無限の龍神が兵藤家へ転がり込んでから、数日が過ぎた。
文字にしてしまえば、それだけで世界中の神話勢力が頭を抱えそうな出来事である。
しかし当の兵藤家では、驚くほど早く日常の一部へ組み込まれつつあった。
オーフィスは家の中を荒らさない。
勝手に誰かへ攻撃することもなければ、何かを要求して騒ぐこともない。
腹が減れば食卓へ来て、菓子を渡されれば食べ、興味を持ったものをじっと眺める。
そして最近、その観察対象として最も長い時間を割かれているのが一誠だった。
「……なあ」
兵藤家の自室。
机に向かっていた一誠は、何度目になるか分からない視線に耐えきれず顔を上げた。
ベッドの端にオーフィスが座っている。
相変わらず無表情に近い顔のまま、一誠を見ていた。
「何?」
「それ、俺が聞きたいんだけど」
机の上には分厚い資料が広げられている。
悪魔社会の制度。
契約に関する規則。
冥界の歴史。
階級ごとの権利と義務。
戦闘であれば身体を動かしながら覚えられる一誠にとって、こちらは明らかに不得意な分野だった。
それでも、以前のように数頁読んだだけで投げ出してはいない。
何度も同じ行へ戻り。
覚えられなければ紙へ書き。
分からない箇所には印をつけ、後でリアスたちへ聞けるようにしている。
オーフィスは、それをずっと見ていた。
「おっぱいドラゴン、勉強する」
「それはもう分かったから。なんでずっと見てるんだよ」
「見る」
「理由になってねぇ……」
肩を落としながらも、一誠は資料を閉じなかった。
神器の奥でドライグが低く笑った気がしたが、今は反応しない。
中級悪魔になる。
そのために必要なのなら、やる。
サイラオーグとの戦いでどれだけ強くなったところで、筆記試験の答案が勝手に埋まってくれるわけではない。
そこはもう諦めた。
だから、自分でやるしかなかった。
◆
そして翌日の放課後。
オカルト研究部の部室では、いつもより僅かに張り詰めた空気が流れていた。
リアスの机の前に、一誠、木場、朱乃が並んでいる。
少し離れたソファには英寿が座り、朱乃が先ほど淹れた紅茶へ口をつけていた。試験を受けるわけでもない彼がここにいるのは、リアスから「正式な日程が決まった」と連絡を受けたからである。
この世界へ来てから知り合った三人が、一つ上の段階へ進もうとしている。
なら、話を聞くくらいは悪くない。
「正式な日程が決まったわ」
リアスは三人の顔を順に見た。
「中級悪魔昇格試験は明後日。冥界で行われることになったわ。筆記試験を終えた後、そのまま実技試験へ移る予定よ」
一誠の表情には、以前この話を聞いた時ほど露骨な絶望はなかった。
嫌そうではある。
だが、逃げようとはしていない。
その違いを英寿は黙って見ていた。
「一誠」
「はい」
「勉強は?」
「……やってます」
返答まで一瞬だけ間があったものの、嘘ではない。
アーシアが嬉しそうに頷き、小猫も菓子を食べながら「今回は本当です」と補足した。
「今回はって何だよ、小猫ちゃん」
一誠が反応しかけたところで、部室の扉が開いた。
入ってきた金髪の少女へ、一誠の視線が向く。
「レイヴェル?」
「お久しぶりです、一誠様」
フェニックス家の令嬢、レイヴェル・フェニックス。
以前から一誠とは面識があるらしく、彼女は室内へ入ると真っ先に一誠へ頭を下げた。それからリアスたちへ挨拶し、最後に英寿へ視線を移す。
初対面ではあるものの、英寿についての話はすでに耳へ入っているようだった。
「浮世英寿様ですね。お噂は伺っております」
「英寿でいい」
「では、英寿様と」
「そこは様なんだな」
「年上の方ですので」
「真面目だな」
英寿が僅かに笑う。
レイヴェルもそれ以上自己紹介を長引かせず、一誠の隣へ移動した。
リアスが手元の書類を閉じる。
「それと、一誠にはもう一つ話があるわ。今後、あなたが悪魔として活動の幅を広げていくにあたって、レイヴェルが補佐についてくれることになったの」
