アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case93 夏の逃避行

CASE93 夏の逃避行

 

翌朝。

 

アランスミシー探偵事務所は、珍しく朝から慌ただしかった。

 

「……本当に行くんですね」

 

リリスが旅行鞄を閉じる。

 

「昨日から何回確認してんだ」

 

所長はそう言いながら、自分の荷物をまとめていた。

 

ただし、いつもの黒いコートも軍用ジャケットもない。

 

代わりに着ているのは、派手な柄のアロハシャツ。

 

下は短パン。

 

そして鼻の上にはサングラス。

 

二メートルを優に超える巨体に、南国の陽気な服装。

 

似合っているのかいないのか、判断に困る姿だった。

 

「……」

 

リリスがじっと見る。

 

「なんだ」

 

「いえ」

 

「言いたいことがあるなら言え」

 

「随分と楽しそうですね」

 

「休暇だからな」

 

「昨日まで『暑い、暑い』と文句を言っていた人とは思えません」

 

「暑いから休むんだろ」

 

「なるほど」

 

リリスは自分の荷物を確認する。

 

着替え。

 

洗面用具。

 

仕事道具。

 

最低限の書類。

 

そして――

 

鞄の底。

 

誰にも見られないように、そっと入れたもの。

 

新しく買った水着。

 

普段使っているものとは別の、今回の旅行のために選んだものだった。

 

「……」

 

リリスは一瞬だけ鞄を見下ろす。

 

そして何事もなかったように閉じた。

 

「準備できました」

 

「おう」

 

「所長」

 

「なんだ?」

 

「私の服装について何か言うことは?」

 

所長がリリスを見る。

 

今日のリリスはいつもの事務服ではない。

 

涼しげなサマーシャツ。

 

そして、普段ならほとんど選ばないスカート。

 

夏らしい、軽い服装だった。

 

長身で細身の身体によく似合っている。

 

所長は少し黙った。

 

「……珍しいな」

 

「何がです?」

 

「スカート」

 

「そうですね」

 

「暑くねぇのか?」

 

「所長とは違って、私はスカートくらいで暑さがどうにかなる体格ではありませんので」

 

「喧嘩売ってんのか?」

 

「いいえ」

 

リリスは淡々と答えた。

 

そして小さく笑う。

 

「……似合っていますよ」

 

「お前もな」

 

「…………」

 

一瞬。

 

リリスの動きが止まった。

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

「ありがとうございます」

 

ほんの少しだけ、声が柔らかかった。

 

所長は気づいているのかいないのか、すでに車の鍵を手に取っていた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

二人は事務所を出た。

 

 

一日目

 

車が街を抜ける。

 

最初は快調だった。

 

そして街道に入った瞬間。

 

所長はアクセルを踏み込んだ。

 

「――おい」

 

リリスが助手席から横を見る。

 

速度計の針が上がっていく。

 

120。

 

140。

 

160。

 

「所長」

 

「なんだ」

 

「速度を落としてください」

 

「大丈夫だ」

 

180。

 

「大丈夫ではありません」

 

「この車ならいける」

 

「そういう問題ではありません」

 

針はさらに振れる。

 

180キロを超えた。

 

「…………」

 

リリスは無言で前を見る。

 

「所長」

 

「なんだ」

 

「休暇初日に事故死するつもりですか?」

 

「しねぇよ」

 

「では速度を」

 

「この道なら大丈夫だ」

 

「その理屈で以前――」

 

「昔の話だ」

 

「三ヶ月前です」

 

「昔だ」

 

リリスは深く息を吐いた。

 

「……私は静かな避暑旅行を想像していたのですが」

 

「俺もだ」

 

「ではなぜ180キロ出しているんです?」

 

「早く着きたいからだ」

 

「…………」

 

リリスはサングラスをかけた所長を見る。

 

アロハシャツ。

 

短パン。

 

巨大な身体。

 

そして時速180キロ超。

 

「……旅行に行く服装ではなく、逃亡する犯罪者のようですね」

 

「褒めてんのか?」

 

「いいえ」

 

 

二人はその日、ひたすら南へ走った。

 

途中で昼食を取り、再び走る。

 

夕方には最初の宿泊地へ到着。

 

小さな街の宿に泊まり、翌朝また出発。

 

二日目も走った。

 

三日目も走った。

 

途中で観光地に立ち寄ることもあった。

 

海を眺める。

 

名物料理を食べる。

 

小さな町を歩く。

 

それでも所長は、基本的に運転席から離れなかった。

 

「運転、代わりましょうか?」

 

「嫌だ」

 

「なぜ?」

 

「俺の車だから」

 

「理屈になっていません」

 

「俺が運転したい」

 

「……そうですか」

 

リリスは助手席で本を読む。

 

所長は運転する。

 

そして時々、

 

「腹減った」

 

「先ほど食べたでしょう」

 

「また減った」

 

「知りません」

 

という会話をする。

 

そんな旅が続いた。

 

 

四日目。

 

景色が変わってきた。

 

山が増えた。

 

そして、その向こうに海が見え始めた。

 

五日目。

 

海沿いの道路を走る。

 

乾いた風が車内へ流れ込む。

 

窓を開けると、暑さはあるものの、アストリアの街にいた時とは明らかに違った。

 

湿気がない。

 

風が軽い。

 

「……」

 

リリスが窓の外を見る。

 

青い海。

 

白い岩肌。

 

斜面に沿って建つ白壁の家々。

 

ところどころに鮮やかな屋根。

 

崖沿いの道。

 

小さな港。

 

そして遠くに見える、海へ向かって階段状に広がる街。

 

「綺麗ですね」

 

「だろ?」

 

「所長は来たことがあるんですか?」

 

「ねぇ」

 

「ではなぜ?」

 

「写真を見た」

 

「それだけですか」

 

「それだけだ」

 

リリスは呆れたように笑う。

 

「随分と適当な旅行計画ですね」

 

「休暇なんてそんなもんだ」

 

 

そして六日目。

 

午後。

 

ついに二人は目的地へ到着した。

 

国境検査を抜け、海沿いの坂道を下っていく。

 

目の前に広がったのは、青い海だった。

 

陽光を反射して、海面が輝いている。

 

白い石造りの建物が斜面に沿って連なり、その間を細い石畳の道が縫うように走っている。

 

港には色とりどりの小型船。

 

通りには人間。

 

エルフ。

 

ドワーフ。

 

そして魔族。

 

様々な種族が、同じ街の中を歩いている。

 

ここは――

 

リヴェリア共和国

 

四大勢力のどこにも属さない独立国家。

 

人間、エルフ、ドワーフ、魔族。

 

四つの国境圏に近接する地理的条件から古くより交易都市として栄え、戦後は国際的な保養地として発展した国。

 

温暖な気候。

 

乾いた海風。

 

美しい海岸線。

 

そして各国の富裕層が集まる高級リゾート。

 

所長がハンドルを切る。

 

「着いたぞ」

 

「……」

 

リリスは窓の外を見る。

 

「本当に綺麗ですね」

 

「だろ?」

 

所長は満足そうに笑った。

 

そして車をホテルへ向かわせる。

 

六日間。

 

途中で二泊。

 

長い道のりだった。

 

だが、ようやく二人の休暇が始まる。

 

所長はサングラスを上げた。

 

「よし」

 

「はい?」

 

「まず酒だ」

 

「……」

 

リリスは呆れた顔をした。

 

「その次は?」

 

「海」

 

「その次は?」

 

「寝る」

 

「……実に所長らしいですね」

 

リリスは微笑んだ。

 

そして、誰にも見えない鞄の中。

 

新しい水着が、静かに出番を待っていた。

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