CASE114 明日は海
その日も、結局のところ――。
三人は大いに旅行を楽しんだ。
大聖堂を見て、展望台へ上り、城塞跡を歩き、街の店を覗いては土産物を買う。
途中で見つけた軽食を買い食いし、リゼットが興味を持った店には立ち寄り、所長は所長で気に入った酒や食べ物を見つけるたびに買い込んでいった。
そして、その合間には――。
車でリゼットを攫おうとした連中を所長が蹴り飛ばし、車ごと壁へめり込ませるという、とんでもない一幕まであった。
それでも。
「楽しかった……」
ホテルへ戻る頃には、リゼットはすっかり満足そうだった。
「今日は昨日より歩いてないのに、なんだか疲れました」
リリスも小さく息を吐く。
「色々な場所へ行きましたからね」
所長はというと、疲れた様子もほとんどない。
むしろ今日一日の観光を十分に楽しんだらしく、上機嫌だった。
ホテルのロビーへ入る。
するとリゼットが、ふと所長の顔を覗き込んだ。
「ねえ、所長」
「ん?」
「今日は飲みに行かないの?」
口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
昨日の夜。
所長に連れ出され、庶民的な飲み屋で酒を飲んだことを思い出しているのだろう。
所長は一瞬だけリゼットを見ると、鼻で笑った。
「今日は行かねぇよ」
「どうして?」
「お前のお袋さんがなぁ……」
所長は頭を掻いた。
「どことなく俺のお袋に似ててな」
「お母様が?」
「ああ」
「それで?」
「逆らい辛いんだよ」
あまりにも意外な理由だった。
リゼットが目を丸くする。
リリスも少し驚いた顔で所長を見る。
「……所長に、そんな感覚があるんですか?」
「俺だって人間……じゃねぇけど、そういうのはあるんだよ」
「人間じゃないのは知っています」
「細けぇな」
所長は笑った。
そしてリゼットを見る。
「もっと大人になって、縁がありゃ飲みに連れてってやるよ」
「本当?」
「ああ」
「約束よ?」
「約束だ」
リゼットは嬉しそうに笑った。
所長はそんな彼女へ、軽く手を振る。
「今日は風呂に入って休みな」
「ええ」
「明日は海だろ?」
「うん!」
「だったら体力めちゃくちゃ使うぞー」
「望むところよ」
「言ったな?」
「言ったわ」
所長はニヤリと笑う。
「じゃあ覚悟しとけ」
リリスは二人の会話を聞きながら、少しだけ笑った。
「では、私たちは先にお風呂へ行ってきます」
「おう」
「所長は?」
「俺はちょっとここで一服してる」
「ほどほどにしてくださいね」
「分かってるよ」
リリスとリゼットは連れ立って浴場へ向かっていった。
その後ろ姿を見送ると、所長はロビーの外へ出た。
⸻
ホテルの正面玄関。
夜の街には、柔らかな明かりが灯っていた。
所長は椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。
「……ふぅ」
煙を吐く。
しばらくして――。
「よう」
聞き慣れた声がした。
所長が顔を上げる。
そこには魔族の軍司令官がいた。
相変わらず、所長を見るだけで胃が痛そうな顔をしている。
その隣には魔王夫妻。
魔王陛下――ヴァルガス・グラディウス。
魔王妃――エレノア・グラディウス。
少し離れたところには護衛も控えている。
司令官は所長を見るなり、わずかに眉をひそめた。
「……また煙草か」
「休暇なんだからいいだろ」
「お前は休暇中でも問題を起こすな」
「起こしてねぇよ」
「今日だけで車を一台壊したと聞いたが?」
「向こうから突っ込んできたんだよ」
「…………」
司令官が頭を抱えそうになる。
そこへ。
ヴァルガスが気楽に手を上げた。
「今日は早いお帰りで」
「おう」
所長も気楽に手を上げ返す。
まるで昨日まで何度も顔を合わせていた友人同士のような気軽さだった。
ヴァルガスが苦笑する。
「今日も随分と楽しんできたようだな」
「ああ。なかなかいい街だ」
所長は煙草を咥えたまま笑う。
「飯もうめぇし、酒もうめぇ。景色もいい」
「それは何よりだ」
「ただなぁ」
所長が煙を吐く。
「狙われてんの、まじだなぁ」
「…………」
ヴァルガスの表情が僅かに変わる。
「何かあったのか?」
「二日連続で攫われそうになってんぞ」
所長はヘラヘラと笑った。
「昨日は海で車突っ込ませてきて、今日は街中でまた車で突っ込んできた」
「…………」
一瞬。
ロビーの空気が止まった。
司令官の顔が引きつる。
「二日……連続?」
「おう」
「お前、それを今そんな顔で言うのか?」
「だって俺がいるだろ」
「だからお前がいることを前提に話をするな!」
司令官が思わず怒鳴る。
所長はケラケラ笑った。
「まあ、王女様は無事だ」
ヴァルガスはしばらく黙っていた。
そして、静かに息を吐く。
「……そうか」
その声音には、昨日までの気楽さとは違うものが少し混じっていた。
「二日続けて、か」
「ああ」
所長は煙草を灰皿へ押し付ける。
「しかも今日、片方の連中から聞いたぞ」
「何を?」
「カルテルが絡んでる」
ヴァルガスの目が細くなる。
「……誰が依頼した」
所長は少しだけ笑った。
「魔王家の親族だとよ」
「…………」
今度こそ。
ヴァルガスの表情から笑みが消えた。
隣にいたエレノアも、静かに顔を上げる。
司令官は――。
「…………」
頭を抱えた。
所長はそんな三人を見ながら、どこか気楽そうに言った。
「まあ、旅行が終わるまでには片付けりゃいいんじゃねぇか?」
「…………君は」
ヴァルガスが呆れたように言う。
「本当に緊張感がないな」
「休暇だからな」
所長は笑う。
「仕事の顔すんのは、休暇が終わってからでいいだろ」
そう言って、所長は再び煙草に火をつけた。
その頃。
浴場へ向かったリリスとリゼットは、明日の海を楽しみにしながら、ゆっくりと夜を過ごしていた。
そして所長はまだ知らない。
明日が、今回の旅行の中でもっとも平穏な一日になるのか。
それとも――。
さらに面倒な一日になるのか。
ただ一つ確かなのは。
明日は海で泳ぐ。
その予定だけは、何があっても変えるつもりがなかった。