ゲームセンターへ遊びに行った翌日も、駒王町には穏やかな時間が流れていた。
サイラオーグとのレーティングゲームから数日が経ち、一誠の身体も日常生活を送るぶんにはほとんど問題がなくなっている。傷そのものは治療によって塞がり、残っているのは限界を越えて身体を酷使した反動と疲労が中心だった。全力での鍛錬や戦闘についてはまだ止められているものの、授業を受け、校内を歩き、放課後に部室へ顔を出す程度なら支障はない。
身体が戻れば、口の方も当然のように元へ戻る。
「だから、一回は勝ったんだって。一回は!」
放課後のオカルト研究部で、一誠は昨日から何度目になるか分からない主張を繰り返していた。
向かいのソファでは、英寿が朱乃の淹れた紅茶を片手にその様子を眺めている。格闘ゲームで一誠が一勝したこと自体は事実だ。英寿も否定するつもりはない。ただ、それ以外の勝負で散々騒いでいたことまで含めて覚えているため、その目には明らかに面白がっている色があった。
「覚えてるぞ。格闘ゲームだろ」
「その言い方だと、俺が必死に思い出させてるみたいじゃん!」
「実際、さっきから何回も言ってるだろ」
英寿がカップを置いたところで、少し離れた席にいた小猫が菓子を口へ運びながら静かに顔を上げた。
「レースは二回とも負けてました」
「小猫ちゃん、今それ足す必要あった?」
「事実です」
昨日のクレーンゲームまで含めれば、小猫は一回で猫のぬいぐるみを取っている。一誠はアーシアのために何度も硬貨を投入し、最後は英寿の助言を受けてようやく景品を落とした。戦績を振り返れば振り返るほど、一誠にとって都合の悪い情報が増えていく。
木場はその様子を見ながら小さく笑い、アーシアも困ったように微笑んでいる。朱乃は紅茶を淹れ直しながら楽しそうに耳を傾け、リアスも机の上の書類へ目を通しながら、時折こちらへ視線を向けていた。
やがて一誠も諦めたのか、背もたれへ身体を預ける。
「次のボウリングでは絶対勝つからな……」
「まだ言ってるのか」
「今度は本当に俺の得意分野だからな」
「昨日も似たようなこと聞いたな」
英寿が笑う。
戦いも、事件もない。
昨日遊んだことを話し、次に何をして遊ぶかを決めるだけの放課後。その程度の時間にも、英寿はもう特別な構えを見せることなく混ざっていた。
そんな空気の中、部室の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
英寿にとって聞き覚えのない女性の声だった。
長い銀髪を背へ流した女性が、旅行用らしい荷物を手に部屋へ入ってくる。整った顔立ちと生真面目そうな雰囲気。長い移動を終えたばかりなのか、表情にはわずかな疲れも見えた。
一誠たちは彼女を見るなり、それぞれに反応した。
「ロスヴァイセさん、お帰り!」
「お帰りなさい、ロスヴァイセさん」
一誠に続いてアーシアが声をかけ、小猫も短く「お帰りなさい」と告げる。リアスも机から顔を上げ、戻ってきた女性を迎えた。
「お帰りなさい、ロスヴァイセ。予定通りだったわね」
「はい。向こうでの報告が少し長引きましたが、大きく予定から外れることはありませんでした」
ロスヴァイセはそう答えたところで、部室の中にいる見慣れない男へ視線を止めた。
英寿も相手を見る。
一誠たちの反応から、彼女がこの場にとって珍しい客ではないことは分かる。ただ、英寿自身には見覚えがない。
そのことを察したリアスが自然に言葉を挟んだ。
「英寿、紹介しておくわ。ロスヴァイセよ。私の眷属の一人で、元々はアースガルズに仕えていたヴァルキリーなの」
英寿が駒王町へ来た頃には、ロスヴァイセはすでにアースガルズへ一時的に戻っていた。そのため、これまで顔を合わせる機会がなかったらしい。
「ヴァルキリーか」
英寿の視線にわずかな興味が浮かんだ。
