アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case110 王妃の依頼

そう。そこは明確におかしい。

 

直前の流れでは、リリスが温泉でエレノアから依頼内容を聞いているだけで、所長はその場にいない。所長が知っているのは、リリスが部屋へ戻ってきてから伝える内容だけ。

 

だから所長が最初から、

 

「王族からの依頼だろ」

「王妃からの話だろ」

 

みたいに知っているのは不自然。

 

正しくは、朝、リリスが「昨夜、王妃殿下から依頼の話をいただきました」と初めて所長に説明する。そこで所長が初めて内容を知り、最初は「17のガキの面倒なんざ面倒くせぇ」と拒否する。そこからリリスが昨夜聞いたエレノアの気持ちを伝え、所長が折れる、という流れ。

 

あと、所長が知っているのは前日の魔王夫妻からリゼットを旅行に同行させる可能性について話があったことではなく、そこも区別した方がいい。前日の魔王との会話では、リゼット同行の正式な依頼を所長が聞いたわけではない。

 

その前提で、CASE107を作り直す。

 

 

CASE107 朝のコーヒーと新しい依頼

 

翌朝。

 

所長は珍しく、健康的な時間に目を覚ました。

 

「……ん」

 

ソファの上で大きな身体を起こす。

 

昨夜はかなり酒を飲んだ。

 

しかも、いつものように騒いでいたわけでもない。

 

リリスと二人で酒を飲み、景色を眺めながらのんびりと話していた。

 

そのまま酒が回り、所長はソファで眠ってしまった。

 

「…………」

 

所長はしばらくぼんやりとした頭で部屋を見回した。

 

そしてベッドを見る。

 

リリスはまだ眠っている。

 

「まだ寝てるか」

 

時計を見る。

 

普段の所長なら、まだまだ寝ている時間だった。

 

だが、今日は妙に目が覚めていた。

 

窓から差し込む朝の光。

 

涼しい風。

 

遠くから聞こえる波の音。

 

所長は立ち上がり、窓を開ける。

 

「……気持ちいいな」

 

夏だというのに、暑くない。

 

湿気も少ない。

 

昨日まで事務所で汗だくになりながら仕事をしていたことが、馬鹿らしく思えてくる。

 

「来て正解だったな」

 

所長は満足そうに呟いた。

 

それから部屋を見回す。

 

テーブルにはホテルが用意していたコーヒーの道具がある。

 

「…………」

 

所長は少し考えた。

 

「たまにはやってやるか」

 

そう言って、コーヒーを淹れ始める。

 

手際は悪くない。

 

ただし、リリスほど丁寧ではない。

 

豆の量も適当。

 

湯の注ぎ方も大雑把。

 

それでも二人分を用意した。

 

「よし」

 

一つを自分の前に置く。

 

もう一つはリリスが起きた時に飲めるよう、テーブルの上へ。

 

所長はソファへ座り、コーヒーを一口飲む。

 

「……」

 

少し苦い。

 

「まあ、こんなもんか」

 

そして窓の外を眺めながら、静かに二杯目を飲み始めた。

 

やがて。

 

「……ん……」

 

ベッドから小さな声が聞こえた。

 

所長が振り返る。

 

リリスがゆっくり目を開ける。

 

「……朝ですか?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

リリスは時計を見る。

 

「所長?」

 

「なんだ」

 

「随分と早いですね」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

リリスは起き上がり、眼鏡を掛ける。

 

そしてテーブルの上のカップに気づいた。

 

「……これは?」

 

「コーヒー」

 

「私の分ですか?」

 

「おう」

 

リリスは少し驚いた顔をする。

 

「所長が淹れたのですか?」

 

「俺以外に誰がいるんだよ」

 

「……そうですね」

 

リリスはカップを手に取る。

 

一口。

 

「…………」

 

「どうだ?」

 

「所長が淹れた味です」

 

「なんだそりゃ」

 

「悪くはありません」

 

「そうだろ」

 

所長は笑った。

 

「まあ、お前が淹れた方がうまいけどな」

 

「当然です」

 

「自分で言うか?」

 

「事実ですので」

 

リリスは淡々と答えた。

 

そんな穏やかな朝だった。

 

だが。

 

リリスには、昨夜から所長へ伝えなければならない話があった。

 

カップを置く。

 

「……所長」

 

「ん?」

 

「昨夜のことですが」

 

「昨日?」

 

「温泉へ行ったでしょう」

 

「ああ」

 

「そこで、王妃殿下とお話をしました」

 

所長は少し眉を上げる。

 

「王妃と?」

 

「はい」

 

「何話したんだ?」

 

「依頼についてです」

 

「……依頼?」

 

所長は初めて聞いたという顔をした。

 

「何の?」

 

「リゼット王女殿下についてです」

 

「ああ」

 

所長は昨日の夕食を思い出す。

 

魔王一家。

 

ヴァルガス。

 

エレノア。

 

そして、少し傲慢な態度を見せていたリゼット。

 

「娘の話か」

 

「はい」

 

リリスは昨夜聞いたことを、一つずつ説明し始めた。

 

今回の旅行期間中だけ、リゼットを自分たちの旅行に同行させてほしいという依頼。

 

しかし、それだけではなかった。

 

リゼットが狙われている可能性があること。

 

