アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case105 湯煙の中で

CASE105 湯煙の向こう

 

ホテルの長い廊下を、リリスは一人で歩いていた。

 

浴衣姿で、手には小さな籠を持っている。

 

先ほどまで部屋では、所長がソファで眠っていた。

 

肩を抱き寄せられたままでは動けなかったため、起こさないように慎重に抜け出してきたのだが――。

 

その直前のことを思い出すと、どうしても顔が熱くなる。

 

「…………」

 

リリスは小さく息を吐いた。

 

「……何をしているのでしょう、私は」

 

自分でも分かっている。

 

あれは酒のせいでもある。

 

旅行という普段とは違う環境のせいでもある。

 

そして何より、所長が珍しく穏やかに眠っていたせいだ。

 

それでも。

 

自分からキスをしたという事実は変わらない。

 

「……忘れましょう」

 

そう呟いて、リリスは温泉へ向かった。

 

せっかくの高級ホテルなのだ。

 

温泉も楽しみたい。

 

何より、火照った顔を冷ますにはちょうどいい。

 

* * *

 

やがて、温泉の入口が見えてきた。

 

リリスは少しだけ歩調を緩める。

 

廊下の突き当たりには、浴場へ続く立派な扉。

 

その手前には男女を分ける案内があり、さらにその先には脱衣所がある。

 

「……ようやくですね」

 

ここまで来ると、少しだけ肩の力が抜けた。

 

今夜くらいは仕事のことを忘れて、ゆっくり湯に浸かろう。

 

そう思いながら、脱衣所へ入ろうとした。

 

その瞬間。

 

「お待ちください」

 

「……?」

 

声を掛けられた。

 

リリスが足を止める。

 

目の前に立っていたのは、ホテルの従業員ではなかった。

 

きちんとした衣服を身につけた女性。

 

その姿勢、視線、立ち位置。

 

一目で護衛だと分かる。

 

その女性の後ろにも数名の女官が控えている。

 

リリスはすぐに事情を察した。

 

「失礼いたしました」

 

リリスは丁寧に頭を下げる。

 

「王族の方々がお使いになる時間でしたでしょうか」

 

「はい」

 

女官は恐縮したように答えた。

 

「申し訳ございません。現在、王妃様と王女様がお使いになる予定となっておりますので、しばらくお待ちいただければと」

 

「分かりました」

 

リリスは素直に頷いた。

 

「では、私は時間をずらします」

 

そう言って、その場を離れようとした。

 

すると。

 

「まあ」

 

奥から穏やかな声が聞こえた。

 

リリスが振り返る。

 

そこにいたのは――。

 

エレノア・グラディウスだった。

 

そして、その隣には娘のリゼット・グラディウス。

 

先ほど夕食の席で顔を合わせた二人である。

 

「あなたは……」

 

エレノアがリリスへ微笑みかける。

 

「先ほどの方ですね」

 

「はい」

 

リリスはすぐに姿勢を正した。

 

「リリスでございます」

 

「所長さんの秘書の方ですね?」

 

「はい」

 

「まあ」

 

エレノアは嬉しそうに笑った。

 

「こんなところでお会いするとは思いませんでした」

 

「私もです」

 

リリスは少し恐縮しながら答える。

 

「ですが、こちらは王族の方々がご利用になるとのことですので、私は改めます」

 

「そんなに急いで帰らなくてもいいのですよ」

 

「しかし……」

 

「よろしければ」

 

エレノアが柔らかく微笑んだ。

 

「一緒に入りませんか?」

 

「…………え?」

 

リリスは思わず聞き返した。

 

「私が、ですか?」

 

「ええ」

 

「ですが……」

 

リリスは護衛の女官へ目を向けた。

 

「私はただの秘書ですので」

 

「エレノア様がお許しになるのでしたら問題ございません」

 

護衛の女官が答える。

 

「そうですか……」

 

