夕刻の京都は、昼間とはまた違う顔を見せていた。
山の向こうへ傾いた陽が古い町並みを橙色に染め、軒先には少しずつ灯りがともり始めている。昼間まで絶えなかった観光客の流れも幾分落ち着き、代わりに料理屋から漂う出汁の香りや、家路を急ぐ人々の足音が通りへ広がっていた。
朝から九重に案内されていた英寿たちも、ようやく妖怪たちの屋敷へ戻ってきている。
寺社を巡り、町を歩き、甘味処へ寄り、高台から京都を眺めた。途中、九重が予定していなかった店へまで寄り道したせいで、本人が朝に用意していた行程は結局すべて回り切れなかったらしい。
それでも九重に疲れた様子はない。
「明日はここじゃ。それから、こっちにも行くぞ」
夕食を終えた座敷で、卓上へ広げられた地図の上を小さな指が忙しなく移動している。
向かいに座った英寿は茶を飲みながら、その指先を目で追った。
「まだあるのか?」
「当然じゃ。今日だけで京都を見た気になられては困る」
「別にそんなこと言ってないだろ」
「顔に書いてあった」
「神様の顔を読むとは大したもんだ」
「妾は九尾の娘じゃぞ」
「それ、関係あるか?」
「ある」
妙に自信満々な即答だった。
英寿は小さく笑い、九重が次に示した場所へ視線を落とす。
少し離れた場所では、八坂がそんな二人を眺めていた。
まだ体力が完全に戻ったわけではない。周囲の妖怪からも安静を言い渡されており、今日は屋敷の中でほとんどの時間を過ごしていた。それでも、いつまでも床に伏せている性格でもないらしく、夕食だけは皆と共に取っている。
何より、九重が笑っていた。
昨夜まで泣き腫らしていた娘が、今日は朝から京都中を歩き回り、帰ってからも楽しそうに明日の予定を立てている。
その姿を見るたびに、八坂の表情も自然と柔らかくなった。
同時に、胸の奥へ冷たいものが差し込む。
理性を奪われていた。
身体を操られていた。
だからといって、昨夜の記憶が何も残っていないわけではない。
巨大な尾を振るい、妖力を叩きつけ、周囲を破壊した。最後には、自分の娘すら巻き込もうとした。
もし、あの時。
英寿が現れなければ。
「八坂?」
声を掛けられ、八坂は我に返った。
英寿がこちらを見ている。
「どうした?」
「……いえ」
八坂は一度目を伏せ、それから穏やかな笑みを作った。
「本日は九重に付き合っていただき、ありがとうございました」
「俺も楽しんでたから気にしなくていい」
「そうじゃ。英寿は団子を三本も食べておった」
「それは言わなくていい」
「餡蜜も食べたぞ」
「九重」
「なんじゃ?」
「明日の案内、任せて大丈夫か?」
「何故じゃ!?」
心外だとばかりに九重が目を見開く。
八坂は堪えきれず小さく笑った。
ほんの一日前まで、この座敷にこんな空気が戻るとは思えなかった。
神と名乗る存在への印象としては、八坂の知るものとは随分違う。
恩を着せることもない。
畏れられることを求める様子もない。
今日は一日、九重の観光案内へ付き合い、今も真剣な顔で翌日の予定を聞いている。
世界へ直接働きかけられるほどの力を持つという青年が、小さな少女の指差す京都の地図を眺めている。
その落差には、まだ少し慣れなかった。
「八坂様」
障子の外から声が掛かった。
座敷に流れていた空気が僅かに変わる。
「どうしました?」
「お客様がお見えです」
「お客様?」
この時間に来客の予定はない。
八坂の目が少しだけ細くなった。
英寿もその変化を見逃さない。
「誰だ?」
妖怪は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「堕天使側の総督を務める方です」
「……アザゼル殿ですか」
「はい」
リアスの表情も変わった。
英寿がそちらを見る。
「知り合いか?」
「ええ。堕天使を率いている人よ」
「偉い奴か」
「相当にね」
「へえ」
英寿の反応はそれだけだった。
九重の方は「堕天使?」と首を傾げている。
八坂は少し考えた後、客を通すよう伝えた。
ほどなくして、一人の男が座敷へ姿を現す。
黒と金が混じった特徴的な髪に、顎には無精髭を生やしている。
堕天使を統べる総督だと知らなければ、どこか気の抜けた研究者にでも見えそうな男だった。
「悪いな。こんな時間に」
アザゼルは八坂へ軽く手を上げる。