護衛を大量につければ安全ではある。

 

だが、その分だけ王女としての行動に制限がかかる。

 

行きたい場所にも自由に行けない。

 

会う相手も限られる。

 

普通の旅行をしたくても、王族としての立場がそれを許さない。

 

そして何より。

 

エレノアは、母親として娘に今回の旅行を楽しんでほしいと思っている。

 

「……ふーん」

 

所長はコーヒーを飲んだ。

 

「つまり、王女の子守りをしろってことか」

 

「言い方が悪いです」

 

「同じだろ」

 

「護衛です」

 

「十七のガキの護衛だろ?」

 

「王女殿下です」

 

「だから余計に面倒くせぇんだよ」

 

所長は頭を掻いた。

 

「俺は休暇に来てんだぞ」

 

「分かっています」

 

「昨日も言っただろ」

 

「はい」

 

「仕事は休みだ」

 

「はい」

 

「なのに王女の護衛?」

 

「……はい」

 

所長は深いため息をついた。

 

「面倒くせぇ」

 

リリスは黙っていた。

 

「大体、俺が護衛する必要あるのか?」

 

「あると思います」

 

「なんでだ」

 

「所長より荒事に向いている人間を、私は知りません」

 

「……」

 

「それに」

 

リリスは少し声を落とした。

 

「王妃殿下は、本当に心配していました」

 

所長が黙る。

 

「王女としてではなく、一人の母親として」

 

「…………」

 

「娘が狙われている可能性がある」

 

「…………」

 

「でも、大勢の護衛に囲まれて、自由のない旅行にはしたくない」

 

「…………」

 

「だから、所長に護衛をお願いしたいと」

 

所長はしばらく何も言わなかった。

 

そして。

 

「……王妃がそこまで言ったのか?」

 

「はい」

 

「魔王も?」

 

「はい。昨日の様子を見る限り、魔王陛下も所長なら任せられると考えているようです」

 

所長は鼻を鳴らす。

 

「昨日会ったばっかりなのにな」

 

「ですが、かなり意気投合されていましたよ」

 

「まあな」

 

所長は少し笑った。

 

「……あいつ、結構面白い奴だったしな」

 

そしてまた黙る。

 

リリスは何も言わず待った。

 

しばらくして。

 

「……しょうがねぇな」

 

所長が頭を掻いた。

 

「お前がそこまで言うなら、受けてやる」

 

リリスの表情が少し緩む。

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

所長が人差し指を立てる。

 

「依頼料はもらうぞ」

 

「もちろんです」

 

「黒き血」

 

「……」

 

「腹いっぱい飲ませろ」

 

所長はぶっきらぼうに言った。

 

「それだったら依頼を受けてやる」

 

リリスは呆れたように笑った。

 

「本当にそれでいいのですか?」

 

「俺がいいって言ってんだからいいんだよ」

 

「分かりました」

 

リリスは立ち上がる。

 

「では、王妃殿下へお伝えしてきます」

 

「ああ」

 

リリスは部屋の扉へ向かった。

 

そして、扉に手を掛ける。

 

その瞬間。

 

「あ」

 

所長が声を上げた。

 

リリスが振り返る。

 

「どうしました?」

 

「ホテルの宿泊費もな」

 

「…………」

 

リリスは無言で所長を見る。

 

「今回の仕事の経費だ」

 

「まだ旅行中なのですが」

 

「王女の護衛をするんだぞ」

 

「所長……」

 

「なんだ」

 

「本当に細かいですね」

 

「うるせぇ。商売だ」

 

リリスは小さくため息をついた。

 

「分かりました」

 

そして扉を開ける。

 

「宿泊費についてもお伝えしておきます」

 

「頼んだ」

 

「はい」

 

リリスは部屋を出た。

 

長い廊下を歩いていく。

 

やがて、エレノアの部屋の前へ到着する。

 

そこには昨日と同じように護衛の女官が立っていた。

 

リリスは丁寧に一礼する。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます、リリス様」

 

「昨夜、王妃殿下からお話しいただいた件についてです」

 

女官が姿勢を正す。

 

「はい」

 

「所長と相談いたしました」

 

リリスは静かに伝えた。

 

「依頼をお受けするとのことです」

 

女官の表情が僅かに緩む。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、依頼料として黒き血を腹いっぱい飲ませてほしいとのことです」

 

「……承知いたしました」

 

「それから」

 

リリスは少しだけ言いにくそうに続けた。

 

「ホテルの宿泊費も、依頼に伴う経費として負担してほしいそうです」

 

女官は一瞬だけ固まった。

 

だが、すぐに頭を下げる。

 

「承知いたしました。王妃様へお伝えいたします」

 

「よろしくお願いいたします」

 

リリスも頭を下げる。

 

そして部屋へ戻るため、廊下を歩き出した。

 

その頃、部屋では。

 

所長がソファに座り、朝のコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。

 

「……まあ」

 

所長は呟く。

 

「旅行中くらい、王女の一人ぐらい面倒見てやるか」

 

そして、二杯目のコーヒーを飲む。

 

本人としては、あくまで休暇中に仕方なく引き受けた仕事のつもりだった。

 

だがこの日から。

 

所長とリリスのリヴァリア共和国での旅行は、少しだけ予定が変わることになる。

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