの、出口へ近づいたとは言い難い。
アーシアは申し訳なさそうに「無理しなくても大丈夫ですよ」と言ったが、一誠はすでに景品と勝負する顔になっていた。
四回目。
また中央を掴もうとする。
後ろから眺めていた英寿が、そこで初めて口を挟んだ。
「真ん中じゃないな」
一誠が操作盤から振り返る。
「ん?」
英寿は透明なケース越しに景品の位置を見る。
「持ち上げようとするから落ちる。右側を押して、出口へ寄せた方が早い」
一誠はぬいぐるみへ視線を戻した。
確かに、景品は完全に持ち上げなくても、あと少し位置をずらせば出口側へ転がりそうな位置にある。
「英寿がやれば?」
「お前が取るって言ったんだろ」
言われて、一誠は少しだけ目を丸くした。
英寿自身が取ってしまえば早いのかもしれない。
けれど、それでは一誠がアーシアのために始めた意味がない。
「……よし」
一誠はもう一枚硬貨を入れた。
今度は中央を狙わない。
アームの片側がぬいぐるみの端へ触れ、少しだけ位置をずらした。
一誠の表情が明るくなる。
次でもう一度同じ場所を狙う。
ぬいぐるみが傾いた。
さらに一回。
今度はゆっくりと出口側へ転がり、そのまま取り出し口へ落ちた。
乾いた音が響く。
一誠はしばらく下を見ていた。
本当に落ちたことを確認してから、ようやく取り出し口へ手を伸ばす。
「取れた……!」
声を上げた一誠以上に、アーシアの表情が明るくなった。
一誠が少し照れながら白いぬいぐるみを差し出すと、アーシアは大事そうに両手で受け取った。
「ありがとうございます、一誠さん」
「おう」
さっきまで英寿に勝てなかったと騒いでいた男が、その一言だけですっかり満足そうな顔をしている。
一誠は英寿へも振り返った。
「ありがとな」
「俺は狙う場所を言っただけだ」
「でも聞かなかったら、まだ真ん中掴んでたと思う」
「なら次から覚えとけ」
一誠は素直に頷いた。
そんな二人の横で、小猫が別の筐体へ硬貨を入れている。
中にあるのは猫のぬいぐるみだった。
一誠が何気なくそちらへ視線を向ける。
小猫は特に気負うこともなくアームを操作し、景品の位置へ合わせる。
下降。
アームが猫のぬいぐるみを挟む。
上昇。
一誠は途中で落ちるものだと思っていた。
だが、落ちない。
そのまま出口の真上まで運ばれ、あっさりと取り出し口へ落下した。
小猫は無言で下から景品を取り出す。
一誠だけが固まっていた。
「……一発?」
「はい」
小猫は猫のぬいぐるみを抱えながら、特に嬉しさを表に出すでもなく答えた。
ただ、いつもよりほんの少しだけ機嫌が良さそうに見える。
一誠は自分が使った硬貨の枚数を思い出したのか、遠い目になった。
英寿がその横で笑う。
「一誠」
嫌な予感を覚えた一誠が振り向く。
「何だよ」
「小猫にも負けたな」
「今の勝負じゃねぇだろ!」
声を上げた一誠に、小猫が少しだけぬいぐるみを抱き直す。
ゲームセンターの騒がしい音の中に、また笑い声が混ざった。
⸻
外へ出た頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
さすがに何時間も店内を歩き回れば腹も減る。
一行はそのまま近くのファストフード店へ入り、窓際の大きな席へ集まった。
テーブルの上には飲み物やポテトが並び、アーシアの隣には一誠が取った白いぬいぐるみ、小猫の膝には自分で取った猫のぬいぐるみが収まっている。
一誠は椅子へ深く身体を預け、悔しそうでもあり満足そうでもある複雑な表情で天井を見上げた。
「結局、レースは一回も勝てなかった……」
「格闘ゲームでは一回勝っただろ」
英寿は飲み物を口にしながら答える。
「一回だけな!」
「勝ちは勝ちじゃないか」
「なんかその言い方だと余計悔しいんだよな……」
木場が、一誠も二戦目のレースではかなり惜しかったと声をかける。
すると一誠はすぐに身体を起こした。
「そうなんだよ! 最後のコーナーでちょっと膨らまなきゃ勝てたんだって!」
先ほどまで疲れた顔をしていたのが嘘のようだった。
英寿はそんな一誠を眺めながら、気軽に言う。
