アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case116 カーチェイス

CASE115 海へ向かう朝

 

翌朝。

 

リヴァリア共和国の高級ホテル、そのロビー。

 

朝の柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、宿泊客たちがそれぞれの予定へ向かって行く。

 

そんな中――。

 

所長はソファに深く腰を沈めていた。

 

「…………」

 

隣には海へ持っていく荷物。

 

足元には大きな鞄。

 

そして本人はというと――。

 

やたらと真剣な顔で、深いため息を吐いていた。

 

「はぁ……」

 

「どうしました?」

 

リリスが不思議そうに尋ねる。

 

その隣には、昨日買ったばかりの水着を楽しみにしているのか、朝から妙に機嫌のいいリゼットがいる。

 

二人とも、所長の様子を見て首を傾げた。

 

「…………」

 

所長はもう一度ため息を吐く。

 

「この年になるとなぁ」

 

「はい」

 

「海で遊ぶだけでも準備が必要なのかと思ってな」

 

「…………」

 

リリスが無表情になる。

 

「くだらない悩みですね」

 

「お前なぁ」

 

「事実です」

 

「もうちょっとこう……心配してくれてもいいんじゃねぇか?」

 

「昨日の二日酔いで苦しんでいた方が何を言っているのですか」

 

「今日は飲んでねぇよ」

 

「昨日も控えていましたね」

 

「だから今日は絶好調だ」

 

所長は立ち上がると、身体を大きく伸ばした。

 

昨日は夜の酒を控え、早めに休んだ。

 

そのおかげで、今日は二日酔いもない。

 

身体も軽い。

 

頭も冴えている。

 

完全に本調子だった。

 

「今日は海ですよ!」

 

リゼットが楽しそうに言う。

 

「昨日買った水着、ちゃんと持ってきたわ」

 

「そうか」

 

所長はリゼットを見る。

 

「なら問題ねぇな」

 

「所長は?」

 

「俺もある」

 

「水着?」

 

「当然だろ」

 

リゼットが少し笑った。

 

「なんだ?」

 

「いえ」

 

「言えよ」

 

「なんでもないわ」

 

所長は怪訝そうな顔をした。

 

「まあいい」

 

そして両手をパンと叩く。

 

「切り替えだ、切り替え」

 

「何をです?」

 

「さっきまでの悩み」

 

「そんなことで悩んでいたのですか……」

 

「もういいんだよ」

 

所長はホテルの売店へ向かった。

 

そして酒を一本買う。

 

リリスが眉をひそめる。

 

「朝からですか?」

 

「海だぞ」

 

「だから?」

 

「海と言えば酒だろ」

 

「昨日控えた意味がありません」

 

「これは昨日の分の埋め合わせだ」

 

「意味が分かりません」

 

所長は気にせず栓を開け、一口飲む。

 

「よし」

 

「何がよしなのですか……」

 

「今日は海だ」

 

所長は二人へ振り返った。

 

「ただし、今日はちっと面白いところで泳ぐぞ」

 

「面白いところ?」

 

リゼットが興味深そうに尋ねる。

 

「ああ」

 

所長はホテルのフロントで手に入れた周辺地図を広げた。

 

そして街から少し離れた場所を指差す。

 

「ここだ」

 

「……ビーチ?」

 

「車で三十分くらいだ」

 

「初心者向けって書いてありますね」

 

リリスが地図を見る。

 

「そうそう」

 

所長は頷いた。

 

「海水浴場として整備されてるし、初心者向けだ。昨日みたいな街中の海岸より、泳ぐならこっちの方がいい」

 

リゼットが嬉しそうに身を乗り出す。

 

「じゃあ、ここへ行くのね?」

 

「おう」

 

「楽しみ!」

 

リリスは地図から顔を上げる。

 

「……車で三十分ですか」

 

「ああ」

 

「まさか……」

 

リリスの顔が、徐々に青ざめる。

 

「所長」

 

「なんだ?」

 

「まさか運転は――」

 

「まあいい」

 

「よくありません」

 

所長は二人の肩を掴んだ。

 

「行くぞ」

 

「所長!」

 

「海が俺たちを待ってる!」

 

「待ってません!」

 

所長は二人を半ば引っ張るようにホテルのエントランスへ向かった。

 

ホテルマンに荷物を運ばせ、駐車場へ向かう。

 

そこには今回の旅行で使っている車が停まっていた。

 

所長が運転席へ乗り込む。

 

リリスは助手席。

 

リゼットは後部座席。

 

「…………」

 

二人ともシートベルトを締める。

 

「じゃあ行くぞ」

 

