CASE106 王女の護衛依頼
そうしてリリスは、エレノアから依頼の話を聞くことになった。
三人は再び浴槽へ浸かっている。
夜の温泉は静かだった。
窓の向こうには、リヴァリア共和国の夜景と、その先に広がる暗い海。
湯気がゆっくりと立ち上り、昼間の喧騒が嘘のように穏やかな時間が流れている。
そんな中で、エレノアは落ち着いた口調で話し始めた。
「お願いしたいのは――リゼットのことです」
「王女殿下の?」
リリスは隣にいるリゼットへ視線を向けた。
リゼットは湯に浸かりながら、少し不機嫌そうな顔をしている。
「……私?」
「ええ」
エレノアは娘へ微笑んだ。
そして、リリスへ向き直る。
「今回の旅行の期間中だけ、リゼットをあなた方の旅行に同行させていただけないでしょうか」
「…………」
リリスは一瞬、言葉を失った。
そして。
「……それだけ、ですか?」
思わず拍子抜けしたような声が出た。
もっと国家機密に関わるような話でも出てくるのかと思っていた。
ところが依頼の内容は、娘を旅行へ同行させてほしいというもの。
あまりにも平和的だった。
エレノアもその反応を予想していたのか、少し苦笑する。
「ええ。そう聞けば、簡単なお願いに聞こえるでしょうね」
「はい……」
リリスも正直に頷いた。
「所長に相談するにしても、旅行中に王女殿下をお預かりするだけでしたら――」
そこまで言ったところで。
エレノアが静かに続けた。
「……ただ、リゼットが狙われている可能性があります」
「…………」
リリスの表情が変わった。
「……え?」
今度こそ、完全に言葉を失った。
隣にいるリゼットは、眉を寄せている。
「お母様」
「分かっています」
エレノアは娘を制するように穏やかに言った。
「あなたが自分は狙われてなどいないと言いたいことも」
「当然でしょう」
リゼットは少し強い口調で答える。
「私を狙うような人間など――」
「リゼット」
エレノアの声は優しかった。
だが、母親として娘を諭すには十分な声音だった。
「可能性の話です」
リゼットは口を閉じた。
リリスは黙って二人のやり取りを見ていた。
そして、エレノアが再び話し始める。
「今回の旅行を、リゼットは随分と楽しみにしていたのです」
「……そうなのですか?」
リリスが王女を見る。
リゼットは露骨に顔を逸らした。
「別に」
「ふふ」
エレノアが笑う。
「この旅行が決まってから、どこへ行こうか、何を見ようかと色々調べていたのですよ」
「お母様!」
リゼットが抗議する。
「そういうことを言わなくてもいいでしょう!」
「ごめんなさい」
エレノアは楽しそうだった。
リリスも思わず口元を緩める。
普段の王女がどのような生活をしているのかは知らない。
だが、少なくとも今の姿は、王族というより普通の少女に近かった。
「今回の旅行では、できるだけリゼットに窮屈な思いをさせたくありませんでした」
エレノアの声が少しだけ落ち着く。
「王族ですから、どうしても護衛が必要になります」
リリスは頷いた。
「それは……そうでしょうね」
「護衛だけではありません」
エレノアは苦笑した。
「どこへ行くにも事前の確認が必要です。誰と会うのか、どこを通るのか。安全上の問題がないかを確認してからでなければ動けません」
「…………」
「結果として、旅行であっても、リゼットの周囲には大勢の護衛が付きます」
リリスは少しだけリゼットを見る。
確かに。
もし自分が王女だったら。
海へ行きたいと思っても、大勢の護衛が付いてくる。
街を歩きたいと思っても、行く場所を事前に決められる。
気になった店を見つけても、好き勝手に立ち寄ることは難しい。
「それに、王族として訪れる以上、どうしても会う相手も限られます」
エレノアは続けた。
「共和国の要人。
地元の有力者。
各国から来ている貴族。
そういった方々との予定が多くなってしまう」
「なるほど……」
リリスは頷いた。
「旅行なのに、外交行事のようになってしまうのですね」
「ええ」
エレノアは少し寂しそうに笑った。
「本当なら、もっと普通に遊ばせてあげたいのです」
リゼットが少しだけ俯いた。
「私は別に……」
「あなたがそう言うのも分かっています」
エレノアは娘へ微笑みかけた。
「ですが、母親としては、せっかくの旅行なのだから楽しんでほしいと思うのですよ」
リリスは黙って聞いていた。
そして。
エレノアが少しだけ視線を落とした。
「ただ……」
「はい」
「今回ばかりは、どうしても心配なのです」
その言葉には、王妃としてではない。
母親としての不安が滲んでいた。