一誠が隣を見る。
レイヴェルは背筋を伸ばしていた。
「補佐?」
「マネージャーのようなものだと考えてください。一誠様は今後、中級悪魔へ昇格すれば活動出来る範囲も広がります。いずれ御自身の眷属を持つことまで考えるのでしたら、戦うことだけを知っていればいいわけではありませんから」
一誠の視線が、机の上に置かれた試験資料へ向く。
以前ならそこから何か冗談の一つでも出ていただろう。
けれど今回は、少し考えた後で素直に頷いた。
「……よろしく頼む、レイヴェル」
一瞬だけ。
レイヴェルの表情が明るくなる。
「はい!」
その反応を見た英寿は紅茶を一口飲み、何も言わず視線を戻した。
この世界の仕組みは、まだ全て理解したわけではない。
だが、一誠が一段階上へ進もうとしていることくらいは分かる。
強い敵を倒せば終わりではない。
力を持つのなら、それをどう扱うのか。
誰かの上に立とうとするなら、何を背負うのか。
試験が筆記と実技の両方に分けられている理由も、今なら何となく理解出来た。
「英寿」
名前を呼ばれ、英寿が顔を上げる。
一誠だった。
「試験、見に来る?」
「俺が?」
「実技の方は見学出来るらしいんだ。せっかくだしさ」
以前、英寿と手合わせをした時。
自分と英寿の何が違うのか知りたいと一誠は言った。
あの時から、まだそれほど日は経っていない。
けれどサイラオーグとの戦いを経て。
曹操を前にした英寿の戦い方を見て。
自分なりに前へ進もうとしている。
英寿は一誠の顔をしばらく眺めた後、軽く頷いた。
「いいぜ」
「よし」
「ただし、筆記で落ちたら実技を見る前に帰るからな」
「縁起でもないこと言うなよ!」
ようやく一誠らしい声が部室へ響いた。
◆
試験当日。
冥界。
英寿がこの世界へ来てから、悪魔たちの本拠地へ足を運ぶのは初めてではない。
それでも、人間界とは明らかに異なる空や景色にはまだ僅かな新鮮さがあった。
会場として用意された建物は、戦闘施設だけを備えた場所ではない。
大きな講堂。
複数の試験室。
実技用の広い訓練場。
そして受験者や関係者が待機する区画までまとめられた、悪魔社会の公的施設だった。
受験者は一誠たちだけではない。
廊下を歩けば、様々な家系に属する若い悪魔の姿が見える。
緊張して資料を確認する者。
自信満々に仲間と話す者。
無言で目を閉じている者。
それぞれが自分の立場を一つ上へ進めるため、この場所へ来ていた。
「……なんか急に緊張してきた」
一誠が小さく呟く。
隣を歩く木場は普段通りだった。
「ここまで来たんだから、後はやるだけだよ」
「木場は絶対筆記も余裕だろ」
「勉強はしたからね」
「その言葉が一番刺さるんだよ……」
朱乃は二人の少し前を歩きながら、楽しそうに笑っている。
その後方をリアス、レイヴェル、そして英寿が続いていた。
英寿は前を歩く三人を見る。
「一誠」
「ん?」
「昨日までやったんだろ」
「ああ」
「なら、今さら出来ることはないな」
その言葉に一誠が一度目を瞬く。
「……励ましてる?」
「そう聞こえたか?」
「微妙」
「なら好きに受け取れ」
英寿は笑う。
妙に肩へ入っていた力が、ほんの少し抜けた。
試験室の前まで来ると、受験者以外はそこから先へ入れない。
三人がそれぞれ扉へ向かう。
「一誠様」
レイヴェルが呼び止めた。
一誠が振り返る。
「これまで勉強した分を、そのまま書いてくれば大丈夫です」
奇跡を起こせとは言わない。
突然頭が良くなれとも言わない。
ただ、やったものを出してくればいい。
一誠は一度大きく息を吸った。
「行ってくる」
今度は迷わず扉をくぐった。
◆
筆記試験は、戦いとは違った意味で長かった。
英寿たちは別室で待機しているため、中で何が起きているかを見ることは出来ない。
それでも、終わった後の顔を見れば結果くらいは想像出来た。
最初に出てきた朱乃は落ち着いている。
木場もほとんど変わらない。