悪魔、堕天使、妖怪。すでにいくつもの人外を目にしてきたが、北欧神話に語られる存在を直接見るのは初めてだった。
ロスヴァイセも荷物を足元へ置き、英寿へ向き直る。
「ロスヴァイセです。よろしくお願いします」
「浮世英寿だ。英寿でいい」
「では、英寿さんと呼ばせていただきます」
互いの自己紹介は簡潔だった。
ただ、ロスヴァイセの視線には、初めて見る相手へ向けるものとは少し違う色が混ざっている。本人とは初対面でも、英寿について何も知らないわけではないらしい。
英寿はそれに気づくと、わずかに眉を上げた。
「俺のことは聞いてるみたいだな」
「はい」
ロスヴァイセは隠さなかった。
今回アースガルズへ戻っていた理由は、英寿だけではない。元々報告しておかなければならないこともあり、こちらへ戻る前に確認すべき事柄もあったという。
その上で、彼女は少し姿勢を正した。
「異なる世界から、自らを神と称する人物が現れたという件も、重要な報告事項の一つでした」
「やっぱり北欧にも行ったのか……」
一誠が思わず呟く。
英寿自身は、そこまで驚いていなかった。
京都で八坂を救った時も、英雄派と向き合った時も、自分の存在を隠そうとはしていない。サイラオーグとの戦いの前には、創世の力まで人前で使った。
見聞きした者が、それぞれの立場から所属する勢力へ報告する。
それだけのことだった。
「随分広がったな」
「申し訳ありません」
ロスヴァイセが頭を下げかける。
英寿は片手を上げて止めた。
「謝ることじゃない。秘密にしてくれって頼んだ覚えもないからな」
少し間を置いてから、英寿は付け加える。
「ただ、俺をそっちの勢力へ入れる話なら断るぞ」
「そのような話ではありません」
ロスヴァイセはすぐに否定した。
「英寿さんが、この世界のどの勢力にも所属する意思を持っていないことも伝わっています」
「ならいい」
それだけで話を終わらせた英寿に、一誠が何とも言えない顔を向ける。
「なあ英寿。自分の話が神様連中のところまで回ってるんだぞ? もうちょっと気にしないのか?」
「何をだ?」
逆に聞き返され、一誠の方が言葉に詰まった。
英寿はほんの少し考えたが、結局肩をすくめただけだった。
「誰が知ったところで、俺が俺なのは変わらないだろ」
京都で曹操を前にした時も、サーゼクスを前にした時も、英寿の態度はほとんど変わらなかった。遠く離れた場所で自分の存在が話題になっている程度で、今さら慌てるような男ではない。
ロスヴァイセが荷物を部室の奥へ運んでいく。
その様子を見届けたところで、リアスが机の上に置いていた数枚の書類へ視線を落とした。
「ちょうど皆が揃っているし、もう一つ話しておきたいことがあるわ」
声の調子が少し変わり、部室の空気も自然と引き締まる。
リアスは一枚の書類を手に取った。
「一誠。祐斗。朱乃」
三人の名前が呼ばれる。
一誠は自分の胸を指した。
「俺?」
「そうよ」
リアスの表情には、隠しきれない喜びがあった。
「あなたたち三人に、中級悪魔への昇格試験を受ける資格が正式に認められたわ」
一誠はすぐには反応しなかった。
意味が頭へ届くまでに数秒。
それから一気に目を見開く。
「……中級悪魔?」
「ええ」
「俺が?」
「何度確認するの?」
リアスが苦笑した。
ようやく実感が追いついたらしく、一誠の顔が一気に明るくなる。
「マジですか!?」
勢いのまま立ち上がろうとした一誠だったが、身体へ力を込めたところでアーシアが心配そうに身を乗り出した。
本人もまだ完全復活ではなかったことを思い出し、浮かせかけた腰を大人しく戻す。
「……すみません」
「喜ぶなとは言っていないわ。でも、まだ全快ではないのだから身体のことは忘れないで」
「はい!」
返事だけは普段以上に元気だった。
