第九話 朝食と報告
電話が切れた。
所長はしばらく手の中の携帯を眺めていた。
『さっさと来てください』
リリスの声はいつも通りだった。
怒鳴ってはいない。
声を荒げてもいない。
だからこそ、所長には分かっていた。
かなり怒っている。
「……警察署か」
所長は時計を見る。
朝はまだ早い。
昨夜は色々とあった。
酒を飲み。
薬まで吸い。
倉庫へ乗り込み。
銃を撃ち。
マフィアと商談をし。
その後、エルフたちを連れて帰ってきた。
今さら思えば、よく眠れたものだ。
「腹減ったな」
所長は立ち上がった。
警察署へ行く前に、朝食を取ることにした。
リリスも女刑事も、そんなことは知らない。
わざわざ伝える必要もない。
所長にとって朝飯は朝飯であり、報告事項ではなかった。
* * *
食堂に入り、所長は席に着いた。
「肉」
店員が注文を取りに来る。
「はい?」
「肉料理」
「朝食ですよ?」
「分かってる」
「……」
「それと卵」
「はい」
「パン」
「はい」
「スープ」
「はい」
「あと肉」
「……追加で?」
「そう」
店員は少しだけ困った顔をした。
所長は気にしない。
やがて運ばれてきた朝食を、黙々と食べ始めた。
腹が減っていた。
昨日の疲れも残っている。
だからこそ、食事はしっかり取る。
肉を噛み、パンを食べ、スープを飲む。
最後にコーヒーを注文した。
「ふう……」
ようやく一息つく。
時計を見る。
「……そろそろ行くか」
そう呟いたところで、店の外にドーナツ店があるのが目に入った。
「そういや」
所長は立ち上がった。
警察署へ向かう。
その途中でドーナツ店へ入った。
「ドーナツ」
「はい。何個でしょう?」
「適当に詰めてくれ」
「ご自宅用ですか?」
「土産だ」
「どちらへ?」
「警察署」
「……警察署ですか?」
「ああ」
店員が少し困惑した顔をした。
所長は気にせず、箱を受け取る。
「じゃあな」
そのまま車へ戻り、助手席へ箱を置いた。
「よし」
ようやく警察署へ向かった。
この寄り道を、リリスも女刑事も知らない。
* * *
警察署。
指定された部屋の扉を開ける。
「お待たせ」
所長が入ってきた。
「……」
「……」
返事がない。
女刑事は腕を組んでいる。
リリスは椅子に座っている。
二人とも、明らかに機嫌が悪かった。
所長はそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「何だ?」
「何だ、じゃない!」
女刑事が怒鳴った。
「遅い!」
「そうか?」
「そうだ!」
リリスも静かに所長を見る。
「電話をしてから、かなり経っています」
「そうだな」
「すぐに来ると言っていました」
「言ったな」
「では、なぜこんなに遅いんです?」
「飯食ってた」
「……」
リリスが黙った。
女刑事も黙った。
「……飯?」
「ああ」
「お前……」
女刑事が額を押さえる。
「こんな状況で朝飯食ってたのか?」
「朝飯は大事だろ」
「限度があるだろ!」
「それより」
所長は助手席から持ってきた箱を机に置いた。
「土産」
箱を開ける。
色とりどりのドーナツが並んでいた。
「……」
女刑事が呆然とする。
リリスは箱を見る。
「ドーナツですか?」
「そう」
「ありがとうございます」
リリスが一つ取る。
所長が満足そうに頷いた。
「よし」
「何がよしなんだ……」
女刑事は頭を抱えた。
だが、すぐに表情を変えた。
「……まあいい」
女刑事が椅子に座る。
「本題に入るぞ」
「おう」
「昨日の倉庫の件だ」
所長の表情から笑みが消えた。
女刑事は机の上へ書類を広げる。
「今朝、私たちはあの倉庫へ踏み込んだ」
「ほう」
「もぬけの殻だった」
「……」
「製造設備もない」
「……」
「薬もない」
「……」
「関係者もいない」
女刑事は所長を睨んだ。
「全部なくなっていた」
「そりゃ大変だな」
「他人事みたいに言うな」
「俺には関係ねえだろ」
「ある!」
女刑事が机を叩いた。
「近隣から目撃証言も取れている」
「へえ」
