CASE136 帰還の礼
ロビーには、まだ緊張が残っていた。
壊れた通信機の前で、所長は荒い息を吐いている。
腹には大きな銃創。
血もまだ止まりきっていない。
それでも、つい先ほどまで燃え上がっていた怒りは、少しずつ収まり始めていた。
そんな所長へ――。
リゼットが近づいてくる。
「……所長」
「ん?」
振り返った所長は、リゼットの顔を見た。
その目には、涙が浮かんでいた。
けれど、それは恐怖の涙ではない。
無事に帰ってこられたことへの安堵と、助けてもらったことへの嬉し涙だった。
リゼットは所長の前まで来ると、少しだけ俯いた。
「……ありがとう」
「…………」
所長は何も言わない。
リゼットはもう一度、少し震える声で言った。
「本当に、ありがとう」
そして――。
背伸びをする。
所長の頬に、ちゅ、と小さなキスをした。
「…………」
所長が固まる。
リゼット自身も、自分が何をしたのか意識したのか、頬が見る間に赤くなっていく。
「……安静にしてね」
それだけ言うと、リゼットは逃げるように自分の部屋へ向かっていった。
「…………」
所長は完全に固まっていた。
怒りも忘れている。
ただ、去っていくリゼットの背中を呆然と見送っている。
「…………何だ、今の」
誰に聞くでもなく呟く。
リリスが横から答える。
「お礼でしょう」
「…………」
所長は自分の頬に触れる。
「……あのガキ」
「はい」
「何しやがった?」
「キスです」
「見りゃ分かる」
所長はしばらく黙り込む。
そして――。
「……マセガキが」
呆然と呟いた。
そこへエレノアが歩み寄ってくる。
目には、またうっすらと涙が浮かんでいた。
「本当に……ありがとう」
エレノアは所長の手を両手で取る。
「リゼットを連れ戻してくださって……」
「…………」
「そして、あの子を守ってくださって……」
エレノアは深く頭を下げる。
所長は少し困ったように頭を掻いた。
「まぁ……」
「仕事だからな」
ぶっきらぼうな返事だった。
しかしエレノアは、その手を離さない。
「それでも、感謝してもしきれません」
「…………そうかい」
その様子を見ていたヴァルガスも、ゆっくりと所長の前へ歩いてくる。
「私からも礼を言わせてくれ」
所長を見る。
その表情には、心の底からの感謝があった。
「娘を救ってくれたこと」
「そして、エレノアやリリス嬢とともに無事に戻ってきてくれたこと」
「本当に感謝している」
所長は軽く手を上げた。
「気にすんな」
ヴァルガスは一瞬黙る。
そして、複雑そうな顔でリゼットが消えていった方向を見る。
「……ただ」
「ん?」
「私は父親として……」
ヴァルガスの眉間に皺が寄る。
「少々、複雑な気分だ」
所長もヴァルガスが何を言いたいのか察する。
「…………」
二人とも、リゼットが去っていった方向を見る。
「…………」
「…………」
所長がぽつりと言った。
「……あれか」
「……あれだ」
男二人の間に、妙な沈黙が流れる。
ヴァルガスは渋い顔のまま、それでも改めて頭を下げた。
「……それでも、本当にありがとう」
「おう」
所長は短く答えた。
そしてリゼットが消えていった方向をもう一度見る。
「……マセガキが」
さっきより少しだけ困ったような声だった。
その横から、リリスが近づく。
「所長」
「ん?」
「朴念仁ですね」
「は?」
リリスは所長の頬をむにっとつねった。
「いでででで!」
「王女殿下があれだけ勇気を出したのですから、もう少し何か言ってあげればよかったでしょう」
「俺に何を言えってんだ!」
「それを考えるのが大人でしょう」
「知らねぇよ!」
「本当に朴念仁ですね」
リリスは呆れながら頬を離す。
所長は赤くなった頬を押さえながら、リゼットの消えた方向を見る。
「…………」
そして、小さく呟いた。
「……まったく」
その顔には、もう先ほどまでの怒りは残っていなかった。