翌日の京都も、朝からよく晴れていた。
昨夜アザゼルから、英雄派が今もこちらを注視している可能性を改めて聞かされた。八坂を利用した計画が潰れた以上、同じ手口をそのまま繰り返す可能性は低い。それでも彼らが諦めたわけではなく、今度は突然現れて計画そのものを崩した浮世英寿へ興味を向けている可能性が高い――そんな話をされた翌朝だというのに、本人の予定は何一つ変わっていなかった。
むしろ変わったとすれば、九重の方である。
「英寿、今日は昨日より歩くぞ」
屋敷を出た時から、九重は昨日以上に張り切っていた。前日に回り切れなかった場所を今日こそ全部案内するつもりらしく、昨夜から使っている地図には新しい印までいくつか増えている。
「昨日も十分歩いただろ」
英寿が呆れ半分に返すと、九重は地図を胸元へ抱えたまま澄ました顔をした。昨日は途中で何度も甘味処へ寄ったせいで予定していた行程がかなり残ったらしいのだが、本人はそれを「京都の食文化を教えておったのじゃ」と主張している。最初に店へ連れていったのが誰だったかは、英寿もきちんと覚えていた。
「今日は寄り道せぬからな」
「その言い方だと、昨日は俺が寄り道させたみたいだな」
九重は聞こえなかったふりをして地図を広げ、そのまま先頭を歩き始める。
その後ろを英寿が続き、さらに少し距離を置いて一誠たちが歩いていた。
一見すれば昨日とほとんど変わらない京都観光の続きだ。ただ、後方を歩くリアスたちからは、昨日ほど完全に気の抜けた空気は消えている。
特に分かりやすいのが一誠だった。
通りを歩いている間にも屋根の上を見て、細い路地へ視線を向け、人混みの中へそれらしい人物がいないか探している。本人なりには自然にやっているつもりなのだろうが、何度も同じ動きを繰り返せば嫌でも目立った。
「そんなに探しても、普通に歩いてる奴の中にはいないぞ」
前を向いたまま英寿に言われ、一誠の動きがぴたりと止まる。
「……見てた?」
「むしろ隠してたのか?」
一誠は誤魔化すように頭を掻いた。昨夜、英雄派の首領である曹操自身が動く可能性まで示唆されたのだから、落ち着かないのも無理はない。
「また昨日みたいに見られてたら嫌だなと思ってさ」
「見てる奴ならいるだろうな」
さらりと返された言葉に、一誠が思わず声を上げかけた。近くを歩く観光客の存在を思い出して寸前で音量を抑えたものの、顔にはしっかり驚きが出ている。
リアスも英寿へ視線を向けたが、本人は九重について歩きながら特に振り返ろうともしない。
前日、英寿は英雄派の監視から自分だけを外したが、監視手段そのものを潰したわけではない。こちらを見ようとする目がまだ残っていることくらい、本人はとうに気づいていた。
ただし、今の彼らから英寿本人を見ることは出来ない。
周囲を歩くリアスたちを通して、まだ京都にいると推測する程度なら可能だろうが、それだけだった。
「それで放っておくの?」
リアスの問いには、警戒だけでなく僅かな呆れも混じっている。
「今は見てるだけだからな。何かしてきたら、その時考えればいい」
そこで英寿は少し先を歩く九重へ目を向けた。こちらの話を気にしていないのか、少女は地図と実際の道を見比べながら次の曲がり角を確認している。
「それに、毎回覗いてる奴を探し回ってたら九重の案内が終わらないだろ」
「当然じゃ!」
名前を出された途端、九重が勢いよく振り返った。
「今日はまだ見せたい場所がたくさんあるのじゃ。英雄派とやらに構っておる暇はないぞ」
「向こうに聞かせたいくらいだな」
英寿が小さく笑う。その落ち着きように一誠はまだ何か言いたそうだったが、結局は肩を落として歩き出した。
もちろん、何も警戒していないわけではない。それはリアスにも分かっていた。