リリスは少し迷った。

 

王妃と一緒に風呂に入る。

 

普通に考えれば、とんでもない話だ。

 

しかしエレノアは特に気にした様子もなく、穏やかに笑っている。

 

「それに」

 

エレノアが続けた。

 

「先ほど食事の席で、もう少しあなたとお話ししてみたいと思っていたのです」

 

「私と、ですか?」

 

「ええ」

 

リリスは困ったように微笑んだ。

 

「……それでしたら、お言葉に甘えさせていただきます」

 

「はい」

 

エレノアが嬉しそうに頷いた。

 

「では、一緒に参りましょう」

 

その隣で、リゼットは何も言わなかった。

 

ただ、リリスを静かに見ている。

 

その視線に気づいたリリスが、少しだけ頭を下げる。

 

「王女殿下も、よろしくお願いいたします」

 

「……うん」

 

リゼットは短く答えた。

 

三人は脱衣所へ入った。

 

 

浴場には、白い湯気が漂っていた。

 

広々とした浴槽。

 

磨き上げられた石造りの床。

 

大きな窓の向こうには、夜の海が見える。

 

昼間の青い海とは違い、今は暗闇の中に街の明かりが浮かんでいた。

 

「……素敵ですね」

 

リリスが思わず呟いた。

 

「でしょう?」

 

エレノアも嬉しそうに答える。

 

「このホテルは、私も気に入っているのです」

 

三人は湯に浸かった。

 

温かな湯が身体を包み込む。

 

リリスは思わず深く息を吐いた。

 

「……ああ」

 

肩の力が抜ける。

 

今日一日の疲れが、湯の中へ溶けていくようだった。

 

「長旅だったのでしょう?」

 

エレノアが尋ねる。

 

「はい」

 

リリスは頷いた。

 

「六日ほどかけてこちらまで来ました」

 

「六日ですか?」

 

「途中で二泊しましたので」

 

「それは大変でしたね」

 

「運転は所長でしたので、私はそこまでではありません」

 

「まあ」

 

エレノアが笑う。

 

「でも、かなり速い速度で走ったと聞きましたよ」

 

「……誰からお聞きになったのでしょう」

 

リリスの表情が少し引きつった。

 

「所長さん自身からです」

 

「…………」

 

リリスは目を閉じた。

 

「余計なことを……」

 

エレノアが笑う。

 

「とても楽しそうに話していましたよ」

 

「そうでしょうね」

 

リリスはため息をつく。

 

「旅行に来てから、ずっと機嫌がいいので」

 

「先ほども楽しそうでしたね」

 

「はい」

 

リリスは頷いた。

 

「魔王陛下とあれほど楽しそうに話すとは思いませんでした」

 

「ヴァルガスも楽しそうでした」

 

「そうなのですか?」

 

「ええ」

 

エレノアは微笑む。

 

「夫はああ見えて、気の合う相手と話すことを好みますから」

 

「なるほど……」

 

リリスは少し考えた。

 

確かに、所長も似たようなところがある。

 

気に入った相手なら身分など気にせず話す。

 

逆に、気に入らなければ相手が誰だろうと遠慮しない。

 

「所長も同じです」

 

「ふふ」

 

エレノアが笑った。

 

「本当に似ていますね」

 

「……胃が痛くなるところまで似ています」

 

リリスが真顔で言う。

 

エレノアは堪えきれず笑い出した。

 

「ふふふ……!」

 

「笑い事ではありません」

 

「ごめんなさい」

 

そう言いながらも、エレノアはまだ笑っている。

 

リゼットは二人の会話を黙って聞いていた。

 

そんな時間が少し続いた。

 

そして。

 

エレノアがふと身体の向きを変えた。

 

「リリスさん」

 

「はい?」

 

「お願いがあるのですが」

 

「私にできることでしたら」

 

エレノアは背を向けた。

 

「背中を流していただけませんか?」

 