木場も嬉しそうに笑っている。朱乃も一誠ほど大きく反応こそしなかったものの、その顔には穏やかな喜びが浮かんでいた。
英寿は三人を順番に眺める。
中級悪魔。
会話から察するに、今より一段上の立場へ進むための試験なのだろう。
ただ、一つだけ引っかかった。
英寿の視線が朱乃へ止まる。
「朱乃は《女王》なんだろ? それでも下級悪魔なのか?」
朱乃がわずかに目を瞬いた。
「ええ、そうですよ?」
英寿がリアスへ視線を移すと、彼女は疑問の意味をすぐに察したらしい。
「《女王》は私の眷属の中での役割よ。今話している下級、中級、上級という悪魔としての階級とは別なの」
英寿は一度、その説明を頭の中で整理した。
リアスが《王》で、朱乃が《女王》。木場が《騎士》、一誠が《兵士》であることはこれまでの会話から知っている。ただ、それらが悪魔社会そのものの階級とは別の仕組みであることまでは知らなかった。
「ああ、別に分かれてるのか」
「そういうことよ」
「なるほどな。てっきり《女王》って呼び方も、そういう階級の一つなのかと思った」
一誠も自分の胸を指す。
「俺も《兵士》だけど、悪魔としては今は下級ってことな」
「ややこしいな」
英寿の率直な感想に、リアスも苦笑した。
「初めて聞けばそうでしょうね」
仕組みを理解した英寿は、それ以上掘り下げなかった。
一方で一誠の関心は、すでに中級悪魔になった後へ向かっているようだった。
「中級悪魔になったら、俺もいつか自分の眷属を持ったりできるんですよね?」
「可能性は広がるわ」
リアスは頷く。
「ただし、まずは試験に合格してから。資格を認められたからといって、そのまま昇格できるわけではないのよ」
「もちろんです!」
一誠の顔には自信があった。
これまで何度も強敵と戦ってきた。サイラオーグとも真正面から殴り合い、最後には勝利している。
試験と聞けば、当然まず実技を想像したのだろう。
「試験って、やっぱり戦闘もありますよね?」
「実技はあるでしょうね」
一誠の拳が小さく握られる。
「よし」
その反応を見たリアスは、わざと一拍置いた。
「筆記もあるわよ」
握られていた拳が止まった。
「……筆記?」
「そうよ」
「……勉強するやつ?」
リアスの視線が冷静になる。
「それ以外の筆記試験があるなら聞いてみたいわね」
一誠の表情から、先ほどまでの勢いが綺麗に消えた。
英寿はその変化を面白そうに眺めている。
「良かったな」
「どこがだよ!」
「昇格する機会をもらったんだろ」
「そうだけど! 今いきなり別方向の強敵が出てきたんだよ!」
一誠が頭を抱えたところで、その内側から聞き慣れた低い声が響いた。
『相棒。ここまで来て筆記試験に敗れるなど、俺は認めんぞ』
一誠の動きが止まる。
「ドライグにまで言われた!」
『当然だろう。中級悪魔になりたいのはお前自身だ』
「戦闘なら手伝ってくれるのに!」
『筆記試験で俺に何をしろと言う』
一誠は少しだけ考え、左腕へ視線を落とした。
「Boostで頭の回転を――」
『無理だ』
「最後まで言わせろよ!」
英寿が堪えきれず笑った。
朱乃も口元へ手を添え、木場は苦笑している。小猫に至っては「勉強してください」と静かに追い打ちをかけた。
「味方がいない……」
一誠は悲しそうに呟いたものの、その声に本気の落胆はない。
昇格試験を受ける資格。
それ自体が、これまで積み重ねてきたものを認められた証でもある。
サイラオーグとの戦いだけではない。何度も危険へ飛び込み、そのたびに前へ進んできた結果として、次の段階へ進む機会を与えられた。
筆記が苦手だからという理由で、それを手放す一誠ではないことくらい、ここにいる全員が知っていた。
「日程や詳しい内容については、改めて伝えるわ」
リアスは三人を見渡した。
「準備は始めておいて。特に一誠」
「なんで俺だけ!」