英寿は街を楽しみながらも、時折ごく自然に周囲へ目を走らせている。人の流れ、建物の配置、視線の向き。何か一つを露骨に警戒するのではなく、その場所全体を無意識に把握しているような目だった。
八坂の暴走を前にした時もそうだった。
普段はどこまでも飄々としているのに、本当に何かが起きた瞬間だけ、その目が変わる。
そして、その瞬間は思っていたよりも早く訪れた。
◆
九重が今日最初の目的地として選んだのは、京都の中心部から少し離れた山際にある古い社だった。
人間にも知られている場所ではあるが、大勢の観光客が押し寄せるような有名所ではない。長い石段を上るにつれて民家は遠ざかり、木々の葉を揺らす風や鳥の鳴き声の方が大きくなっていった。
「ここには昔から土地を守っておる者がおってな」
先頭の九重は、八坂から聞いていた話まで交えながら得意げに説明している。英寿はその少し後ろを歩き、時折周囲の景色へ目を向けながら話を聞いていた。
木々の隙間から差し込む朝の光、長い年月で角の取れた石段、街中とは違う僅かに湿った土と木の匂い。
元の世界にも似た景色はあった。それでも、同じものではない。
そんなことを考えながらさらに数段上ったところで、英寿の足が止まった。
少し先を歩いていた九重はすぐに気づく。
「英寿?」
返事はない。
その代わり、英寿の視線が石段の先から周囲の森へ移った。
遅れてリアスたちも異変に気づく。
鳥の声が消えている。
風も止まっていた。
つい先ほどまで木々の向こうから僅かに聞こえていた京都の生活音さえ、いつの間にか完全に途切れている。
森が静かになったのではない。
自分たちのいる場所だけが、周囲から切り離されたような不自然さだった。
「結界……?」
一誠が警戒しながら辺りを見回す。その隣では小猫が目を細め、足元から周囲へ広がる気配を探るように意識を集中させていた。
「普通の結界より規模が大きいです。この一帯そのものを切り離しているような……」
アーシアが不安そうに一誠の近くへ寄り、ゼノヴィアはいつでも剣を抜けるよう姿勢を低くする。
英寿はそんな背後の動きを確認するより先に九重へ手を伸ばした。少女の肩へ軽く触れ、そのまま自分の後ろへ下がらせる。
「俺の後ろにいろ」
声音が変わっていた。
強く言ったわけではない。それでも九重は反論せず、素直に英寿の背中へ隠れる。
その直後だった。
「やあ」
石段の上から、穏やかな声が降ってきた。
全員の視線が一斉に上がる。
一本の長い槍を手にした青年が、そこに立っていた。
いつからいたのか分からない。ただ、最初から自分たちが来ることを知っていたような顔で石段の先から見下ろしている。
一誠の表情が一気に険しくなった。
「曹操……!」
英雄派を率いる青年。
八坂を利用した一連の事件を引き起こした側の人間であり、一誠自身も直接戦った相手だ。
英寿の背後で九重の小さな手が服を掴む。
その感触に気づいた英寿は何も言わず、立つ位置を僅かにずらした。曹操から九重の姿が完全に隠れる。
曹操はそれを見ていた。
「安心してくれ。今日は九尾の姫君に用があって来たわけじゃない」
一誠が一歩前へ出かける。しかし、その肩を止めたのはリアスだった。
警戒を解いたわけではない。むしろ紅い瞳は曹操を真っ直ぐ見据えている。それでも、相手が今この瞬間に戦端を開こうとしていないことくらいは見て取れた。
「話を聞くだけよ、一誠」
一誠は納得しきっていない顔のまま、それ以上は前へ出なかった。
曹操はその様子に僅かに笑みを深くする。
「さすがはグレモリー家の次期当主。話が早くて助かる」
「あなたに褒められても嬉しくないわ」
「それは残念だ」
短く返した後、曹操の視線はリアスから外れ、まっすぐに英寿へ向く。
「浮世英寿」
名を呼ばれても、英寿に緊張した様子はなかった。
