アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

130 / 151
case118 水泳教室

CASE119 所長式・海水浴

 

準備運動を終える頃には、リゼットの額にはうっすら汗が浮かんでいた。

 

「ふぅ……」

 

腕を伸ばし、最後に身体を左右へ倒す。

 

「これで終わり?」

 

「終わりだ」

 

所長はデッキチェアから立ち上がった。

 

酒瓶を置き、海を見る。

 

穏やかな波が、白い砂浜へゆっくりと寄せている。

 

「さてさて」

 

所長が腰に手を当てる。

 

「海に行くか」

 

「はい」

 

リリスが答える。

 

リゼットも嬉しそうに頷いた。

 

三人で海へ向かう。

 

足元から少しずつ水に浸かっていく。

 

冷たい海水が身体を包む。

 

「気持ちいい……!」

 

リゼットが声を上げる。

 

「昨日見た海とは全然違うわね」

 

「こっちは泳ぐための海だからな」

 

所長はざぶざぶと進んでいく。

 

二人が後ろからついてくる。

 

やがて、水深が腰ほどになったところで所長が振り返った。

 

「よし」

 

「何をするんです?」

 

「泳ぎの練習」

 

リゼットが首を傾げる。

 

「所長、泳げるの?」

 

「まあな」

 

「教えてくれるの?」

 

「俺が教えるのが一番早いだろ」

 

リリスが少し気まずそうに手を挙げた。

 

「……所長」

 

「ん?」

 

「実は」

 

リリスが視線を逸らす。

 

「私、泳げません」

 

「…………」

 

所長が固まる。

 

「マジで?」

 

「お恥ずかしながら」

 

「お前、海の近くまで来てそれか」

 

「泳ぐ必要のある生活をしていませんでしたので」

 

「まあいいか」

 

所長はリゼットを見る。

 

「お前は?」

 

「私も……」

 

リゼットも苦笑する。

 

「泳いだことはほとんどないわ」

 

「…………」

 

所長は二人を見る。

 

そして頭を掻いた。

 

「まあ、二人いっぺんでも大丈夫か」

 

「二人同時に?」

 

「そう」

 

「大丈夫なんですか?」

 

「俺がいるからな」

 

所長はそう言って、まず二人に水へ身体を慣らさせる。

 

「力抜け」

 

「こう?」

 

「そう」

 

「怖い……」

 

「沈んでも足つくだろ」

 

「それでも怖いわよ」

 

「慣れろ」

 

実に雑だった。

 

それでも、所長が手を添えて支えているため、二人は少しずつ水に身体を預けられるようになっていく。

 

「足を動かせ」

 

「こうですか?」

 

「そう」

 

リゼットが水を蹴る。

 

「もう少し強く」

 

「こう?」

 

「いいぞ」

 

リリスも試す。

 

「……こうでしょうか」

 

「悪くない」

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

少しずつ練習を重ねる。

 

顔を水につける。

 

息を吐く。

 

腕を伸ばす。

 

足を動かす。

 

最初はぎこちなかった二人も、やがて短い距離なら自力で進めるようになってきた。

 

「泳げる……!」

 

リゼットが目を輝かせる。

 

「本当に泳げていますね」

 

リリスも少し驚いたように自分の身体を見る。

 

所長は腕を組んで頷いた。

 

「まあ、こんなもんだろ」

 

「ありがとうございます」

 

「よし」

 

所長が突然、沖を指差す。

 

「じゃあ次」

 

「次?」

 

「沖まで行くぞ」

 

リゼットが海を見る。

 

「……え?」

 

「泳いで?」

 

「いや」

 

所長は背中を向けた。

 

「俺が連れていく」

 

「どうやって?」

 

「肩に掴まれ」

 

「…………」

 

リゼットとリリスが顔を見合わせる。

 

「こう?」

 

二人が所長の左右の肩へ手を置く。

 

「よし」

 

所長が腰を落とす。

 

「しっかり掴まってろよ」

 

「え?」

 

「行くぞ」

 

「ちょ――」

 

次の瞬間。

 

ザバァッ!!

 

所長が猛烈な勢いで泳ぎ始めた。

 

「きゃああああ!?」

 

「所長!」

 

二人を両肩に掴まらせたまま、所長はバタ足を繰り出す。

 

巨大な身体が水を切る。

 

「速い! 速いです!」

 

「ちょっと待って!」

 

「離すなよー!」

 

「離しません!」

 

「だったら問題ねぇ!」

 

ザバザバザバザバッ!!

