CASE113 空飛ぶ休日と二度目の誘拐
翌朝。
リヴァリア共和国の高級ホテル、そのロビーには三人の姿があった。
ただし――。
昨日までとは、少々様子が違っていた。
「…………」
リリスはいつも通りだった。
多少の疲労はある。
昨日は朝から海辺を歩き回り、買い物をし、食事をして、さらに夜まで出歩いたのだ。
さすがに身体には疲れが残っている。
それでも、秘書としての習慣なのか、背筋は伸びていた。
その隣にはリゼット。
こちらは明らかに疲れている。
しかし十七歳という若さのせいか、眠そうな顔をしながらも立っていられる程度には回復していた。
そして――。
「…………」
所長。
顔が死んでいた。
巨大な身体をソファに沈め、片手で頭を押さえている。
「…………頭が割れる」
「自業自得です」
リリスが即答する。
「うるせぇ……」
「昨日、あれだけ飲めば当然です」
「旅行なんだから酒くらい飲むだろ……」
「限度というものがあります」
「限度……」
所長は頭を押さえたまま唸った。
「昨日の俺に言え」
「昨日の所長に言っても聞かなかったでしょう」
「……そうだな」
珍しく素直だった。
リゼットがその様子を見て、少し笑う。
「所長、大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇ」
「そんなに?」
「怠い。頭が割れる。喉が渇く。胃が重い」
「……それは大変ね」
「他人事みたいに言うな」
「だって私は平気だもの」
リゼットは少し得意げだった。
所長がじろりと見る。
「若さか……」
「そういうこと」
「くそ……」
所長は恨めしそうに呟いた。
「若いっていいな……」
リリスが呆れた顔をする。
「所長も十分に体力はあるでしょう」
「昨日使い果たした」
「何にですか?」
「旅行に」
「…………」
リリスは何も言わなかった。
それからしばらくして、所長がようやく立ち上がる。
「よし」
「今日はどこへ行くんですか?」
「まず歩く元気があるか聞く」
所長は二人を見る。
「お前ら」
「はい?」
「今日、歩く元気はあるかぁ?」
リゼットが手を上げる。
「私は大丈夫」
「本当か?」
「昨日より疲れているけど、歩けるわ」
「若さか……」
所長がまた呟く。
リリスも頷いた。
「私も問題ありません」
「お前もか」
「元々の体力がありますから」
「…………」
所長は二人を交互に見る。
そして自分を指差した。
「俺は無理だ」
「…………」
「怠い」
「はい」
「頭が割れる」
「はい」
「歩きたくねぇ」
リリスはため息をついた。
「では、本日はホテルで休まれますか?」
「いや」
所長が顔を上げる。
「せっかく来たんだ。観光はする」
「歩けないのに?」
「だから考える」
所長はそう言うと、ふらふらとホテルの受付へ向かった。
「少し待っとけ」
「何をするんです?」
「足を探してくる」
「足?」
「乗り物だ」
そう言って、所長はホテルマンと何やら話し始めた。
リリスとリゼットはロビーのソファに座って待つ。
やがてホテルマンが奥へ消えていき――。
しばらくすると、ホテルのエントランスへ三台の奇妙な乗り物が運び込まれてきた。
「……何?」
リゼットが立ち上がる。
リリスも目を向ける。
板状の車体。
その下には車輪がない。
代わりに魔石を動力源とする浮遊装置が組み込まれている。
「これは……」
リリスが目を細める。
「ホバーボード?」
「そうだ」
戻ってきた所長が言う。
「今日はこれでいくぞ」
「浮いている……」
地面から数センチ。
本当に宙に浮いている。
「これに乗るの?」
「そう」
「危なくない?」
「大丈夫だろ」
「所長は乗ったことがあるの?」
「昔、軍で似たようなのに乗った」
「……軍隊にこんなのがあったの?」
「試作品みたいなもんだったけどな」
所長は一台を軽く蹴る。
ホバーボードが小さく滑った。
「懐かしいな」
リゼットは恐る恐る近づく。
「どうやって乗るの?」
「普通に乗れ」
「普通にって……」
リゼットが板の上へ片足を乗せる。
ふわり。
ホバーボードが浮く。
「わっ!」
「おっと」
身体が揺れる。
「ちょっと!」
リリスが慌てて腕を伸ばす。
「王女殿下、ゆっくり!」
「これ、思ったより動く!」
リゼットが慌てて両足を乗せる。
ホバーボードが左右に揺れる。
「わ、わわ……!」
「前へ体重をかけすぎないでください!」
「分かってる!」
「分かってません!」
二人はしばらく悪戦苦闘した。
一方。
「…………」
所長はすでに乗っていた。
そして軽く身体を傾ける。
ホバーボードが滑るように前へ進む。
「やっぱりこれだな」
「……所長」
リリスが呆れる。
「なぜそんなに上手いのですか?」
「似たようなのに乗ってたって言っただろ」
所長は左右へ体重を移し、滑らかに方向を変える。
「軍にいた頃、試験運用で使ったことがある」
「そんなものまで……」
「軍隊ってのは何でも試すんだよ」
リゼットがようやくバランスを取る。
「……乗れた」
「おお」
所長が笑う。
「やるじゃねぇか」
「これ、楽しいかも」
リゼットの表情が明るくなる。
リリスも慎重に乗る。
「……意外と安定していますね」
「だろ?」
「でも速度を出すのは怖そうです」
「出さなきゃいい」
所長が答える。
「じゃあ行くぞ」
「はい」
「うん!」
三人はホテルを出た。
⸻
最初に向かったのは大聖堂。
白い石造りの巨大な建物を見上げ、リゼットは目を輝かせた。
