昼前の京都は、昨夜とはまるで違う顔を見せていた。
強大な妖気が夜空を覆うこともなければ、九本の尾が石畳を砕くこともない。古い町家が並ぶ通りには観光客が行き交い、軒先からは出汁や甘い菓子の香りが漂っている。
写真を撮る者、土産物屋を覗く者、人力車から町並みを眺める者。
その誰もが、昨日と変わらない京都の日常を過ごしていた。
そんな人波の中を、浮世英寿は九重と並んで歩いていた。
「英寿、遅いぞ!」
数歩先まで進んでいた九重が振り返る。
「急ぐ理由があるのか?」
「ある! 妾が案内したい場所はまだまだあるのじゃ。そんな歩き方では日が暮れてしまう!」
屋敷を出てから、九重はずっとこの調子だった。
八坂から無理だけはしないよう念を押されていたものの、本人に大人しくする気はあまりないらしい。見せたいものを思い出すたびに足取りが速くなり、英寿が少し離れればすぐに振り返って催促してくる。
「観光ってのは急いでするもんじゃないだろ」
「今日は妾が案内役なのじゃ。英寿は妾についてくればよい」
「随分偉そうな案内役だな」
「妾は偉いからの!」
胸を張って言い切る九重に、英寿は小さく笑った。
昨日、初めて会った時には母親を失う恐怖で身体を震わせていた少女だ。
それが今は、次にどこを見せようかと頭を悩ませている。
八坂が助かった。
ただそれだけのことで、九重を取り巻く世界は昨日とはまるで違って見えているのだろう。
その少し後ろから、一誠たちもついてきていた。
昨夜から京都にいた一誠、アーシア、ゼノヴィアに加え、報告を受けて今朝合流したリアス、朱乃、小猫。
もともと修学旅行で京都を訪れている彼らにとって、観光へ出ること自体は何もおかしくない。
もっとも、全員が純粋に観光だけを目的としているわけでもなかった。
今朝ある程度の話はしたものの、英寿について分かったことはまだ多くない。
別の世界から来たこと。
あの白い戦士を《仮面ライダーギーツ》と呼ぶこと。
そして、彼自身が神になった存在であること。
知ったことが増えるほど、逆に新しい疑問も増えている。
英寿も、リアスたちが自分を観察していることくらい分かっていた。
だからといって、わざわざ止める理由もない。
敵意があるわけでもなければ、何かを隠しているつもりもなかった。
「それで九重ちゃん、最初はどこへ行くんだ?」
後ろから一誠が声を掛けると、九重は待ってましたとばかりに振り返った。
「まずは妾のお気に入りの場所じゃ!」
「お、有名な寺とか?」
「甘味処じゃ!」
「観光名所じゃねぇの!?」
一誠の声が通りへ響いた。
朱乃が口元を押さえて笑い、アーシアもつられたように小さく笑う。
「寺や神社は後じゃ。京都へ来て美味いものを食わずに何を見るというのじゃ」
「俺は賛成だな」
英寿があっさり言うと、九重の顔がぱっと明るくなる。
「分かっておるではないか!」
「ちょうど腹も減ってたところだ」
「英寿までそっちかよ」
「私も賛成です」
小猫が静かに一票を投じた。
「私も、甘いものは好きです」
アーシアまで控えめに続けば、もはや反対する者はいない。
「決まりじゃな!」
九重は満足そうに頷くと、再び先頭へ立った。
「ほれ、こっちじゃ!」
「ああ」
人波の間を縫うように進む小さな背中を追い、英寿も歩き出した。
◆
九重に連れてこられたのは、大通りから一本外れた静かな通りにある古い甘味処だった。
観光客向けの華美な看板はなく、手入れされた木造の店構えが周囲の町並みに自然と溶け込んでいる。
九重が迷うことなく暖簾を潜ると、店の者もすぐに気づいた。
「あら、九重ちゃん。いらっしゃい」
「うむ!」
どうやら本当に馴染みの店らしい。
人数が多いこともあり、一行は奥の座敷へ案内された。
