CASE112 海辺の夜
海辺の店には、昼間とは違った穏やかな空気が流れていた。
昼間は観光客や子供たちの声で賑わっていた海岸も、今ではすっかり日が落ち、海の向こうには暗い水平線が広がっている。
店先の灯りが風に揺れ、海から吹いてくる涼しい風が、火照った身体を心地よく冷ましていた。
三人のテーブルには、食べきれないほどの料理が並んでいた。
焼いた魚。
香草を使った肉料理。
魚介の煮込み。
揚げ物。
パン。
そして、この地方独特の料理を使った小皿がいくつも並んでいる。
昼間から海辺を歩き回っていたリゼットは、最初こそ少し緊張していたものの、すっかり食事を楽しんでいた。
「これ、美味しい……」
「気に入ったようですね」
リリスが微笑む。
「うん。こっちの料理も食べてみたい」
「では、少しずつ取り分けましょう」
「ありがとう」
二人は料理を少しずつ分けながら、ゆっくりと食事を楽しんでいた。
酒についても同じだった。
リゼットは初めての酒ということもあり、恐る恐る少しずつ口にしている。
リリスも付き合う程度に、ゆっくりと飲んでいた。
一方――。
「…………」
所長は違った。
瓶をそのまま持ち上げる。
ごくごくと飲む。
「ぷはぁ」
そして、また料理を口に運ぶ。
「所長」
「ん?」
「グラスを使わないのですか?」
「面倒くせぇ」
「…………」
リリスは小さくため息をついた。
「まあ、所長らしいですが」
「だろ?」
所長は上機嫌だった。
昼間から海を歩き、食べ歩きをして、買い物をして。
そして今は、海の見える店で酒を飲んでいる。
しかも、ここは自分が来たかった避暑地だ。
機嫌が悪くなる理由などなかった。
「いやぁ……」
所長が海を眺める。
「来てよかったなぁ」
「そうですね」
リリスも海を見る。
「今日は随分歩きました」
「歩いたな」
「楽しかった?」
所長がリゼットを見る。
リゼットは頬を少し赤くしながら笑った。
「うん」
「すごく楽しい」
「そうか」
所長は満足そうに頷いた。
そして、また瓶を傾ける。
「…………」
リリスはそれを見た。
もうかなり飲んでいる。
「所長」
「なんだ?」
「少し、飲みすぎではありませんか?」
「まだ大丈夫だ」
「もうかなり酔っていますよ」
「そうか?」
「はい」
リリスは真剣な表情になった。
「……あまり飲まないでください」
所長がリリスを見る。
「どうした?」
「言いたくはないのですが……」
リリスは少し言葉を選んだ。
「昼間のようなことが、また起きる可能性もあります」
所長は黙ってリリスを見る。
「王女殿下を狙っている者がいる可能性がある以上、所長がそこまで酔ってしまうのは……」
リリスは本気で心配していた。
所長はしばらく黙っていた。
そして。
「アホ」
「……はい?」
「常識的に考えろ」
「常識的に……?」
「どこの国の王女が、旅行先でこんな庶民的な飲み屋に来て酒飲んでると思う?」
「…………」
リリスが止まる。
リゼットも、ほろ酔いの頭で考え込む。
所長は続ける。
「普通は王族御用達の店とか、ホテルの高級レストランとか行くだろ」
「…………」
「しかも護衛をぞろぞろ連れて歩くわけでもなく、海辺の飲み屋で飯食って酒飲んでるんだぞ?」
「…………」
「誰が王女だと思うんだよ」
リゼットが目を丸くした。
「……確かに」
「だろ?」
「私も、普段ならこういう場所には来ないわ」
「そういうことだ」
所長は得意げに瓶を傾ける。
リリスも少し考えたあと、納得したように頷いた。
「……なるほど。確かに、その可能性は低いですね」
「だろ?」
「王女としてではなく、普通の旅行客に見えることで目立たなくなる……」
「そうそう」
二人とも、まるで今まで考えたこともなかった答えを教えられたような顔をしている。
だが。
リリスは少ししてから、じっと所長を見た。
「……ただ」
「なんだ?」
「その非常識な行動を選んだのは、誰でしたっけ?」
「…………」
「王女殿下を庶民的な飲み屋へ連れてきたのも」
「…………」
「夜まで外で飲んでいるのも」
「…………」
リゼットも、ほろ酔いのまま所長を見る。
「……確かに」
「おい」
所長が二人を見る。
「なんだその目は」
リリスは呆れながらも、少し笑った。
「いえ。所長の理屈は正しいと思います」
「だろ?」
「ただ、その理屈を一番実践しているのも所長だと思っただけです」