「なら次は勝てるかもしれないな」
一誠が即座に反応する。
「次あるのか?」
「嫌なのか?」
「やる!」
リアスが呆れたように笑った。
今日はもう止める必要もなさそうだった。
一誠は確かに疲れている。
だが、それは限界まで身体を酷使した疲れではない。
友人と一日遊び回っただけの、ありふれた疲労だ。
数日前までの状況を考えれば、その違いは大きかった。
それからしばらく、ゲームセンターでの話が続いた。
どのゲームなら英寿に勝てるか。
小猫がクレーンゲームを一発で終わらせたこと。
アーシアが次は自分でも挑戦してみたいと言ったこと。
朱乃が音楽ゲームをやってみようとした一誠の動きがおかしかったと笑えば、一誠が自分はまだ怪我人だったのだから仕方ないと言い訳を始める。
それにリアスが「始める前は普通に遊べるって言っていたでしょう」と指摘し、また笑いが起きた。
英寿も、その会話の中に自然と混ざっていた。
何かを教える立場でもない。
一誠を導く立場でもない。
異世界から来た神として扱われているわけでもない。
ただ同じテーブルを囲んでいる。
それだけだった。
一誠はそんな英寿を見ながら、ふと口を開いた。
「そういや、英寿」
「何だ?」
「元の世界でも、こういうことしてたのか?」
英寿が一誠へ視線を向ける。
一誠はストローを指先で弄びながら、少し言葉を選んだ。
「普通に遊びに行ったりとかさ。英寿ってこっち来てから、なんだかんだずっと事件続きだったじゃん。京都で八坂さん助けて、英雄派とやり合って、それから駒王町に来て……俺と戦って、レーティングゲーム見て、最後にはサイラオーグとも戦っただろ?」
そう並べてみると、自分でも随分な密度だと思ったのだろう。
一誠は苦笑する。
「だから、今日みたいなのも普通にするのかなって」
アーシアたちも自然と英寿へ目を向けていた。
英寿は一誠を見た後、少しだけ眉を上げる。
「するさ」
あまりにも普通の答えだった。
一誠の方が意外そうに目を瞬く。
「するんだ」
「俺を何だと思ってるんだ?」
一誠は一瞬考えた。
「神様?」
英寿が笑う。
「それは間違ってないな」
「ほら!」
「神様だからって、一日中神様らしいことしてるわけじゃない」
英寿は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街を、人々が行き交っている。
家へ帰る学生。
買い物袋を持った家族。
駅へ急ぐ会社員。
この世界へ来てから英寿が関わったものは、悪魔や神器や英雄派ばかりだった。
だが、それらがこの世界のすべてではない。
「俺には俺の生活がある。それだけだ」
リアスが、その横顔を静かに見た。
英寿には元の世界がある。
当たり前のことだった。
こちらへ来る前から生きてきた時間があり、知っている人間がいて、帰るべき場所がある。
駒王町へ馴染み始めたからといって、この世界の住人になったわけではない。
アーシアも同じことを考えたのか、少し迷いながら口を開く。
「英寿さんは……やっぱり、元の世界へ帰りたいですか?」
質問した直後、アーシアは不安そうに表情を曇らせた。
「すみません。変なことを聞いてしまって……」
「別に変じゃない」
英寿は気にしていなかった。
少し間を置く。
「帰るさ」
一誠が英寿を見る。
「やっぱ帰る気はあるんだな」
「当たり前だろ」
「前は急いでないって言ってたから」
「ああ。急いではない」
英寿はテーブルへ視線を戻した。
「焦っても帰れるわけじゃないし、今は方法も分かってない。だったら毎日そのことばっかり考えてても仕方ないだろ」
それはサーゼクスへ話した時と同じ考えだった。
帰らないわけではない。
帰れないから諦めたわけでもない。
ただ、答えのないものを一日中考え続けるほど英寿は性急ではない。
「帰れる時が来たら帰る。それまでは、こっちでやりたいことをやる」
一誠はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「ゲームセンターも?」
「それもだな」