「今の反応を見て、自分だけ名指しされる理由が本当に分からない?」
何も言い返せなかった。
再び部室へ笑いが戻る。
だが、リアスは手元に残っている書類をまだ片づけなかった。
もう一つ話があるらしい。
今度は英寿へ視線が向く。
「それと英寿。あなたにも知らせておくことがあるわ」
「今日は色々あるな」
英寿が紅茶へ手を伸ばした。
「何だ?」
「あなたについて、天界側にも正式に情報が共有されたわ」
英寿の手は止まらない。
ロスヴァイセが北欧へ報告を持ち帰っている以上、現在協調関係にある天使側へ情報が渡ることも不思議ではなかった。
「天使側にもか」
「ええ。今は三大勢力が協調関係にあるもの。異世界から現れて、自らを神だと語る人物について、悪魔と堕天使だけで情報を抱えているわけにはいかないでしょう」
「まあ、そうなるか」
英寿は紅茶を一口飲んだ。
「それで?」
「天界を預かっている方の一人が、一度あなた自身と話してみたいそうよ」
そこで英寿は少しだけ興味を示した。
「俺と?」
「ええ。今日、この後こちらへ来ることになっているわ」
相手の名前はまだ聞いていない。
英寿も尋ねなかった。
会えば分かる。
「いいぜ。顔を合わせて話すくらいならな」
返事は簡単だった。
一誠はそんな英寿を横から眺める。
北欧。
天界。
すでに本人と直接言葉を交わした冥界のサーゼクス。
そして堕天使側のアザゼル。
京都に突然現れた一人の男について、少しずつこの世界の大きな勢力が知り始めている。
「英寿、お前そのうち色んなところから会いに来られるんじゃないか?」
「それは面倒だな」
「そこは普通に嫌なんだ」
「毎日知らない奴が挨拶に来たら面倒だろ」
あまりにも普通の理由に、一誠が笑った。
⸻
天界からの訪問者が姿を見せたのは、それから一時間ほど後だった。
今回は正式な首脳会談ではなく、あくまで本人同士の顔合わせに近い。そのため大げさな場所を用意することもなく、そのままオカルト研究部の部室が使われることになった。
途中からはアザゼルまで姿を見せていた。
扉から入ってきた彼を見るなり、英寿は露骨に眉を寄せる。
「何でお前まで来た?」
「三大勢力間の情報共有に関係する話だぞ。俺がいてもおかしくねぇだろ」
「それは?」
英寿の視線がアザゼルの手元へ落ちる。
握られているのは小さなメモ帳だった。
閉じられた頁の間から紙が少しだけはみ出し、そこには《ブーストライカー》という文字が見えている。
アザゼルは英寿の視線に気づくと、何事もなかったようにメモ帳を閉じた。
「気にすんな」
「帰れ」
「まだ何もしてねぇだろ!」
一誠が吹き出した。
昨日から何度もブーストライカーについて質問を送り続けている以上、疑われる方が自然だった。
アザゼルが不満そうにソファの端へ腰を下ろした、その時。
室内の空気が静かに変化した。
魔力とは違う。
強い力を感じるにもかかわらず、押しつけるような威圧感はほとんどない。
部室の一角へ淡い光が集まり、柔らかな輝きがゆっくりと人の形を作り始める。
一誠たちが自然と姿勢を正した。
光が収まった場所に、一人の男が立っていた。
金色の髪。
穏やかな顔立ち。
そして背後に広がる白い翼。
初めて見る英寿にも、ただの天使ではないことは一目で分かった。
男もまた室内を見回した後、英寿へ視線を止める。
先に口を開いたのは、天使の男だった。
「初めまして、浮世英寿君。私はミカエル。現在、天界を預かっている者の一人です」
そこで初めて、英寿は相手の名前を知った。
椅子から立ち上がり、向かい合う。
「浮世英寿だ。英寿でいい」
「では、英寿君と呼ばせてもらいます」
ミカエルは柔らかく微笑んだ。
英寿が再びソファへ腰を下ろし、ミカエルも向かいへ座る。リアスたちは少し離れた場所から見守り、アザゼルも今だけはメモ帳を閉じたまま大人しくしていた。