エンジンが唸る。

 

「安全運転でお願いします」

 

リリスが念を押す。

 

「任せろ」

 

「その返事が一番信用できないのですが」

 

車が発進する。

 

最初は普通だった。

 

ホテルの敷地を出て、街中を走る。

 

信号を曲がり、幹線道路へ入る。

 

そして――。

 

「……所長」

 

「ん?」

 

「もう少し速度を――」

 

アクセルが踏み込まれる。

 

速度計の針が上がっていく。

 

「所長?」

 

「なんだ?」

 

「今、何キロ出ています?」

 

「さあ?」

 

「速度計を見てください」

 

「前見て運転してるから見てねぇよ」

 

リリスが速度計を見る。

 

そして絶句した。

 

「…………百八十」

 

「うん」

 

「百八十キロ出ています」

 

「そうか」

 

「そうかではありません!」

 

後部座席のリゼットも青い顔になっていた。

 

「ちょっと……速すぎない?」

 

「大丈夫だ」

 

「昨日のホバーボードとは訳が違うわ!」

 

「車の方が安定してるだろ」

 

「そういう問題ではありません!」

 

リゼットは座席にしがみつく。

 

「……ちょっと気持ち悪い」

 

「王女殿下、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫……たぶん……」

 

リリスも顔色が悪い。

 

「所長……」

 

「ん?」

 

「速度を落としてください」

 

「もうすぐ高速道路を抜けるから」

 

「その前に落としてください!」

 

「大丈夫だって」

 

所長は笑っている。

 

そんな中。

 

バックミラーをちらりと見た所長が、突然ニヤリと笑った。

 

「お」

 

「?」

 

「懲りない奴らが来たぞ」

 

リリスが振り返る。

 

後方から、一台の車が迫ってきていた。

 

「……また?」

 

リゼットの顔が引きつる。

 

「まさか……」

 

「どう見ても俺たちを追ってんな」

 

所長は楽しそうだった。

 

「昨日の連中か、それとも別口か」

 

「どちらでもいいですから、速度を落として警察へ――」

 

「いやぁ」

 

所長はアクセルをさらに踏み込んだ。

 

エンジンが唸る。

 

車体がさらに加速する。

 

「所長ぉぉぉ!」

 

リリスの声が車内に響く。

 

後続車も速度を上げる。

 

しかし――。

 

「遅ぇな」

 

所長が笑った。

 

後続車がみるみる小さくなっていく。

 

「……離れていく」

 

リゼットが呆然と呟く。

 

「そりゃそうだろ」

 

「自分で速度を上げたのでしょう!」

 

「追いついてこねぇなぁ」

 

所長は楽しそうにハンドルを握る。

 

「おい!」

 

窓を少し開ける。

 

「お前ら!」

 

後ろの車へ向かって怒鳴る。

 

「もっと気合い入れて追ってこい!」

 

「追ってこなくていいです!」

 

リリスが叫ぶ。

 

「お前らそれでも誘拐犯かぁ!」

 

「煽らないでください!」

 

「根性ねぇぞ!」

 

「所長!」

 

リゼットはもう何も言えなかった。

 

ただ座席にしっかり身体を固定している。

 

所長は大笑いしていた。

 

「せっかくの旅行だぞ!」

 

そしてダッシュボードへ手を伸ばす。

 

「……?」

 

リリスが嫌な予感を覚える。

 

「所長?」

 

「これも持ってきたんだった」

 

ダッシュボードを開ける。

 

そこに入っていたのは――。

 

オーガ用の大型拳銃。

 

人間が片手で扱うにはあまりにも大きな、所長専用の代物だった。

 

「なぜそれを車に……」

 

「旅行だからな」

 

「旅行の荷物ではありません!」

 

所長は大型拳銃を取り出した。

 

「それ……撃つの?」

 

リゼットが目を丸くする。

 

「まあな」

 

所長は窓を少し開ける。

 

後続車はまだ遠い。

 

「届かないんじゃない?」

 

リゼットが言う。

 

「試してみるか」

 

所長は後方へ向けて、大型拳銃を構えた。

 

「ちょっと、所長!」

 

「大丈夫だ」

 

――ドンッ!

 

――ドンッ!

 

――ドンッ!