「よく覚えてたな」
「忘れる方が難しいと思うけどね」
あの夜、突然現れた英寿は、英雄派が用意した擬似体を一瞬で消し去り、八坂へ施されていた干渉を取り除き、その後は白い戦士へ姿を変えて暴走した八坂を止めた。
しかも最後に曹操が名を覚えておくと言った時、返ってきたのは――どうせ忘れられない。そんな自信に満ちた言葉だった。
「言った通りになったな」
「そこまで自覚的だと嫌味にもならないね」
曹操は苦笑しながら数段だけ石段を下りた。リアスたちの身体には再び力が入るが、英寿は動かない。
「それに、昨日も少しだけ楽しませてもらった」
「覗き見の話か?」
「君からすればそうなるかな。途中までは普通に見えていたのに、あの音の後から君だけが綺麗に消えた。場所を変えても、術式を変えても、君以外は映るのに君だけは見えない」
曹操の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「その直前、こちらへ向かって狐の形まで作ってくれただろう?」
「気づいてるって教えてやっただけだ」
「あれは挨拶だったと?」
「そう思ったなら、それでいい」
英寿が僅かに笑う。
今こうして会話をしている間も、曹操の目はこちらの細かな動きを見逃していない。
八坂の事件で目にした規格外の力。
監視そのものを壊したわけでもないのに、英寿だけを認識出来なくした現象。
英雄派側からすれば、分からないものが増え続けている。
だから本人を見に来た。
昨夜アザゼルが予想していた通りだった。
「それで?」
英寿が先を促す。
「わざわざ顔を出したのは、俺がまだ京都にいるか確認するためだけじゃないだろ」
「もちろん」
曹操は槍を肩へ預けるように持ち直した。
「君については、分からないことが多すぎる」
あの夜まで名前すら知らなかった男。
何の前触れもなく戦場へ現れ、英雄派の術式を正確に消し、見たことのない白い戦士へ姿を変えた。その後に調べてみても、浮世英寿という人間へ繋がる情報は、こちらで調べられる範囲では一つとして見つからない。
だが、曹操が最も気になっていたのは別の言葉だった。
「八坂を模した擬似体を消した時、君は言ったね。神様には偽物なんて関係ない、と」
「ああ」
「単なる言葉の綾かとも思った。でも、あの力を見た後では聞き流す方が難しい」
曹操の目が僅かに細くなる。
「君は本当に神なのか?」
「そうだ」
間を置く理由すらないというような返答だった。
曹操の眉が僅かに上がる。
冗談を言っているようには見えない。虚勢も、自分を大きく見せるための誇張もない。
英寿にとって、自分が神であることは特別な宣言ではなく、ただの事実なのだろう。
「随分簡単に認めるんだね」
「隠してないからな」
「神を名乗る者にしては随分気軽だ」
「そう見えるか?」
英寿の調子は変わらなかった。
曹操はそれ以上、神という言葉そのものを掘り下げなかった。代わりに、あの夜から積み上がっていた疑問を整理するように続ける。
八坂の攻撃を消した力。
擬似体だけを選び取った力。
干渉を解除した力。
そして、白い戦士へ姿を変えた時に使っていた未知の装備。
同じものから生じた力なのか、それすら分からない。
曹操がそこまで口にすると、英寿は白い姿についてだけ短く答えた。
「あれは別だ」
その一言で、曹操の目の奥に新しい興味が生まれる。
「……ますます分からなくなったよ」
英寿はわずかに口元を上げた。
「全部説明されるほど、つまらないものはないだろ?」
曹操は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「……確かに。それでは面白くないね」
そこで終わりだった。
英寿も続きを説明しない。
曹操も無理に聞き出そうとはしなかった。