「旅行なんだからいいだろ」
「……はいはい」
所長はご機嫌に笑い、また酒を飲んだ。
三人はその後もしばらく食事を続けた。
リゼットの酒は少しずつ。
リリスもゆっくり。
所長だけは、瓶を片手に豪快に。
夜はさらに深くなっていく。
やがて。
「…………」
リゼットの口数が少なくなってきた。
リリスが横を見る。
「王女殿下?」
返事がない。
「リゼット様?」
リゼットは椅子に座ったまま、目を閉じていた。
「…………すぅ」
「……寝てしまいましたね」
所長が見る。
「昼間からあんだけ歩きゃ眠くなるわな」
「そうですね」
リリスは小さく笑った。
「では、そろそろ戻りましょう」
所長は残った酒を飲み干した。
「そうするか」
そして店員を呼ぶ。
「会計」
「はい」
所長が支払いを済ませている間に、リリスは眠ってしまったリゼットの前にしゃがみ込んだ。
「……よいしょ」
リゼットを背負う。
眠っているリゼットは抵抗することもなく、リリスの背中に身体を預けた。
その姿は、まるで姉が妹を背負っているようだった。
「大丈夫か?」
所長が聞く。
「これくらいなら大丈夫です」
「そうか」
三人は店を出た。
夜の海岸には、涼しい風が吹いていた。
「……今日は、本当に楽しそうでしたね」
リリスが歩きながら言う。
「だな」
所長も満足そうだった。
「ならよかった」
三人はそのままホテルへ戻っていった。
そしてホテルのロビーへ入った瞬間――。
「お前ら!」
怒鳴り声が響いた。
「…………」
リリスが顔を上げる。
そこにいたのは、魔族軍司令官だった。
その顔は、見るからに疲れ切っている。
「こんな時間まで何をしていた!」
司令官が所長へ詰め寄る。
「しかも酒臭いぞ、お前!」
「うるせぇ」
所長は面倒くさそうに手を振った。
「観光だよ」
「観光でこの時間まで帰ってこない馬鹿がいるか!」
「いるだろ」
「貴様だ!」
司令官が頭を抱える。
「何を考えているんだ!」
リリスは小さく頭を下げた。
「申し訳ありません。少し遅くなってしまいました」
「少しではない!」
司令官が怒鳴る。
「陛下も妃殿下も、ずっと心配してお待ちになっている!」
「え?」
リリスが周囲を見る。
すると。
ロビーの奥に、ヴァルガスとエレノアの姿があった。
二人とも心配そうにこちらを見ている。
エレノアがすぐに近づいてきた。
「リゼット……」
「申し訳ありません」
リリスが頭を下げる。
「歩き疲れてしまったようで、眠ってしまいました」
「いいえ」
エレノアは優しく首を振った。
「ありがとうございます、リリスさん」
リリスはゆっくりとリゼットをエレノアへ預ける。
エレノアは娘を抱きながら、その頭をそっと撫でた。
ヴァルガスも眠っている娘を見つめる。
「……よく眠っているな」
「はい」
エレノアが嬉しそうに答える。
「こんなに安心した顔で眠っているのを見るのは久しぶりです」
ヴァルガスは娘の頭をもう一度撫でる。
そして所長を見る。
「今日はどうだった?」
所長は上機嫌に答えた。
「楽しかったぞ」
「そうか」
ヴァルガスが笑う。
「それならよかった」
エレノアも微笑んだ。
「本当に……君たちに任せてよかったわ」
リリスが頭を下げる。
「ありがとうございます」
ヴァルガスは眠っているリゼットの顔を見ながら言った。
「明日も頼む」
「はい。お任せください」
リリスが答える。
所長も胸を張った。
「任せとけ」
するとエレノアが、少しいたずらっぽく笑う。
「ただし……」
「ん?」
「お酒を飲ませるのは、できれば勘弁してくださいね」
「…………」
所長が固まる。
リリスは思わず苦笑した。
ヴァルガスも肩を震わせている。
「今日は楽しめたようだから、私は構わないが」
エレノアは眠っている娘の髪を撫でながら続ける。
「明日もありますからね」
「……善処する」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは約束してください」
ヴァルガスが笑う。
「どうやら、明日も大変そうだな」
「旅行ってのはそういうもんだ」
所長はそう言って笑った。
その横で、リゼットは何も知らずに静かな寝息を立てている。
昼間の海。
夕方の買い物。
そして夜の食事と、初めての酒。
長い一日を終えた王女は、すっかり旅行を満喫した顔で眠っていた。
ホテルの外では、夜の海が静かに波打っていた。