最後に現れた一誠だけが、何年か寿命を削られたような顔をしていた。
「……終わった」
待合室へ入るなり、椅子へ沈み込む。
英寿が雑誌から目を上げた。
「どっちの意味だ?」
「試験がだよ! 縁起悪い聞き方すんな!」
「元気そうだな」
「頭が疲れてんだよ……」
レイヴェルがすぐに水を渡す。
一誠は礼を言って受け取ると、一気に半分ほど飲んだ。
「ちゃんと全部埋めましたか?」
「一応」
「分からないからといって変なことを書いていませんね?」
「俺を何だと思ってる!?」
言い返したところで、一誠の動きが止まる。
何か思い当たる節でもあるらしい。
レイヴェルの目が細くなった。
「……一誠様?」
「大丈夫。多分」
「多分をつけないでください」
英寿は二人のやり取りを眺めながら小さく笑った。
それでも、一誠の顔にはどこかやり切った色があった。
出来たかどうかは結果が出るまで分からない。
だが、逃げなかった。
今はそれでいい。
短い休憩を挟み。
午後。
舞台は実技試験場へ移った。
◆
そこは、ちょっとした競技場ほどの広さを持つ空間だった。
周囲は何重もの防御結界に覆われ、観覧席と試験区域は完全に分離されている。
受験者は順番に試験官の指定した相手と戦い、その過程を複数の審査員が評価する。
単純に勝てばいいというものではない。
力。
判断。
制御。
戦況への対応。
中級悪魔として認めるに足るかを、実戦形式で見るための試験だった。
観覧席へ座った英寿は、その説明を聞いて少しだけ興味を持った。
「勝敗だけじゃないんだな」
「当然よ」
隣に座ったリアスが答える。
「上の階級へ進めば、自分だけ強ければいいというわけではなくなるもの。力の制御が出来ない者を、単純な戦闘力だけで昇格させるわけにはいかないわ」
「なるほどな」
英寿は試験場へ視線を戻した。
最初に呼ばれたのは朱乃だった。
対戦相手が展開した攻撃を真正面から受けることなく、相手の動きと術式の性質を見極めながら雷光で追い詰めていく。
圧倒するだけなら、もっと早く終わらせることも出来ただろう。
だが朱乃は必要以上の威力を使わず、相手の防御を崩し、最後は明確に勝敗が分かる形で動きを止めた。
審査員たちが何かを書き込む。
「上手いな」
英寿の短い感想に、リアスの表情が僅かに誇らしげになる。
続く木場も同じだった。
速い。
だが、ただ速度任せに攻めているわけではない。
剣を生み出しながら相手の逃げ道を限定し、狙った場所へ追い込んでいく。最後まで余裕を失うことなく、相手の攻撃を最小限の動きで避けて勝負を決めた。
以前見たレーティングゲームでも感じたことだが、木場は自分の得意な距離と速度を理解している。
自分に出来ることを、そのまま最大限に使っていた。
「二人とも問題なさそうだな」
「ええ」
リアスも小さく息を吐く。
残るのは一人。
試験場の入口へ視線を移したところで、その名が呼ばれた。
兵藤一誠。
赤龍帝。
一誠が大きく息を吐いてから、試験区域へ入ってくる。
観覧席を見上げ、こちらにいる面々を見つける。
アーシアと小猫が応援する中、英寿は何も言わず片手を軽く上げた。
一誠もそれに気づいた。
そして対面へ視線を戻す。
今回、一誠の相手として用意された悪魔は、冷気を扱う神器の所有者だった。
開始の合図と同時に、試験場の気温が一気に落ちる。
床を白い霜が走った。
吐く息が白くなり。
空中へ生じた氷が、次々と組み上がっていく。
「……鳥?」
英寿が目を細める。
巨大だった。
翼を広げれば試験場のかなりの範囲を覆うほどの氷鳥。
鋭い嘴。
長い鉤爪。
幾重もの氷で作られた翼。
神器《フリージング・アーケオプテリクス》。
周囲の温度を奪いながら形成された巨大な氷の怪鳥が、一誠の頭上で翼を広げた。
冷気だけで足元が凍りついていく。
だが。
一誠は慌てなかった。
左腕へ赤い籠手が現れる。
龍を思わせる宝玉が輝いた。
『Boost!』
低い電子音が試験場へ響く。
何度も聞いた音だった。