代わりに少しだけ視線を横へ流し、この場にいる全員を見渡してから再び英寿を見る。
「こちらで調べられる限り、君の過去へ繋がる記録が何一つ出てこない。それだけの力を持っていて、あの夜まで誰にも存在を知られていなかったというのは、さすがに不自然すぎる」
「それで?」
「君はどこから来た?」
英寿は数秒だけ曹操を見る。
答えなければならない理由はない。
だが、隠さなければ困ることでもなかった。
「別の世界だ」
今度こそ、曹操の表情が明確に止まった。
後ろでは一誠が小さく何か言いかけたが、リアスが視線だけで制する。
「……別の世界?」
「ああ。あの夜まで俺は、ここじゃない世界にいた」
曹操はすぐに言葉を返さなかった。
八坂の一件を見た後でなければ、荒唐無稽な話として切り捨てていたかもしれない。
だが今は違う。
この世界のどこにも過去へ繋がる記録が見つからず、既知の術式とも異なる不可解な力を使う。少なくとも、別世界から来たという説明なら、目の前にある矛盾のいくつかには筋が通る。
「なるほど。それなら、いくら探しても何も出てこないわけだ」
「ご苦労だったな」
「他人事みたいに言うね」
「俺のことを勝手に調べてたんだろ?」
「確かに」
曹操は笑った。
しかし、その次に向けられた視線は少し鋭くなる。
「なら、この世界で何をするつもりなんだ?」
その質問に、英寿は木々の隙間から覗く空を一度見上げた。
帰る道はまだない。
だからといって焦っているわけでもない。
「今のところ、特に決めてないな」
帰る方法が分からない以上、今ここで出来ることをしている。こっちの世界を見る。知らないものを知る。そして今は、九重との約束通り京都を歩いている。
背後から、九重が英寿の服を掴んだまま口を挟んだ。
「京都はまだ全部見せておらぬぞ」
「らしいからな」
曹操が九重へ目を向ける。
ほんの数日前、自分たちの計画によって母親を失いかけた少女。その九重は英寿の後ろからこちらを警戒しながらも、英寿がまだ京都にいることについては当然のように受け入れている。
「随分と懐かれたみたいだ」
「英寿は母上を助けてくれたからな」
九重の答えには一切の迷いがなかった。
曹操はそれを聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
「君は、僕たちをどう思っている?」
英寿は問いの意味を測るように曹操を見る。
あの夜、英寿は英雄派の計画を潰した。だが今こうして向き合っていても、曹操たちそのものへ強烈な憎悪を向けているようには見えない。
それが曹操には興味深かった。
「別に、お前たちを裁きに来たわけじゃないからな」
英寿は淡々と言った。
「あの時は九重が母親を助けたいと願ってた。お前たちは、その母親を利用してた。だから止めた。それだけだ」
服を握る九重の指に力が入る。
けれど英寿は曹操を責め立てるような言葉を続けなかった。
「善悪で僕たちを裁いたわけじゃない?」
「俺は裁判官じゃない」
「神様なのに?」
「神だからって、全員に判決出して回る趣味はないな」
英寿が僅かに笑う。
一誠は何とも言えない顔をしたが、今度は余計な言葉を挟まなかった。
曹操もまた、笑みを浮かべたまま英寿を見ていた。
やがて、その表情から僅かに探る色が薄れる。
「なら、僕たちの願いそのものについては?」
「聞いてないな」
そう返され、曹操は少しだけ笑った。
「人間の可能性を証明することだよ」
今度の声には、先ほどまでの探るような響きがなかった。
神や悪魔、龍。生まれながらに、人間では到底届かないほどの力を持つ存在が当たり前のように存在している世界で、それでも人はどこまで辿り着けるのか。
種族の差も、生まれ持った力の差も越えて、人間という存在がどこまで高みへ手を伸ばせるのか。