「突然の訪問を受け入れていただき、ありがとうございます」
「気にしなくていい。俺もこの世界のことはまだ知らないことが多いからな。話したいっていうなら、顔くらい見るさ」
ミカエルは一度頷いた。
「英寿君については、サーゼクスとアザゼルからかなり詳しく報告を受けています。どの勢力にも所属する意思を持っていないことも、この世界を支配しようとしているわけではないことも、すでに承知しています」
英寿はわずかに眉を上げた。
「なら、話が早いな」
「ええ。ですから今日は、すでに確認されていることをもう一度尋ねに来たわけではありません」
その言葉に、少し離れて聞いていた一誠も表情を変えた。
サーゼクスとの対話では、英寿がこの世界に何を求めているのか、どこかの勢力へ加わるつもりがあるのか、創世の力で世界そのものを変えられるのかといった話までしている。
ミカエルは、それを知らずに来たわけではない。
「報告を読むだけでも、あなたが少なくとも現時点で私たちへ敵意を持っていないことは理解できました。それでも一度直接会いたいと思ったのは――」
ミカエルの視線が英寿へまっすぐ向けられる。
「あなたが『神』を名乗り、なおかつ創造に類する力を持つ方だからです」
部室が少しだけ静かになった。
英寿はその言葉を聞いても、すぐには何かを返さなかった。
天界。
聖書の神を失った者たち。
その頂点に近い位置にいるミカエルにとって、「神」や「創造」という言葉が他の者とは違う意味を持つことくらい、詳しい事情を知らない英寿にも察せられた。
ミカエルは穏やかな声音を崩さない。
「サーゼクスからは、あなたが『神』だと自ら語ったと聞いています」
英寿はほんの一拍、考えた。
何と説明するのが一番近いのか。
厳密な肩書きを答えるというより、自分が今何者なのかを一番簡単な言葉へ置き換えるように、わずかに視線を上げる。
「……そうだな」
それからミカエルへ目を戻し、口元を少し上げた。
「まあ、願いを叶える神様ってところだな」
「願いを叶える神……ですか」
ミカエルが静かにその言葉を繰り返す。
「それが、あなた自身が考える今の在り方に最も近いと?」
「そうだな」
英寿はカップの縁へ指を添えながら、簡潔に続けた。
「誰かの願いが届けば、その願いを聞く。叶えるかどうかは、その時に俺が決める」
そこまで聞いたミカエルは、すぐに次の質問を投げることはしなかった。
「なるほど」
短く頷く。
「私たちが知る神々とは、かなり違う在り方のようです」
「俺もこっちの神様事情には詳しくないからな」
「それはそうでしょうね」
ミカエルがわずかに笑う。
英寿が異世界から来たという事実は、すでに共有されている。こちらの神話体系へ自分を当てはめられないのは当然だった。
少し間を置き、ミカエルの視線が英寿の腰――今は何も装着されていない場所へ向かう。
「そしてもう一点。報告では、あなたの創世の力は、仮面ライダーとして使用している装備の力ではないと聞いています」
アザゼルがその言葉へ反応した。
今度は研究者として割り込むのではなく、説明する側として口を開く。
「ああ。そこは俺も確認してる。デザイアドライバーやバックルの機能とは別物だ。あれは英寿本人が持ってる力と考えるのが妥当だな」
ミカエルは英寿を見る。
「あなた自身も、そう認識していますか?」
「ああ」
英寿は迷わなかった。
「ライダーの力と創世の力は別だ」
サイラオーグとの戦いが、その最も分かりやすい例だった。
英寿は傷と疲労を創世の力で戻した。
だが、その後の手合わせでは一度もそれを使わず、仮面ライダーとして戦い抜いた。
一誠もその違いを自分の目で見ている。
ミカエルはしばらく考えるように沈黙した。