「よく来るのか?」
席へ着きながら英寿が尋ねる。
「母上と来ることもあるぞ」
何気ない答えだった。
けれど、その言葉を口にした時だけ九重の声がほんの少し柔らかくなる。
母親と来たことがある。
そして、これからもまた一緒に来られる。
昨日までなら、その思い出を口にするだけでも胸を締めつけられていたかもしれない。
今は違う。
帰れば母親がいる。
その当たり前が戻ってきた。
英寿はそこへ何も言わず、九重から差し出された品書きを受け取った。
「何が食べたい?」
「おすすめは?」
「全部じゃ」
「それはおすすめとは言わないな」
「全部美味いのだから仕方なかろう」
「随分豪快だな」
「なら全部頼めばよい」
「本当に全部行く気か?」
人数がいることを考えれば不可能ではないが、さすがに九重一人へ任せるわけにもいかない。
結局、何種類か注文して皆で分けることになった。
ほどなく卓上へ、団子、わらび餅、餡蜜、季節の和菓子などが次々と並べられていく。
「英寿、まずこれじゃ」
「随分急かすな」
「早く食べよ」
「はいはい」
英寿は差し出された団子を一本取り、一口食べた。
九重が正面からじっとこちらを見ている。
「どうじゃ?」
「美味いな」
「そうじゃろう!」
その一言だけで、九重の顔が目に見えて明るくなった。
まるで自分で作ったかのような得意顔だ。
英寿はもう一口食べ、そのまま二本目へ手を伸ばす。
それを見た九重がさらに満足そうに笑った。
「気に入ったようじゃな」
「おすすめするだけはある」
「当然じゃ」
今度は九重自身も餡蜜へ手を伸ばす。
英寿が団子を食べていると、不意に向かい側から声を掛けられた。
「あの、英寿さん」
アーシアだった。
「ん?」
「英寿さんがいた世界って、どんな所なんですか?」
「どんな所って言われてもな」
英寿は少し考え、窓の外へ目を向けた。
古い家屋。
通りを歩く人々。
その向こうを走る車。
「少なくとも、今見てる景色はそんなに変わらない」
「そうなんですか?」
「ああ。俺も日本で暮らしてたし、京都にも来たことがある」
「えっ?」
アーシアが目を丸くした。
一誠たちも、自然と英寿へ視線を向ける。
「日本もあるのか?」
「ああ」
一誠はしばらく英寿を見た後、首を傾げた。
「じゃあ……あれか? パラレルワールドってやつ?」
「パラレルワールド?」
アーシアが聞き返す。
「似た世界が別にある、みたいな話。ほら、同じ日本とか京都があるけど、違うところもあるとかさ」
「可能性としては、そういうものに近いのかもしれないわね」
リアスも興味深そうに英寿を見る。
「同じ地名や文化を持っているのに、私たちとは違う世界。少なくとも、何も共通点のない全く別の世界というわけではなさそうだもの」
「さあな」
英寿は肩を竦めた。
「似てるのは確かだけど、それ以上は俺にも分からない」
「英寿自身にも?」
「ああ。別の世界に来るのなんて初めてだからな」
あまりにも普通の調子で返され、一誠が僅かに眉を上げた。
「神様でもそこは分かんねぇんだな」
「神様だからって、何でも最初から知ってるわけじゃない」
「なんか神様のイメージがどんどん変わってくな……」
そこで九重が身を乗り出した。
「では、英寿の世界にも妖怪はおるのか?」
「さあな」
「知らぬのか?」
「少なくとも、お前らみたいなのには会ったことないな」
自分が知らないから存在しない。
そう断言するほど、英寿は自分の世界の全てを知っているわけではない。
「狐は?」
「普通の狐ならいる」
「九尾じゃ」
「それは見たことないな」
九重はしばらく腕を組んで考え込んだ。
やがて何か重大な結論へ辿り着いたように頷く。
「つまらぬ世界じゃな」
「随分言うな」
「九尾を見たことがないのであろう?」