「随分急な来訪ですね、アザゼル殿」
「ちょっとばかり、どうしても気になる奴が出来ちまってな」
そう言いながら、その目はもう英寿へ向いている。
一瞬だった。
表情から気楽さが消えたわけではない。けれど、視線だけが変わる。
見たことのない物を前にした研究者の目。
英寿はそれを正面から受け、僅かに口元を上げた。
「俺に用か?」
「話が早くて助かる」
アザゼルは空いている場所へ腰を下ろした。
「俺はアザゼル。まあ、堕天使側で色々やってる」
「随分ざっくりした自己紹介だな」
「肩書きを全部並べるの、面倒なんだよ」
「その辺は気が合いそうだ」
「だろ?」
初対面とは思えない軽いやり取りに、一誠が何とも言えない顔をした。
「……なんかこの二人、空気似てないか?」
「イッセー」
「何も悪いこと言ってないですよね!?」
名前を呼ばれただけで一誠が反射的に背筋を伸ばし、朱乃が口元を押さえて笑う。
リアスは小さく息を吐いた。
アザゼルはそんなやり取りを気にすることなく、本題へ入った。
「昨夜の件は一通り聞いた。八坂を利用した英雄派の計画に、そこへ突然現れたお前のこともな」
その口調は軽いままでも、目は笑っていなかった。
「八坂の攻撃が消えた。用意されていた七体の擬似体も消えた。八坂に施されていた干渉までなくなった。その上、最後は白い全身装甲を纏って、本人をほとんど傷つけずに暴走だけ止めた。今朝には戦いで壊れた場所まで元通りだ」
「大体合ってる」
「リアスたちから、今朝お前が話した内容も聞いてる。自分を神だと言ったこと。別世界から来たこと。そして――昨日の白い姿になる時に使った道具の名前もな」
英寿は静かに茶を置いた。
「デザイアドライバー」
「ああ、それだ」
アザゼルが僅かに身を乗り出す。
「昨夜の報告だけなら、未知の神器か《禁手》を疑った。腰の装置を起点に全身へ装備を展開する。見た目だけなら、そう考えるのが自然だからな」
一誠が小さく頷く。
昨日、自分も同じ推測をした。
「だが、朝の話まで聞くと妙なところが多い。お前自身が神器って言葉を知らなかった。説明を聞いた後も、自分のものは違うとはっきり言った。それに、世界へ働きかける力はドライバーとは別だともな」
アザゼルはそこで言葉を切った。
「だから、実物を見に来た」
「最初からそう言えばいいだろ」
「雰囲気ってもんがあるだろうが」
「研究者の?」
「そういうことにしとけ」
英寿が肩を竦める。
アザゼルが一度瞬きをした。
その次には、英寿の右手に黒い装置があった。
「……おい」
一誠も目を見開く。
「いつ出したんだ、それ?」
英寿は答えず、何でもないように卓上へ置いた。
「デザイアドライバーだ」
中央に円形の機構を備えた、機械的なベルト型の装置。
昨夜の戦場で見たものと同じだった。
だが、こうして間近に置かれると印象が違う。魔術的な装飾はなく、神聖さを誇示するような意匠もない。むしろ、どこか工業製品めいた機械の塊に見える。
その外見が、かえってこの世界の住人には異質だった。
「相変わらず、出し方からしてよく分からねぇな……」
アザゼルが呟く。
英寿は僅かに笑っただけだった。
「触っていいか?」
「壊さないならな」
「壊すかよ」
そう言いながらも、アザゼルの手つきは慎重だった。
まずは外装。
中央部。
装着部。
目で確認出来る範囲を追い、指先で材質を確かめる。無理に開こうとはしない。
次に小さな術式を展開し、外部から読み取れる範囲だけを測定していく。
その横顔から、いつもの軽薄そうな印象が消えていた。
完全に研究者の顔だった。
一誠が何か尋ねようと口を開きかけたが、リアスが僅かに目を向けただけで閉じる。
今は邪魔をしない方がいい。
それは誰の目にも分かった。
英寿本人だけは相変わらずで、卓上へ置かれた自分の装備を調べられているというのに、落ち着いた様子で茶を飲んでいる。
数分。
アザゼルは何度か角度を変え、既知の神器に見られる特徴と照らし合わせ、魔力的な反応も探った。
やがて、術式を閉じる。
「……参ったな」
最初に出たのは、そんな言葉だった。
「分かったのか?」
一誠が今度こそ尋ねる。
「逆だ。分からないことが増えた」
「それ、調べた意味あるんですか?」