「一人の存在が、自身とは別系統の戦うための力を持ちながら、それとは独立した創造の力まで有している……」
その言葉には警戒よりも、純粋に理解しようとする慎重さがあった。
英寿は相手の表情を見ながら、わずかに笑う。
「そんなに珍しいか?」
「少なくとも、私にとっては」
ミカエルも正直に答えた。
「だからこそ、報告書だけで判断したくなかったのです」
英寿は数秒ミカエルを見てから、軽く頷いた。
「なるほどな」
そこで、それまで何とか黙っていたアザゼルが口を開いた。
「ちなみに俺は、その別系統であるライダー側の構造をもっと詳しく――」
英寿の視線が即座にそちらへ向く。
「お前は黙ってろ」
「まだ最後まで言ってねぇだろ」
「どうせドライバーかバイクの話だろ」
「両方だ」
「帰れ」
「何でだよ!」
一誠が堪えきれず吹き出した。
リアスは額へ手を当て、ロスヴァイセも困ったように二人を見ている。ミカエルの表情までわずかに緩んだ。
報告書に書かれた「異世界から現れた創世の神」という情報だけなら、もっと近寄りがたい存在を想像していたのかもしれない。
だが、今目の前にいる英寿は強大な力を持ちながら、それを振りかざして周囲へ服従を求めるような存在ではない。
ミカエルは改めて英寿へ視線を戻した。
「一度お会いできて良かったと思います」
「もういいのか?」
「ええ。今日確認したかったのは、あなたの力そのものよりも、それを持つあなたがどのような方なのかですから」
その言葉に、英寿は少しだけ目を細めた。
力を持っていること。
それだけなら報告書にも書ける。
だが、どんな時に使い、何のために使わないのかまでは、数字や分類だけでは分からない。
ミカエルはそこを見に来たのだろう。
「少なくとも、天界として現時点で英寿君を敵対存在として扱う理由はありません」
「それなら助かるな」
英寿も軽く返した。
「ただし、一つだけ知っておいていただきたいことがあります」
「何だ?」
「これから、あなたについて知ろうとする者は増えるでしょう」
英寿の眉がわずかに動く。
「やっぱりか」
「異なる世界から現れた神という存在は、三大勢力だけの関心事ではありません」
ミカエルの視線がロスヴァイセへ向く。
「北欧にも、すでに情報は伝わっているのでしょう?」
「はい。必要な範囲では報告しています」
ロスヴァイセが頷いた。
「他の神話勢力まで関心を持つ可能性もあります。もちろん、あなたを敵として扱うために情報を広げるという意味ではありません。ただ、直接話してみたいと思う者は現れるでしょう」
英寿は小さく息を吐いた。
「神様ってのも大変だな」
横からアザゼルが笑う。
「お前が言うのかよ」
「俺だって面倒なものは面倒だ」
「自分から神だって言ってるだろ」
「本当のことだからな」
その堂々とした返答に、一誠まで笑った。
天界を預かる大天使との初対面だったが、最後まで息苦しい会談にはならなかった。
やがてミカエルが席を立つ。
「今日はありがとうございました、英寿君。またお話しする機会もあると思います」
「ああ。その時はよろしくな」
英寿も立ち上がり、短く返した。
淡い光がミカエルの身体を包む。
やがてその姿が消え、光も静かに収まっていった。
一誠はしばらくそこを眺めた後、ゆっくり英寿を見る。
「サーゼクス様にアザゼル先生、それで今度はミカエル様か……」
「何だ?」
「いや。英寿、どんどん顔が広くなってるなって」
英寿本人には、そこまで感慨はないらしい。
「向こうから来るんだから仕方ないだろ」
「次は北欧だったりして」
「勝手に予定を増やすな」
一誠が笑う。
その横では、ロスヴァイセがわずかに複雑そうな表情を浮かべていた。
アースガルズへ英寿の情報が渡った。
