駒王町で迎えた最初の朝。
英寿は目を覚ますと、しばらく見慣れない天井を眺めていた。
昨夜から使わせてもらっているマンションの一室は、一人で暮らすには十分な広さだった。家具や家電も一通り揃っており、少なくとも日常生活で困ることはなさそうだ。
窓の向こうには、ごく普通の住宅街が広がっている。
通勤へ向かう者。
犬を散歩させている老人。
自転車で走っていく学生。
京都の妖怪屋敷で迎えた朝とは随分違う。
それでも、ここも同じ世界だ。
悪魔が管理する町だと知らなければ、英寿にも普通の日本の街にしか見えなかった。
「……さて」
ベッドから起き上がる。
今日は一誠が駒王町を案内することになっている。
待ち合わせ場所と時間については、昨日のうちに教えてもらっていた。
もっとも、英寿はまだ携帯電話すら持っていない。
遅れたところで連絡する手段がないため、少し早めに出ておくことにした。
この世界へ来た時には、本当に身一つだった。
今では京都の八坂から持たされた日用品があり、駒王町には寝る場所まで出来た。
昨夜マンションへ案内された際には、リアスから当面必要になる分の現金も渡されている。
世界そのものへ手を加えられる男に生活費を渡すというのも妙な話ではあるが、英寿は素直に受け取った。
必要なものを片端から創世の力で生み出しながら生活するつもりはない。
この世界で暮らすなら、この世界のやり方で暮らしてみる。
その方が面白い。
英寿は支度を済ませると、マンションを後にした。
◆
駅前へ着いたのは、待ち合わせ時刻より十分ほど早かった。
広場の端で人の流れを眺める。
ここでは誰も英寿を知らない。
すれ違った女性が何人か振り返ることはあっても、名前を呼ばれることもなければ、写真を求められることもない。
スターとして活動していた頃には珍しくなかった反応が、この世界には最初から存在していなかった。
別に寂しいとは思わない。
むしろ新鮮だった。
誰にも知られていない町を、何者でもない一人の男として歩く。
神になった今となっては、そういう時間の方が珍しいのかもしれない。
「早いな、英寿」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、一誠がアーシア、小猫、ゼノヴィアを連れて歩いてくるところだった。
今日は全員が私服だ。
「お前が遅いんじゃないか?」
「えっ!? 俺は遅れてないぞ!」
一誠が慌てて携帯電話を取り出す。
画面を確認し、本当に時間前であることを確かめると、そのまま英寿へ向けた。
「ほら! まだ十分前!」
「冗談だよ」
「分かりづらいって!」
「一誠先輩は珍しく時間通りです」
小猫が淡々と補足する。
「珍しくは余計だよね、小猫ちゃん!?」
アーシアが困ったように笑い、ゼノヴィアは何が問題なのか分からない様子で首を傾げていた。
英寿はそんな四人を見ながら歩き出す。
「それで、昨日の話じゃお前が案内してくれるんだろ?」
「おう!」
一誠の表情がすぐに明るくなった。
「京都みたいに有名な観光地が山ほどあるわけじゃないけど、俺たちが普段使ってるところなら任せろ。地元民らしい駒王町を見せてやるよ」
「それでいい」
一誠が一瞬だけ黙った。
「……何だ?」
「いや。もっと何か言われると思った」
「案内してもらうのに、最初から文句を言っても仕方ないだろ」
「たまに普通に返されると逆に調子狂うな……」
「俺を何だと思ってるんだよ」
一誠は少し考える。
「たまに人をからかってくる神様」
「だいたい合ってるな」
「否定しろよ!」
五人はそんなやり取りをしながら駅前を離れた。
◆
最初に一誠が選んだのは、駅から少し歩いたところにある商店街だった。
食料品店、衣料品店、書店、飲食店。
学生が立ち寄りやすそうな店から、昔から営業しているらしい小さな店まで様々なものが並んでいる。
「この辺は何でも揃うぞ。食い物も服も本もあるし、駅も近い。学生なら大体ここで何とかなる」
