アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case112 リゾートの海

CASE109 海辺の護衛

 

ホテルを出る。

 

その瞬間まで、リリスもリゼットも、今日はそのまま観光へ向かうものだと思っていた。

 

昨日の話では、リゼットが行きたい場所を決め、それに合わせてリリスが予定を組む。

 

そんな流れになるはずだった。

 

ところが。

 

「…………」

 

所長は海へ向かわなかった。

 

「……所長?」

 

リリスが声を掛ける。

 

「なんだ?」

 

「そちらは海とは反対方向ですが」

 

「知ってる」

 

所長は振り返りもせず歩いていく。

 

向かった先はホテルの受付だった。

 

「おう」

 

所長は受付のカウンターへ近づく。

 

受付係が少し驚いた顔をする。

 

昨日からホテル内では、巨大なオーガの姿はかなり目立っていた。

 

「はい。何かご用でしょうか?」

 

「この辺のガイドブックあるか?」

 

「ガイドブック、ですか?」

 

「ああ」

 

所長はカウンターへ肘を置く。

 

「この辺の観光名所とか、飯食うところとか、土産屋とか。そういうのが載ってるやつ」

 

「ございます」

 

受付係はすぐに一冊のガイドブックを取り出した。

 

さらに周辺の地図を広げる。

 

「こちらでしたら、この地域の観光名所が――」

 

「へぇ」

 

所長は地図を見る。

 

「この辺は?」

 

「海岸沿いの遊歩道です。景色が良く、観光客にも人気があります」

 

「店は?」

 

「海岸通りには土産物店や軽食店が多数ございます」

 

「酒は?」

 

「……酒類を扱う店もございます」

 

「よし」

 

所長は満足そうに頷いた。

 

リリスとリゼットは、その様子を後ろから見ていた。

 

二人とも少し意外そうな顔をしている。

 

リリスが小声で言った。

 

「……所長」

 

「ん?」

 

「最初から観光地へ向かうのではなかったのですか?」

 

「そのつもりだったぞ」

 

「では、なぜ?」

 

「知らねぇ場所に行くのに、何も調べずに行く馬鹿がいるか?」

 

「…………」

 

リリスは少しだけ目を丸くした。

 

意外だった。

 

所長はもっと行き当たりばったりに動くと思っていた。

 

「それに」

 

所長はガイドブックを受け取る。

 

「せっかく旅行に来たんだ。行きたいところくらい決めろ」

 

そして。

 

そのガイドブックを、ぽん、と二人へ放り投げた。

 

「うわっ」

 

リゼットが慌てて受け取る。

 

もう一冊はリリスへ。

 

「二人で見ろ」

 

「随分と大雑把ですね」

 

「細けぇことは任せた」

 

「…………」

 

リリスはガイドブックを開く。

 

リゼットも隣から覗き込んだ。

 

色鮮やかな写真や絵が並んでいる。

 

海岸。

 

市場。

 

旧市街。

 

大聖堂。

 

展望台。

 

土産物街。

 

海沿いの食堂。

 

そして、少し離れた場所には温泉や観光施設まで載っている。

 

リゼットの目が少しずつ輝いていく。

 

「……ここ」

 

「何でしょう?」

 

「この展望台」

 

リゼットが写真を指差した。

 

「すごく綺麗」

 

「後で行きましょうか」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「……!」

 

リゼットは嬉しそうに頷いた。

 

その様子を横から見ていた所長は、ふっと笑った。

 

「まあ、今日は海でいいだろ」

 

「え?」

 

リゼットが顔を上げる。

 

所長はホテルの入口から見える青い海を指差した。

 

「目の前に、あんな景色のいい海があるんだ」

 

サングラスを掛け直す。

 

「最初はそこから回るぞ」

 

「……はい!」

 

リゼットの返事が、妙に明るかった。

 

リリスもガイドブックを閉じる。

 

「分かりました」

 

三人はホテルを出た。

 

海へ向かう道は緩やかな坂になっている。

 

白い壁の建物。

 

石造りの階段。

 

小さな店。

 

色鮮やかな日除け。

 

朝の市場から聞こえる人々の声。

 

遠くには青い海が見えている。

 

リゼットは何度も振り返っては、建物や店を眺めていた。

 

王宮で暮らしている彼女にとって、こうして護衛に囲まれず、自由に街を歩くこと自体が珍しいのだろう。

 

所長はそんなことを気にする様子もなく歩いている。

 

「お」

 

途中で小さな土産物屋の前を通りかかる。

 

所長が足を止めた。

 

「ちょっと待て」

 

「どうしました?」

 

リリスが聞く。

 

「酒がある」

 

「…………」

 

リリスは嫌な予感がした。

 

「所長」

 

「大丈夫だ」

 

「何も言っていませんが」

 

「顔に書いてある」

 