それが今後どんな反応を生むのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、京都に突然現れた白い狐の仮面ライダーについての情報が、もうグレモリー眷属の周辺だけに留まる段階ではなくなったということだった。
悪魔。
堕天使。
天使。
そして北欧。
英寿自身が何かを求めて動かなくとも、この世界の方が少しずつ彼の存在を知り始めている。
そして、その流れとはまったく別のところでも。
次の出来事は、すでに動き始めていた。
⸻
その日の夜。
兵藤家の一誠の自室には、昼間とは別の意味で重苦しい空気が漂っていた。
机の上には、リアスから渡された資料が積み上がっている。
中級悪魔昇格試験。
部室にいた時は喜びの方が大きかった。
だが、帰宅してから試験範囲へ目を通したことで、一誠は早くも現実を思い知らされていた。
悪魔社会の制度。
契約についての規則。
冥界の歴史。
階級に伴う権利と責任。
その他にも、覚えなければならないことはいくらでもある。
一誠はまだ最初の数ページしか読んでいない。
それなのに、すでに机へ突っ伏していた。
「……これ、サイラオーグともう一回戦う方が楽なんじゃないか?」
『馬鹿を言うな』
ドライグから即座に否定が返る。
『相棒。お前は中級悪魔になるつもりなのだろう』
「なるよ。なるけどさ……」
一誠は顔だけを横へ向け、積み上がった資料を見る。
「なんで悪魔になるのに、こんな勉強いるんだよ……」
『力だけ持った馬鹿を上へ上げないためではないか?』
一誠はゆっくり顔を上げた。
「めちゃくちゃ納得できること言うなよ……」
しかも、自分へ刺さる。
『俺に言われたくなければ勉強しろ』
「ドライグにまで言われた……」
一誠は再び机へ額をつけた。
戦闘ならば、ドライグは頼れる相棒だ。窮地では言葉をくれ、必要なら共に戦ってくれる。
だが、筆記試験ばかりはどうにもならない。
一誠は左手を持ち上げ、少しだけ考えた。
「Boostで記憶力が倍になったり――」
『ならん』
「まだ最後まで言ってねぇよ!」
『聞く前から分かる』
容赦がない。
結局、一誠は諦めて資料を開き直した。
数行読む。
知らない言葉が出てくる。
別の資料を開く。
そこにはさらに別の知らない単語が並んでいる。
調べるために別の頁を開けば、そこからまた新しい用語が増えていく。
「……これ、無限に続くやつじゃね?」
嫌なものを感じ始めたところで、階下から母親の声が響いた。
夕食ができたらしい。
一誠は本を閉じると、救われたように椅子から立ち上がった。
「よし、休憩!」
『始めてから大して経っていないぞ』
「休憩も勉強のうちだ!」
『初めて聞いた理屈だな』
ドライグの呆れた声を無視し、一誠は部屋を出た。
階段を下りている途中だった。
玄関の方から、僅かな物音がする。
インターホンが鳴った覚えはない。
両親のどちらかが誰かを迎えたのかとも思ったが、居間の方からは普通に二人の話し声が聞こえている。
一誠は足を止めた。
妙に気になった。
そのまま玄関へ向かう。
廊下を抜ける。
そして、そこに立っている者を見た瞬間、一誠の足が止まった。
少女だった。
小柄な身体。
腰まで伸びる黒い髪。
黒を基調とした服装。
外見だけなら、人間の少女にしか見えない。
敵意は感じない。
殺気もない。
それなのに、一誠の身体が無意識に強張った。
理由はすぐに分かった。
神器の奥で、ドライグが反応している。
先ほどまで試験勉強について呆れていた声とは、まるで違った。
低く。
鋭い。
『――相棒』
一誠の表情から気の抜けたものが消える。
『気を抜くな』
「え……?」
少女が一誠を見る。
感情らしいものがほとんど浮かんでいない瞳だった。
恐怖も。
敵意も。
喜びも。
外からでは何を考えているのか、まるで読み取れない。
一誠は警戒を崩さないまま尋ねた。