一誠は思った以上に案内役を楽しんでいるらしい。
どの店が安い、どこは量が多い、学生ならどこをよく使うといった情報まで次々と出てくる。
英寿は通りの両側を眺めた。
「住みやすそうだな」
「もうちょっと観光っぽい感想ない?」
「褒めてるんだけどな」
「実際、便利です」
小猫が英寿側につく。
「小猫ちゃんまで……」
京都では寺社や名所を巡った。
だが、その土地で暮らしている者を知りたいなら、こういう場所の方が分かりやすいこともある。
日々どこで食事をして、どこで買い物をして、どんな場所へ遊びに行くのか。
一誠が案内しているのは観光地ではない。
彼自身の生活圏だった。
「やっぱり、表側はほとんど同じだな」
英寿が何気なく口にする。
店へ並んでいる商品も、街の作りも、自分のいた世界で見慣れたものが多い。
「そんなに似てるのか?」
「ああ。だから余計に面白い」
「何が?」
「同じような店が並んで、同じように人が生活してる。それなのに、その裏じゃ悪魔が町を管理してるんだろ?」
「ああ……」
一誠は少しだけ考えるような顔をした。
自分にとっては、もう日常になりすぎているのだろう。
「俺はもう慣れちゃったけどな」
そう言いながら、一誠が少し先の飲食店を指差す。
「あそこ、結構うまいぞ。学生向けだから量も多いし、俺も子供の頃から来てる」
「随分昔から使ってるんだな」
「昔は親と来てたし、中学くらいからは友達とも来るようになってさ。悪魔になってからも、部長たちと――」
一誠の言葉に、英寿の足が僅かに緩んだ。
「悪魔になってから?」
「あ」
一誠もそこで初めて気づいたらしい。
「そうか。英寿にはそこまで話してなかったか」
歩く速度を戻しながら、一誠は自分の胸を指した。
「俺、元は普通の人間なんだよ」
英寿の眉が僅かに上がる。
「人間から悪魔になれるのか」
「上級悪魔は《悪魔の駒》っていうのを使って、人間を自分の眷属悪魔として転生させることが出来るんだ。俺は死にかけたところを部長に助けてもらって、それで悪魔になった」
軽く話しているが、最後の部分だけは少し声音が変わった。
英寿はそれに気づいたものの、何があったのかまで尋ねることはしなかった。
話したいことなら、いずれ本人が話すだろう。
「私もです」
隣を歩いていたアーシアが、控えめに口を開く。
「私も、生まれた時から悪魔だったわけではありません」
「私も転生悪魔だ」
後ろからゼノヴィアも続いた。
英寿は三人を見比べる。
外見だけでは、生まれつきの悪魔なのか、元人間なのかを区別することは出来そうにない。
「思ったより多いんだな」
「部長の眷属は特にな」
一誠が答える。
「もちろん生まれつきの悪魔もいるけど、転生悪魔自体は別に俺たちだけってわけじゃない」
英寿は静かに頷いた。
人間が別の存在へ変わること自体なら、英寿の世界にも例がないわけではない。
自分自身も、人間として生まれながら今では神と呼べる存在になっている。
だが、それが悪魔社会の制度として組み込まれているのは初めて見る仕組みだった。
「英寿の世界には、こういうのないのか?」
「同じものはないな」
英寿は一度考えてから答えた。
「人間じゃなくなった奴なら何人か知ってる。でも、悪魔の眷属として転生する仕組みは初めてだ」
「やっぱり同じ名前でも色々違うんだな」
「そうみたいだ」
それ以上、英寿は誰がどういう経緯で悪魔になったのかを尋ねなかった。
小猫も少し後ろから会話を聞いていたが、自分のことを話そうとはしない。
今は、それでいい。
この世界には、生まれながらの悪魔と、後から悪魔になった者がいる。
今日知るには、それだけで十分だった。
そのまま商店街を進んでいると、前方から子供の泣き声が聞こえてきた。
五歳ほどの少年が、母親らしい女性と一緒に街路樹を見上げている。
高い枝には赤い風船が引っ掛かっていた。
細い紐が枝へ絡まり、風に吹かれるたびに左右へ揺れている。
