駒王町で迎えた最初の朝、英寿は待ち合わせの時間より少し早く宿を出た。
昨夜リアスたちに用意してもらった宿泊場所は、駒王学園からも駅前からもそれほど離れていない。京都へ突然現れた時には本当に身一つだったが、八坂から最低限の生活用品を持たされ、こちらへ来てから必要になる金についてもリアスが当面の分を用意してくれていた。
世界そのものへ手を加えられる男の生活費を悪魔が心配しているというのも妙な話だったが、英寿自身は特に不満を感じていない。必要な物まで創世の力で片端から生み出すつもりはなかったし、この世界で暮らすなら、この世界のやり方へある程度合わせるのも悪くないと思っていた。
駅へ向かう道には、通勤や買い物へ出る人々が行き交っている。道路を走る車も、建ち並ぶ店も、英寿の知る日本とほとんど変わらない。京都でも感じたことだが、この世界は表面だけを見れば、自分が別の世界へ来たことを忘れそうになるほどよく似ていた。
違うのは、その日常の裏側だ。
悪魔が町を管理し、妖怪が土地を治め、天使や堕天使まで実在している。それを知らずに行き交う人々を眺めていると、同じような街並みの下に全く別の世界が広がっていることが妙に面白かった。
駅前広場へ着いたところで、英寿は足を止めた。ここでは誰も自分を知らない。すれ違った女性が何人か振り返ることはあっても、それ以上の反応はない。名前を呼ばれることもなければ、写真を求められることもない。かつてスターとして活動していた頃なら珍しくなかったそうした反応が、この世界には最初から存在していなかった。
それを寂しいとは思わない。
今はただ、知らない町へやって来た一人の男として歩いている。それはそれで新鮮だった。
「早いな、英寿」
背後から聞こえた声に振り返ると、一誠がアーシア、小猫、ゼノヴィアを連れて歩いてくるところだった。今日は全員が私服で、京都で見た修学旅行中の姿とは少し印象が違う。
「お前が遅いんじゃないか?」
英寿が何気なく言うと、一誠は慌てて携帯電話を取り出した。
「いや、約束の十分前だから! 俺は遅れてないぞ!」
画面をこちらへ向け、本当に時間前であることを示してくる。
英寿はその必死さがおかしくなって笑った。
「冗談だよ」
「分かりづらいって……」
一誠が肩を落とす横で、小猫が淡々と補足した。
「一誠先輩は珍しく時間通りです」
「珍しくは余計だよね、小猫ちゃん?」
「それで、昨日の話じゃ、お前が案内してくれるんだろ?」
英寿が話を戻すと、一誠の表情がすぐに明るくなった。
「おう。京都みたいに観光地が山ほどある町じゃないけど、俺たちが普段使ってるところなら任せろ。地元民らしいところを見せてやるよ」
「それでいいよ」
予想より素直な返事だったのか、一誠は一瞬だけ言葉を止めた。
「何だ?」
「いや……もっと何か言われると思った」
「案内してもらうのに、最初から文句を言っても仕方ないだろ」
英寿はそう言って歩き始め、一誠も少し遅れて隣へ並んだ。
「たまに普通に返されると逆に調子狂うな……」
「俺を何だと思ってるんだよ」
アーシアが小さく笑いながら二人の後を追い、小猫とゼノヴィアもそれに続いた。
◆
最初に一誠が案内したのは、駅から歩いて十分ほどの場所にある商店街だった。
食料品店や衣料品店、書店、喫茶店などが並び、午前中から通りにはそれなりの人がいる。一誠にとっては普段から利用している生活圏らしく、店の名前を挙げながら、学生がよく使う場所や値段の安い店を説明していった。
寺社や名所を巡った京都とは随分と違うが、英寿は退屈そうにはしていなかった。観光地だけを見ても、その土地で暮らしている人間の日常までは分からない。一誠が見せているのは、駒王町で生活している者にとっての町そのものだった。
「この辺は何でも揃うぞ。食料品もあるし、服も本もあるし、駅も近い」
一誠が少し誇らしげに通りを示す。
英寿は左右の店を一度見回した。
「住みやすそうだな」
「何かもうちょっと観光っぽい感想ない?」
「褒めてるんだけどな」
「分かってるけど!」
一誠は不満そうだったが、小猫は英寿の意見に同意したらしい。
