CASE122 旅行はまだ終わらない
「……私の親族だと?」
ヴァルガス・グラディウスの声が、低く響いた。
先ほどまで穏やかだった魔王の表情から、完全に笑みが消えている。
その目には、明らかな殺意が宿っていた。
エレノアも黙って夫を見つめている。
軍司令官に至っては、また胃の辺りを押さえていた。
「所長」
ヴァルガスが立ち上がる。
「その公爵の名は――」
「まあまあ」
所長が片手を上げた。
あまりにも気楽な仕草だった。
「落ち着けよ」
「…………」
「せっかくの楽しい旅行だぜ?」
ヴァルガスが所長を睨む。
「娘を誘拐しようとした者が、私の親族なのだぞ」
「ああ」
「しかも二度もだ」
「そうだな」
「ならば――」
「だから落ち着けって」
所長は横柄に手を振った。
「面倒事なんぞ旅行が終わってから考えりゃいいだろ」
「…………」
「今ここで怒ったって仕方ねぇ。リゼットはもう寝てるんだ。せっかく楽しく旅行してんのに、親父がずっと怖い顔してたら明日の朝に気まずいだろうが」
ヴァルガスは黙り込む。
やがて、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「……君は本当に、人を苛立たせるな」
「よく言われる」
所長は笑った。
「まあ、なんなら三日間の報告をしてやるよ」
「三日間の?」
エレノアが尋ねる。
「ああ。護衛依頼だからな」
所長は煙草を咥えた。
「何してたかくらい報告してやる」
「ぜひ聞かせてください」
エレノアが微笑む。
所長は指を一本立てた。
「まず一日目」
ホテルで魔王一家と顔を合わせ、依頼を受けたこと。
その後、リゼットとリリスにガイドブックを渡し、行きたい場所を探させたこと。
そして、目の前に広がっていた海へ向かったこと。
「海辺を歩いて、土産買って、買い食いして――」
所長はそこで少し笑う。
「その途中で車が突っ込んできた」
ヴァルガスの眉が動く。
「昨日の件か」
「ああ」
「それで?」
「車を海へ投げた」
「…………」
軍司令官が頭を抱える。
所長は気にせず続ける。
「昼飯食って、また買い食いして、ホテルに戻って、夜は飲みに行った」
「リゼットも?」
エレノアが尋ねる。
「少しだけな」
「そう……」
「で、飲み食いしてたらリゼットが寝ちまったから、リリスがおんぶしてホテルまで戻った」
エレノアは少し嬉しそうに笑った。
「楽しんでくれたのね」
「そりゃもう」
所長は頷いた。
「二日目」
指を二本立てる。
「朝は俺が二日酔い」
リリスが横から小さく息を吐く。
「……自業自得でした」
「うるせぇ」
所長は続ける。
「歩くのが面倒だったからホバーボードを借りて街を回った」
大聖堂。
展望台。
城塞跡。
街の観光地をいくつも巡り、買い食いをしながら歩いた。
「それで?」
ヴァルガスが聞く。
「また誘拐された」
「…………」
「車を蹴ったら壁に突っ込んだ」
「君の護衛報告は……」
ヴァルガスが頭を押さえる。
「本当にそれでいいのか?」
「事実だろ?」
「事実だが……」
「ならいい」
所長は平然としていた。
「で、そのあとも観光してホテルへ戻った」
「そして三日目が今日か」
「ああ」
所長は頷く。
「朝から海へ向かった」
車を飛ばす途中、また誘拐犯に追跡されたこと。
そして高速道路の出口付近で、所長が車を止めて待ち構えたこと。
「向こうが俺たちの前を通り過ぎて、急ブレーキ踏んだところを撃った」
「…………」
「車は壁に突っ込んだ」
所長は淡々と説明する。
「それで――」
そこで所長は、少しだけ表情を変えた。
「リゼットが飛び出していった」
エレノアが目を見開く。
「リゼットが?」
「ああ」
所長は煙草を灰皿へ置いた。
「燃えてる車に近づいていった」
「……なぜ?」
「俺もそう思った」
所長は苦笑する。
「俺はこいつらを助けるつもりなんぞなかった。誰の依頼か聞き出すつもりだったからな」
そして、当時の光景を思い出すように続ける。
「車は大破して、誘拐犯は中から出られねぇ。車体は燃え始めてる。本人たちは大慌てで逃げようとしてるのに、ボディが歪んで出られねぇ」
「それで?」
ヴァルガスが静かに聞く。
「リゼットがそこへ走っていった」
所長は呆れたように笑った。