 

二人を乗せたまま、所長は凄まじい速度で沖へ進んでいく。

 

リゼットの髪が風と水しぶきで激しく揺れる。

 

「これ水泳じゃなくて輸送じゃない!」

 

「黙って掴まってろ!」

 

「無茶苦茶よ!」

 

あっという間に、かなり沖まで来てしまった。

 

所長が止まる。

 

「よし」

 

二人が息を整える。

 

「ここから戻ってこい」

 

「…………」

 

「…………」

 

リリスとリゼットが固まる。

 

「え?」

 

リゼットが聞き返す。

 

「戻ってこい」

 

「泳いで?」

 

「そう」

 

「私たち、さっき泳げるようになったばかりなんだけど」

 

「だから実践だ」

 

リリスも困惑する。

 

「所長……」

 

「戻って来れたら水泳教室卒業だ」

 

「無茶振りでは?」

 

「そうか?」

 

「そうです!」

 

リゼットも叫ぶ。

 

「こんな沖まで連れてきておいて!?」

 

「大丈夫だって」

 

所長は二人の頭を軽く叩く。

 

「足つかねぇけど、泳げばいい」

 

「それが難しいんでしょう!」

 

「まあ頑張れ」

 

「所長!」

 

所長は二人を残し――。

 

「じゃ、俺は戻るわ」

 

「え?」

 

「先にビーチで待ってる」

 

「ちょっと!」

 

所長は身体を反転させる。

 

そして。

 

ザバァッ!!

 

ものすごい勢いで泳ぎ始めた。

 

「速っ!」

 

リゼットが呆然とする。

 

所長は見る見るうちに遠ざかっていく。

 

「待ってください!」

 

リリスが叫ぶ。

 

しかし所長は振り返らない。

 

「頑張れー!」

 

遠くから声だけが聞こえる。

 

「…………」

 

リリスが呆然とする。

 

「……本当に無茶苦茶ですね」

 

「同感」

 

リゼットもため息を吐いた。

 

しかし。

 

「……戻るしかないわね」

 

「そうですね」

 

二人は顔を見合わせる。

 

そして――。

 

「せーの!」

 

二人は海へ身体を浮かべる。

 

「いち、に……!」

 

「足を動かしてください!」

 

「分かってる!」

 

バタ足。

 

腕を伸ばす。

 

息をする。

 

また腕を動かす。

 

最初は何度も身体が沈みかける。

 

「きゃっ!」

 

「王女殿下、大丈夫ですか!」

 

「大丈夫!」

 

「焦らないで!」

 

「うん!」

 

二人は必死に泳いだ。

 

その頃。

 

ビーチでは。

 

「…………」

 

所長がデッキチェアに寝転がっていた。

 

煙草を咥え、片手には酒。

 

「頑張れー」

 

ものすごく雑な応援だった。

 

「おーい、リリスー」

 

「…………」

 

「王女様ー」

 

「…………」

 

「もうちょいだぞー」

 

二人にはほとんど聞こえていない。

 

それでも。

 

少しずつ。

 

少しずつ。

 

砂浜が近づいてくる。

 

「あと少し……!」

 

「頑張ってください!」

 

「もう少し!」

 

やがて――。

 

ざぶっ。

 

リゼットの足が砂に触れた。

 

「……着いた!」

 

その声にリリスも顔を上げる。

 

「本当ですか?」

 

二人はようやく浅瀬へ辿り着いた。

 

「はぁ……」

 

「疲れました……」

 

二人が砂浜へ上がる。

 

所長はデッキチェアから起き上がった。

 

「おお」

 

「…………」

 

「帰ってきたな」

 

「誰のせいだと思ってるの!?」

 

リゼットが叫ぶ。

 

「まあまあ」

 

所長は笑う。

 

そして、二人へ冷えたグラスを差し出した。

 

「ほら」

 

「……?」

 

「レモン水」

 

キンキンに冷えたレモン水だった。

 

リゼットが両手で受け取る。

 

「……冷たい」

 

「飲め」

 

「いただきます」

 

ごくっ。

 

「…………おいしい」

 

リリスも受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

「どうだ?」

 

「生き返ります」

 

「だろ?」

 

所長は満足そうに笑う。

 

「これで卒業だ」

 

「……本当に?」

 

「本当だ」

 

「じゃあ、私たち泳げるようになったのね」

 

「まあな」

 

リゼットは海を見る。

 

さっきまで怖かった海が、今は少しだけ身近に感じられた。

 

「……楽しい」

 

その呟きに、リリスも微笑む。

 

「ええ」

 

所長はそんな二人を眺めながら、また酒瓶を傾けた。

 

「よし」

 

「何?」

 

「次はもっと沖だ」

 

「絶対嫌!」

 

砂浜に、リゼットの叫び声が響いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。