「風船か」
一誠が見上げる。
「あれくらいなら跳んで取れそうだけど……」
そのあと周囲を見回した。
休日の商店街には人通りが多い。
人間離れした跳躍を見せれば、さすがに目立つ。
「普通の人が見たら驚いてしまいますね」
アーシアも同じことを考えたらしい。
そんな二人の横を、英寿が何も言わず通り過ぎた。
「英寿さん?」
小猫が呼ぶ。
英寿は街路樹の前まで行くと、幹へ手を掛けた。
足場になる箇所を確認し、そのまま普通に登り始める。
「……普通に登るんですね」
小猫が少し意外そうに見上げる。
「ああ。これならそれで取れるからな」
英寿は太い枝へ身体を移し、絡まっていた紐を丁寧に外した。
枝から降りると、泣いていた少年の前へしゃがむ。
「ほら」
「ありがとう!」
少年の顔が一気に明るくなる。
「今度は離すなよ」
「うん!」
母親からも礼を言われ、英寿は軽く会釈して一誠たちのところへ戻った。
一誠が不思議そうに見る。
「英寿なら、もっと簡単に取れたんじゃないか?」
「ああ」
「だったらなんで木に?」
「木に登れば済むから」
それだけだった。
一誠は一瞬黙り、先ほどの木を見る。
昨日の手合わせでもそうだった。
世界そのものへ手を加えられる力があるからといって、英寿は何でもそれで解決するわけではない。
必要なら使う。
必要がなければ使わない。
単純な話なのだろう。
「英寿さんって、思っていたより普通ですね」
小猫が言った。
「それ、褒めてるのか?」
「はい」
「なら受け取っとくよ」
英寿が笑い、一行は再び歩き始めた。
◆
昼前には、町の大きな公園へ移動した。
休日ということもあり、園内には家族連れや散歩を楽しむ者が多い。
午前中いっぱい歩き回っていたため、売店で簡単な昼食を買い、木陰に並んだベンチで休むことになった。
英寿が売店から飲み物を持って戻ると、アーシアがその手元を見た。
「英寿さん、お金は大丈夫なんですか?」
「ああ。昨日、マンションに案内された時にリアスから渡された」
「やっぱりリアス部長が用意してくださったんですね」
「足りなくなったら言えって念まで押されたよ」
英寿は缶を開ける。
アーシアが少し考えるようにしてから、英寿を見る。
「英寿さんなら、お金そのものを作ることも出来るんですよね?」
「まあ、できるな」
あまりにも軽い返事だった。
アーシアが改めて考えると途方もない話なのだが、英寿は気にした様子もなく飲み物へ口をつける。
「でも、今は必要ない。使える金があるなら、それでいいだろ」
「……確かに、そうですね」
「町へ来たばかりの奴が勝手に金を増やし始めたら、リアスだって困るだろうしな」
アーシアが思わず笑った。
「英寿さんなら、お仕事をしてお金を稼ぐことも出来そうですね」
「神様になる前から普通に生活してたんだぞ。働いたことくらいある」
「そうですよね」
アーシアも飲み物へ口をつける。
少しの間、二人で公園の景色を眺めた。
子供たちが芝生の上を走り、その後ろを親が追いかけている。
少し離れた場所では、一誠とゼノヴィアが昼食を買うために並んでいた。小猫はベンチの端で菓子の袋を開けている。
「私も……最初は、自分が悪魔になるなんて考えたこともありませんでした」
アーシアがぽつりと口にした。
先ほど商店街で話したことを思い出していたのだろう。
英寿は横目を向けるだけで、続きを促さなかった。
「でも、今は良かったと思っています」
アーシアの声音は穏やかだった。
「悪魔になったから一誠さんやリアス部長たちと一緒にいられます。いろいろなことがありましたけど……今の私は、とても幸せです」
「そうか」
英寿は小さく頷いた。
「なら、それでいいんじゃないか」
「はい」
アーシアが柔らかく笑った。
それだけで話は終わった。
人間だったこと。
悪魔になったこと。
それが本人にとってどんな意味を持つのかは、英寿が決めることではない。