「そうだな」
「なら、妾に会えたのだからこちらへ来て正解じゃな」
あまりにも迷いのない結論だった。
英寿は思わず笑う。
「そうだな」
「うむ!」
九重は満足そうに頷いた。
元の世界へ帰る方法が分からないことも。
どうしてこの世界へ来たのか、その理由がまだはっきりしないことも。
それはそれとして残っている。
けれど、だからといって今目の前で楽しそうにしている九重の言葉を否定する必要もなかった。
英寿は残っていた団子を口へ運んだ。
◆
甘味処を出た後は、ようやく一般的な意味でも観光らしい場所を巡ることになった。
古い寺社。
長い年月を経た町家が並ぶ道。
石畳の坂。
観光客の多い通りから外れた細い路地。
ただし、九重の案内は普通の観光案内とは少し違う。
「あの山には昔、大きな天狗の一族がおったそうじゃ。それから、この辺りは昔な――」
人間向けの案内には載らない土地の由来。
どこにどんな妖怪が住んでいたのか。
昔どんな騒動が起き、誰がそれを収めたのか。
九重自身が生まれる前の話になると、その説明には自然と「母上から聞いた」という言葉が混ざった。
英寿はその話を途中で遮ることなく聞いていた。
どの場所へ行っても。
何の話をしていても。
九重の京都には、八坂の存在が当たり前のように混ざっている。
母親と歩いた場所。
母親から教えてもらった話。
母親と食べたもの。
昨日までなら失われるかもしれなかったものが、今はまた未来の話として口に出来る。
「それでな、ここの先へ行くと――英寿、聞いておるか?」
「聞いてるよ」
「では妾が今何を言っておったか答えてみよ」
「この先に昔から妖怪が使ってる道がある。ただし人間には普通の細道にしか見えない」
「む」
「合ってるだろ?」
「……合っておる」
九重は少し悔しそうに頬を膨らませた。
「ちゃんと聞いてるって言っただろ」
「ならよい!」
すぐに機嫌を直し、九重はまた先へ進む。
英寿もその横へ並んだ。
少し後ろでは、一誠たちも九重の説明へ耳を傾けている。
「俺らが聞いた京都の歴史と全然違うな」
「人間には公開されていない歴史なのでしょう」
小猫が簡潔に答える。
「全部覚えろって言われたら自信ねぇけど」
「学校の試験には出ないだろう」
ゼノヴィアの返答に、一誠が「なら助かった」と笑う。
その程度のやり取りを背中に聞きながら、英寿は九重について石段を上っていった。
やがて最後の段を上がったところで、視界が一気に開けた。
「ここじゃ!」
先に登り切っていた九重が振り返る。
眼下には京都の街並みが広がっていた。
古い建物と新しい建物が入り混じり、その向こうを山々が囲んでいる。
人が歩き。
車が走り。
昼の光を受けた町は、昨夜の騒動など何もなかったように穏やかだった。
昨日。
英雄派は八坂を京都の気脈へ繋ぎ、その力を利用しようとしていた。
少し何かが違えば、目の前の光景も今とは違うものになっていたかもしれない。
「どうじゃ?」
九重が英寿の顔を覗き込む。
「悪くない」
その返事に、九重の眉が寄った。
「悪くない、ではない」
「ん?」
「綺麗じゃろう?」
英寿は少し笑い、もう一度街へ目を向ける。
「綺麗だな」
「最初からそう言えばよいのじゃ」
ようやく満足したらしい。
九重も英寿の隣へ並び、眼下の町を見つめる。
高台を抜ける風が、二人の髪を揺らした。
少し離れたところでは、アーシアや一誠たちも景色を眺めている。朱乃とリアスは何か小声で話し、小猫は手すりの近くから静かに町を見下ろしていた。
しばらく、九重も何も話さなかった。
やがて。
「英寿」
「ん?」
九重の声が少しだけ変わった。
「昨日のことなのじゃが」
英寿が横を見る。
九重はまだ京都の街を見たままだった。