「僕はそれを見たい」
曹操の瞳に迷いはなかった。
「人間がどこまで辿り着けるのか。その可能性を証明したい」
一誠たちも黙って聞いていた。
少なくとも、その願いを語る曹操の声に嘘はない。
英寿も茶化さなかった。
しばらく黙って聞いた後、返したのは意外なほど素直な言葉だった。
「いい願いじゃないか」
曹操の表情に、純粋な意外さが浮かんだ。
「……そう言われるとは思わなかったな」
「願いを持つこと自体は自由だろ」
どれほど大きく、誰かに笑われるような願いであっても、叶えたいと願うこと自体を英寿は否定しない。
それは、目の前の曹操が相手でも変わらなかった。
むしろ、その願いを本人の口から聞いたからこそ、英寿は少しだけ楽しそうに口元を上げる。
「人間の可能性を、自分たちで証明したいんだろ?」
「ああ」
「だったら神様に答えを教えてもらってちゃ格好がつかないな」
曹操は一瞬だけ黙った。
先ほど、英寿の力について答えを求めた自分と、今語った理念。
そこにある小さな矛盾を指摘された意味が分かったのだろう。
やがて曹操は、可笑しそうに小さく息を漏らした。
「……確かに。それでは僕たちが掲げたものに反するね」
「だろ?」
英寿の声には責めるような響きはない。
むしろ、人間の可能性を証明するという曹操の願い自体は、本当に悪くないと思っているようだった。
だからこそ。
その視線が、ほんの僅かに背後の九重へ向いた。
「ただ――自分たちの願いのために、他人の願いを踏み潰す」
先ほどまで残っていた笑みが、僅かに薄れる。
「そのやり方は、いただけないな」
曹操の笑みが止まった。
九重が英寿の背中越しに顔を上げる。
「母親と一緒にいたいって願ってる子供から、その母親を奪って証明する人間の可能性か。それじゃ、せっかくの願いも台無しだろ」
英寿は声を荒らげない。
英雄派の行いを並べ立てて責めもしなかった。
ただ、自分がどう思っているのかを告げただけだった。
「どれだけ大きな願いでもいい。無茶だって笑われるようなものでもな。でも、自分の願いを叶えるために、他人には願う資格すらないって決めるのは違うだろ」
曹操はすぐには答えなかった。
英寿も答えを求めない。
議論に勝つために言ったわけではないからだ。
九重が母親を取り戻したいと願った。
英寿はその願いを聞いた。
それだけだった。
「……願いの神様らしい答えだ」
やがて曹操が呟く。
「そうか?」
「かなりね」
その指が、手にしていた聖槍の柄をゆっくり撫でた。
ほんの僅かな仕草。
それでも英寿の目は見逃さない。
重心。
肩の向き。
足の位置。
槍の穂先へ力が通る前の、ごく小さな変化。
曹操が何をしようとしているのか、それだけで十分だった。
英寿は曹操から視線を外さないまま、背後へ声を掛ける。
「九重」
「なんじゃ?」
「リアスのところまで下がってろ」
服を掴んでいた手が止まった。
「じゃが――」
「大丈夫だ」
強く命じたわけではない。それでも、その声音に迷いがないことを九重も知っている。
少女はまだ曹操を睨みながら、ゆっくり英寿から手を離した。そのまま数段下り、リアスたちのところまで移動する。
リアスが自然に九重を自分の傍へ寄せた。
そこまで確認してから、英寿は改めて曹操を見る。
「一つ、試してもいいかな?」
「いいぜ」
肩へ預けられていた槍が静かに下りる。
そこでようやくリアスたちの空気が一変した。
一誠が前へ出ようとし、ゼノヴィアが剣へ手を掛ける。朱乃の周囲には魔力が集まり始め、小猫も地面を踏み締めた。
だが、英寿は動かない。
逃げるようにも、何かを取り出すようにも見えなかった。
曹操が槍先を英寿へ向ける。
「僕が今、君を倒したいと願ったら?」