本人が今を幸せだと言うのなら、それ以上に必要な答えもないだろう。
「何の話してたんだ?」
ちょうどそこへ一誠とゼノヴィアが戻ってきた。
一誠が二人の顔を交互に見る。
アーシアは少し考えると、珍しく悪戯っぽく微笑んだ。
「内緒です」
「えっ、何で!?」
「別に一誠さんに言えないような話ではありませんよ」
「それ言われると余計気になるんだけど!」
「一誠先輩、声が大きいです」
「あっ」
小猫に指摘され、一誠は周囲の家族連れへ申し訳なさそうに頭を下げた。
英寿はその様子を眺めながら、残っていた飲み物を口へ運んだ。
京都にいた時とは違う。
駒王町へ来てからは、悪魔という種族だけではなく、一誠たち自身の生活を知る機会が増えている。
表から見ただけでは分からないものがある。
それは、この町そのものと同じなのかもしれない。
◆
午後。
一誠が次の目的地として選んだ場所を見て、英寿は入口の看板を見上げた。
「ここも案内に入るのか?」
「入る!」
目の前にあるのはゲームセンターだった。
「俺たちが普段どこで遊んでるか知るのも、町を知るってことだろ?」
「まあ、筋は通ってるな」
一誠が得意げに胸を張る。
「だろ?」
店内へ入ると、電子音と音楽が一気に耳へ押し寄せてきた。
休日ということもあり、学生の姿が多い。
一誠は迷うことなく奥へ進み、二台並んだレースゲームの前で足を止めた。
「せっかくだし勝負しようぜ」
「昨日も戦ったばかりだろ」
「今日はゲームだから関係ない!」
「元気だな」
英寿は苦笑しながらも、隣の筐体へ座った。
一誠は何度も遊んでいるらしく、ゲームが始まった瞬間から迷いなく車を走らせる。
一方、英寿は最初の一周を操作の確認へ使っていた。
「これは勝ったな!」
一誠が余裕たっぷりに笑う。
その余裕が続いたのは、二周目までだった。
「……あれ?」
ミラーに映っていた英寿の車が、少しずつ近づいてくる。
コーナーへの入り方。
加速するタイミング。
相手車両の位置。
一周ごとに走り方が変わっていた。
「ちょっ、覚えるの早くない!?」
「そうか?」
「そうだよ!」
最終周。
一誠が最後のコーナーへ入る。
後方にいた英寿の車が、僅かに空いた内側へ滑り込んだ。
「そこ入る!?」
ゴール。
表示された順位は、英寿が一位。
一誠が二位。
「嘘だろ……」
一誠は画面と英寿を交互に見た。
「お前、これ初めてなんだよな?」
「ああ」
「なんで最後にあそこ入れるんだよ」
「空いてたから」
「いや、そうだけど!」
英寿は楽しそうに席を立つ。
一誠は悔しそうにしながらも、すぐに別のゲームを指差した。
「次! 今度はあれ!」
「まだやるのか?」
「このまま終われるか!」
次は射撃ゲーム。
その次は対戦格闘ゲーム。
経験の差で一誠が勝つこともあったが、回数を重ねるほど英寿は操作へ慣れていく。
最終的には、ほとんど互角だった。
「……戦闘より疲れた気がする」
「さすがにそれは言いすぎだろ」
筐体へ身体を預ける一誠を見て、英寿が笑う。
アーシアも楽しそうに二人を眺め、小猫はいつの間にか勝敗数を数えていた。
ゼノヴィアはというと、対戦には参加せず、少し離れたクレーンゲームを真剣な顔で観察している。
英寿も店内を歩いている途中で、別の筐体へ視線を止めた。
透明なケースの中に、白い狐を模したぬいぐるみが入っている。
「……これ、取ってみるか」
「気に入ったのか?」
一誠が横から覗き込む。
「京都へ戻る時の土産にちょうどいい」
「ああ、九重ちゃんか」
英寿は硬貨を入れた。
一度目でアームの動きを確認する。
二度目でぬいぐるみの向きを変える。
三度目で出口側へ寄せ、さらに一度動かしたところで白狐のぬいぐるみが取り出し口へ落ちた。
「これでいいな」
英寿はぬいぐるみを取り出し、少し乱れた毛並みを整える。
「こういうのまで上手いんだな」
「何回か掛かっただろ」
「数回で取れるなら十分だって」