「妾は……何も出来ぬと思っておった」
英寿は黙って続きを待つ。
「母上は強い。妾よりずっと強いし、京都のみんなも母上を頼っておる。妾も、何かあれば母上が何とかしてくれると思っていた」
だからこそ。
その母親が奪われた時、九重には何をすればいいのか分からなかった。
「妾が呼んでも、最初は届かなかった。母上を止めることも出来なかったし、どうすればよいのかも分からなかった」
小さな手が着物の裾を握る。
「……怖かった」
「そうだろうな」
英寿は否定しなかった。
最後には助かった。
だからといって、その瞬間に九重が感じた恐怖までなくなるわけではない。
「でも英寿は、願えと言った」
「ああ」
「今朝も、妾が母上を助けたと言った」
「ああ」
そこで九重が英寿を見る。
「本当に、そう思っておるのか?」
「思ってるから言ったんだ」
「でも妾は……ただ母上を呼んでいただけじゃ」
「それで十分だろ」
英寿は街へ視線を戻した。
「俺には八坂を止めることは出来た。あいつに付けられてた余計なものを消すこともな」
九重は黙って聞いている。
「でも、最後に八坂を呼び戻したのは俺じゃない」
「……妾?」
「ああ」
「娘のお前だ」
九重の瞳が僅かに大きくなる。
「妾にしか、出来なかった?」
「ああ」
「でも……母上の名前を呼んで、帰ってきてほしいと願っただけじゃ」
「だから、それを出来たのがお前だったって言ってる」
英寿は九重へ目を向ける。
「俺が同じことを言ったって、八坂には届かないだろ」
それ以上は説明しなかった。
英寿が答えを全部用意して渡すことではない。
自分が何を出来たのか。
これから何をしたいのか。
それは九重自身が考えればいい。
九重はしばらく、自分の小さな手を見つめていた。
「……そうか」
やがて、その手をぎゅっと握る。
「なら、妾はもっと強くならねばな!」
「話聞いてたか?」
英寿の眉が上がった。
「聞いておる!」
「今の話からどうしてそうなる」
「次は願うだけではなく、妾自身でも母上を守れるようになるのじゃ!」
九重は胸を張った。
「母上ばかりに守ってもらうのではなく、妾も母上を守れるくらい強くなる!」
「なるほどな」
英寿は数秒、九重を見つめる。
さっきまであった僅かな翳りは、もうほとんど残っていなかった。
「まあ、それも悪くないか」
「当然じゃ!」
九重が笑う。
英寿も僅かに笑い返した。
少し離れたところから二人を見ていたリアスは、会話へ割り込まなかった。
昨夜、八坂を救った最大の要因が英寿であることに疑いはない。
圧倒的な力で暴走を止め、外から加えられていた干渉を消し去った。
あれほどのことを出来る存在なら、全てを自分一人の功績として語ることも出来ただろう。
けれど英寿はそうしない。
九重にしか出来なかったことを、九重自身のものとして返している。
今朝聞いた言葉を、リアスは思い出していた。
誰もが幸せになれる世界。
ただ、目の前の相手へ自分が思う幸せを押しつけるわけではないらしい。
それだけでも。
浮世英寿という男が、自分の持つ規格外の力をどう扱っているのか。その一端は、昨日より少しだけ見えてきた気がした。
その時だった。
英寿の視線が動いた。
眼下の京都を見ていた目が、不意に遠くの一点へ向けられる。
「英寿?」
最初に気づいたのは九重だった。
「どうしたのじゃ?」
「いや」
英寿はすぐには視線を戻さない。
リアスもその変化に気づいて近づいてくる。
「何かあった?」
「見られてるなと思って」
「見られてる?」
一誠たちが周囲へ目を向ける。
高台には他の観光客もいる。
だが、英寿が見ているのはその誰でもない。
「……近くには、それらしい気配はありません」
小猫が周囲を探りながら告げる。