問いかけに、英寿は穂先を一度見た。
それから曹操へ視線を戻す。
「願うのは自由だ」
口元が僅かに上がる。
「叶うかどうかは別だけどな」
曹操が踏み込んだ。
石段を蹴った音が一つ響いた直後、一誠の視界から曹操の姿が掻き消えたように見える。
一誠には、その聖槍がどれほど危険なものか嫌というほど分かっていた。曹操自身の技量も、その手から繰り出される刺突の速さも、あの夜に直接戦ったからこそ知っている。
その槍が一直線に英寿へ伸びる。
狙いは胸ではない。
僅かに外れた肩口。
少なくとも、最初から命を奪うための刺突ではなかった。
だからといって、生半可な一撃でもない。
長槍の間合いを最大限に使い、身体の捻りと踏み込みを全て穂先へ乗せた鋭い突き。並の相手なら、攻撃を認識した時にはすでに穂先が身体へ届いている。
英寿は変身しなかった。
何かを生み出すこともない。
鐘も鳴らない。
何か特別な力を使ったようにも見えなかった。
ただ、見ていた。
曹操の踏み込みを。
肩の動きを。
槍を握る手を。
穂先ではなく、その一撃が生まれる前の全てを。
そして槍が届く寸前。
英寿の身体が僅かに半身へずれた。
大きく避けたわけではない。
紙一重。
同時に左手が前へ出る。
触れたのは迫る穂先ではなかった。
槍が完全に伸び切るより前。
曹操の力が一直線に完成しようとする、その途中の柄。
英寿の掌が横から軽く添えられる。
力任せに弾いたわけではない。
軌道が数センチ変わるだけの、ごく僅かな力。
それで十分だった。
英寿の肩を捉えるはずだった聖槍はそのすぐ横を抜け、石段脇の空間を鋭く貫く。圧力だけで枯れ葉が舞い、木々の枝が大きく揺れた。
曹操の目が見開かれる。
だが、驚くにはまだ早かった。
長槍が伸び切った時には、英寿はもう曹操の懐へ入っていた。
長い武器を扱う者にとって最も嫌な距離。
曹操が槍を引き戻すより先に、英寿の右手が持ち上がる。
拳ではなかった。
伸びた人差し指が、曹操の胸元へ軽く触れる。
「ここ」
低い声だった。
「空いてるぞ」
曹操の動きが止まる。
森は静まり返っていた。
後ろで見ていた一誠たちも、何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
英寿がその気なら、今の指が拳であれば、曹操は防ぐより先に一撃を受けていた。
やがて曹操はゆっくりと槍を戻し、英寿から数歩離れる。
「……驚いたな」
声には本物の感心が混じっていた。
英寿は追わない。
「いい槍だな」
「それを避けた相手に褒められても、素直に喜べないね」
曹操はそう言いながらも、不快そうには見えない。むしろ、先ほどまで以上に楽しそうだった。
「神の力を使うと思っていたよ」
「必要ないからな」
英寿は何でもないように肩を竦めた。
そして、ふと思い出したように右手を顔の横へ持ち上げる。
人差し指と小指を立て、昨日と同じ狐を形作った。
「それとも――また化かされたかったか?」
鐘は鳴らない。
何かが起こることもない。
ただ、前日に監視の向こうへ送ったものと同じ仕草だった。
曹操はその手を見て一瞬だけ目を細め、やがて意味を理解したように苦笑する。
「それは遠慮しておこう」
「そうか」
「お主!」
張り詰めていた空気を破ったのは九重だった。
リアスの傍から一歩前へ出て、曹操を睨みつけている。
「英寿に何をするのじゃ!」
少女は本気で怒っていた。英寿に傷一つないことは遠目にも分かっている。それでも、目の前でいきなり槍を突き出されたことまで許せるわけではないらしい。
その剣幕に曹操が思わず小さく笑うと、九重の眉がさらに吊り上がった。
「笑うでない!」
「いや、失礼」
曹操はそれ以上何も言わなかった。今ここで何を口にしても、九重の機嫌を良くする結果にはならないと判断したらしい。