「俺が襟首掴んで止めたよ」
「…………」
「『待て待て待て。こいつら誘拐しようとしてたんだぞ。助けるつもりか?』ってな」
エレノアが小さく息を呑む。
所長は肩を竦めた。
「そしたら、あいつ何て言ったと思う?」
誰も答えない。
「『王族の前に、私は魔族です。他人を助けるのに理由はいりません。それに、助けた後で事情を聞けばいいのですから』だと」
「…………」
ロビーが静まり返った。
「なんだあの無防備なお人好し」
所長は呆れたように笑う。
「自分を誘拐しようとした連中が燃えてる車の中にいるんだぞ? 普通なら逃げるか、少なくとも警戒するだろ」
「…………」
「なのにあいつ、目の前の怪我人しか見えてねぇ」
所長は首を振った。
「意味が分からん」
リリスも小さく頷く。
「私も止めようとしましたが……」
「止まらなかっただろ?」
「はい」
「だろうな」
所長は苦笑する。
「結局、俺が車の天井を剥がして、ひっくり返して連中を地面に落とした」
「そして?」
「リゼットが治療を始めた」
「治療を?」
「しかも、かなり珍しい治療魔法を惜しげもなく使いやがった」
所長は呆れたように続ける。
「血が止まってないって涙目で大慌てだ」
「…………」
「俺まで毒気を抜かれてな」
所長は肩を竦めた。
「リリス、手伝ってやれって言って、俺は煙草吸いながら酒飲んでた」
「所長は本当に……」
リリスが呆れる。
「で、一通り治療が終わったら、あいつ一人一人に『大丈夫ですか?』って聞いて回るんだよ」
「…………」
「誘拐犯どもも最初は呆然としてたがな」
所長は笑った。
「そのうち、全員鼻の下伸ばし始めやがった」
軍司令官が思わず顔をしかめる。
「何をしているんだ……」
「俺もそう思った」
所長は即答した。
「結局、連中は全部しゃべった」
「誰の指示だったの?」
エレノアが尋ねる。
「バルガスという公爵だ」
ヴァルガスの目が細くなる。
「……やはりか」
「それで連中は自首するとまで言い出した」
「自首?」
「ああ」
所長は笑う。
「『罪を償ったら魔王城に就職できるよう頑張ります』だとよ」
「…………」
「しかもリゼットの手を両手で握って、キラキラした目で言いやがった」
所長は頭を掻く。
「アホくさ。やってられんわ」
リリスが思わず吹き出す。
ヴァルガスも呆然としていた。
「……私の娘は」
「お人好しなんだろうな」
所長が言う。
「まあ、悪いことじゃねぇけどよ」
「それで、海へ行ったのか」
「ああ」
所長は頷く。
「警察にはリリスが連絡して、俺たちは海へ行った」
そこから先は、三人で海を存分に楽しんだ。
エメラルドグリーンの海。
穏やかな波。
誰もいない砂浜。
水泳の練習をして、魚を捕まえて焼いて、最後には体力を使い果たしたリゼットが車の中で眠ってしまった。
「……なるほど」
ヴァルガスは長く息を吐いた。
「三日間で、それだけのことを?」
「まあな」
所長は立ち上がった。
「で、旅行はいつまでだ?」
「あと二週間だ」
「二週間か」
所長は少し考えた。
「長ぇな」
「娘が楽しみにしていたからな」
「なら」
所長はヴァルガスを見る。
「少しは娘のために時間つくってやんな」
「…………」
「護衛だの公務だの、そういう面倒なのは俺がいるんだからよ」
横柄に手を振る。
「旅行中くらい親子で遊んでろ」
ヴァルガスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……そうだな」
「それでいい」
所長は満足そうに頷いた。
「じゃ、俺は風呂行ってくる」
「今からか?」
「海で泳いで汗かいたんだよ」
「君は今日、娘と遊んでいただけだろう」
「だから汗かいたんだって」
所長はそのまま歩き出す。
「リリス、行くぞ」
「はい」
二人がロビーを去っていく。
その背中を見送りながら、ヴァルガスは静かに呟いた。
「……不思議な男だな」
エレノアが微笑む。
「ええ。でも――」
彼女は娘の眠っている部屋へ目を向ける。
「リゼットがあんなに楽しそうなのは、久しぶりですもの」
ヴァルガスもそちらを見る。
「……あと二週間か」
「ええ」
魔王は小さく笑った。
「なら、私も少しくらい父親らしくするとしよう」
旅行は、まだ始まったばかりだった。