CASE118 海水浴
車が海岸へ続く道を抜けた。
そして――。
「…………おお」
最初に声を漏らしたのはリゼットだった。
目の前に広がっていたのは、エメラルドグリーンの海。
波は穏やかで、海面は朝の日差しを受けてきらきらと輝いている。
白く美しい砂浜がどこまでも続いており、周囲には人影がほとんどない。
「綺麗……」
リゼットが思わず呟く。
リリスも車から降り、海を眺める。
「確かに……」
昨日訪れた海辺とは雰囲気がまるで違う。
観光客で賑わう場所ではなく、少し離れた場所にある海水浴場。
波も穏やかで、足場になる砂浜も広い。
「初心者向けというのも納得ですね」
「だろ?」
所長は満足そうに頷いた。
「泳ぐならこういうところがいいんだよ」
「所長は泳げるの?」
リゼットが尋ねる。
「まあな」
「得意?」
「普通」
「本当に?」
「昔は海でも訓練したからな」
所長はそう言いながら、車から荷物を降ろし始めた。
「さて」
「何をするの?」
「着替える」
所長が取り出したのは――。
軍用の簡易テントだった。
「…………」
リリスが無言になる。
「それを使うのですか?」
「更衣室がねぇんだから仕方ねぇだろ」
所長は慣れた手つきで骨組みを組み始める。
一般的なテントとは違い、軍用として作られたものらしい。
設営は驚くほど早かった。
「こうして……」
骨組みを固定。
「こう」
布を被せる。
「はい、完成」
あっという間に簡易的な更衣室が出来上がった。
リゼットが目を丸くする。
「すごい……」
「軍人時代に散々使ったからな」
所長は入口を確認する。
「よし」
そして女性二人へ向き直る。
「お前ら、先に着替えてこい」
「はい」
「分かったわ」
リゼットとリリスがテントへ入っていく。
所長は二人が中へ入ったことを確認すると、自分も着替え始めた。
とはいえ――。
「…………」
短パンを脱ぐ。
海水パンツを履く。
「…………」
ほとんど変わらない。
「まあいいか」
所長はあっという間に着替えを終えた。
そして二人を待つ間に、今度は海辺の準備を始める。
デッキチェア。
ビーチパラソル。
飲み物。
軽食。
さらに――。
「やっぱ海と言ったら酒だな」
酒瓶を一本取り出す。
栓を開ける。
「……ん」
一口。
そして飲みながら作業を続ける。
「よいしょっと」
パラソルを立てる。
「こっちか」
デッキチェアを並べる。
「食いもんはここでいいな」
昨日まで散々旅行を満喫していたとは思えないほど、手際がいい。
軍人時代の野営の経験が、そのままこういうところで活きていた。
「……まあ」
酒を飲む。
「悪くねぇな」
穏やかな波の音。
潮風。
青い空。
そして、誰もいない静かな砂浜。
「最高じゃねぇか」
所長が満足そうに呟いたところで――。
「所長」
テントの入口から声がした。
「ん?」
「もう出ていいですか?」
「おう」
最初に出てきたのはリリスだった。
「…………」
所長が一瞬だけ目を向ける。
リリスは髪の色と同じ黒いビキニを身につけていた。
長身で細身の体型に合った水着。
普段の秘書服とはまるで違う印象だった。
続いてリゼットも出てくる。
こちらはパレオの巻かれた水着。
華やかさと上品さがあり、年頃の少女らしい雰囲気と王族らしいラグジュアリーさが同居している。
二人が並んで砂浜へ立つ。
リゼットは少し照れたように所長を見る。
所長は二人を眺め――。
「おぉ」
そして。
「似合ってんじゃねぇか」
「…………」
リゼットが固まる。
「それだけ?」
「それだけ?」
「もっとこう……」
リゼットは少し頬を膨らませた。
「小説とかだと、もっとちゃんと褒めてくれるんじゃないの?」
「知らねぇよ」
「せっかく水着を選んだのに」
「似合ってるって言っただろ」
「なんか雑!」
リリスが横から淡々と言う。
「あの人に期待するだけ無駄です」
「リリス!」
「むしろ『似合っている』という言葉が出た時点で奇跡です」
「お前なぁ……」
所長が面倒くさそうに二人を見る。
「そういうのは彼氏に言ってもらえ」
「…………」
リゼットが少し黙る。
「それは……そうかもしれないけど」
「ほら」
所長は酒を飲む。
「俺に期待するな」
「なんだか釈然としないわ……」
リリスはため息を吐いた。
「諦めてください、王女殿下」
「うん……」
二人は顔を見合わせる。
所長はそんな二人を気にせず、デッキチェアへ腰を下ろした。
「さて」
「泳ぐ?」
リゼットが海を見る。
「そうだな」
所長は海を指差した。
「ただ、その前に準備運動だ」
「準備運動?」
「そう」
「何それ?」
「泳ぐ前に身体を動かすんだよ」
所長は立ち上がる。
「いきなり海に入ると身体がびっくりする」
「なるほど」
「リリス、お前もやれ」
「分かりました」
所長は二人を砂浜へ並ばせる。
「まず腕」
リリスとリゼットが腕を回す。
「こうですか?」
「そう」
「こう?」
「もっと大きく」
「はい」
所長は二人の動きを見ながら指示を出していく。
「次、肩」
「はい」
「次、足」
「こう?」
「そうそう」
リゼットは楽しそうに準備運動を続ける。
リリスも淡々と身体を動かしている。
そして――。
所長はというと。
「…………」
二人を眺めながら、デッキチェアへ戻っていた。
「所長?」
リゼットが振り返る。
「なんで座ってるの?」
「俺は設営で疲れた」
「え?」
「準備運動はお前らだけでやっとけ」
所長は酒瓶を持ち上げる。
「俺はこれで休む」
リリスが呆れた顔をする。
「泳ぐのは所長でしょう?」
「泳ぐぞ」
「その前に準備運動をした方が――」
「大丈夫だ」
「…………」
所長は酒を一口飲む。
「俺は昔から丈夫なんだよ」
「そういう問題ではありません」
「まあいいじゃねぇか」
所長は海を眺めながら、のんびりと酒を飲む。
その横では、リゼットとリリスが準備運動を続けている。
穏やかな波。
誰もいない砂浜。
青い空。
そして、朝から酒を飲みながらデッキチェアに陣取る巨大なオーガ。
リゼットは準備運動をしながら、そんな所長をちらりと見た。
「……ねえ、リリス」
「なんでしょう」
「今日って、本当に護衛旅行なのよね?」
「一応は」
「なんだか普通の旅行みたい」
リリスは少しだけ所長を見る。
「……まあ」
小さく息を吐く。
「それも悪くはないでしょう」
「うん!」
リゼットは笑った。
そして二人は、穏やかな海へ視線を向けた。
今日一日が、昨日まで以上に楽しいものになることを――。
この時の二人は、まだ知らなかった。