英寿はそんな少女へ一度だけ目を向ける。
「怪我してないから大丈夫だ」
「そういう問題ではない」
「そうか」
「そうじゃ!」
九重は念を押すように言い切った。
少なくとも曹操からは、もう先ほどまでの戦意は消えている。
リアスたちも完全に警戒を解いたわけではないが、すぐに戦闘へ入るために集めていた力を少しずつ収めていった。
「今日はこのくらいにしておくよ」
曹操は聖槍を肩へ戻した。
一誠の顔には納得出来ないものが残っている。敵対組織の首領を目の前にして、このまま帰していいのかという思いがあるのだろう。
しかし、それを口にするより前に英寿が言った。
「いい」
一誠が英寿を見る。
「向こうは最初から、ここで本気の戦いをするつもりじゃなかった」
英寿は曹操の立ち方を見れば分かっていた。
先ほどの一撃も同じだ。
危険な攻撃ではあったが、殺すつもりで振るわれたものではない。
それに、この場には九重もアーシアもいる。山を下ればすぐ京都の街が広がっている。曹操だけがこの空間に来ている保証もなかった。
互いに本気で戦う理由がない状況で、わざわざここを戦場に変える必要はない。
「話をしに来たなら、今日はそれでいい」
英寿の言葉を聞き、曹操が僅かに笑う。
「随分寛大だね」
「勘違いするなよ」
その瞬間だけ、英寿の声から僅かに軽さが消えた。
「お前らの願いを否定する気はない」
人間の可能性を証明する。
その願いそのものを、英寿はすでに認めている。
「ただ、そのためにまた誰かの願いを踏みにじるなら――その時は止める」
脅したわけではない。
大声を出したわけでもない。
ただ、自分がそうすると決めていることを伝えただけだった。
だからこそ曹操にも、その言葉が冗談でないことはよく分かった。
「次に会う時には、君の本気も見てみたいものだね」
曹操の言葉に、英寿は少しだけ目を細める。
「その願いは」
一拍置いた。
「叶わない方がいいと思うぞ」
曹操の笑みが深くなる。
「覚えておくよ」
背後の空間が歪んだ。
暗い亀裂のようなものがゆっくり開き、その奥に別の空間が覗く。
英寿は初めて見る術だが、あの夜の戦いを思い出せば誰の仕業かはおおよそ想像がつく。
曹操はその亀裂へ向かって歩き出した。
入り込む直前、一度だけ足を止める。
「願いを持つのは自由、か」
英寿は答えない。
曹操も返事を求めてはいなかった。
「嫌いじゃないよ。その考え方」
それだけ残し、姿が向こう側へ消える。
空間の亀裂も閉じた。
同時に、周囲を覆っていた隔離が崩れていく。
最初に戻ったのは風だった。
止まっていた木々がざわめき、続いて鳥の声が森へ戻る。遠くからは人の話し声や車の走る音まで僅かに聞こえ始めた。
京都の日常が、一瞬で自分たちの周囲へ戻ってきた。
つい先ほどまで英雄派の首領が立ち、聖槍が振るわれていた出来事だけが、日常から切り抜かれていたようだった。
一誠がそこでようやく肩から力を抜く。
「……すげぇ疲れた」
「ほとんど見てただけだろ」
「精神的にだよ。英寿がいきなり槍で刺されそうになったんだぞ」
英寿は特に気にした様子もなく、自分の肩を軽く動かした。
傷一つない。
服にすら槍は触れていなかった。
一誠はその事実を見てから、改めて先ほどの光景を頭の中で再生する。曹操が消えたようにしか見えなかったのに、英寿は変身すらせず、当たり前のように避けた。
「……あれ、本当に何も使ってなかったんだよな?」
「ああ」
英寿はそれだけ答えた。
小猫も先ほどの動きを思い出すように、英寿の左手へ視線を落とす。
特別な何かが起きたようには見えなかった。
攻撃が消えたわけでもない。
英寿の動きが突然速くなったようにも見えない。
曹操の槍が伸びる前に軌道を読み、完成するより早く僅かにずらし、最短距離で懐へ入った。