「あるに決まってるだろ。分からないって分かったのも立派な結果だ」
アザゼルはドライバーから手を離し、腕を組んだ。
「少なくとも、俺が知ってる神器の記録には該当しない。神滅具にも一致しねぇ。今ここで確認出来る範囲じゃ、既知の神器体系へ当てはめる材料が見つからなかった」
アーシアが遠慮がちに尋ねる。
「では……やはり、神器ではないんでしょうか?」
「そこまでは言わない」
アザゼルはすぐに答えた。
「俺たちが知らない神器が絶対に存在しない、なんて証明は出来ねぇからな。未知の例外って可能性まで、今ここでゼロにするのは雑すぎる」
その上で、英寿を見る。
「ただし、本人が神器の存在すら知らなかった。本人は別世界から来たと言ってる。そして、その世界で使っていたという装備が既知の記録へ何一つ引っ掛からない」
少しだけ口元を上げる。
「現時点じゃ、お前の説明通り、別世界由来の装備と考えるのが一番自然だ」
座敷が静かになった。
英寿にとっては、最初から分かっていたことだ。
デザイアドライバーはこの世界の神器ではない。
だが、この世界の異能を長く研究してきたアザゼルが、自分の知識では既存の体系へ分類出来ないと認めた意味は、リアスたちにとって小さくなかった。
「本当に、こっちの仕組みとは別物なのね……」
リアスが卓上のドライバーを見つめる。
「最初からそう言ってる」
「分かっているわ。ただ、アザゼルにまでそう言われると、改めて実感するのよ」
「おいリアス。『俺にまで』ってどういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「信用されてるのか雑に扱われてるのか分からんな」
「両方じゃないですか?」
一誠が言った瞬間、アザゼルの視線が向いた。
「イッセー」
「はい、黙ります」
今度は座敷に小さな笑いが起きた。
アザゼルも肩を竦める。
「まあいい。俺としては、何百年研究しても知らないものがまだ出てくるってだけで十分面白い。それも今回は、別世界から現物が来た」
「現物って俺のことか?」
「ドライバーの方だよ。お前まで研究対象にしたら話がややこしくなる」
「もう十分ややこしいだろ」
「それは否定しねぇ」
そこで、アザゼルの目が再びデザイアドライバーへ向いた。
今度はさっきとは少し違う。
装置そのものではなく、その装置と英寿の間にある関係を考えているようだった。
「もう一つだけ確認したい」
「ああ」
「昨夜、八坂の攻撃や擬似体を消した力。それから今朝、壊れた場所を元に戻した力。あれも、このドライバーの能力なのか?」
「いや」
英寿の返答は早かった。
「あれは俺の力だ」
アザゼルの指が、卓上のドライバーへ伸びかけたところで止まる。
「……じゃあ、変身しなくても出来る?」
「ああ」
一誠たちは今朝すでに聞いている。
それでも、アザゼルの表情が変わるのを見ると、改めてその意味を突きつけられた気がした。
昨日、ギーツⅨとなった英寿は圧倒的だった。
白い装甲。
九本の尾を思わせる装備。
八坂と正面からぶつかりながら、本人を傷つけずに異常な力だけを打ち抜いた。
あれほどの姿を見せられれば、どうしてもあれこそが英寿の力の頂点なのだと思ってしまう。
だが、世界へ働きかける力はそれとは別に存在している。
アザゼルは数秒だけ黙り、それから英寿を見た。
「なら、なんで変身した?」
「戦うためだ」
「世界そのものへ手を出せるのに?」
英寿は少しだけ目を細めた。
「出来ることと、全部それで済ませることは別だろ」
今朝、リアスたちへ話した言葉と似ている。
けれど、それ以上同じ説明を繰り返すつもりはないらしい。
英寿は卓上のデザイアドライバーへ手を伸ばした。
「それに」
指先が装置へ触れる。
「俺は仮面ライダーだからな」
短い言葉だった。
自分を神だと名乗った時よりも、ずっと自然だった。
誇示するためでも、相手を圧倒するためでもない。
ただ、自分がそうであることを口にしただけ。
一誠は黙って英寿を見る。
小猫も。
リアスも。
アザゼルも。
「仮面ライダー、ねぇ……」
アザゼルが小さく呟いた。
その視線は、ドライバーではなく英寿へ向いている。
「神になる前から使ってたってわけか」
「ああ」
それだけで十分だった。
何があって。
どんな戦いを経て。