それでも、以前とは少し印象が違う。
一誠自身が焦っていないからだ。
強い力を出せば勝てる。
それだけなら、とっくに知っている。
今回試されているのは、その先だった。
「《昇格》――《女王》!」
《兵士》として持つ昇格能力。
駒の特性が切り替わり、一誠の身体能力と魔力が一段押し上げられる。
さらに赤い魔力が全身を包んだ。
龍の鎧が形成されていく。
《赤龍帝の鎧》。
通常の禁手。
それだけで周囲の空気が震えた。
「おお……」
他の受験者たちからも小さなどよめきが上がる。
サイラオーグとの戦いで見せた真紅の姿ではない。
それでも十分すぎる。
赤龍帝の力そのものが、そもそも並の神器とは規模が違う。
対戦相手もそれを理解しているのだろう。
様子を見ることはしなかった。
巨大な氷鳥が一気に下降する。
左右から氷の羽根が無数に射出され、一誠の逃げ道を塞いだ。
真正面からは巨大な嘴。
避ければ氷弾。
止まれば凍結。
複数の攻撃を重ねた、よく考えられた攻めだった。
一誠は地面を蹴る。
氷の羽根を避け、二発を腕で弾き、翼を使って氷鳥の下へ潜り込む。
速い。
だが、氷鳥の巨体も見た目ほど鈍くはなかった。
翼が翻る。
横殴りの冷気が一誠を吹き飛ばし、その身体が地面を滑った。
「一誠さん!」
アーシアが身を乗り出す。
英寿は動かなかった。
装甲に大きな損傷はない。
何より、本人の目がまだ死んでいない。
すぐに立ち上がる。
「……なるほど」
一誠の声が装甲越しに響いた。
最初の一撃で理解したらしい。
相手は弱くない。
なら、きちんと戦う。
それだけだ。
『Boost!』
宝玉が輝く。
氷鳥が再び翼を広げる。
周囲へ集まった冷気が、今度は一か所へ集中していった。
巨大な氷塊。
先ほどまでとは比べものにならない密度。
その中心で、鳥の姿がさらに大きくなる。
試験場の結界が僅かに反応した。
英寿の口元が少しだけ上がる。
「来るな」
直後。
巨大な氷鳥が一誠へ突っ込んだ。
今度の一誠は避けなかった。
右足を引く。
腰を落とし。
ただ真っ直ぐに拳を握る。
一発。
それだけだった。
氷鳥の嘴と拳がぶつかる。
轟音。
巨大な氷の身体へ、一瞬で亀裂が走った。
嘴から。
頭。
胴体。
翼。
次の瞬間には、試験場を覆うほどの氷鳥そのものが内側から爆ぜる。
大量の氷片が空中へ舞った。
そして。
「……あ」
一誠の声が聞こえた。
氷鳥を形成していた対戦相手まで、衝撃を受けて後方へ吹き飛んでいる。
防御結界へ激突。
さらに勢いが殺しきれず、その後方に設けられていた壁の一部まで突き破った。
試験場が静まり返った。
「…………」
英寿も少しだけ目を瞬く。
リアスが片手で額を押さえた。
レイヴェルの顔が引きつっている。
数秒後。
一誠が恐る恐る拳を下ろした。
「……やりすぎた?」
誰に聞いたのかは分からない。
だが、その疑問への答えだけは全員一致していた。
審査員たちが慌ただしく相手の状態を確認する。
幸い、防御術式と本人の魔力による防御が間に合っており、命に関わる怪我ではない。
それを確認した瞬間、一誠の肩から露骨に力が抜けた。
観覧席では英寿が堪えきれず小さく笑った。
「力の制御も試験じゃなかったか?」
「そうよ」
リアスの返答には疲れが混じっている。
「でも、手加減していたのよ。一誠なりに」
「それであれか」
「……ええ」
英寿は試験場を見る。
一誠自身も困ったように破壊された壁を見ていた。
以前の彼なら、強い一撃を出せたことへ先に喜んでいたかもしれない。
今は違う。
最初に確認したのは対戦相手の無事だった。
出力を間違えたことを自分で理解している。
まだ粗い。
それでも、ただ力を振り回しているだけではない。
審査員たちも同じところを見ていたらしい。
しばらく協議が続いた後、実技試験終了の合図が出された。
◆
結果が発表されたのは、それからしばらく後だった。
三人は並んで立っている。
朱乃。