所長は店へ入っていく。

 

しばらくすると、瓶を数本抱えて出てきた。

 

「昼前から飲むのですか?」

 

「歩きながら飲むだけだ」

 

「それを昼前から飲むと言うのです」

 

「旅行だぞ?」

 

所長は当然のように言った。

 

「酒くらい飲むだろ」

 

「……昨日もかなり飲みましたよね」

 

「昨日はホテルの酒だ。今日は旅行先の酒」

 

「理屈になっていません」

 

所長は聞いていない。

 

そして今度は別の店へ入っていった。

 

「所長?」

 

「菓子買ってくる」

 

「え?」

 

数分後。

 

所長は両手に袋を抱えて出てきた。

 

「ほら」

 

一つをリゼットへ。

 

もう一つをリリスへ。

 

「え?」

 

リゼットが袋を見る。

 

中には焼き菓子や果物を使った菓子、軽食が入っている。

 

「……私に?」

 

「おう」

 

「いいの?」

 

「腹減るだろ」

 

リゼットは嬉しそうに袋を抱えた。

 

「ありがとう」

 

「礼はいい」

 

所長は自分の酒瓶を開ける。

 

「旅行なんだから買い食いくらいしろ」

 

「……所長」

 

リリスは呆れた顔をしながらも、渡された菓子を見た。

 

「ありがとうございます」

 

「おう」

 

そして三人は、買ったものを食べたり飲んだりしながら海へ向かった。

 

所長は歩きながら酒を飲む。

 

リリスは菓子を少しずつ食べる。

 

リゼットは最初こそ遠慮していたが、次第に慣れてきた。

 

「これ、美味しい」

 

「だろ?」

 

「この焼き菓子も」

 

「もっと食うか?」

 

「いいの?」

 

「買ったんだから食え」

 

「……はい!」

 

リゼットは嬉しそうに頷いた。

 

そして。

 

海岸へ出た。

 

「…………」

 

リゼットが立ち止まる。

 

目の前に広がっていたのは、青い海だった。

 

朝の陽光を受けて、水面がきらきらと輝いている。

 

海岸沿いには白い建物が並び、遠くには小さな船が浮かんでいる。

 

潮風が吹き抜ける。

 

「……綺麗」

 

リゼットの声は小さかった。

 

王宮から見る景色とは全く違う。

 

大勢の人間が行き交っている。

 

子供たちが走っている。

 

観光客が笑っている。

 

店から音楽が聞こえる。

 

誰も彼女を王女として見ていない。

 

少なくとも、この瞬間は。

 

「リリス!」

 

突然、リゼットがリリスの手を取った。

 

「こっち!」

 

「え?」

 

「海、もっと近くで見たい!」

 

「ちょ、王女殿下」

 

リゼットに手を引かれ、リリスも海辺へ向かう。

 

「走らないでください」

 

「だって!」

 

リゼットは楽しそうに笑った。

 

リリスも思わず笑ってしまう。

 

「……仕方ありませんね」

 

二人が砂浜を歩く。

 

所長はその少し後ろを歩いていた。

 

酒瓶を片手に、サングラス越しに二人を見る。

 

「……楽しそうだな」

 

「所長も来てください!」

 

リゼットが振り返る。

 

「俺はいい」

 

「せっかく海なのに?」

 

「俺は見てる方が好きだ」

 

「そうですか?」

 

「ああ」

 

所長は笑った。

 

「今日はまだな」

 

「まだ?」

 

「明後日は泳ぐぞ」

 

「え?」

 

「せっかくの海だからな」

 

リゼットが目を丸くする。

 

「泳ぐの?」

 

「泳ぐ」

 

「……!」

 

リゼットの顔がさらに明るくなる。

 

だが、その瞬間だった。

 

遠くから。

 

「……?」

 

リリスが何かに気づいた。

 

エンジン音。

 

砂浜を走るには明らかに速すぎる音だった。

 

「……所長」

 

所長も音の方向を見る。

 

砂煙が上がっている。

 

一台の車が、海岸へ向かって猛烈な速度で走ってきていた。

 

「…………」

 

所長の目が細くなる。

 

「リリス」

 

「はい」

 

「リゼット連れて下がれ」

 

「!」

 

リリスは即座にリゼットの腕を掴んだ。

 

「王女殿下、こちらへ!」

 

「え?」

 

「急いで!」

 

だが。

 

車は止まらない。

 

むしろ速度を上げた。

 

明らかにおかしい。

 

観光客が悲鳴を上げて逃げていく。

 

砂浜を走る車の進行方向。

 

そこにはリゼットがいる。

 

「……私を?」

 

リゼットが呟く。

 

所長は答えなかった。

 

ただ。

 

「面倒くせぇな」

 

そう呟いた。

 

そして。

 

車が目の前まで迫った瞬間。

 

所長が片手を突き出した。

 