「自由だなぁ」
「今さらだろ」
英寿の返しに、場の空気は重くならなかった。
いつか帰る。
その事実だけが、そこにある。
いつなのかは誰も知らない。
なら今から別れを惜しむ必要もなかった。
朱乃が空気を繋ぐように、次は別の場所へ遊びに行ってもいいかもしれないと口にする。
すると小猫が、膝の猫のぬいぐるみを抱えたまま短く言った。
「ボウリング」
一誠の目が輝く。
「それだ! ボウリングなら今度こそ勝てる!」
英寿は思わず笑った。
「今日だけで何回それ言ったんだ?」
「今度こそ本当に勝てる気がするんだよ!」
「じゃあやってみるか」
「約束だからな!」
命を懸けた約束でもなければ、強さを確かめるための手合わせでもない。
次に皆で遊びに行く約束。
それが簡単に交わされる。
そんな時間が、今は妙に心地よかった。
その時、テーブルの上に置かれていた英寿のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
アザゼルだった。
《さっきの質問、まだ答えがねぇんだが》
《ブーストライカーの自律走行、どうなってんだ?》
英寿は何もせず端末を伏せる。
一誠が対面からそれを見ていた。
「誰?」
「アザゼル」
それだけで全員が察した。
リアスは額へ手を当てる。
「まだブーストライカーのこと?」
「みたいだな」
再びスマートフォンが震える。
英寿は手を伸ばさない。
少しして、また震えた。
今度はアーシアまで苦笑している。
一誠は面白そうに言った。
「ブロックしないのか?」
「緊急の連絡まで届かなくなると面倒だろ」
英寿はそう答えると、端末を手に取り、アザゼルからの通知だけを切った。
静かになる。
「これでいい」
一誠が感心したような顔をした。
「ちゃんと考えてるんだな」
英寿が目を細める。
「お前、本当に俺を何だと思ってるんだ?」
一誠は少し考えた末、指を折るように数え始めた。
「神様で、仮面ライダーで、何やっても妙に上手くて、自走するバイク持ってる奴?」
「増えたな」
その返事に、また皆が笑った。
戦いはなかった。
誰も傷つかなかった。
創世の力も。
神器も。
悪魔の魔力も。
何一つ必要のない午後だった。
勝った負けたで騒いで、景品一つで喜び、次に遊ぶ約束をする。
この世界へ来た理由は、まだ分からない。
帰る方法も見つかっていない。
それでも、英寿は急がなかった。
窓の向こうには、少しずつ見慣れてきた駒王町の街並みがある。
知っている場所が増えた。
知っている顔も増えた。
そして、新しく持つことになったスマートフォンの中には、この世界で知り合った者たちの名前が並んでいる。
英寿はそれをわざわざ言葉にはしなかった。
ただ、悪くないと思った。
せっかく別の世界まで来たのだ。
こういう日があってもいい。
⸻
その日の夜。
駒王町から遠く離れた一室で、曹操は机の上へ置かれた報告書を眺めていた。
京都で八坂の奪還へ介入した青年――浮世英寿。
記録は途中までは存在している。しかし、ある時点を境に彼本人を対象とした監視だけが成立しなくなった。映像機器が壊れたわけでも、監視役が排除されたわけでもない。ただ、浮世英寿という存在だけが英雄派の目から抜け落ちている。
「駒王町にいるという情報は?」
「グレモリー眷属の周辺で複数の目撃情報があります。しかし、本人を直接追跡することは依然として――」
「できない、か」
曹操は資料へ視線を落とした。
京都で一度刃を交えたからといって、相手のことを理解したつもりはない。自らを神と称し、既存のどの勢力にも属さない男。分からない相手だからこそ、根拠もなく敵と決めつける意味はなかった。
「浮世英寿本人は追わなくていい」
部下が僅かに顔を上げる。
「いいのですか?」
「監視できないものを無理に追えば、こちらから余計な刺激を与えるだけだ。グレモリー眷属の動きだけ、これまで通り見ておけ」
「承知しました」
部下が退出し、室内へ静けさが戻る。
曹操はもう一度、その名前を見る。
浮世英寿。
「……今は、それでいい」