「近くじゃない」
英寿は短く答えた。
「もっと遠くだ」
「そんなところからの視線が分かるの?」
リアスの眉が僅かに寄る。
「視線ってのは案外分かりやすい」
「普通は分からないと思うけれど……」
「慣れてるんでね」
英寿の声には緊張感がない。
まるで少し離れた場所から誰かに見られている程度の話をしている。
「昨日の英雄派か?」
一誠が尋ねる。
「多分な」
英寿は断定しなかった。
どこにいるのか。
どうやって見ているのか。
そこまでは分からない。
ただ、自分たちへ向けられている意識には覚えがある。
「また母上を狙っておるのか?」
九重の表情が引き締まった。
「少なくとも、今の視線は違うな」
「何故分かる?」
「向いてる先が俺だからな」
「英寿を?」
「あれだけ見せれば、興味くらい持つだろ」
昨日。
突然現れ。
八坂の攻撃を消し。
七体の擬似体を消し去り。
最後には白い戦士へ姿を変えて、八坂を救い出した。
計画を壊した正体不明の存在について調べようとする。
それ自体は、不思議な判断でもない。
「大丈夫なのか?」
九重が英寿の服の裾を掴んだ。
昨日は母親を心配していた少女が、今日は自分を心配している。
英寿はその小さな手へ目を落とした。
「俺を誰だと思ってる?」
「神様」
即答だった。
英寿が一瞬黙る。
その横で、一誠が吹き出した。
「そこはスターなんとかじゃないのか?」
「スター・オブ・ザ・スターズ・オブ・ザ・スターズだ」
「長いから嫌じゃ」
「本人の前で言うか?」
「神様で十分じゃろう」
「覚えろよ」
「やっぱり長いのじゃ」
九重はきっぱり言い切った。
英寿も呆れたように笑う。
その様子を見て安心したのか、九重は英寿の裾から手を離した。
「なら大丈夫じゃな」
「随分信用されたもんだ」
「母上を助けたからな」
理由は単純だった。
けれど九重にとっては、それ以上何かが必要なわけでもないらしい。
「さあ、次へ行くぞ!」
九重が石段の方へ歩き出す。
「せっかく妾が案内しておるのじゃ。見ておるだけの奴らに邪魔されてたまるか」
「それもそうだな」
英寿もあっさり頷く。
九重に続き、一誠たちも歩き始めた。
英寿もその後を追おうとして、一度だけ足を止めた。
九重たちが少し先へ進む。
英寿はもう一度、先ほどから感じていた視線の方へ顔を向けた。
どこから見ているのかは知らない。
何を使っているのかも知らない。
それでも、こちらを見ていることだけは分かる。
英寿の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
そして右手で、狐を象った形を作る。
それは何かを発動するための動作ではない。
ただ、遠くからこちらを覗いている相手へ向けた仕草だった。
――見えているぞ。
言葉にする代わりの、小さな挨拶。
その直後。
――ゴォォン
重く澄んだ鐘の音が響いた。
前を歩いていたリアスたちが足を止める。
「……英寿?」
リアスが振り返る。
英寿はすでに手を下ろしていた。
見える景色は何も変わっていない。
京都の町も。
空も。
行き交う人々も。
先ほどまでと何一つ変わらない。
だからこそ。
今朝、鐘の意味を聞いたばかりのリアスの表情が僅かに強張った。
――あれは、俺の力が世界に働いた時に鳴る。
何も起こらなかったのではない。
自分たちには、何が変わったのか分からないだけだ。
「何をしたの?」
「ちょっとな」
英寿はそれ以上答えなかった。
「英寿! 置いていくぞ!」
少し先から九重の声が飛んでくる。
「ああ、今行く」
何事もなかったように歩き出す。
リアスはその背中を数秒だけ見つめてから、自分も歩き始めた。
昨夜から何度も感じている。
英寿は強い。