「実際、便利です」
「小猫ちゃんまで……」
英寿は少し笑いながら歩き続けた。
店先へ並んでいる品物も、自分の世界で見慣れたものが多い。食文化や流行に多少の違いはあるかもしれないが、少なくとも別世界へ来たからといって何もかもが未知になっているわけではなかった。
「やっぱり表側はほとんど同じなんだな」
「英寿の世界と?」
「ああ。店の作りも、売ってる物も大して変わらない。それなのに、こっちじゃ悪魔が町を管理してる」
一誠は自分たちにとって当たり前になっている事実を改めて指摘され、少しだけ考えるような顔をした。
「俺はもう慣れちゃったけどな」
そう答えた一誠は、少し先にある飲食店を見つけると、その店を指差した。
「そうだ、あそこ結構うまいぞ。学生向けで量も多いし、俺も子供の頃から来てるんだ。昔は親に連れてきてもらってたけど、中学くらいからは友達とも来るようになってさ。悪魔になってからも、たまに部長たちと――」
そこまで話したところで、隣を歩いていた英寿の足が僅かに緩んだ。
「悪魔になってから?」
一誠は一度きょとんとした。
自分にとってはすでに当たり前になりすぎていて、何を不思議がられたのかすぐには分からなかったらしい。数秒遅れて「ああ」と声を上げる。
「そうか。英寿にはそこまで話してなかったか。俺、生まれた時から悪魔だったわけじゃないんだよ。元は人間」
英寿の眉が僅かに上がった。
「人間から悪魔になれるのか」
「まあな。部長の眷属になった時に――」
「私もです」
隣を歩いていたアーシアが、控えめに会話へ入った。
英寿がそちらを見ると、アーシアは小さく頷いた。
「一誠さんと同じで、私も生まれた時から悪魔だったわけではありません」
「へえ」
英寿は二人を見比べた。少なくとも外見から、それを見分けることは出来そうにない。これまで一誠やアーシアと接していても、生まれつきの悪魔ではないと推測出来るようなものは何もなかった。
「人間を悪魔に変える仕組みがあるってことか」
「そういうこと。上級悪魔は『悪魔の駒』っていうのを使って眷属を転生させられるんだ。俺たちは部長の眷属だから、悪魔になってからは部長の下で動いてる」
説明しながら、一誠は自分の胸元を軽く指差した。
英寿はそこでようやく、これまで何度か耳にしていた「眷属」という言葉が、単純な配下や仲間というだけではないことを理解した。
「なるほど。それで眷属悪魔か」
「そういうこと」
「一誠先輩の場合、少し事情もありますけど」
アーシアが言うと、一誠は僅かに困ったような顔をした。
「まあ、その辺はまた今度でいいだろ」
英寿は一誠の表情を見て、それ以上詳しく尋ねなかった。無理に聞き出すような話でもない。
「他にも元人間はいるのか?」
「いるぞ。ゼノヴィアもそうだし」
一誠が何気なく言うと、少し後ろを歩いていたゼノヴィアが頷いた。
「私も転生悪魔だ」
「思ったより多いんだな」
英寿が率直に感想を口にすると、一誠は苦笑した。
「部長の眷属は特にそうかもな。生まれつき悪魔の人も当然いるけど、転生悪魔も珍しくはないよ」
小猫はその会話を聞いていたが、自分のことまで話そうとはしなかった。英寿も全員の出自を一度に聞き出そうとはしない。この世界には、生まれつきの悪魔と、後から悪魔へ転生した者がいる。今はそれが分かっただけで十分だった。
「英寿の世界には、こういうのないのか?」
一誠が尋ねる。
「ごく稀に、そういう奴はいる。でも、悪魔の眷属として転生するっていうのは初めてだな」
英寿自身が人間から神へ至り、道長のように人間の身へ異質な因子を宿した者や、大智のように人間とは異なる存在へ変わった者も見ている。しかし、それが一つの種族社会の制度として組み込まれているという話は、英寿にとっても初めてだった。
「やっぱり俺たちの悪魔とは別物なんだな」
「ああ。同じ名前でも、かなり違うみたいだ」
一誠は納得したように頷き、一行は再び歩き始めた。
それから少し進んだところで、前方から子供の泣き声が聞こえてきた。
