昼前の京都は、昨夜とはまるで別の世界だった。
強大な妖気が夜空を覆うこともなければ、石畳を砕く九本の尾もない。通りには観光客の姿が増え、軒先から漂う甘味の匂いに足を止める者もいれば、古い町並みを背景に写真を撮る者もいる。
その人波の中を、浮世英寿は九重と並んで歩いていた。
昨夜、世界の理すら従わせるような力を振るい、京都を守る九尾の狐を救い出した神様とは到底思えない光景だった。
「英寿、遅いぞ」
少し先を歩いていた九重が振り返る。
「急ぐ理由があるのか?」
「妾が案内する場所はまだまだあるのじゃ。そんな歩き方では日が暮れてしまう」
「観光ってのは急いでするもんじゃないだろ」
英寿がのんびり返すと、九重は不満そうに頬を膨らませた。
今朝、八坂から正式に京都案内を任された九重は、本人が想像していた以上にこの役目へ張り切っていた。
八坂からは無理をしないよう念を押されていたものの、昨日まで母親を失うかもしれない恐怖に晒されていた反動もあるのだろう。馴染み深い京都の町を英寿へ見せることそのものが楽しいらしく、屋敷を出てからずっと足取りが軽い。
一誠たちも同行していた。
彼ら自身が修学旅行中なのだから京都観光をすること自体は何もおかしくない。そこへ一人、異世界から来た神様が追加されたというだけである。
もっとも、リアスとしては観光だけが目的ではなかった。
英寿が自分たちと行動を共にする以上、近くで様子を見ておきたい。その考えがあることを、英寿も分かったうえで何も言っていなかった。
「それで、最初はどこへ連れていくんだ?」
一誠が九重に尋ねる。
九重は待ってましたとばかりに胸を張った。
「まずは妾のお気に入りの場所じゃ!」
「有名な寺とか?」
「甘味処じゃ」
一誠がずっこけそうになる。
「観光名所じゃねぇの!?」
「京都へ来て美味いものを食わずに何を見るというのじゃ」
「いや寺とか神社とかいっぱいあるだろ!」
「それは後じゃ」
九重にとって優先順位は明確らしい。
英寿は二人のやり取りを眺めながら口元を緩めた。
「俺は賛成だな」
九重が即座に英寿を見る。
「分かっておるではないか!」
「腹が減ってたところだ」
「英寿まで!?」
一誠の抗議を置き去りにして、九重は機嫌よく歩き出す。
その後ろでは朱乃が楽しそうに笑い、アーシアも少し遠慮がちに「私も甘いものは好きです」と続いたことで、一誠は早々に抵抗を諦めた。
連れてこられたのは、大通りから一本外れた静かな通りにある古い甘味処だった。
観光客向けの華美な看板はなく、木造の店構えも周囲の町並みに自然と溶け込んでいる。九重は迷う様子もなく暖簾を潜り、店の者から顔を知られているらしく、奥の座敷へ案内された。
「九重ちゃん、よく来るのか?」
席へ着いた一誠が尋ねると、九重は品書きを眺めながら頷いた。
「母上と来ることもあるぞ」
そこで一瞬だけ、声が穏やかになった。
昨日までなら、その思い出を口にするだけでも胸を締めつけられたかもしれない。
けれど今は違う。
帰れば母親がいる。
その当たり前が戻ってきた。
英寿は向かい側に座る九重の表情を静かに見ていたが、何も言わなかった。
九重自身もすぐいつもの調子へ戻り、英寿の前へ品書きを突き出す。
「何が食べたい?」
「おすすめは?」
「全部じゃ」
「それはおすすめとは言わないな」
「なら全部頼めばよい」
「お前、結構豪快だな」
結局、人数が多いことを理由に何種類か頼むことになった。
団子、わらび餅、餡蜜、季節の和菓子。
卓上が色とりどりの甘味で埋まっていく。
英寿は最初に運ばれてきた団子を一本取り、特に警戒もなく口へ運んだ。
九重がじっと見ている。
「どうじゃ?」
「美味いな」
その一言だけで、九重の顔が目に見えて明るくなる。
「そうじゃろう!」
まるで自分が作ったかのような得意顔だった。
一誠はそんな九重を見てから、英寿へ視線を移す。
昨夜から何度か感じていたことだが、英寿は九重に対して妙に自然だった。
子供扱いして適当に話を合わせるでもない。
かといって大人へ接するのと全く同じでもない。
九重が本気で言ったことには、本気で答える。
願いについて話した時もそうだった。
だからこそ、九重も英寿を信用したのかもしれない。
「英寿さんって、日本人なんですよね?」
不意にアーシアが尋ねた。
英寿が箸を止める。