その横で、ゼノヴィアが今の動きをじっと見ていた。
「英寿」
「ん?」
「これには技術が必要なのか?」
「景品の形とアームの癖を見て、どこを動かすか考えるくらいだな」
「なるほど」
ゼノヴィアの目が鋭くなる。
「やってみよう」
一誠が嫌な予感を覚えたように近づく。
「ゼノヴィア、先に言っとくけど、ボタンを強く押してもアームの力は変わらないからな」
「分かっている」
「じゃあ何でそんなに指へ力入ってるんだよ!」
アーシアが声を上げて笑い、小猫も僅かに肩を揺らした。
英寿は白狐のぬいぐるみを片腕へ抱え、少し離れたところからその騒ぎを眺める。
誰とも戦わない。
町を歩き、飯を食べ、ゲームで遊ぶ。
この世界へ来てから何かと騒動が続いていたことを考えれば、こういう一日も悪くない。
◆
ゲームセンターを出て間もなく、一誠の携帯電話が鳴った。
「部長だ」
画面に表示された名前を見た瞬間、一誠の表情が僅かに変わる。
「はい、部長」
最初はいつも通りだった。
だが、相手の話を聞いているうちに姿勢が少しずつ正されていく。
「はい。今みんな一緒です。英寿もいます」
一誠が英寿へ一度視線を向ける。
「……分かりました。このまま部室へ向かいます」
通話が切れた。
「何かあったんですか?」
アーシアが心配そうに尋ねる。
「事件とかじゃないみたいだけど、部室に集まってほしいって。先生も来てるらしい」
「アザゼルか」
「多分。何か話があるんだと思う」
つい先ほどまでゲームの勝敗で騒いでいた一誠の表情から、少しだけ気楽さが消えていた。
英寿は理由を問い詰めない。
「じゃあ行こう」
一行は駒王学園へ向かって歩き始めた。
◆
オカルト研究部の部室へ着くと、リアスと朱乃はすでに中で待っていた。
木場も戻っており、ソファの近くで資料へ目を通している。
ロスヴァイセも別の書類を手にしていた。
ギャスパーもいる。
昨日英寿と初めて顔を合わせた時とは違い、今日はいつもの部室だからか、表情にも少し余裕があった。
「来たな」
リアスの机の近くにはアザゼルも立っていた。
いつもの軽い雰囲気を完全に失っているわけではない。
だが、英寿たちが入った瞬間に向けられた目は、普段より少し真面目だった。
「先生、何かあったんですか?」
一誠が尋ねる。
「今すぐ敵が攻めてくるような話じゃねぇ。そこは安心しろ」
アザゼルが片手を振る。
一誠の肩から僅かに力が抜けた。
全員が席につくのを待って、リアスが机の上に置かれた書類へ手を伸ばした。
「まずは学校のことから話しておくわ。修学旅行も終わったし、これから学園祭の準備が本格的に始まるの」
「学園祭か」
英寿が反応する。
「うち、結構大きくやるんだぜ」
一誠が言う。
「昨日来たばかりだけど、随分忙しい時期に来たみたいだな」
「学生は色々あるんだよ」
「お前が言うと説得力が薄いな」
「何でだよ!」
いつもの調子で返した一誠だったが、リアスが別の資料へ手を伸ばしたところで空気が変わった。
「それと――こっちが、あなたたちには重要な話よ」
小猫が持っていた菓子を置く。
ゼノヴィアも姿勢を正した。
木場は読んでいた資料から顔を上げ、ギャスパーもリアスの方へ身体を向けた。ロスヴァイセも書類を閉じる。
朱乃の表情からも、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
リアスは自分の眷属たちを見渡した。
「次のレーティングゲームについて、正式な連絡が来たわ」
一誠の目が変わる。
「相手は――サイラオーグ・バアル眷属よ」
その名前が出た瞬間、部室の空気が引き締まった。
「……やっぱり、サイラオーグさんと」
一誠が低く呟く。
英寿にとっては初めて聞く名前だった。
だが、一誠だけではない。
木場。
小猫。
ゼノヴィア。
朱乃。
ロスヴァイセ。
そしてギャスパーまで。
その場にいる者たちの反応を見るだけでも、ただの対戦相手ではないことくらいは分かった。