木場。
一誠。
その正面で、試験官が結果を読み上げた。
三人とも。
合格。
一誠は一瞬、意味を理解出来なかったように動きを止めた。
次の瞬間。
両拳を強く握る。
「――よっしゃあ!」
今度こそ誰も止めなかった。
アーシアが嬉しそうに笑い、小猫もほんの僅かに口元を緩める。ゼノヴィアは当然だと言わんばかりに頷き、レイヴェルも自分のことのように喜んでいた。
リアスは三人を見ながら、静かに息を吐く。
眷属として迎えた者たちが。
自分の下で戦ってきた者たちが。
また一つ、自分の力で上へ進んだ。
その表情には、主としての誇らしさが隠しきれずに浮かんでいた。
英寿は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
この世界へ来て最初に会った時。
一誠は曹操を相手に必死に戦っていた。
自分の力を使いこなせず。
何度も無茶をして。
それでも誰かを守るためなら前へ出た。
それから何度か戦いを見た。
自分とも戦った。
サイラオーグとも戦った。
今日。
別に世界を救ったわけではない。
強大な敵を倒したわけでもない。
試験に合格しただけだ。
だが。
こういう一歩も悪くない。
「英寿!」
一誠がこちらへ走ってくる。
「受かった!」
「見てたから知ってる」
「そこは普通におめでとうでいいだろ!」
英寿は僅かに笑った。
「ああ。おめでとう、一誠」
勢いよく返そうとしていた一誠が、一瞬だけ止まる。
すぐに笑った。
「……おう!」
「ただし」
「まだ何かあるの!?」
「次は壁を壊さないようにな」
「そこは忘れてくれ!」
後ろで朱乃が笑い、木場まで苦笑する。
レイヴェルだけは真面目な顔で手帳を開いていた。
「一誠様。今後の課題として出力制御については――」
「もう反省してるから! 今そのメモ閉じて!」
「大切なことです」
「マネージャー就任初日から厳しくない!?」
「今後の一誠様のためです」
一誠の叫びを聞きながら、英寿は小さく息を漏らした。
強くなる。
上へ進む。
何かを手に入れる。
願いが叶う瞬間というものは、いつだって大げさな奇跡を伴うわけではない。
自分で積み重ね。
自分で挑み。
その先へ一歩進む。
そうやって叶う願いだってある。
むしろ英寿は、そういう願いの方を何度も見てきた。
「これで中級悪魔か……」
一誠が自分の手を見る。
まだ実感が追いついていないらしい。
「何か変わった感じする?」
「急に強くなったりはしないだろ」
「いや、分かってるけどさ」
その横へリアスが歩いてくる。
「ここからよ、一誠」
昇格したことで終わるのではない。
今までより出来ることが増える。
同時に。
背負うものも増える。
一誠は少しだけ真面目な顔になり、リアスへ頷いた。
「はい、部長」
英寿はその様子を見ていた。
人は願う。
そして、その願いへ近づくために歩く。
神である自分が手を出さなくても。
鐘を鳴らさなくても。
叶う願いはいくらでもある。
それでいい。
いや。
その方がいい時だってある。
そんなことを考えていた時。
リアスのスマートフォンが震えた。
画面を確認した彼女の表情が、ほんの僅かに変わる。
「アザゼルからだわ」
先ほどまで浮かんでいた祝福の空気が、少しだけ引き締まった。
「何て?」
一誠が尋ねる。
リアスは画面を読み進める。
「試験が終わったら、指定したホテルのレストランへ来てほしいそうよ」
「先生が?」
「ええ。それも――」
そこで一度言葉が止まった。
「オーフィスもいるそうよ」
一誠の顔から、合格直後の浮かれた色が綺麗に消えた。
「なんで!?」
声が施設の廊下へ響く。
英寿だけは表情を変えなかった。
むしろ。
僅かに目を細める。
無限の龍神。
自分へ願いを預けた少女。
そして、その少女を中心に存在するというカオス・ブリゲード。
「行けば分かるだろ」
英寿は立ち上がった。
試験は終わった。
次の出来事は、もうすぐそこまで来ていた。