「――よっと」

 

巨大な手が、車のバンパーを掴む。

 

「え?」

 

リゼットが目を見開く。

 

車が急停止した。

 

砂浜に巨大な轍が刻まれる。

 

タイヤが空転する。

 

エンジンが唸る。

 

しかし。

 

所長は動かない。

 

「…………」

 

片手で止めている。

 

「おい」

 

所長は運転席を睨む。

 

「朝から何してんだ?」

 

運転手が青ざめる。

 

「な――」

 

「人轢く気か?」

 

所長の声は、怒鳴ってすらいなかった。

 

ただ面倒くさそうだった。

 

「まあいい」

 

「え?」

 

所長はバンパーを握ったまま。

 

「海行ってこい」

 

「は?」

 

次の瞬間。

 

所長が腕を振った。

 

「――おら」

 

車体が宙に浮いた。

 

「えええええええっ!?」

 

運転手の悲鳴が響く。

 

車は所長の腕力だけで放り投げられた。

 

砂浜から。

 

海へ。

 

約百五十メートル。

 

車体は何度も水面を跳ねる。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

大きく跳ね上がり。

 

そして最後には。

 

「バシャァンッ!」

 

派手な水柱を上げて海へ落ちた。

 

周囲が静まり返る。

 

「…………」

 

リリスも。

 

「…………」

 

リゼットも。

 

言葉を失っていた。

 

所長は何事もなかったかのように服についた砂を払う。

 

「さて」

 

酒瓶を一口。

 

「海行くか」

 

「…………」

 

リゼットは所長を見つめていた。

 

昨日の夜。

 

所長が言った言葉。

 

――この位置なら、お前さんらを殺すのなんぞ十秒ありゃお釣りが来る。

 

あれは。

 

冗談でも。

 

脅しでもなかった。

 

「……本当だったんだ」

 

「ん?」

 

「十秒で殺せるって……」

 

所長はリゼットを見る。

 

「んー?」

 

「本当に……」

 

リゼットの顔から血の気が引いていく。

 

そして少し震えた。

 

「……私、昨日……」

 

平民の癖に。

 

そんな態度を取った。

 

軍隊がいれば何もされないと思った。

 

目の前にいる巨大なオーガを、自分より下の存在だと思っていた。

 

「…………」

 

リゼットは自分の無謀さに、今さらながら戦慄した。

 

所長はそんなリゼットを見て。

 

「まあ」

 

酒を飲む。

 

「そういうことだ」

 

それ以上は何も言わない。

 

リゼットは小さく息を吐いた。

 

そして。

 

「……ごめんなさい」

 

所長が眉を上げる。

 

「何が?」

 

「昨日のこと」

 

「もういい」

 

所長は軽く手を振った。

 

「今ちゃんと分かったなら、それでいいだろ」

 

リゼットは少し驚いた顔をする。

 

所長はもう車のことなど気にしていなかった。

 

「リリス」

 

「はい」

 

所長が財布から金を取り出す。

 

「これ」

 

「はい?」

 

「明日は街の観光だろ?」

 

「はい」

 

「明後日は泳ぐ」

 

「……はい?」

 

所長は海を見る。

 

「せっかくの海だ」

 

そしてリゼットを見る。

 

「水着でも買ってやれ」

 

「え?」

 

「王族が海で泳ぐ想定なんぞしてねぇだろ」

 

リリスが目を瞬く。

 

「……確かに」

 

「だから明日、街を回るついでに買っとけ」

 

所長はリリスへ金を渡した。

 

「王女様なんだから、好きなの選ばせてやれ」

 

「分かりました」

 

リゼットが少し戸惑う。

 

「……本当に泳いでいいの?」

 

「いいに決まってんだろ」

 

所長は海を指差す。

 

「ここまで来て泳がない方がもったいねぇ」

 

リゼットは海を見る。

 

そして。

 

「……うん」

 

今度は、はっきりと笑った。

 

リリスもその横で微笑む。

 

「では、明日は水着も探しましょう」

 

「うん!」

 

所長は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

そして、何事もなかったかのように海岸を歩き始める。

 

「次、どっち行く?」

 

リゼットがリリスの手を引く。

 

「こっち!」

 

「分かりました」

 

二人が先を歩く。

 

その後ろを、酒瓶を片手にした巨大なオーガがついていく。

 

ただし。

 

海の沖では。

 

先ほど所長に投げ飛ばされた車が、まだぷかぷかと浮いていた。

 

所長は一度だけ振り返る。

 

「……あれ、誰が回収すんだ?」

 

リリスが即答した。

 

「知りません」

 

「だよな」

 

所長は何事もなかったように前を向いた。

 

「じゃ、観光続けるぞ」

 

夏のリヴァリア共和国。

 

王女誘拐未遂事件は、わずか数十秒で終わった。

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