英寿が視線を向けると、五歳ほどの男の子が商店の前で泣いている。その傍らでは母親らしい女性が困った様子で頭上を見上げていた。
理由はすぐに分かった。
街路樹の高い枝へ、赤い風船が引っ掛かっている。紐が細い枝へ絡まり、風に煽られるたびに左右へ揺れていた。
「あれくらいなら跳んで取れそうだけど……人目があるしな」
一誠は木の高さを見上げてから、周囲の通行人へ視線を巡らせた。
「普通の人が見たら驚いてしまいますよね」
アーシアも困ったように頷く。
そんな二人の横を、英寿が何も言わずに通り過ぎた。
街路樹の幹へ手を掛け、足場になりそうな部分を確認すると、そのまま普通に登り始める。
小猫が少し意外そうに見上げた。
「普通に登るんですね」
「これならそれで取れるからな」
英寿はそれだけ返し、太い枝へ身体を移した。
本気で身体能力を使えば、英寿自身も一息で届く高さだった。創世の力を使うなら、風船そのものを手元へ戻すことも出来る。しかし、そのどちらも必要ではない。
絡まった紐を丁寧に外し、枝を傷めないようにしながら風船を手に取る。ほどなくして地面へ降りた英寿は、泣いていた少年の前へしゃがんだ。
「ほら」
「ありがとう!」
少年はすぐに笑顔になり、風船をしっかり握り直した。
「今度は離すなよ」
「うん!」
母親からも礼を言われ、英寿は軽く会釈して一誠たちのところへ戻った。
一誠は少し不思議そうに英寿を見る。
「あれくらいなら、神様の力を使えばもっと早かったんじゃないのか?」
「ああ。でも、あれなら木に登れば済むだろ」
英寿の答えは簡単だった。
小猫が先ほどの街路樹へ一度目を向けてから、英寿を見る。
「英寿さんって、思ったより普通ですね」
「そうか?」
「神様なのに、普通に木へ登って風船を取っていました」
英寿も一度だけ木を振り返り、少し笑った。
「それで済むことなら、それでいいだろ」
小猫はその言葉を少し考えたあと、小さく頷いた。
「……そうですね」
昨日の手合わせでも、世界を変える力は使わなかった。曹操の槍を相手にした時も、最初の一撃は自身の技術だけで捌いた。使える力と、使う必要のある力は別なのだろう。
一誠も少しずつ、その感覚を理解し始めていた。
◆
昼前、一行は町の公園へ移動した。
休日ということもあり、広い園内には家族連れや散歩をする人々が多い。売店で簡単な昼食を買い、木陰に並んだベンチで休むことになった。
英寿が飲み物を買って戻ると、アーシアがその手元へ視線を向けた。
「リアス部長からいただいたお金ですか?」
「ああ。足りなくなったら言えって念を押されたよ」
英寿が缶を開けながら答えると、アーシアは少し笑った。
「英寿さんが自分で作ってしまわないように、ですよね」
「そこまで何でも作るつもりはないんだけどな」
英寿も苦笑した。
「でも、リアスが気にする理由は分かるよ。町へ来たばかりの奴が勝手に金を増やし始めたら、普通は止めたくなるだろ」
「英寿さんなら、お仕事をしてお金を稼ぐことも出来そうですね」
「必要ならそうするさ」
アーシアが少し意外そうに目を瞬いた。
「神様も働くんですか?」
純粋な疑問だったらしい。
英寿は少しだけ笑った。
「神様になる前から普通に生活してたんだぞ。働いたことくらいあるよ」
言われてアーシアも、自分の質問のおかしさに気づいたようだった。
「そうですよね。すみません」
「謝ることじゃない」
英寿は特に気にした様子もなく、飲み物へ口をつける。
先ほど商店街で聞いた話もあり、英寿はアーシアへ何となく視線を向けた。
「悪魔になったことは、後悔してる?」
突然の問いに、アーシアは少しだけ驚いた顔をした。それでも、答えに長く迷うことはなかった。
「いいえ。一誠さんやリアス部長たちと出会えて、今はとても幸せです」
穏やかだが、はっきりした声だった。
英寿はそれを聞き、静かに頷いた。
「なら、良かったな。人間だったとか、今は悪魔だとか、それでお前自身まで別人になったわけじゃないだろ」
英寿にとっては、ごく自然な考えだった。
人間だった存在が、何かをきっかけに別のものへ変わる。それ自体なら英寿にも覚えがあるし、自分自身もその例外ではない。重要なのは、何と呼ばれる存在になったかより、その後本人がどう生きているかだった。