「早朝、倉庫の周辺を複数の人間が出入りしていた」
「マフィアか?」
「そうだ」
所長は何も言わない。
「しかも、その後に倉庫は空っぽになった」
「なるほどな」
「そして昨日――」
女刑事は所長を指差す。
「お前は倉庫にあった薬をマフィアへ横流ししただろ!」
所長は黙った。
「……」
「どうなんだ?」
「知らん」
「とぼけるな!」
「何の話だ?」
「薬だ!」
「薬?」
「倉庫にあった薬だよ!」
所長は首を傾げる。
「俺が何かしたか?」
「しただろ!」
「証拠は?」
「近隣の目撃証言がある!」
「それだけか?」
「それだけじゃない!」
女刑事は机を叩く。
「私たちは昨日、お前たちが倉庫に入ったことを知っている!」
「そうか」
「そして今朝、倉庫は空っぽだった!」
「偶然じゃねえか?」
「そんなわけあるか!」
「世の中、偶然はある」
「マフィアまで目撃されてるんだぞ!」
「へえ」
「お前、マフィアと繋がってるだろ!」
「仕事で付き合いがあるだけだ」
「そのマフィアに薬を売っただろ!」
「……」
所長はしばらく沈黙した。
そして、面倒そうに頭を掻いた。
「まあ」
「……」
「売ったかもしれんな」
「認めるのか!」
「何を怒ってるんだ?」
「薬を横流ししたことだ!」
「横流しじゃねえよ」
「じゃあ何だ!」
「報告だ」
「……は?」
女刑事が固まる。
所長は平然と説明を始めた。
「今回の依頼主はマフィアだ」
「……」
「俺はマフィアから依頼を受けた」
「それは知ってる」
「薬の出所を調べろと言われた」
「……」
「だから調べた」
「……」
「売人を探した」
「……」
「薬の流れを追った」
「……」
「倉庫を見つけた」
所長は指を折っていく。
「そこで薬を見つけた」
「……」
「製造設備も見つけた」
「……」
「だから依頼主へ報告した」
「その報告が、薬を売ることなのか!」
「依頼主が欲しがってたからな」
「それは証拠品だ!」
「お前らにとってはな」
所長は肩を竦める。
「俺にとっては依頼で見つけた物だ」
「……」
「俺は警察から依頼を受けてない」
所長は女刑事を見る。
「お前らからは、一ゴールドももらってない」
「……」
「俺が依頼を受けた相手はマフィアだけだ」
「だからって!」
「俺には依頼主への報告義務がある」
「ふざけてるのか!」
「大真面目だ」
「絶対ふざけてるだろ!」
「いや」
所長は真顔で答えた。
「むしろお前が何を怒ってるのか分からん」
「……!」
女刑事のこめかみに青筋が浮かぶ。
「倉庫のことも話したんだろ!」
「……」
「マフィアに倉庫の場所を教えたんじゃないのか!」
「そこまでは覚えてねえな」
「は?」
「依頼の顛末を報告する時に、倉庫の話もしたかもしれん」
「したかもしれない?」
「ああ」
「お前……!」
「全部話したかもしれんし、話してないかもしれん」
「ふざけるな!」
「細かいことを覚えてねえんだよ」
所長は椅子に深く座った。
「昨日はいろいろあったからな」
「お前のせいで倉庫が空っぽになってるんじゃないのか!」
「知らん」
「……!」
女刑事は拳を握り締める。
「そもそも、お前らからは依頼されてねえだろ」
「……」
「違うか?」
「違わない」
「なら俺に何を求めてるんだ?」
「警察に協力することだ!」
「しただろ」
「どこが!」
「リリスがな」
所長は横に座るリリスを見る。
「こいつがめちゃくちゃ頑張った」
「……」
「売人も探した」
「……」
「話も聞いた」
「……」
「証拠も確保した」
所長はリリスの頭へ手を伸ばした。
「偉いなぁ」
「……所長?」
大きな手がリリスの頭を撫でる。
「本当に優秀だ」
「ありがとうございます」
「うちのリリスは偉い」
「はい」
「可愛い」
「……」
「仕事もできる」
「ありがとうございます」
「文句も少ない」
「……」
「飯もちゃんと食う」
「それは関係ありますか?」
「ある」
所長は楽しそうに笑いながら、リリスの髪を整える。
「よしよし」
「所長」
「ん?」
「髪が乱れています」
「俺が直してやる」