 

凄まじい銃声が車内へ響く。

 

リゼットが飛び上がる。

 

「ひゃっ!」

 

リリスも耳を塞ぐ。

 

「所長!」

 

「うるせぇな!」

 

「銃声の方がうるさいです!」

 

「まあいいだろ」

 

所長は大笑いする。

 

後続車は慌てて距離を取った。

 

そして所長たちは、そのまま目的地へ向かって走り続けた。

 

 

しばらくして。

 

目的地付近の高速道路出口が見えてきた。

 

「もうすぐ降りるぞ」

 

所長が言う。

 

リリスはようやく少し安心した。

 

「やっと普通の速度に――」

 

「ここで降りる」

 

「はい」

 

車が高速道路を降りる。

 

そして所長は出口近くの少し広い場所へ車を停めた。

 

「よし」

 

エンジンを切る。

 

「ちょっと一服するか」

 

所長は車から降りると、煙草を取り出した。

 

「一服している場合ですか!?」

 

リリスが慌てて車から降りる。

 

「所長、先ほどの車が来るかもしれないんですよ!」

 

リゼットも後部座席から降り、周囲を見回す。

 

「そうよ。まだ追ってきてるんじゃない?」

 

「だから大丈夫だって」

 

所長は煙草に火をつけた。

 

「なぁに」

 

煙を吐きながら、のんびりと言う。

 

「どうせスピードの出し過ぎで通り過ぎるさ」

 

「そんなわけ――」

 

リリスが言いかけた。

 

その時だった。

 

――ヴォォォォォォォン……。

 

遠くから、低いエンジン音が響いてきた。

 

三人が同時に音のする方向を見る。

 

「…………」

 

音が近づいてくる。

 

――ヴォォォォォォォン!!

 

「来たわ……」

 

リゼットが呟く。

 

「来ましたね……」

 

リリスの顔が青くなる。

 

「さっきの車です!」

 

所長だけは煙草を咥えたまま、楽しそうに笑った。

 

「ほらな」

 

「何が『ほらな』ですか!」

 

「ちゃんと来たじゃねぇか」

 

「来たことを喜ばないでください!」

 

遠くに一台の車が見えた。

 

猛烈な速度でこちらへ向かってくる。

 

「……速すぎる」

 

リゼットが呟く。

 

「だから言っただろ」

 

所長は煙草を吸う。

 

「そのうち通り過ぎるって」

 

「それは誘拐犯の車でしょう!」

 

「まあ見てろ」

 

車は三人の目の前へ迫る。

 

そして――。

 

そのまま三人の目の前を猛烈な速度で通過した。

 

「――――!」

 

リリスとリゼットが目を見開く。

 

「通り過ぎた……」

 

「本当に……?」

 

その直後。

 

「キィィィィィッ!!」

 

通り過ぎた誘拐犯の車が、慌てて急ブレーキを踏んだ。

 

タイヤが激しく鳴き、白煙を上げる。

 

車体が大きく揺れる。

 

「ほらな」

 

所長が煙草を咥えたまま笑う。

 

「だから言っただろ」

 

「そういう問題では――」

 

リリスが叫びかける。

 

その瞬間。

 

所長が煙草を口から外した。

 

「……さて」

 

大型拳銃を取り出す。

 

「止まれねぇなら――」

 

リリスが青ざめる。

 

「所長、何を――」

 

所長は狙いを定めた。

 

「車輪だけで勘弁してやる」

 

――ドンッ!!

 

轟音。

 

大型拳銃から放たれた弾丸が、誘拐犯の車の前輪を直撃する。

 

前輪が丸ごと吹き飛んだ。

 

「――っ!」

 

車体が大きく傾く。

 

運転手が慌ててハンドルを切る。

 

しかし前輪を失った車は制御を失い――。

 

「うわぁぁぁぁっ!」

 

激しくスリップする。

 

タイヤが路面を削り、車体が横滑りする。

 

そして――。

 

ドォォォン!!

 

道路脇の壁へ激突した。

 

車体が大きく跳ね、壁へ斜めにめり込む。

 

「…………」

 

静寂。

 

所長は大型拳銃を下ろした。

 

そして何事もなかったように煙草を咥え直す。

 

「……ほらな」

 

リリスは絶句していた。

 

リゼットも壁にめり込んだ車と所長を交互に見ている。

 

「……所長」

 

「ん?」

 

「もう何も言いません」

 

「おう」

 

「言っても無駄です」

 

「分かってきたじゃねぇか」

 

リゼットはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

 

「……今日も大変な一日になりそうね」

 

所長は海の方を見る。

 

青い海が、朝日に照らされて輝いている。

 

「何言ってんだ」

 

所長は笑った。

 

「今日は遊びに来たんだぞ」

 

そして大型拳銃を車へ戻す。

 

「さあ――」

 

「海だ」

 

三人の目の前には、これから一日を過ごす海が広がっていた。

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