アーシアは少しだけ目を伏せた。
かつて彼女は、その身に宿った力によって聖女と呼ばれ、その後は同じ力を理由に魔女と呼ばれた。周囲が付ける名前一つで、自分を見る目が大きく変わってしまった経験がある。
だからこそ、英寿の何気ない言葉は思った以上に心へ残った。
「……はい。ありがとうございます」
顔を上げたアーシアは、柔らかく笑っていた。
「礼を言われるようなことは言ってないよ」
英寿も軽く笑った。
ちょうどそこへ、一誠とゼノヴィアが昼食を持って戻ってきた。
二人の間に流れていた穏やかな空気へ気づいたのか、一誠が首を傾げる。
「何の話してたんだ?」
アーシアは少し考えてから、珍しく悪戯っぽく微笑んだ。
「内緒です」
「えっ、何で?」
一誠の声が少し大きくなる。
すぐに小猫が冷静に注意した。
「一誠先輩、周りの人が見ています」
「あっ」
一誠は慌てて声を落とし、近くの家族連れへ申し訳なさそうに頭を下げた。
「別に一誠さんに言えないような話ではありませんよ」
アーシアが笑いながら補足すると、一誠もそこまで言われれば、それ以上しつこく聞くつもりはないらしい。
「なら、まあいいけど」
そう言いながらベンチへ腰を下ろした。
京都にいた時とは違い、駒王町へ来てからは一誠たち自身の過去や日常を知る機会が増えている。表から見ただけでは分からないものがあるという点では、この町そのものと似ているのかもしれなかった。
◆
午後、一誠が次に選んだのはゲームセンターだった。
入口の前で英寿が看板を見上げる。
「ここも案内に入るのか?」
「俺たちが普段どこで遊んでるか知るのも、町を知るってことだろ?」
一誠なりには筋の通った理屈だった。
英寿は店内から聞こえる電子音へ耳を傾け、素直に頷いた。
「それもそうか」
「今日は妙に素直だな」
「お前、俺を何だと思ってる?」
一誠は少し考えた。
「たまに人のことをからかってくる奴」
英寿は一瞬だけ黙ったあと、苦笑した。
「そこは否定しづらいな」
一誠も笑い、それ以上は何も言わなかった。
店内へ入るなり、一誠は対戦型のレースゲームへ英寿を連れていった。
「せっかくだし勝負しようぜ」
「昨日も戦ったばかりだろ」
「今日はゲームだから関係ない!」
「元気だな」
英寿も断る理由はなく、隣の筐体へ座った。
一誠は何度も遊んでいるらしく、スタート直後から迷いなく操作していく。一方の英寿は初めて触るゲームということもあり、最初の一周は操作感を確かめることへ使っていた。
序盤は一誠が大きく先行した。
「これは勝ったな!」
余裕があったのは二周目までだった。
英寿は操作へ慣れるにつれてコーナーへの入り方や加速のタイミングを変え、少しずつ差を縮めていく。最終周には一誠のすぐ後ろまで追いつき、最後のコーナーで空いた内側へ車体を滑り込ませた。
画面に表示された順位は英寿が一位、一誠が二位だった。
「嘘だろ!?」
一誠は画面と英寿を交互に見る。
「お前、これ初めてなんだよな?」
「ああ」
「何で最後にあそこ入れるんだよ!」
「空いてたから。勝負なんだから、空いてるなら使うだろ」
英寿は楽しそうに席を立った。
「覚えるの早すぎるんだよ……」
一誠は悔しそうだったが、それで諦める気はないらしい。
次は射撃ゲームへ移り、その次は対戦格闘ゲームへ移った。経験の差で一誠が勝つ場面もあったものの、英寿は回数を重ねるほど操作を覚え、最終的にはほとんど互角まで追いついてしまった。
「戦闘より疲れた気がする……」
「さすがにそれは言いすぎだろ」
一誠が筐体へ身体を預けるのを見て、英寿が笑う。
アーシアも楽しそうに二人を眺め、小猫はどちらが何勝したのかをいつの間にか数えていた。
店内を歩いている途中、英寿はクレーンゲームの景品棚へ視線を止めた。白い狐を模したぬいぐるみが置かれている。
「これ、取ってみるか」
一誠が隣から覗き込む。
「気に入ったのか?」
「京都へ戻る時の土産にちょうどいい」
それ以上詳しくは言わず、英寿は硬貨を入れた。
