CASE130 静かな休暇の終わり
翌日。
昨日までの騒がしさが嘘のように、ホテルは静かだった。
リリスとリゼット、それにエレノアは朝からホテル内のエステへ向かっていた。
「……これは、なかなか……」
リゼットはベッドに横たわりながら、すっかり力の抜けた顔をしていた。
「旅行に来て、こんなことまでできるなんて……」
「たまにはこういう時間も必要ですよ」
エレノアが穏やかに笑う。
リリスも隣で静かに施術を受けていた。
ここ数日、朝から晩まで動き回っていたせいか、身体の疲れが一気に抜けていく。
その後は三人で温泉へ入り、昼過ぎにはホテルのカフェでゆっくりと紅茶やコーヒーを飲みながら談笑した。
所長だけはというと――。
「…………」
ソファで寝ていた。
「本当に寝るんですね」
リゼットが笑う。
「昨日まであれだけ動いていたのですから」
リリスが答える。
「本人は『休む』と言っていましたし」
「寝ることも旅行なのかしら」
「所長にとっては、そうなのでしょう」
そんな穏やかな時間が流れた。
翌日も、その翌日も。
今度はマリンスポーツを楽しんだり、少し街から離れた場所でキャンプをしたり。
時にはホテルへ戻らず、そのまま夕暮れまで遊び続けることもあった。
リゼットは、まるでこれまでの休暇を全部取り戻すかのようだった。
笑って。
走って。
海で遊んで。
疲れ果てるまで遊び尽くす。
その姿を見て、リリスも自然と笑うことが増えていった。
所長も相変わらず大雑把だったが、以前よりも少しだけリゼットを気に掛けるようになっていた。
「おい、無理すんなよ」
「大丈夫!」
「若いってすげぇな……」
「所長こそもっと動けば?」
「俺はもう十分動いた」
そんなやり取りをしながら、三人は旅行を楽しんだ。
そして――。
不思議なほど、誘拐犯は現れなかった。
最初の数日間が嘘のように、何も起こらない。
リゼットも次第に警戒を解いていった。
しかし。
その頃。
夜の港では、別の動きが始まっていた。
人目につかない貨物埠頭。
灯りの少ない海面から、何隻もの小型艇が静かに接岸する。
そこから降りてきたのは、魔族の兵士たちだった。
通常の護衛兵とは違う。
黒い装備に身を包み、武器を携え、互いに一言も交わさず整然と移動していく。
そして、その中には――。
大型の魔導鎧まで含まれていた。
彼らは誰にも気付かれることなく、夜の街へ消えていった。
すべては、公爵の命令によるものだった。
これまでの誘拐が失敗した。
犯罪組織も潰された。
仲介人も消えた。
それでも諦めることができなかった公爵は、ついに自らの手勢を動かした。
もはや誘拐犯を雇うような回りくどい手段ではない。
軍事力そのものを使って、王女を奪う。
そうして――。
旅行は、残り三日となった。
***
その日の午後。
リヴァリア共和国の街を、三人が歩いていた。
所長。
リリス。
そしてリゼット。
すっかり見慣れた街並みだった。
「もう、この辺りも随分慣れたわね」
リゼットが笑う。
「最初に来た時は、どこに何があるのか全然分からなかったのに」
「それだけ歩き回ったということです」
リリスが答える。
「そうね」
リゼットは楽しそうに周囲を見る。
その少し前を歩いていた所長が――。
突然、足を止めた。
「…………」
「所長?」
リリスが振り返る。
所長は答えなかった。
ただ、空を見ていた。
「どうしました?」
所長の目が細くなる。
「……なんだ、あれ」
リゼットも空を見る。
何もない。
青空。
建物。
電線。
ただ、それだけ。
「何か見えるの?」
「……浮いてやがる」
「え?」
所長はゆっくりと荷物へ手を伸ばした。
そこから取り出したのは――。
大型の狙撃銃。
通常の歩兵が扱うようなものではない。
オーガの身体能力を前提に設計された、対オーガ用の大型狙撃銃だった。
リリスの表情が変わる。
「所長?」
「下がれ」
声が低かった。
「二人とも、下がれ!」
所長は銃を構える。
その照準の先。
何もないはずの空間に、僅かに光が歪んでいる。
透明化魔法によって姿を隠していた何か。
そして、その輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
巨大な魔導兵器。
「……魔導砲か」
所長が呟く。
「クソッ」
次の瞬間。
所長が二人へ飛びつく。
「伏せろ!」
リリスとリゼットを突き飛ばした。
そして――。
轟音。
ズドォォォンッ!!
街中に凄まじい爆発音が響き渡った。
所長の身体が大きく吹き飛ぶ。
「所長――ッ!」
リリスの悲鳴。
リゼットも叫んだ。
「所長!」
所長はそのまま建物の壁へ叩きつけられ、崩れ落ちる。
大型の身体が動かない。
「いや……」
リリスが駆け寄ろうとする。
しかし――。
「王女殿下!」
黒装束の兵士が突然現れた。
「何――!」
リゼットが振り返る。
複数。
いや、十数人。
完全に包囲されていた。
「離して!」
リゼットが抵抗する。
リリスも必死に腕を振りほどこうとする。
「何をするのです!」
だが、相手は訓練された特殊部隊だった。
動きに一切の無駄がない。
一人がリゼットを拘束。
別の兵士がリリスを押さえる。
「王女殿下を確保!」
「離しなさい!」
「リゼット!」
リリスが叫ぶ。
しかし、二人の声は混乱する街の喧騒に飲み込まれていく。
その向こう。
路地の奥から、巨大な影が姿を現した。
魔導鎧。
人間や魔族の兵士とは比較にならないほど巨大な装甲兵器。
その魔石動力が唸りを上げる。
リゼットはそれを見て、ようやく理解した。
これは今までの誘拐犯とは違う。
金で雇われた犯罪者でもない。
その場しのぎの誘拐屋でもない。
最初から自分を奪うために組織された、軍事作戦なのだ。
「……お父様……」
リゼットが呟く。
その目に恐怖が浮かぶ。
そしてリリスは――。
壁際に倒れた所長を見る。
「所長……!」
返事はない。
兵士が二人を連れていく。
「嫌……!」
リゼットが必死に手を伸ばす。
「所長!」
その声が響く。
だが、所長は動かない。
魔導鎧を中心とした部隊は、二人を連れて素早く撤退していく。
ほんの数分。
それだけだった。
街に残されたのは、破壊された建物と、倒れた所長。
そして――。
ついに本性を現した公爵の手勢だけだった。
これまでの誘拐は、すべて前座だった。
公爵はもう、手段を選ばない。
そしてこの日。
楽しかった旅行は、残り三日を目前にして――完全にその姿を変えた。