「……誰?」
少女はすぐには答えなかった。
ただ、一誠を見上げる。
数秒の沈黙。
やがて口を開いた。
「おっぱいドラゴン」
一誠の思考が止まった。
「……はい?」
聞き間違いかと思った。
しかし少女は、ほとんど同じ調子でもう一度告げる。
「おっぱいドラゴン」
『相棒、呆けるな』
「俺だって好きで呆けてるんじゃねぇよ!」
思わずドライグへ返してしまう。
目の前の少女は、一誠の騒ぎにもほとんど反応を示さなかった。
ただ、小さく言う。
「会いに来た」
「俺に?」
少女が頷く。
その瞬間。
一誠の中にいるドライグの緊張が、さらに強くなった。
『相棒』
先ほどよりも重い声だった。
『そいつから目を離すな』
「ドライグ?」
『俺が見間違えるはずがない』
一誠は少女を見る。
ドライグほどの存在が、ここまで明確に警戒している。
それだけで、目の前にいる少女が普通ではないことは十分だった。
少女は一誠の内側で交わされている会話を知っているのかいないのか、変わらない表情のまま自分の名を告げた。
「オーフィス」
一誠の呼吸が止まった。
その名は知っている。
知らないはずがない。
禍の団――カオス・ブリゲード。
複数の危険な集団を抱える巨大組織の頂点にいるとされる存在。
無限の龍神。
「……オーフィス?」
『ああ』
ドライグの声が低く響く。
『無限の龍神、オーフィスだ』
一誠は改めて目の前の少女を見た。
どう見ても、そんな途方もない存在には見えない。
小柄で。
静かで。
ただ玄関に立っている。
だが、ドライグが間違えるはずもない。
「ちょっと待て……」
一誠はようやく頭を動かした。
「なんで禍の団のトップが、普通にうちの玄関にいるんだよ……?」
オーフィスはその疑問には答えなかった。
代わりに、先ほどと同じ平坦な声で告げる。
「おっぱいドラゴンに会いに来た」
「それ俺の呼び名として完全に定着してんの!?」
思わずいつもの調子で突っ込んだものの、すぐにそんな場合ではないと思い直す。
オーフィス。
敵なのか。
戦いに来たのか。
何が目的なのか。
何一つ分からない。
一誠は少女から視線を外さないまま、片手をゆっくりポケットへ入れた。
スマートフォンを取り出す。
まずリアスへ知らせる。
そう判断した。
オーフィスは止めない。
逃げもしない。
ただ一誠が画面を操作する様子を、静かに眺めている。
一誠はグループを開いた。
指が一度止まる。
どう説明すればいいのか迷った末、余計なことは書かなかった。
《部長》
送信。
続けて、
《うちにオーフィスが来た》
数秒も経たずに既読がついた。
リアスから、
《オーフィス?》
と返ってくる。
続いて朱乃。
木場。
小猫。
アーシア。
少し遅れて、英寿も既読をつけた。
一誠はもう一度、目の前の少女を見る。
そして短く、
《玄関にいる》
と送った。
今度はしばらく誰からも返事が来なかった。
全員が同じことを考えているのだろう。
なぜ。
どうして。
何のために。
そんな中。
英寿から一件だけ返信が届いた。
《今行く》
一誠はその短い文字を見つめた。
それから、再びオーフィスへ視線を戻す。
昼間。
異世界から来た神を名乗る英寿について、天界にまで正式に情報が共有された。
北欧にも報告が渡っている。
悪魔。
堕天使。
天使。
そして神々。
この世界の大きな存在たちが、少しずつ浮世英寿という男を知り始めている。
そして、その日の夜。
今度は禍の団の頂点に立つ無限の龍神が、自ら兵藤家の玄関へ現れた。
英寿とオーフィスは、まだ会っていない。
互いの名も知らない。
それでも一誠には、嫌でも感じるものがあった。
昨日までの穏やかな時間が、完全に終わったわけではない。
けれど、そのすぐ向こう側で。
次の何かが。
静かに。
それでいて確実に、動き始めていた。