最初の一回でアームの動きを確かめ、二度目で景品の向きを変え、三度目で出口側へ寄せる。さらに一度動かしたところで、白狐のぬいぐるみが取り出し口へ落ちた。
英寿はそれを取り出し、少し乱れた毛並みを軽く整える。
「これでいいな」
一誠が感心したように見ている。
「こういうのも上手いんだな」
「何回か掛かっただろ」
「数回で取れるなら十分だって」
その横では、ゼノヴィアが別の筐体を興味深そうに眺めていた。
「これには技術が必要なのか?」
「景品の形とアームの癖を見て、どこを動かすか考えるくらいだな」
英寿が説明すると、ゼノヴィアは真剣な顔で頷いた。
「なるほど。やってみよう」
一誠が何かを察したように後を追う。
「ゼノヴィア、先に言っとくけど、ボタンを強く押してもアームの力は変わらないからな」
「分かっている」
「じゃあ何でそんなに指へ力入ってるんだよ!」
アーシアが声を上げて笑い、小猫も僅かに肩を揺らした。
英寿は白狐のぬいぐるみを片腕へ抱え、その騒ぎを少し離れたところから眺めた。誰とも戦わず、町を歩き、食事をし、ゲームで遊ぶ。この世界へ来てから何かと騒動が続いていたことを考えれば、こういう一日も悪くない。
もっとも、英寿自身も、このまま何事もなく日々が続いていくとは考えていなかった。
◆
ゲームセンターを出た直後、一誠の携帯電話が鳴った。
画面へ表示された名前を見た瞬間、一誠の表情が少し変わる。
「部長だ」
電話へ出ると、最初は普段通りだった一誠の声も、相手の話を聞いているうちに少しずつ真面目になっていった。
「はい。分かりました。今みんな一緒です。英寿もいます。……じゃあ、このまま部室へ向かいます」
通話を終える。
アーシアが心配そうに尋ねた。
「何かあったんですか?」
「事件とかじゃないみたいだけど、部室に集まってほしいって。先生も来てるらしい」
「アザゼルか?」
英寿の問いに、一誠が頷いた。
「多分。何か話があるんだと思う」
つい先ほどまでゲームの勝敗で騒いでいた一誠の表情から、少しだけ気楽さが消えていた。
英寿は理由を問い詰めることなく、駒王学園のある方角へ身体を向けた。
「じゃあ行こう」
一誠たちも頷き、揃って歩き始めた。
◆
オカルト研究部の部室へ着くと、リアスと朱乃はすでに中で待っていた。
リアスの机には何枚かの書類が並び、その近くにはアザゼルもいる。いつもの軽い雰囲気を完全に失っているわけではないものの、英寿たちが入ってきた時に向けられた目は、昨日までとは少し違っていた。
「来たな」
「先生、何かあったんですか?」
一誠が尋ねると、アザゼルは片手を振った。
「今すぐ敵が攻めてくるような話じゃねぇ。そこは安心しろ」
一誠が少しだけ肩の力を抜いた。
全員が席につくのを待って、リアスが机の上の書類へ手を置く。
「まずは学校のことから話しておくわ。修学旅行も終わったし、これから学園祭の準備が本格的に始まる。あなたたちにも色々と手伝ってもらうことになると思う」
「学園祭か」
英寿が聞き慣れた言葉へ反応する。
一誠はすぐに頷いた。
「うち、結構大きくやるんだぜ」
「昨日来たばかりだけど、随分忙しい時期に来たみたいだな」
「学生は色々あるんだよ」
一誠が言う。
英寿も軽く笑ったが、リアスの表情を見る限り、本題が別にあることは分かっていた。
「それと、こっちがあなたたちには重要な話ね」
リアスが別の書類へ手を伸ばした。
その瞬間、一誠たちの空気が変わった。小猫は食べていた菓子を置き、ゼノヴィアも姿勢を正す。先ほどまで学園祭の話へ普段通り反応していた一誠も、今は真剣な目でリアスを見ている。
英寿は何も言わず、その変化を眺めていた。
リアスは全員を見回したあと、静かに告げる。
「次のレーティングゲームについて正式な連絡が来たわ。相手はサイラオーグ・バアル眷属よ」
部室の空気が引き締まった。
英寿にとっては初めて聞く名前だったが、一誠たちの反応を見るだけでも、その人物がただの対戦相手ではないことは分かる。
「やっぱり、サイラオーグさんと……」
一誠が呟いた。
英寿は隣へ視線を向ける。