だが、この世界にも強大な力を持つ者なら存在する。
問題はそこだけではない。
何をしたのか。
何が変わったのか。
すぐ傍にいた自分たちでさえ、それを認識出来ない。
本人だけが全てを理解したまま、何でもないことのように先へ進んでしまう。
その隔たりの方が、単純な力の大小よりも遥かに大きく感じられた。
◆
同じ頃。
京都から離れた英雄派の拠点では、複数の映像が空中へ投影されていた。
京都各所へ残された監視用の術式から送られてくるものだ。
通りを歩く観光客。
寺社。
古い町並み。
そして、その一つには先ほどまで、高台を歩く浮世英寿たちの姿が映っていた。
曹操は椅子へ深く腰掛け、映像を眺めている。
その隣では、ゲオルクが監視術式の状態を確認していた。
昨夜。
突然現れた青年は、八坂の攻撃を消した。
こちらが用意した七体の擬似体だけを消し去った。
八坂へ施していた複数の干渉まで、次々と失わせた。
そして最後には、見たこともない純白の全身装甲を纏って八坂を救った。
それだけでも十分に未知の存在だった。
さらに今朝。
戦いで破壊された場所を監視越しに確認した時には、昨夜の傷跡までほとんど残っていなかった。
「昨夜の白い姿だけなら、未知の神器や《禁手》という可能性はまだ捨てきれないだろうね」
曹操が静かに言う。
「僕たちが知らないというだけで、神器ではないと断定する理由にはならない」
「ですが、問題はそれ以外です」
「ああ」
攻撃の消去。
七体の擬似体の消失。
八坂へ加えた干渉の除去。
そして破壊された場所の復元。
似たように見えて、その全てが同じ現象とは限らない。
少なくとも、単純な破壊能力として説明するのは難しい。
「昨夜、彼は妙なことを言っていましたね」
ゲオルクが映像から目を離さず口にする。
「『神様には、偽物なんて関係ない』」
「ああ」
あれが単なる言い回しなのか。
それとも、何か別の意味を含んでいるのか。
判断するには情報が足りない。
「接触しますか?」
「しないよ」
曹操の返答は早かった。
ゲオルクが僅かに目を向ける。
「意外ですね」
「何が?」
「強者や未知の力には、直接確かめたがる方かと」
「否定はしない」
曹操は肩を竦める。
「でも、強さを知りたいからって自分から死にに行く趣味はないよ」
冗談めかした言い方だった。
だが、ゲオルクは笑わなかった。
聖槍を持つ曹操が、初見の相手への直接接触を避けている。
それだけでも、相手をどう見ているのかは十分に分かる。
「白い姿だけの問題なら、まだ試してみても面白かったかもしれない」
曹操の目が細くなる。
「でも、彼の場合はそれだけじゃない」
画面の中。
英寿が突然こちらを向いた。
「……曹操」
「ああ」
距離は関係ない。
監視術式そのものが見えているわけでもないはずだ。
それなのに。
英寿の視線は、まるで画面の向こうにいるこちらを正確に捉えているように見えた。
その口元に笑みが浮かぶ。
続いて、右手が狐の形を作った。
「気づかれています」
「みたいだね」
曹操の口元も僅かに上がった。
次の瞬間。
映像へノイズが走った。
「っ……!」
ゲオルクがすぐに術式へ手を伸ばす。
一度、全ての映像が大きく乱れた。
だが異常は一瞬だった。
すぐに京都の映像が戻ってくる。
通りは映っている。
九重もいる。
兵藤一誠たちもいる。
今朝合流したらしい悪魔たちも、何の問題もなく映っている。
建物。
人。
空。
どこにも異常はない。
ただ。
「……消えました」
ゲオルクの声が低くなる。
浮世英寿だけが、どの映像にも存在しなかった。
「別の監視地点へ切り替えます」
一つ。
二つ。
三つ。
角度も距離も異なる監視術式へ次々と切り替える。
結果は同じ。