「そうだけど?」
「なら京都には来たことが?」
「ある」
一誠が意外そうな顔をする。
「あるのかよ。じゃあ観光いらなくない?」
「日本に住んでて京都に一回来たくらいで全部知ってるわけないだろ」
「それはそうだけど」
「それに――」
英寿は窓の外へ目を向けた。
通りを歩く人々。
古い建物。
目には見えなくとも、そのさらに奥に存在する妖怪たちの世界。
「俺が知ってる京都とは、少し違うみたいだしな」
リアスがその言葉へ反応した。
「あなたの世界にも京都があるのね」
「ああ」
「同じ日本があって、同じ京都もある……」
「似てるところは多いな」
英寿自身、この世界へ来てから気づいていた。
地名。
文化。
言葉。
街並み。
自分のいた世界と共通するものがあまりにも多い。
それなのに。
悪魔や天使、妖怪といった存在が社会の裏側で巨大な勢力を築いている。
全く異なる世界というより、どこかで枝分かれした別の可能性を歩んでいる世界と考えた方が近いのかもしれない。
「じゃあ、英寿の世界には妖怪がおらぬのか?」
九重が尋ねる。
「少なくとも、お前たちみたいなのが京都を仕切ってるって話は聞いたことないな」
「ふむ」
九重はしばらく考えた。
「つまらぬ世界じゃな」
「随分言うな」
「狐がおらぬのじゃろう?」
「狐はいる」
「九尾じゃ」
「それは知らないな」
九重はますます得意そうな顔になった。
どうやら自分の世界の方が一つ上だと言いたいらしい。
英寿はそれを訂正する気もなく、残っていた団子を口へ運んだ。
食事を終えると、一行は再び町へ出た。
今度こそ九重も観光らしい場所を選び、古い寺社や町並みを案内していく。
修学旅行で一度説明を受けている一誠たちも、九重の話となると内容が少し違った。
人間向けの歴史だけではない。
どの場所にどの妖怪が住んでいたのか。
昔、どんな騒動が起きたのか。
人間には伝わっていない土地の由来。
九重自身が生まれる前の話は八坂から聞いたものらしく、時折、母親から教えてもらったという言葉が自然に混じった。
そのたびに九重の声には嬉しさが滲んでいた。
母親の話を出来る。
昨日まで当たり前だったことが。
今は、特別なことになっている。
英寿はそんな九重の話を途中で遮ることなく聞いていた。
やがて一行は、人通りの少ない高台へ出た。
京都の街並みが一望出来る場所だった。
九重が石段を駆け上がり、振り返る。
「ここじゃ!」
英寿たちも後へ続く。
視界が一気に開けた。
古い建物と新しい建物が入り混じり、その向こうを山々が囲んでいる。昼の光を受けた京都は、昨夜の戦いなど何もなかったように穏やかだった。
英寿が街を見渡す。
昨夜。
この町全体へ影響が及ぶ寸前だった。
八坂を利用した者たちは、京都そのものを道具として扱おうとしていた。
けれど今は、何事もなく人々が歩いている。
「どうじゃ?」
九重が横から英寿の顔を覗き込んだ。
「悪くない」
「悪くない、ではない。綺麗じゃろう?」
英寿は少し笑う。
「綺麗だな」
「最初からそう言えばよいのじゃ」
九重は満足そうに街へ目を戻した。
その横顔を見て、英寿も視線を遠くへ向ける。
しばらく。
誰も話さなかった。
一誠たちも景色を眺め、アーシアは風に揺れる髪を押さえている。リアスと朱乃は少し離れた場所で何か話していた。
その静けさの中。
九重が小さく口を開いた。
「英寿」
「ん?」
「昨日のことなのじゃが」
声が少しだけ変わった。
英寿が横を見る。
九重は街を見たままだった。
「妾は……何も出来ぬと思っておった」
英寿は黙って聞く。
「母上は強い。妾よりずっと強い。京都のみんなも母上を頼っておる。だから妾は、いつも母上が何とかしてくれると思っていた」
昨日。
その母親が奪われた。
自分より遥かに強い母親が、何者かに利用され、自分の声すら届かなくなった。
九重にとって、それは世界の土台そのものが崩れるような出来事だった。
「妾が呼んでも、最初は届かなかった。何をしてよいかも分からなかった。だから……怖かった」
「そうだろうな」
英寿は否定しない。
怖くなかったはずがない。
「でも英寿は、願えと言った」
「ああ」
「妾が母上を助けたとまで言った」
九重はそこで初めて英寿を見る。
「本当に、そう思っておるのか?」
英寿は少しも迷わなかった。
「ああ」