「…………」

 

リリスの動きが止まった。

 

「私が、ですか?」

 

「ええ」

 

「ですが……」

 

「嫌でしたら構いませんよ」

 

「いえ!」

 

リリスは慌てて立ち上がった。

 

「そういうわけではありません!」

 

「ふふ」

 

「では……失礼いたします」

 

リリスはタオルを手に取った。

 

そして、恐縮しながらエレノアの背中を流し始める。

 

「力加減はいかがでしょうか?」

 

「ちょうどいいですよ」

 

「そうですか」

 

「本当に丁寧ですね」

 

「……仕事柄でしょうか」

 

「秘書のお仕事に、背中を流すことも含まれているのですか?」

 

「含まれておりません」

 

即答だった。

 

エレノアが笑う。

 

「ふふふ」

 

リリスも思わず苦笑した。

 

「……こういうところまで所長に似なくてよかったです」

 

「どういう意味でしょう?」

 

「いえ」

 

リリスは誤魔化した。

 

背中を流し終えると、リリスも再び湯に浸かった。

 

しばらくして。

 

エレノアがふと思い出したように口を開く。

 

「そういえば……」

 

「はい?」

 

「ヴァルガスは今頃、もう眠っているでしょうか」

 

「あ……」

 

リリスは少し笑った。

 

「おそらく」

 

「かなり飲んでいましたからね」

 

「所長もです」

 

「まあ」

 

エレノアが笑う。

 

「所長さんも?」

 

「はい」

 

リリスは頷いた。

 

「部屋へ戻った時には、ソファで眠っていました」

 

「ふふ」

 

エレノアが笑う。

 

「では、二人とも今頃は眠っているかもしれませんね」

 

「そうですね」

 

リリスも笑う。

 

「今日はかなり楽しかったようですから」

 

「ヴァルガスも、あんなに楽しそうに酒を飲むのは久しぶりでした」

 

「所長もです」

 

二人は顔を見合わせた。

 

「旅行初日としては、大成功だったのでしょうね」

 

エレノアが言う。

 

「はい」

 

リリスも頷いた。

 

「所長も、来てよかったと言っていました」

 

「それはよかった」

 

エレノアは嬉しそうに微笑んだ。

 

その会話を、リゼットは静かに聞いていた。

 

やがてエレノアがリリスへ視線を向ける。

 

その表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

「……ところで、リリスさん」

 

「はい?」

 

「一つ、お願いがあるのですが」

 

「先ほどの背中を流すお願いとは別でしょうか?」

 

「ええ」

 

エレノアは苦笑した。

 

「こちらは少し真面目なお話です」

 

リリスの表情も変わる。

 

「……依頼のことでしょうか?」

 

「はい」

 

リリスは少し黙った。

 

所長は休暇中だ。

 

先ほども本人がはっきりそう言っていた。

 

だが、秘書として依頼内容を聞くことまで断る必要はない。

 

「……お聞きします」

 

リリスは静かに頷いた。

 

「ただし、所長が受けるかどうかは別です」

 

「もちろん承知しています」

 

エレノアは微笑んだ。

 

「それでも、まずあなたに話を聞いていただきたいのです」

 

「分かりました」

 

リリスは姿勢を正した。

 

「それで、どのようなご依頼なのでしょうか?」

 

エレノアは少しだけ間を置いた。

 

湯気の向こうで、その表情が真剣になる。

 

「実は――」

 

リゼットも母親へ視線を向ける。

 

静かな夜の温泉。

 

その場でリリスは、魔王妃エレノアから新たな依頼の話を聞くことになった。

 

一方その頃。

 

部屋では、所長が何も知らずにソファで眠り続けている。

 

旅行初日。

 

本人は完全に仕事から解放されたつもりだった。

 

だが――。

 

その秘書は、本人が眠っている間に、次の仕事へ繋がる話を聞き始めていた。

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