CASE121 帰路
海で遊び始めてから、かなりの時間が経っていた。
最初こそ泳ぎ方の練習だった。
そこから所長に連れられて沖へ出され、必死になって泳いで戻り、休憩を挟んではまた海へ入り――。
その合間には所長が勝手に魚まで捕まえてきて、砂浜で焼いて食べた。
そして最後には三人とも、文字通り体力の限界まで海を楽しんだ。
「…………」
砂浜に座り込んだリゼットが、遠い目をしている。
「もう……動けない……」
「私も……少し疲れましたね」
隣ではリリスも珍しくぐったりしていた。
対して所長はというと――。
「よし」
普通に立ち上がった。
「そろそろ帰るぞ」
「所長……」
リリスが顔を上げる。
「まだ動けるんですか?」
「まあな」
「……化け物」
「聞こえてんぞ」
所長は笑った。
三人は残った荷物をまとめ始める。
軍用テントを畳み、ビーチパラソルを片付け、デッキチェアを車へ積み込む。
所長は手際よく片付けていく。
リリスも手伝うが――。
リゼットだけは、途中から妙に静かだった。
「王女殿下?」
「…………」
返事がない。
リリスが振り返る。
「リゼット様?」
「……ん……」
リゼットは立ったまま、こくり、こくりと頭を揺らしていた。
「眠い……」
「もう限界ですね」
所長が苦笑する。
「そりゃあれだけ泳げばな」
「所長もかなり泳いでいたでしょう」
「俺は別だ」
「何が別なんですか」
「俺だから」
「……理屈になっていません」
所長は笑いながらリゼットの荷物を持った。
「ほら、車行くぞ」
「うん……」
リゼットはふらふらと車へ向かう。
そして後部座席へ座った瞬間――。
「…………」
目を閉じた。
数秒もしないうちに、完全に眠ってしまった。
「寝ましたね」
リリスが小声で言う。
「若いっていいな」
所長が運転席へ乗り込む。
リリスも助手席へ座った。
シートベルトを締める。
そして所長を見る。
「所長」
「ん?」
「安全運転でお願いします」
「…………」
所長は一瞬だけ黙った。
それから苦笑する。
「流石にちゃんと運転するよ」
「お願いします」
「帰りまで事故ったら格好つかねぇしな」
「それ以前の問題です」
所長はエンジンをかけた。
行きとは違う。
アクセルを踏み込むこともない。
急加速もしない。
ゆっくりと車を発進させる。
「……本当にゆっくりですね」
「疲れてるんだよ」
「所長が?」
「俺もだ」
リリスが後部座席を見る。
リゼットは完全に眠っている。
「王女殿下もです」
「だな」
所長はバックミラー越しにリゼットを見る。
「昨日も今日も遊び倒したからな」
「……楽しそうでした」
「ああ」
所長は少し笑った。
「それならいいだろ」
車は海岸線をゆっくりと進んでいく。
行きのような狂った速度ではない。
窓の外には、穏やかな海と街並みが流れていく。
車内には静かな時間が流れていた。
やがて――。
「…………」
リリスが隣を見る。
所長も少し眠そうだった。
それでもハンドルをしっかり握っている。
「所長」
「なんだ?」
「今日はありがとうございました」
「何が?」
「色々です」
所長は少し考えた。
「旅行なんだから楽しめばいいんだよ」
「……そうですね」
リリスは微笑んだ。
後部座席から、リゼットの小さな寝息が聞こえる。
三人を乗せた車は、ゆっくりとホテルへ向かった。
***
ホテルへ戻った頃には、すっかり日が傾き始めていた。
「着いたぞ」
所長が車を止める。
リゼットは――。
「…………」
起きない。
「王女殿下」
リリスが声を掛ける。
「……ん……」
少し身体を動かすだけ。
「これは無理ですね」
「起こすのもかわいそうだ」
所長が車から降りる。
そして後部座席のドアを開けると、眠っているリゼットをそっと抱き上げた。
「よっと」
「私が運びます」
「いい」
所長はそのままホテルへ入っていく。
リリスも荷物を持って後ろからついていく。
ホテルのロビーを抜け、魔王一家の部屋へ向かう。
部屋の前には、いつもの護衛の女兵士が立っていた。
「お帰りなさいませ」
女兵士が敬礼する。
所長は腕の中で眠っているリゼットを見る。
「ほら」
女兵士へ預ける。
「かなり疲れたみたいでな」
女兵士は慎重にリゼットを受け取る。
「お任せください」
「頼むわ」
リゼットは完全に眠ったままだった。
女兵士が部屋へ運んでいく。
リリスもその後ろ姿を見送った。
「……よほど楽しかったのでしょうね」
「だろうな」
所長は満足そうに笑う。
「じゃ、俺らも風呂入るか」
「そうですね」
二人はそのまま自分たちの部屋へ戻り、荷物を置く。
そして――。
しばらくして。
風呂を済ませた二人は、ホテルのロビーへ降りてきた。
所長はソファへ座り、煙草を咥える。
リリスはその隣へ腰掛けた。
「魔王陛下たちは?」
「まだ戻られていないようですね」
「じゃあ待つか」
所長が煙草を吹かす。
「今日の件、ちゃんと話しといた方がいいだろ」
「はい」
しばらくして――。
ホテルの入口が開いた。
魔王一家と軍司令官が入ってくる。
ヴァルガス・グラディウスが所長たちを見つけると、軽く手を上げた。
「戻っていたか」
「おう」
所長も気楽に手を上げる。
エレノアもリリスへ微笑みかけた。
「お疲れ様でした」
「いえ」
リゼットの姿が見えないことに、ヴァルガスが気付く。
「娘は?」
「もう寝ています」
リリスが答える。
「今日はかなり泳いで疲れたようです」
「そうか」
エレノアが安心したように微笑む。
「それならよかったわ」
だが。
所長が煙草を灰皿へ押し付けた。
「その前に、一つ話がある」
ヴァルガスの表情が変わる。
「何だ?」
所長はいつもの軽い口調のまま言った。
「今日も誘拐されかけた」
「…………」
ロビーの空気が止まった。
軍司令官の顔が引きつる。
「またか!?」
「まただ」
所長は平然としている。
「今度は街じゃなくて、海へ向かう途中だ」
「まさか……」
エレノアの顔から笑みが消える。
リリスが続けた。
「車両で追跡されました。最終的には事故を起こし、捕縛しています」
「捕縛?」
ヴァルガスが眉をひそめる。
「所長が、ですが」
「まあな」
「……詳しく聞かせてもらえるか」
「いいぞ」
所長はソファへ深く座り直した。
「今回の連中、どうも普通の誘拐屋じゃなかった」
「何者だった?」
所長は煙草を取り出しながら答える。
「魔王陛下」
そして、口元を歪めた。
「どうやら、あんたの親族の公爵様が絡んでるらしいぞ」
ヴァルガスの表情が――。
完全に消えた。
「…………」
ロビーに、重い沈黙が落ちた。