「強いのか?」
「滅茶苦茶強い」
一誠は冗談を一切混ぜなかった。
リアスも静かに続ける。
「若手悪魔の中でも、サイラオーグは間違いなく最上位の一人よ。バアル家の出身でありながら、生まれつき魔力にはほとんど恵まれなかった。その不足を補うために、自分の身体を徹底的に鍛え上げてきた人よ」
英寿の目が少しだけ細くなる。
「魔力が足りないから、自分で鍛えたのか」
「ええ。簡単に言えばそういうことになるわ。ただ、彼の努力を『鍛えた』の一言で済ませるのは失礼なくらいだけれど」
「面白い奴だな」
英寿の声には、素直な興味があった。
生まれ持ったものが足りないなら、別のものを積み上げる。口で言うだけなら簡単だが、それでこの世界の上位へ食い込むほど強くなったというのなら、どんな人物なのか気になるのも当然だった。
リアスはそんな英寿の表情を見て、少し考えるようにしてから口を開いた。
「英寿。せっかくだし、あなたもレーティングゲームを観戦してみる?」
「俺が?」
「ええ。レーティングゲームは悪魔同士で行う公式戦よ。あなた、この世界の悪魔がどんなふうに戦うのかには興味があるでしょう?」
英寿は机の上に広げられた資料へ視線を落とした。
サイラオーグという男そのものにも興味がある。それに、一誠たちが普段どのような規則の中で力を競い、自分たちの強さを示しているのかもまだ知らない。
「そうだな。見せてもらえるなら、見てみたい」
「なら決まりね」
リアスは素直に頷いた。
一誠はその横で、ほんの少しだけ複雑そうな顔をしている。
「英寿に見られるのか……何か急に緊張してきた」
「昨日俺と戦った時よりは気楽だろ」
「観客席から見られてる方が別の緊張あるんだよ」
一誠が苦笑すると、英寿も軽く笑った。それ以上からかうことはせず、リアスが再び広げた資料へ意識を戻す。
アザゼルは腕を組みながら、一誠へ視線を向けた。
「京都で英寿とやった手合わせも、ちょうどいい経験になったかもな」
一誠はその言葉を聞き、自分の右手へ目を落とした。
昨日、何度力を増幅しても、英寿には簡単に届かなかった。マグナムでは自分の動く場所そのものを誘導され、ブーストへ変わってからは力任せに攻めるたびに、その勢いを利用された。出力を増やすだけでは届かないという事実を、嫌というほど身体で覚えたばかりだった。
「……はい」
一誠は顔を上げた。
「サイラオーグさんに簡単に勝てるなんて思ってません。でも、やれることは全部やります」
リアスはその返答へ静かに頷いた。
英寿も口を挟まなかった。強くなりたいと言ったのは一誠自身であり、次はもっと食らいつくと言ったのも彼自身だ。ならば今度は、自分ではない強敵を前にして、一誠が何を見て、どんな選択をするのかを見るだけだった。
リアスはそのままサイラオーグ眷属の資料を広げ、ゲームへ向けた話を始めた。相手の眷属構成やこれまでの戦い方について説明が続き、一誠たちもそれぞれ真剣に耳を傾けている。
英寿も邪魔をすることなく、その会話を聞いていた。
朝から歩いた駒王町は、表向きにはごく穏やかな町だった。商店街では人々が買い物をし、公園では家族が休日を過ごし、ゲームセンターでは学生たちが遊んでいる。英寿自身もその中へ混じり、この世界へ来てから初めてと言っていいほど、何事も起こらない時間を過ごした。
だが、そんな日常を送る一誠たちは同時に悪魔でもあり、その社会の中では自分たちの力を懸けて戦う者でもある。今日だけでも、一誠やアーシアが生まれつきの悪魔ではないことや、悪魔には眷属を転生させる制度があることを知った。そして今度は、その悪魔たちが行う公式戦を見ることになる。
駒王町は、もう単なる観光先ではなくなり始めていた。
この町で暮らす者たちが何を大切にし、どんな力でそれを守り、どのように自分たちの強さと向き合っているのか。英寿がまだ知らないものは多いが、それを急いで答え合わせする必要もない。
まずは見ればいい。
英寿は机の上に広げられたサイラオーグ・バアル眷属の資料へ視線を向けながら、一誠たちが始めた作戦会議へ静かに耳を傾け続けた。