それだけだ。
言葉にすれば、あまりにも単純だった。
実際にやることが単純だという意味にはならないが。
「八坂の時は規格外の力ばっかり見てたから忘れそうになるけど……」
一誠は英寿を見ながら、まだ少し信じられないように呟く。
「英寿、普通に戦ってもめちゃくちゃ強いんだな……」
「戦いには慣れてるからな」
英寿にとっては、それで説明が終わっているらしい。
少なくとも、神の力を使わなければ戦えないわけではない。
相手の踏み込みを見る。
攻撃が完成する前に軌道を読む。
必要最低限の動きだけで外し、そのまま最も近い場所へ入る。
先ほどの一瞬だけでも、それが力の大きさとは別の場所にある技術だということは、一誠にも十分分かった。
「英寿」
九重が近づいてくる。
「ん?」
まだ少し不満そうな顔で、英寿の肩を見ていた。
「本当に怪我はないのじゃな?」
「ああ。見ての通りだ」
九重は念入りに英寿の肩を確認し、ようやく納得したように小さく息を吐いた。
「ならよい」
次の瞬間には表情を切り替え、石段の上へ向き直る。
「では行くぞ」
一誠が目を瞬かせた。
「……どこに?」
「どこにって、社に決まっておろう。まだ着いておらぬぞ」
九重は当然のように答えた。
石段の途中で曹操が現れただけで、本来の目的地はまだ先にある。
英寿もその先を見上げた。
「そうだな。せっかくここまで来たんだ」
「え、観光続けるの?」
一誠だけが話についていけていない。
英寿はすでに歩き始めた九重の後を追う。
「帰ったんだからいいだろ」
「英雄派のトップが聖槍持って出てきた直後なんだけど!?」
英寿は振り返らなかった。
「だからって、九重の予定まで中止にする必要ないだろ」
前を歩いていた九重が嬉しそうに振り返る。
「その通りじゃ!」
二人はそのまま石段を上っていく。
一誠はしばらく呆然と背中を眺めた後、諦めたように息を吐いた。
リアスたちも後へ続く。
少し前まで聖槍が向けられていたとは思えないほど、森には穏やかな空気が戻っていた。
歩きながら、リアスは先ほどの二人の会話を思い返していた。
人間の可能性を証明したいと願う曹操。
誰もが幸せになれる世界を願う英寿。
どちらにも、自分なりの願いがある。
英寿は曹操の願いそのものを否定しなかった。
それどころか、いい願いだと言った。
人間がどこまで辿り着けるのか。その答えを自分たちの手で確かめたいという望みについては、英寿も笑わなかった。
違うのは、願いの大きさではない。
その願いへ向かう途中で、他人の願いをどう扱うのか。
自分たちの願いのためなら九重から母親を奪うことも選んだ英雄派と、九重が母親を取り戻したいと願ったから足を止めた英寿。
そこにある違いの方が、二人の立場よりずっと大きいようにリアスには思えた。
神だからそう考えるのか。
仮面ライダーだからなのか。
それとも昨夜アザゼルが言ったように、神になる以前から浮世英寿がそういう男だったのか。
答えはまだ分からない。
けれど、英寿が相手の願いそのものを頭ごなしに否定する人間ではないことは分かる。
同時に、その願いを理由に誰かの願いを踏みにじることまで見過ごすつもりもない。
その線引きだけは、ひどくはっきりしていた。
「英寿、早く来るのじゃ!」
石段の先から九重の声が飛ぶ。
少し遅れていた英寿が顔を上げる。
「ああ、今行く」
先ほどまで曹操と向き合っていた時とは違う、いつもの声音だった。
英寿は残りの石段を上っていく。
神と英雄。
二人の最初の対話は、勝敗を決めることなく終わった。
互いの持つ力についても、まだほとんど何も知らない。
それでも、相手が何を願い、その願いのために何を選ぶ人間なのか。
その一端だけは、確かに互いへ届いていた。