英寿が仮面ライダーになり、その先で神へ至ったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
だが、そこは装置の仕組みを尋ねるのとは違う。
初対面の相手へ踏み込む話ではない。
「なるほどな」
アザゼルは背を少しだけ預けた。
「神の力を使うための道具じゃない。神になる前から使っていて、神になった後も使い続けてる。その上、お前自身の力とは別物」
「そういうことだ」
「……ますます分類しづらくなった」
「分類する必要あるか?」
「研究者は分類したがる生き物なんだよ」
「面倒な生き物だな」
「自覚はある」
朱乃がまた小さく笑った。
英寿がデザイアドライバーへ手を伸ばす。
一瞬、視線が外れた。
それだけだった。
次に卓上を見た時には、もうそこにドライバーはなかった。
一誠が一度テーブルを見て、それから英寿を見る。
「……やっぱり消す時も分かんねぇ」
「細かいこと気にするな」
「気になるだろ普通!」
「一誠さん、声が大きいです」
アーシアに窘められ、一誠が「ごめん」と小さくなる。
先ほどまで漂っていた研究室のような緊張は、そこで少しだけ薄れた。
それを見計らったように、八坂が静かに口を開く。
「アザゼル殿」
「ん?」
「一つ、お聞きしても?」
「英雄派のことか?」
「……ええ」
九重の顔からも笑みが消えた。
座敷の空気が変わる。
アザゼルも今度は完全に表情を引き締めた。
「八坂を同じ方法でもう一度狙う可能性は低い。京都側も警戒を強めてるし、一度手口を見られたものをそのまま繰り返すほど曹操も馬鹿じゃない」
八坂が静かに頷く。
「だからといって、諦めたと考えるのも危険だ。むしろ、状況は一つ増えた」
アザゼルの視線が英寿へ移る。
「今度はこいつが連中の興味を引いた」
「俺か」
「他に誰がいる」
英寿は何でもないように茶を取った。
「昨夜までの連中にとって、目的の中心は八坂と京都だった。そこへ突然、正体不明の男が現れた。見たことのない装備で白い戦士へ変身し、八坂の攻撃を消し、擬似体をまとめて消し、術式まで崩した。それでいて八坂本人は殺さずに救った」
アザゼルは指を一本立てる。
「正体を知りたい」
二本目。
「能力を知りたい」
三本目。
「自分たちへ引き込めるか試したい」
最後にもう一本。
「それが無理なら、どれだけ強いのか直接確かめたい」
一誠が渋い顔をする。
「全部ありそうなのが嫌だな……」
「曹操なら、その全部を一度に考えてても不思議じゃねぇよ」
英寿はそこで初めて、少しだけ興味を示した。
「曹操って、そういう奴なのか」
「頭が回る。強い。好奇心もある。厄介な条件が揃ってる」
「お前と似てるな」
「一緒にすんな。俺は研究したいからって京都をひっくり返したりしねぇ」
「そこは重要ね」
リアスが真顔で同意した。
「お前ら俺を何だと思ってんだ」
「堕天使の総督」
「肩書きじゃなくてだな」
「研究者」
「それも間違ってねぇけど」
アザゼルが額を押さえた。
少しだけ空気が和らいだが、話そのものは終わっていない。
「それと、昼間の監視だ」
九重が顔を上げる。
「監視?」
「英雄派側が今日も英寿たちを見てたらしい」
一誠が眉を寄せる。
「やっぱりか……」
「ただ、途中から妙なことになった。お前らは普通に拾えてるのに、英寿だけ監視に引っ掛からなくなったらしい」
アザゼルが英寿を見る。
「こっちの情報網でそこまでは掴んだ」
九重も英寿を見る。
「英寿?」
「大したことじゃない」
「妾には秘密か?」
「秘密ってほどでもない」
英寿は茶を一口飲んだ。
それ以上説明する気はないらしい。
アザゼルはその反応を見て、口元を僅かに上げた。
「まあ、何をしたかは今は聞かねぇよ。ただ、向こうからすれば余計に気になるだろうな。それまで見えてた奴が、途中から急に見えなくなったんだから」
リアスが僅かに目を細める。
「直接接触してくる可能性もあるのね」
「ああ。曹操が自分の目で確かめたいと思えばな」
そこでアザゼルは英寿を見る。
「そん時はどうするつもりだ?」
英寿は少しだけ考えた。
「話をしに来るなら話す」
それから、特に力むこともなく続ける。
「仕掛けてくるなら止める」
「止める、か」