「自分でできます」
「遠慮するな」
「遠慮ではありません」
リリスは無表情のまま所長の手を受け入れている。
所長は満足そうだった。
「偉いなぁ」
「……」
「本当にいい子だ」
「ありがとうございます」
「うちに来てくれてよかった」
「……」
リリスが少しだけ目を伏せる。
所長はそれを見逃さない。
「照れてるのか?」
「照れていません」
「可愛いなぁ」
「……」
所長はさらに頭を撫でる。
「よしよし」
「……所長」
「何だ?」
「少しだけ鬱陶しいです」
「そういうところも可愛い」
「……」
女刑事は呆然として二人を見ていた。
「お前……」
「ん?」
「リリスを猫か何かだと思ってないか?」
「猫?」
所長は少し考える。
「猫より優秀だぞ」
「そこじゃねえ!」
「うちのリリスはな」
所長は得意げに言う。
「俺が忘れてることまで覚えてる」
「……」
「金の管理もする」
「……」
「依頼の整理もする」
「……」
「俺が酒を飲みすぎたら怒る」
「それは当然です」
「でも最後にはちゃんと連れて帰ってくれる」
「放っておいたら事務所まで帰れないでしょう」
「ほら、優しい」
「仕事です」
「そういうことにしておこう」
所長は笑った。
そして女刑事を見る。
「少しは見習え」
「は?」
「うちのリリスを」
「何で私が!」
「仕事ができる」
「私は刑事だ!」
「それが?」
「探偵助手と比較するな!」
「うちのリリスの方が優秀だぞ」
「お前、絶対わざとだろ!」
「事実を言ってるだけだ」
「腹立つなあ!」
リリスはドーナツを食べながら、淡々と二人を見ていた。
「刑事さん」
「何?」
「所長はいつもこうです」
「……そうなのか?」
「はい」
「苦労してるんだな……」
「慣れました」
「お前は偉いな」
女刑事がリリスへ同情の目を向ける。
所長がすぐに割って入る。
「だから偉いんだよ」
「はいはい」
「もっと褒めろ」
「何でお前が言うんだよ」
所長は満足そうに笑う。
しばらくして、女刑事がため息をついた。
「……まあいい」
「おう」
「薬の件は、まだ終わってないからな」
「分かってる」
「倉庫の件もだ」
「それは知らん」
「……」
「俺はマフィアから依頼を受けて、依頼主に報告しただけだ」
「その報告に倉庫の場所まで含まれていたかもしれない?」
「かもしれんな」
「……本当に腹が立つ」
「そうか」
所長はドーナツを一つ取る。
「食うか?」
「いらん」
「うまいぞ」
「いらん!」
女刑事は大きく息を吐いた。
そして、机の上にある書類をまとめる。
「それと、最後に一つ」
「何だ?」
「事件化はできた」
所長の手が止まる。
「ほう」
「持ち帰った証拠をもとに、正式に事件として扱えることになった」
「そりゃよかった」
「倉庫は空だったが、私たちが確保した証拠は残ってる」
「なるほど」
「だから捜査そのものは続く」
「頑張れよ」
「他人事だな」
「俺は探偵だからな」
「……」
女刑事は呆れながらも、少しだけ表情を緩めた。
事件は動き始めた。
倉庫の薬は失われた。
マフィアの姿も目撃されている。
そして、倉庫がなぜ一夜にして空になったのか。
その謎は残っている。
だが少なくとも、警察として事件を追う準備は整った。
女刑事は立ち上がる。
「私は戻る」
「おう」
「リリス」
「はい」
「……頑張ってな」
「ありがとうございます」
リリスが頭を下げる。
所長はそんなリリスの頭をまた撫でた。
「よしよし」
「……」
「偉いぞ」
「……はい」
「じゃあ帰るか」
「はい」
所長は満足そうに笑った。
「昼飯は肉だな」
「私は普通の量でお願いします」
「分かった」
「本当ですか?」
「俺は肉を三人前食う」
「……」
「お前は一人前」
「それなら構いません」
二人は部屋を出ていった。
女刑事はその背中を見送る。
「……本当に、あいつだけは調子が狂う」
そして机に残されたドーナツを見る。
一つ手に取る。
「……まあ、これはうまそうだな」
誰もいなくなった部屋で、女刑事は小さくため息をついた。