九重の瞳が揺れる。
「でも妾は、ただ呼んでいただけじゃ」
「それが出来たのは、お前だけだ」
「……妾だけ?」
「俺には八坂を止めることは出来た。余計なものを取り除くこともな。でも、母親に帰ってきてほしいって声を届けられるのは俺じゃない」
英寿は京都の街へ視線を戻す。
「娘のお前だ」
九重は黙った。
「力が強い奴だけが何かを出来るわけじゃない。必要な時に必要なことが出来る奴が、一番役に立つこともある」
「必要なこと……」
「昨日のお前には、それが願い続けることだった」
九重は自分の手を見る。
小さな手。
母親のような力はない。
英寿のように世界を変えることも出来ない。
それでも。
あの時。
自分にしか出来ないことがあった。
「……そうか」
小さく呟く。
「なら、妾はもっと強くならねばな」
英寿が眉を上げる。
「話聞いてたか?」
「聞いておる!」
「今の話からどうしてそうなる」
「次は願うだけでなく、自分でも母上を助けられるようになるのじゃ!」
九重は拳を握って胸を張る。
英寿は数秒その姿を見ていた。
そして。
「まあ、それも悪くないか」
笑った。
九重も笑う。
その様子を少し離れた場所から見ていたリアスは、二人の会話へ割り込むことはしなかった。
英寿が願いの神だと言った意味。
少しだけ分かった気がした。
何でも願いを叶える存在ではない。
願いさえあれば全部を与えてくれる存在でもない。
願う者を、叶えるところまで前へ進ませる。
昨夜の英寿は、まさにそうだった。
しかし。
穏やかな時間は長く続かなかった。
英寿の表情が、ほんの僅かに変わった。
街を眺めていた黄色くもない、生身の瞳が、遠くの一点へ向けられる。
「英寿?」
九重が気づく。
「どうしたのじゃ?」
英寿は答えず、しばらくそこを見ていた。
高台から見える京都の町。
人々。
建物。
そのさらに遠く。
一見すれば何もない。
リアスも英寿の変化に気づき、近づいてくる。
「何かあった?」
「いや」
英寿の声には余裕が残っていた。
「見られてるなと思って」
一誠が周囲を見回す。
「見られてる?」
「どこから?」
小猫も気配を探るが、異常は感じ取れない。
英寿だけが、遠くの一点を見たまま笑った。
「昨日の奴らだろ」
リアスの表情が険しくなる。
「英雄派?」
「多分な」
「分かるの?」
「視線ってのは結構分かりやすい」
それだけではないのだろう。
だが英寿は説明しなかった。
九重が不機嫌そうに眉を寄せる。
「また母上を狙っておるのか?」
「それはないだろうな」
英寿は即座に返す。
「少なくとも今は」
「何故分かる?」
「狙ってるのは俺だから」
一誠たちの表情が変わった。
「お前を?」
「あれだけ見せれば興味くらい持つだろ」
まるで有名人に見られている程度の話のように言う。
リアスだけは笑えなかった。
「随分余裕ね」
「慣れてるんでね」
英寿は遠くへ向けていた視線を外す。
「それに、向こうも馬鹿じゃないらしい」
「どういう意味?」
「昨日の今日で仕掛けてこないってことは、少なくとも俺と正面からやり合うのが得じゃないくらいは分かってる」
英寿の言葉に傲慢さはなかった。
ただ事実を述べているだけだった。
それが余計に重い。
昨夜のギーツⅨを見た者なら、そう判断しても不思議ではない。
九重は英寿の服の裾を掴む。
「大丈夫なのか?」
英寿が下を見る。
昨日までなら、自分の母親を心配していた少女が。
今度は英寿を心配している。
「俺を誰だと思ってる?」
「神様」
返答が早かった。
英寿が一瞬だけ黙る。
一誠が吹き出した。
「そこはスターなんとかじゃないのかよ」
「長いから嫌じゃ」
「本人の前で言う!?」
英寿は少しだけ不満そうな顔をした。
「スター・オブ・ザ・スターズ・オブ・ザ・スターズだ」
「やっぱ長いのじゃ」
「覚えろよ」
「神様で十分じゃ」
九重が言い切る。
昨夜なら。
神様という言葉には恐れや驚きが混じっていた。
今はもう。
英寿を呼ぶための、ただの言葉になり始めている。
「なら大丈夫じゃな」
九重はそう言って、あっさり英寿の裾を離した。
その信頼の置き方があまりにも単純で、英寿は思わず笑う。
「随分信用されたもんだ」
「母上を助けたからな」
九重は当然のように言った。
それから一歩先へ出る。
「さあ、次へ行くぞ!」