「強いのか?」
英寿が隣の一誠へ尋ねる。
一誠は冗談を一切混ぜなかった。
「滅茶苦茶強い」
「へえ」
英寿の目が僅かに細くなる。
リアスが資料を一枚、机の中央へ置いた。
「サイラオーグ・バアル。大王家バアルの出身で、若手悪魔の中でも最上位の一人よ」
そこに写っているのは、鍛え上げられた巨躯を持つ青年だった。
「ただし、生まれつき魔力にはほとんど恵まれなかった」
「それで最上位なのか?」
「ええ」
リアスは静かに頷く。
「足りない魔力を補うために、自分の身体を徹底的に鍛え続けた人よ。それだけで、ここまで登ってきた」
英寿は写真をしばらく眺めた。
生まれ持ったものが足りない。
なら、別のものを積み上げる。
言葉にするのは簡単だ。
それを実際に続け、悪魔社会の上位まで辿り着いた。
「面白い奴だな」
ぽつりと漏れた言葉に、一誠が英寿を見る。
英寿の顔には、明らかな興味が浮かんでいた。
「英寿がそう言うと思った」
「何だよ」
「いや。そういう、自分でめちゃくちゃ鍛えて強くなった人、好きそうだなって」
「嫌いじゃないな」
それだけ答え、英寿は再び資料へ目を戻した。
アザゼルが腕を組みながら、リアスの眷属たちを見回す。
「相手が相手だ。京都から戻ったばっかりで悪いが、ここからは遊んでばかりもいられねぇぞ」
「分かってます」
一誠が答えた。
先ほどゲームセンターで騒いでいた時とは、もう顔つきが違う。
「サイラオーグさんに簡単に勝てるなんて思ってません。でも、やれることは全部やります」
リアスがその返答へ静かに頷いた。
英寿は何も言わなかった。
昨日、一誠は自分へ言った。
次は今日よりちゃんと食らいつく、と。
強くなりたいと言ったのも一誠自身だ。
なら、この先どんな強敵を前にして、何を見て、どう動くのか。
英寿が先回りして答えを教える必要はない。
「レーティングゲームっていうのは?」
英寿が尋ねた。
「悪魔同士が眷属を率いて行う公式戦よ」
リアスが簡潔に答える。
「形式やルールは試合によって変わるけれど、私たちにとっては単なる模擬戦とは違う。主だけではなく、眷属全体の力が問われる場でもあるわ」
「なるほど」
英寿はリアスの周囲へ目を向ける。
京都では一誠一人と手合わせをした。
しかし、リアスの眷属が一つの集団としてどう戦うのかは、まだ知らない。
そして、その相手になるのがサイラオーグという男らしい。
今は、それだけ覚えておけばいい。
リアスはサイラオーグ眷属の資料を机へ広げ、相手の構成やこれまでの戦い方について説明を始めた。
一誠たちもそれぞれ資料を手に取る。
木場は過去の試合記録へ視線を走らせ、ゼノヴィアは相手側の前衛を確認する。小猫も普段より真剣な表情で資料を読み、ロスヴァイセは戦力構成を整理していた。
ギャスパーも、黙ったままではあるが資料から目を逸らしていない。
誰か一人だけの戦いではない。
リアスの眷属全員で挑む戦いなのだ。
英寿はその会話へ無理に口を挟まず、少し離れた場所から静かに耳を傾けた。
朝から歩いた駒王町は、表向きにはごく穏やかな町だった。
人々が買い物をし、家族が公園で休日を過ごし、学生たちがゲームセンターで遊んでいる。
一誠たちもその中で笑い、騒ぎ、ごく普通の時間を過ごしていた。
けれど、彼らは同時に悪魔でもある。
悪魔の社会を持ち、眷属として戦い、その強さを競う場所まで存在している。
今日一日で、英寿はまた少しだけこの世界を知った。
人間から悪魔へ転生する者たち。
悪魔たちが眷属と共に戦う《レーティングゲーム》。
そして、生まれ持った力に恵まれず、それでも自分自身を鍛え続けて若手最上位まで登った男。
英寿は机の上に置かれた一枚の資料へ、もう一度視線を落とした。
サイラオーグ・バアル。
どんな男なのか。
写真と説明だけでは、まだ分からない。
英寿の口元に、ごく僅かな笑みが浮かんだ。
その答えを知る機会は、そう遠くないところまで来ていた。