九重のすぐ隣を歩いているはずの英寿だけが、どこにも映らない。
「術式の破壊は?」
「ありません。正常に稼働しています」
「妨害は?」
「それも検出出来ません。京都も、他の対象も問題なく認識出来ています」
「なのに彼だけが見えない」
「……はい」
ゲオルクの表情が険しくなる。
自分の術式が破壊されたなら分かる。
外部から干渉されたなら、その痕跡を探せる。
だが、今の監視術式には異常がない。
正常なまま。
浮世英寿だけを捉えられなくなっている。
「記録は?」
「確認します」
少しして、過去の映像が表示された。
そこには英寿がいる。
九重と通りを歩いている。
甘味処へ入る。
高台へ上がる。
そして最後には、こちらへ視線を向け、狐の形を作った右手まで残っている。
「鐘が鳴る前までの記録には残っています」
「なら、過去を書き換えたわけじゃない」
「そのようです」
変わったのは、あの鐘が鳴った後だけ。
過去の映像から存在を消したわけではない。
監視術式そのものを壊したわけでもない。
ただ、今この瞬間から。
英雄派が浮世英寿を監視することだけが成立しなくなった。
「……どういう術式です?」
「僕に聞かれても困るな」
「少なくとも、私の知る魔術ではありません」
「だろうね」
曹操は英寿の消えた映像を眺める。
もし、こちらの監視を止めたいだけなら、監視術式そのものを壊せばいい。
京都全域への観測を遮断してもいい。
しかし、そうしなかった。
九重も。
一誠たちも。
街も。
全て見える。
自分だけ。
「随分器用なことをする」
「器用、で済ませますか?」
術者であるゲオルクにとっては、笑って済ませられる話ではない。
曹操も、それが分からないわけではなかった。
「警告でしょうか」
「それほど物騒なものでもないんじゃないかな」
「では?」
曹操は、鐘が鳴る直前の映像をもう一度呼び出した。
こちらへ向けられた視線。
悪戯っぽい笑み。
そして、狐を象った右手。
「挨拶だよ」
――見えているぞ。
それだけ。
攻撃はしない。
監視術式そのものも壊さない。
ただ、自分を覗いていることには気づいている。
その事実だけを、わざわざ示してみせた。
「参ったな」
曹操が小さく息を吐く。
画面の中。
九重たちは今も普通に京都を歩いている。
その隣にいるはずの男だけが、英雄派にはもう見えない。
「化かされたのは、こっちらしい」
◆
「英寿! また遅れておるぞ!」
前方から九重の声が飛んでくる。
「ああ、今行く」
英寿は少し歩調を速め、九重の横へ追いついた。
「何をしておったのじゃ?」
「ちょっと挨拶をな」
「誰にじゃ?」
「見てただけの奴らに」
九重は少し首を傾げたものの、すぐに次の目的地を思い出したらしい。
「まあよい。次はこっちじゃ!」
「まだあるのか?」
「当然じゃ! 妾の京都案内を甘く見るでない!」
再び元気よく歩き出す。
英寿もその隣へ並んだ。
どうしてこの世界へ来たのか。
なぜ元の世界へ繋がる道が見つからないのか。
その答えは、まだ何一つ分かっていない。
パラレルワールド。
先ほど一誠は、そういう可能性を口にしていた。
同じ日本があり、同じ京都が存在する。
確かにそう考えれば、似ていることには説明が付くのかもしれない。
だが今の英寿に、それが正しいと判断出来る材料はない。
分からないことは多い。
だからといって、答えが見つかるまで立ち止まっている必要もない。
「それから、この後は寺へ行って、その次は――」
「まだ半分も終わってない顔してるな」
「当たり前じゃ!」
九重は笑う。
英寿も僅かに口元を上げた。
昨日とは違う、穏やかな京都の町。
その先へ進んでいく小さな九尾の案内役と並びながら。
浮世英寿は、もうしばらくこの世界の京都を見て回ることにした。