先ほどまでの緊張などなかったように、また京都案内を再開するつもりらしい。
一誠が呆れる。
「切り替え早いな」
「せっかくの案内を、見ているだけの奴らに邪魔されてたまるか」
「それもそうだな」
英寿も同意する。
リアスは二人を見ながら、内心では少しだけ別のことを考えていた。
英寿自身が気にしていないからといって、英雄派が彼を観察している事実を軽視するわけにはいかない。
昨日まで。
英雄派にとって最大の関心は、京都と八坂だった。
だが今。
その視線の一部は、完全に浮世英寿へ移っている。
この世界に存在しなかった仮面ライダー。
願いを感じて世界を越えてきた神。
彼の存在が、この先何を変えるのか。
リアスにはまだ分からない。
◆
同じ頃。
京都から離れた場所にある英雄派の拠点では、複数の映像が空中へ投影されていた。
その一つに。
京都の高台を歩く英寿たちの姿が映っている。
曹操は椅子へ深く腰掛けたまま、映像を眺めていた。
隣に立つゲオルクが、探るような視線を向ける。
「接触は?」
「しないよ」
曹操の返答は早かった。
「少なくとも今はね」
ゲオルクが僅かに眉を動かす。
強者を見つければ興味を示す。
神器や未知の能力があれば、その正体を暴こうとする。
そういう男が。
昨夜から浮世英寿への直接接触を避けている。
「警戒しているのですか?」
「当然だろう?」
曹操は何でもないように答える。
画面の中では、九重に何かを言われた英寿が笑っていた。
とても昨夜、彼らの術を世界から消した存在と同一人物には見えない。
「僕は英雄に興味がある。強い者にもね。でも、強さを測るために自分から死にに行く趣味はない」
「聖槍でも?」
「それを確かめるために撃ち合うのは馬鹿のすることだ」
曹操の視線が細くなる。
昨日。
幻影を消された。
術式を消された。
それだけなら、まだ特殊な能力と考えられた。
だが。
その後に入ってきた報告が問題だった。
今朝。
昨夜の戦いで破壊された場所が。
一瞬で元へ戻った。
「破壊と再生。それに、現象そのものの消去」
曹操が呟く。
「神器の能力として考えるには自由度が高すぎる」
「本人は神を名乗っているそうです」
「ああ」
曹操は笑う。
「しかも願いの神様らしい」
冗談めかした口調。
けれど瞳は笑っていない。
「信じますか?」
ゲオルクが尋ねる。
曹操は少し考えた。
「信じるかどうかはどうでもいい」
重要なのは。
本人が何を名乗っているかではない。
「少なくとも、彼が自分を神だと思って行動していること。そして、それに見合う力を持っていること。その二つが事実なら十分だ」
映像の中で。
英寿が突然こちらを向いた。
真正面から。
距離も。
監視方法も。
何もかも無視して。
画面越しに曹操を見た。
ゲオルクの表情が変わる。
「……こちらを」
「ああ」
曹操の笑みが深くなる。
英寿は何も言わない。
ただ。
わずかに口角を上げた。
その瞬間。
映像が乱れた。
ノイズ。
そして。
――ゴォォン。
監視装置の向こうから。
聞こえるはずのない鐘の音が響いた。
次の瞬間。
全ての画面から英寿の姿だけが消えた。
京都の街も。
九重も。
一誠たちも映っている。
なのに。
浮世英寿だけが。
最初からそこに存在していなかったように映像から抜け落ちている。
部屋に沈黙が落ちた。
ゲオルクが装置を確認する。
「映像そのものに異常は……」
「分かってる」
曹操は楽しそうに笑っていた。
これは攻撃ではない。
こちらを止める気なら。
もっと簡単に出来る。
そうしなかった。
つまり。
これはただのメッセージだ。
――見えているぞ。
それだけ。
「参ったな」
曹操が小さく息を吐く。
「化かされたのは、こっちらしい」
そして。
京都の高台。
何も知らず先へ歩いていく九重の後ろで、英寿は一度だけ振り返った。
遠く離れた英雄派の拠点など見えるはずがない。
それでも。
確かにそちらへ視線を向け。
悪戯っぽく笑う。
昨日。
八坂の幻影を前に作ったものと同じ。
狐の形をした手を一瞬だけ掲げてみせる。
「英寿! 置いていくぞ!」
前方から九重の声が飛んできた。
英寿は狐の手を解いた。
「今行くよ」
何事もなかったように歩き出す。
世界を越え。
強い願いに引かれて京都へやって来た神様は。
今日のところはまだ。
ただ京都を楽しむつもりらしかった。