「だからこそ、護衛を減らすこともできません」
「……難しいですね」
「ええ」
エレノアは苦笑する。
「護衛を増やせば安全にはなるでしょう。でも、その分だけリゼットは自由を失います」
「…………」
「そして、護衛を減らせば今度は安全に問題が出る」
エレノアは一度だけ娘を見る。
「そこで、あなた方のことを思い出したのです」
リリスは目を瞬いた。
「私たちを?」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「ヴァルガスも、あなたの所長さんを信頼しているようでした」
「……信頼、ですか」
「少なくとも、あれほど気を許して話す相手は珍しいですから」
リリスは少し苦笑した。
「所長の方も、魔王陛下を随分気に入ったようです」
「でしょうね」
エレノアも笑う。
そして。
「何より――」
そこでエレノアは一度言葉を切った。
「所長さんは、荒事に慣れているでしょう?」
「…………」
リリスは否定しなかった。
「はい」
「あなたもでしょうけれど」
「私は補佐が主です」
「ふふ。そうでしたね」
エレノアは少し笑ってから、再び真面目な顔になる。
「所長さんなら、仮に何か起きてもリゼットを守れると思っています」
リリスはその言葉を聞いて、少し考えた。
確かに。
所長は巨大なオーガだ。
力もある。
戦闘経験もある。
荒事なら、むしろ得意分野だ。
しかも本人は自分の能力を過大評価することも、逆に過小評価することもない。
「……確かに」
リリスは呟いた。
「所長なら、王女殿下の護衛という仕事自体は問題なくこなせると思います」
「そうでしょう?」
エレノアは少し安心したように笑った。
「ですが、私はそれだけを頼みたいわけではありません」
「……?」
リリスが顔を上げる。
「リゼットに、普通の旅行をさせてあげたいのです」
その言葉は、とても静かだった。
「護衛を完全になくすことはできません」
「はい」
「ですが、所長さんが一緒なら、少なくとも大勢の護衛を連れて歩く必要はなくなるでしょう」
「なるほど……」
「そして」
エレノアは少し微笑んだ。
「夫も、あなた方なら安心できると言っていました」
「魔王陛下が?」
「ええ」
リリスは少し驚いた。
先ほどまで所長とヴァルガスが、酒を飲みながらあれだけ物騒な話をしていたのを思い出す。
あの二人が。
王女を任せる話をしている。
なんとも妙な気分だった。
「……所長が聞いたら、どう言うでしょうね」
リリスが呟く。
エレノアは少し笑った。
「断るでしょうか?」
「おそらく」
即答だった。
「休暇中ですから」
「やはり」
「先ほども、依頼は休暇が終わってからにしろ、と言っていました」
エレノアは苦笑する。
「そうでしょうね」
そして少し間を置く。
「ですが――」
エレノアはリゼットを見る。
母親の目だった。
「私は、一人の母親としてお願いしたいのです」
リリスは何も言わず、その言葉を聞いた。
「娘に、せっかくの旅行を楽しませてあげたい」
エレノアの声は静かだった。
「危険から守ってほしい」
「…………」
「そしてできることなら、王女ではなく、一人の少女としてリヴァリア共和国を楽しませてあげたいのです」
リリスはしばらく黙っていた。
やがて。
「……分かりました」
そう答えた。
「依頼を受けるとは、まだ言えません」
「ええ」
「所長本人に確認する必要があります」
「もちろんです」
「ですが」
リリスはエレノアを見る。
「この話は、きちんと所長へ伝えます」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その隣で、リゼットは少し複雑そうな顔をしていた。
「……私は護衛なんていらない」
「リゼット」
「本当に」
王女は少し不満そうに言う。
「私は自分の身くらい自分で守れる」
リリスはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。
その強がりが、なんとなく微笑ましかった。
「そうですね」
リリスは穏やかに答える。
「では、所長に頼むかどうかは、明日ご本人に聞いてみましょう」
「……あのオーガに?」
「はい」
「…………」
リゼットは少しだけ顔をしかめた。
どうやら、昼間からの所長への印象は、あまり良くないらしい。
リリスはそんな王女を見て、内心で小さくため息をついた。
――明日の朝。
寝起きの所長へ、この話をどう切り出せばいいのだろう。
それを考えるだけで、今から胃が痛くなりそうだった。