その後は展望台へ。
高台から見下ろす街と、その向こうに広がる海を眺めた。
そして城塞跡。
古い城壁や砲台を見ながら、所長は軍人時代の知識を交えつつ、意外にも真面目に説明してやった。
「こういう城塞はな、攻める側からすると面倒なんだよ」
「所長、楽しそうですね」
「軍事施設見るのは嫌いじゃねぇからな」
「結局、軍人なんですね」
「元だよ、元」
その後も三人は街を歩き、土産物屋を覗き、買い食いを楽しんだ。
そして――。
リゼットが一軒の店の前で足を止める。
「……水着」
所長も思い出した。
昨日、海辺で言ったこと。
――明後日は泳ぐぞ。
――せっかくの海だし。
――リゼットに水着でも買ってやれ。
「今日買っとくか」
「はい」
リリスが頷く。
三人で店へ入る。
店内には様々な水着が並んでいた。
「こんなにあるの……?」
リゼットが目を輝かせる。
「好きなの選べ」
所長はそう言うと、昨日海辺で渡していた金の残りをリリスへ確認させる。
「足りるか?」
「問題ありません」
「じゃあ好きなの買え」
リゼットは嬉しそうに水着を選び始めた。
「これと……こっちは……」
リリスも秘書らしく値段や品質を確認しながら手伝っている。
所長は入口で腕を組んだ。
「俺は外で待ってる」
「所長も選んでくださらないんですか?」
「なんで俺が女二人の水着選びに付き合うんだよ」
「……それもそうですね」
所長は店の外へ出た。
そして――。
そこで別の連中に気づいた。
店の様子を窺っている男たち。
「…………」
所長は小さく息を吐く。
「またかよ」
男たちが路地へ入る。
所長も後を追った。
路地裏では、数人の男が話していた。
「王女はあの店だ」
「出てきたところを――」
「誰の依頼だ?」
「っ!」
男たちが振り返る。
所長が立っていた。
「答えろ」
「……知らねぇ!」
「そうか」
それからは早かった。
所長は男たちを次々と地面へ叩き伏せた。
最後の一人の襟を掴む。
「誰の依頼だ?」
「……カルテルだ」
「カルテルの誰だ?」
男は怯えながら答えた。
「魔王家の……親族だ……」
「親族?」
「カルテルと癒着してる……あの一族の人間から……」
所長はしばらく黙った。
「なるほどな」
そして男を放した。
「旅行中だから今日はここまでだ」
「…………」
「次に見かけたら、旅行じゃなく仕事になるからな」
男たちは這うように逃げていった。
所長は何事もなかったように店へ戻る。
ちょうどリゼットとリリスも出てきた。
「お待たせしました」
「おう」
「水着、買えたわ」
リゼットが袋を抱えて笑う。
「明後日、楽しみね」
「そうだな」
所長も笑った。
⸻
その後も三人は観光を続けた。
土産物を買い、軽食を食べ、街を歩く。
やがて日が傾き始めた。
三人は再び海沿いの通りへ戻ってくる。
「今日は結構歩いたな」
「歩いてませんよ」
リリスが指摘する。
「ホバーボードでしたからね」
「細かいことはいいんだよ」
リゼットが笑う。
「でも楽しかった!」
「そうか」
所長も満足そうだった。
その時――。
遠くからエンジン音が響いた。
リゼットが振り返る。
一台の車がこちらへ向かってくる。
最初は普通の車に見えた。
だが。
速度がおかしい。
「……速くない?」
リゼットが呟く。
車は減速しない。
むしろこちらへ向かって一直線に迫ってくる。
リリスの表情が強張った。
「王女殿下……」
「まさか……」
リゼットの顔から血の気が引く。
「また……?」
所長が小さく息を吐いた。
「懲りねぇな」
車はさらに近づいてくる。
周囲の人々が異変に気付き、道を空け始める。
リリスがリゼットを庇おうとする。
しかし。
所長が片手を上げた。
「下がってろ」
「所長!」
「大丈夫だ」
所長は二人の前へ出る。
迫る車を見据える。
「旅行の邪魔すんなよ」
車が目前まで迫った。
次の瞬間――。
所長が踏み込む。
そして。
車両の横っ面を、思い切り蹴り飛ばした。
ドゴォンッ!!
凄まじい衝撃音。
車体の側面が大きく凹む。
衝撃で車が大きく進路を逸らされる。
そのまま――。
ズガァンッ!!
道路脇の壁へ突っ込んだ。
壁が砕け、車体が大きくめり込む。
「…………」
静寂。
所長は何事もなかったように足を戻した。
「邪魔だな」
リゼットは車を見る。
そして所長を見る。
「…………」
昨日の言葉が蘇る。
――この位置だとお前さんらを殺すのなんぞ十秒ありゃお釣りが来る。
「……十秒で殺せるって」
リゼットが呟いた。
「本当だったのね」
所長は肩を竦める。
「だから言っただろ」
リゼットはしばらく黙っていた。
やがて。
「……もう怖いというより、呆れるわ」
「それは私もです」
リリスが深々とため息をつく。
「所長、もう少し穏便にできなかったのですか?」
「車が突っ込んできたんだから仕方ねぇだろ」
「仕方なく車を壁にめり込ませる人は、そういないと思いますが」
「旅行なんだから細かいことはいいんだよ」
所長は再びホバーボードへ乗る。
「次行くぞ」
リゼットは思わず笑った。
「本当に自由な人ね」
「今さら気づいたか?」
三人は再びホバーボードを走らせた。
リゼットの手には、今日買った水着の入った袋。
そして目の前には、まだまだ続くリヴァリア共和国の観光地。
少なくとも今のところ。
この旅行は、リゼットにとって人生で一番気楽な旅行になっていた。
――ただし。
その裏では、魔王家の親族とカルテルの癒着という、別の問題が静かに動き始めていた。