「必要なければ殺さない」
先回りするように英寿が付け加え、一誠は開きかけていた口をそのまま閉じた。
「……今、俺が聞こうとしてたこと分かった?」
「顔に書いてあった」
「九重ちゃんと同じこと言ってる!」
「妾の方が先じゃぞ」
「そこ張り合うところ!?」
九重が胸を張り、座敷に僅かに笑いが戻る。
英寿の答えそのものに迷いはなかった。
敵だから殺す。
害意を向けたから殺す。
そういう判断ではない。
必要なら戦う。
止める必要があれば止める。
その先は、その時に決める。
アザゼルもそれ以上は追及しなかった。
やがて。
「話は終わったか?」
「ん?」
九重の声にアザゼルが振り返る。
先ほどまで隅へ避けられていた地図が、再び英寿の前へ押し出されていた。
「英寿。明日も京都におるのじゃろう?」
「そのつもりだけど」
「なら問題ない。続きを決めるぞ」
「結構大事な話してたと思うんだけどな」
アザゼルが目を丸くする。
「もう終わったであろう」
「九重ちゃん、強いな……」
一誠が感心したように呟く。
九重は気にせず、地図の一か所を指差した。
「ほれ、英寿。ここへは行ったことがあるか?」
英寿が少し覗き込む。
「ないな」
「なら決まりじゃ」
「ちょっと待て。俺の意見は?」
「聞いたぞ。行ったことがないと」
「それは意見じゃなくて事実だろ」
「では行きたくないのか?」
英寿は一瞬だけ九重を見る。
期待に満ちた顔だった。
「いや。行くよ」
「なら決まりじゃ!」
九重の顔がぱっと明るくなる。
英寿も小さく笑った。
その光景を、アザゼルはしばらく黙って眺めていた。
世界へ直接働きかけられる。
異世界から来た。
自分を神だと名乗る。
既知の神器体系には存在しない装置を使い、《仮面ライダー》と呼ばれる戦士へ変身する。
研究者として聞きたいことは山ほどある。
だが今、その本人は九尾の少女と明日の観光予定を決めていた。
「……なるほどな」
ぽつりと漏れた声に、リアスが振り向く。
「何が?」
「いや」
アザゼルは英寿と九重を見たまま、少しだけ笑った。
「神だから変わってるんじゃないらしい」
リアスもその視線の先を見る。
「どういうこと?」
「浮世英寿がこういう奴なんだろ」
地図を見ていた英寿の口元が僅かに上がった。
「分かってきたじゃないか」
「普通に聞こえてんのかよ」
「この距離で聞こえない方がおかしいだろ」
「そりゃそうだ」
アザゼルが肩を竦める。
彼が知る神々の中には、気さくな者もいれば尊大な者もいる。人間と酒を酌み交わす者もいれば、気分一つで周囲を振り回すような者だっている。
だから、神という存在そのものが多種多様であることなど、今さら驚く話ではない。
ただ。
目の前の男を理解するのに、『神』という肩書きから考え始めること自体が間違っていたらしい。
先に浮世英寿という人間がいて。
仮面ライダーとして生きてきた男がいて。
その男が、今は神になっている。
そう考えた方が、ずっと分かりやすかった。
「それで英寿、次はここじゃ」
「まだ増えるのか?」
「明日の分じゃ!」
「さっきから明日の予定だけで地図半分埋まってるぞ」
「京都を甘く見るでない」
「食べ物の印ばっかり増えてないか?」
「食文化も大事じゃ」
「便利な言葉だな、食文化」
「英寿が食べるからであろう!」
「最初に甘味処へ連れていったのはお前だろ」
「それとこれとは別じゃ!」
九重の声が座敷へ響く。
笑いが広がった。
英雄派はまだ動いている。
曹操も、ゲオルクも。
昨夜の戦いだけで何もかも終わったわけではない。
そして今や、彼らの関心は京都だけではなく、突然現れた浮世英寿にも向いている。
この座敷にいる誰も、それを忘れてはいなかった。
それでも。
誰かが何かを企んでいるからといって、一日中その影ばかり追う必要もない。
帰る方法はまだ見つかっていない。
この世界について知らないことも多い。
なら今は、知ればいい。
明日には明日の景色がある。
「英寿、聞いておるか?」
「ああ。そこだろ?」
「そうじゃ。それから次は――」
九重の指が再び地図の上を滑っていく。
英寿は静かに茶を口へ運んだ。
屋敷の外では、京都の灯りが一つ、また一つと夜の中へ増えていく。
この世界へ来てから、二度目の夜が始まろうとしていた。